第8話
千早の前方に“点”が現れた。
ただの光ではない。三次元的な“位相ノード”。
あたかも空中にフーリエ展開されたような、座標の“集合点”。
「──位相同期開始」
彼女はその“点”を指先で弾く。
反応は、すぐだった。
──“コンッ”
微細な音が、空間の奥底から跳ね返ってくる。
「……一次波面、非整数周期……?」
千早の眉がぴくりと動く。
彼女は術式の“意味”を言語で捉えない。すべては、構造的な“数”として扱う。
今、彼女の眼にはこう見えていた。
──空間座標Φ(x, y, z, t)における構造波関数ψが、正規直交系に属していない。
──空間に浮かぶはずの“構文数列”が、冗長かつ非周期的である。
「擬似球面波……でも、点対称性が存在しない」
千早の背後に、魔力の“紙片”のようなものがいくつも浮かび上がった。
一枚ごとに、三次関数、位相角、周期律、波数k、エネルギーE──それらの定義式が記されていく。
「ψ(r, θ, φ, t) = R(r)・Y(θ, φ)・T(t)。……なのに、T(t)が時間対称を保ってない」
「それって……どういうこと?」
アーシェが問いかける。
千早は答えることなく、式に手を伸ばした。
そのまま、空中の“式”を指先で裂くように動かす。
「“何か”が、未来方向にのみ干渉してる。
今現在の空間ではなく、“数秒先の構造”に、波形を注ぎ込んでる」
「……未来?」
炎架の声が硬くなる。
「未来の空間記述式が、“観測される前に変質してる”。
つまりこれは……因果律を先取りして書き換える、“逆算構文”。」
千早はその式の一部に、自身の魔力演算式を重ねた。
──“魔力入力Φ(t+Δt)を予測関数Fで補正、構造反応ψ’と同期”──
空間が震えた。
ノードが一斉に“歪む”。
元々そこにあったものではない何か、——外から来たものではなく“内側にいたもの”が逆流してきたのだ。
「これはやっぱり……精霊じゃない」
千早の声が震える。
「術式の枠でもない。因果構文でもない。存在論的な構造そのもの。……“この空間”の外にある何か」
梓が、わずかに目を開く。
「──それって、精霊界の深層……?」
「違う。“そこ”ですらない。
これは……それよりももっと深い“位相”から流れ込んできてる」
全員が息を呑んだ。
それは、術式や精霊の話ではない。
世界の“根本にある構造”に触れる何か、——量子サイズに分解された観測場=位相空間が、すでに“掻き乱されている”という警告だった。
千早は、最後のノードに触れる。
「──座標中心:不明。共鳴ソース:不定。帰属構文:該当無し。属性:ゼロ属性、もしくは未定義存在」
アーシェが、そっとつぶやく。
「……アンナンバード」
誰も、答えなかった。
だが、この場にいる誰もが“確信”に近い恐れを持っていた。
──それは、精霊ではない。
4人が追っていた未知の「存在」。
物質そのものが持つ量子構造に、“影響を及ぼす何か”。
千早がふと、自身の術式紙片のひとつを眺める。
そこに、あり得ない“式”が記されていた。
《Δψ/Δt < 0》
「……時間構造が、“逆行”してる……?」
彼女の声は、誰にも聞こえていなかった。
だがそれは確かに、目の前の事象に対する驚きに満ちていた。
──“音”が、違っていた。
それは、耳で聞く音ではない。
空気の密度が僅かにねじれ、位相波の“間”から別種の圧力が滲み出てくる。
グロウルの肉体が崩壊して数秒後。
柊 橘雅は、異変に気づいていた。
「……来る」
床面の反応係数に変化がある。
通常の術者よりも感覚器官に優れる彼の神経系に伝達される、異常な気配。
0.03の誤差。
筋力制御による反力反応が0.4ニュートン分、斜めに“押し戻されている”。
目には見えないが、空間そのものがどこか“変形”していた。
──それは、“出現”ではなかった。
──“変換”だった。
残骸の中心から、黒く光る“油膜状の物質”が滲み出していた。
だが、そこに魔力反応はない。
千早が思わず声を上げる。
「……解析できない。物質反応でも、術式波でもない。これ……物理層外?」
“それ”は最初、液体だった。
表面張力を無視して、床の上で半球形を維持する。
表面から微細な粒子が噴き出し、空気抵抗係数を0.01秒ごとに“逸脱値”で上書きしていく。
「…チッ…」
柊が、踏み込んだ。
液体は、突然“立ち上がる”。
重力方向に逆らいながら浮き上がるように形を変えていく。
“変形”ではない。
明確な“意図”による再定義だ。
一滴ずつの粒子が、構造因子を持ち始める。
流体だった膜が局所的に“節”を持ち、硬質な表面を形成する。
髪。
腕。
脚。
そして、顔。
最初に現れたのは、眼だった。
光の中で赤と黒が混じり合うような、“物理的に反射しない”虹彩が柊を“見た”。
次に呼吸。
首から胸元へと、膨張と収縮のリズムが走る。
体温が、発生した。
湿度が、乱れた。
光の屈折率が、“彼女の存在”を中心に変化した。
それは精霊でも、術者でもない。
存在や実体を“演じている”だけの、何か別の力だった。
女の姿をしたその存在が、脱力した姿勢のまま地面に足を下ろす。
無言のまま。
呼吸はしているが、心音はない。
まるで、外界の“振る舞い”だけを模倣して構成されたボディのように。
(……違う、これは“中身”が空だ)
柊が、膝を沈めた。
瞬時に、筋肉強化。
《反術式場》を最小半径で限定展開し、出力回収を対衝撃特化構造に切り替える。
──“動いた”。
刹那。
女の眼が、柊の方へと“動いた”。
それだけで、空気の緊張が臨界に達した。
その一瞬のうちに、柊は距離1.4mを突撃移動。
左足、母指球で床を削る。接地時間0.06秒。
身体を捻らず、上半身だけを45°左に回旋、右手を“肘から先で打ち込む”。
打点──胸部前面、心窩部下端。
(──決める)
“ドン”
衝撃。
拳は、止まった。
女の身体は、まるで慣性のない“点”で構成されたように、反応を返してこない。
質量のある物体であれば当然発生するべき“反発”が──なかった。
柊の体内で違和感が駆ける。
筋肉加圧率を補正したにもかかわらず、加速反応に慣性の揺り戻しがない。
まるで“そこ”にあるはずの質量が、この宇宙の常数から外れている。
(……こいつ)
女が動いた。
上半身が、わずかに横に傾く。
それだけで──柊のバランスが崩れた。
“引かれた”。
空間ごと──“彼女の重心”に引き寄せられた。
ベクトルが逆流したのだ。
柊の攻撃軌道が、女の“空洞”へと落ち込んだ。
(しま──っ)
力の傾きが変わる方向へ——
泥濘に足を踏み入れた時のように、沈み込む支点。
傾く視線が物語っていた。
ブレる重心が、遠ざかる“反応“を動かす。
一度加速がついた動きは、後ろへと引き戻す力を持たない。
前へと倒れる「一瞬」の余白。
反応では間に合わない時間。
その《隙間》を縫うように、敵の腕がまっすぐ柊の元へと伸びていた。
ズッ——
指先が彼の喉元に触れる。
その接触点から、“温度のない熱“が流れ込む。
皮膚の感覚を通して侵入してくる。
“喪失”の気配が伝播してくる。
──だが、その前に。
柊は左膝を叩いた。
瞬間、自身の筋肉内に組み込まれていた“干渉パルス”が展開される。
【逆位相展開術式】
精霊干渉なし、魔力展開ゼロ。
物理神経信号の内部で反応を分離する、瞬間脱出用神経反転プログラム。
「──解除」
柊の肉体が“その場に残したまま”半回転する。
剥がれるように抜け出した瞬間、彼女の手が空をつかむ。
皮膚と爪が皮一枚ですれ違った後、空気が破れるような音がした。
柊は後方へ跳ぶ。
呼吸のリズムを1.5倍速へ。
瞬間回復術式を呼ぶ前に、まず運動の構成要素を分解しなおす。
《ノット・フィード》による強制離脱。
一瞬の膝撃で自らの筋繊維を“撚り”解き、反応神経を分離しながら半身を滑らせた柊は、空中で一回転しながら地面を蹴った。
天井を利用するための跳躍。
回転しながら体勢を整え、攻撃の角度を変えるための一歩を探る。
その身体は、もう迷っていなかった。
(こいつの“重心”は──空間に固定されていない)
(それにコイツの目の動き……、“視覚的反応”で俺を見ていない可能性がある)
──ならば、こちらも“常識”を殺すしかない。
右足が天井に接地。
膝関節を締め、回転運動へ移行。
柊は左足を半歩引いた。
その角度、わずか11.3度。空間内での慣性調整範囲ギリギリ。
次の動作が、加速ではなく「滑落」になることを前提にした構えだった。
──重心、沈下。
──腹部、回旋。
──背筋、伸長。
──左腕、引き上げながら“落下用”の反力を生む。
柊の身体は自重を一切支えず、あえて“傾く”方向に沿って動き出す。
滑るのではない。“意図的に転倒しない範囲で、落ちる”。
それにより身体は、敵の目線の外、視覚追尾の縁を縫って突進していく。
「──っ!」
女の姿をした“それ”が、反応した。
重心を滑らせ、腰を軸に半身を後方へ反転。
柊の打撃を、肘の外旋で受け流す──かのように見えた。
(いや、違う──これは“模倣”)
繰り出していく打撃の一つ一つを受け流しながら、その始点と終点を数秒遅れて真似ている。
吸収するように打撃の接点を捌きながら、柊の動きの流れを線で繋げるように“返して”いた。
それは戦術ではなく、模倣。
動きの“記録再生”。
だが、その再生にはわずかに“ズレ”がある。
柊はそこに差し込んだ。
──背筋を丸める。
──左膝を落とす。
──右足を床に“這わせる”ように回転。
それはまるで、“倒れかけた人間の避け方”だ。
敵の肘がすれ違い、手の甲が柊の頬を掠める。
次の瞬間、柊はその背後に入り込んでいた。
【三段運動転位:斜回→沈身→滑重】
肘、腰、踵を繋ぎながら身体を“曲線で滑らせる”──この動きは、人間の運動では再現困難な連携動作であり、
“敵の模倣機能”に対してわざと適応不能な軌道を仕込んでいる。
だが、模倣は進化する。
女の姿は、柊の軌道を“受け”きらず、途中で“曲げて”反応した。
空気抵抗を殺し、重心の動きに違うベクトルを挿入する。
動きの再生だけでなく、「補正」が始まっている。
(……俺の先を読んでいる?)
柊は即座に“空中でのステップ”を切る。
右足、軽く跳ねる。
左足、着地せず“流す”。
両腕、わずかに左右へ振る。
普通の術者であれば、空中姿勢での移動制御は不可能。
だが、柊の体術は違う。
彼は、自らの“落下速度”と“関節の張力反動”を用いて空中で進路を変える。
地面に着く前に重心の軸を“水平から垂直へ”と曲げることで、まるで“転がるように”角度を変えていく。