第6話
右膝の外旋が追いつかなかった。
わずか数ミリの角度のズレ、それだけで柊の“打ち込み”は理想軌道を外れる。
(まだ……足りないのか)
筋肉は限界に近い。
アンチ・フィールドの副作用が、微細な神経伝達の“遅延”となって現れている。
それでも、戦いは止まらない。
グロウルが二段目の攻撃に入った。
斜め上からの裂砕肘。
体重を乗せた踏み込みで、柊の側頭部を狙う一撃。
「──っ」
視界が傾く。
避けられない。
裂砕肘──この距離、このタイミング、この質量。
術式が使えない今、物理法則で導かれる答えはひとつ。
(――潰される)
反応と、反射。
柊は“手段”を変えた。
踏み出すのではない。沈むのだ。
膝を曲げ、踵を浮かせ、脚全体の“支持ベクトル”を水平方向に滑らせる。
その動きは、古武術でいう“抜き”に近い。
――だが、その実態は反術式場内におけるベクトル干渉制御。
アンチ・フィールド下では、空間魔力の波形振動が術式ではなく慣性力へ反転して伝播する。
これにより、柊の動作は“重力そのものの斜面に滑り込む”ような自然落下方向の制御運動となる。
肘撃は掠める。
しかし、その0.12秒後には、柊の身体はグロウルの背後軌道に移行していた。
(追いつけ)
背中、脇腹、腎部――三点の急所が並ぶ。
柊はまず、“空白”を打つ。
拳ではない。
手刀の形をした右手を、直線的に空中へ突き出す。
打撃ではないその動きは、あたかも“そこに敵が存在したかのように空間を穿つ”。
だが、それは正確に狙われた“空気圧の中心線”を貫通するモーション。
“空撃”――敵の身体ではなく、
その周囲に流れる呼吸圧と筋肉の収縮反響を捉えて制御する技。
打撃の意図はない。
だが、グロウルの“呼吸圧中心線”を貫いたその動きは、空気の密度勾配を攪拌し、内部の神経信号に“誤認識”を引き起こす。
次の瞬間、グロウルの背中に痙攣のような微細な硬直が走った。
(今だ)
柊は左脚を“開く”。
膝を内旋、脛を跳ね上げ、腰椎の第4関節を軸に、全身をS字型の逆螺旋軌道へと変化させる。
そして拳が右脇腹の奥深く──
横隔膜の裏にある迷走神経叢へ突き刺さった。
“ボグッ”
濁った打撃音が、骨ではなく臓器を震わせた。
グロウルの身体が“くの字”に折れる。
が、それすらも時間稼ぎにはならない。
──再構成が、始まっていた。
崩れかけた筋繊維が、まるで“形状記憶金属”のように蠢きながら元の形へと戻っていく。
神経信号が自己補完を始め、構造そのものが“自然に修復”されていく。
柊は即座に判断を切り替えた。
(器官を壊しても無駄だ。今この個体にとって、“脆いのは構造”じゃない)
――“運動連鎖”そのものだ。
このグロウルは学習型。破壊された箇所を筋繊維単位で再構築しながら、その動きの軌道と反応を記録し続けている。
であれば、壊すべきは“骨”や“肉”ではない。
“再現できないモーション”そのものを刻む。
柊は、踵を引き、左肩を前に。
拳を開き、指を二本揃えて目の前に立てた。
姿勢制御、0.04秒。
出力最大化準備、0.09秒。
ここから先は、“教本にない領域”。
術式のない世界で、精霊も魔力も否定した男の――
「運動を崩壊させる」格闘技術の真髄だった。
柊の右手が、空を切る。
だが、それは“斬り捨て”ではない。書き換えだ。
手刀の軌跡は、空間に“誤情報”を流し込む。
――不可逆性。
これから叩き込む一撃は、単なる打撃ではない。
“記録されない動き”であり、
“再現不可能な軌道”であり、
学習に値しない運動の崩壊体である。
グロウルの神経系は、軌道学習型アルゴリズムに近い。
受けた攻撃のタイミング・角度・位置を記録し、次の瞬間には反応速度を0.2倍ずつ向上させてくる。
ならば、“再現できない動き”で神経回路を混乱させればいい。
柊の動きが、加速する。
だがそれは直線でも、螺旋でも、曲線でもなかった。
“三軸揺動”。
――運動方向に縦・横・奥行きのベクトルを加え、その比率をπ/√3:1:e⁻¹(※注1)に保持したまま加速する。
この軌道は、人間の筋神経制御では通常“理解不能”な挙動であり、単純な慣性加速度の反応では処理できない回転情報の塊だった。
※注1:π/√3 ≒ 1.813, e⁻¹ ≒ 0.368。物理空間と感応反応速度のズレを利用するためのベクトル比。
グロウルの眼孔が、微かに収縮する。
理解できない。
反応できない。
だから、動けない。
その瞬間、柊の手刀が、側頸部の“神経結節”を正確に貫いた。
“パァンッ”という乾いた破裂音。
皮膚表面の下、第4頸椎から脊髄副枝への伝達線が断絶される。
その衝撃は、肉体を壊すものではない。
構造の“演算過程”そのものを焼き切る行為。
グロウルが、震えた。
だが反応は、遅い。
“構造学習”が一時的に遮断されたのだ。
柊は追撃を選ばない。
一度、身体を後ろへ跳ね退らせる。
その眼差しには、ほんのわずかな“変化の兆候”を見逃さない冷静さがあった。
(これで……三秒稼げる)
空気が“揺らぐ”。
グロウルの脚部が痙攣し、膝を地につく。
だが、すぐに筋繊維が再起動を始めた。
修復。
再構成。
再演算。
そして――構造補完。
(くる……!)
柊は再び構えを取る。
今度は、踏み込みと同時に“加速の中で軸を回転させる”運動へと切り替える。
重心移動、Δv=1.7m/s²
ステップ角、Δθ=22.4°
踵接地時間、0.13秒。
人間の動きではない。
だがこれは、“人間でありながら術式に依存しない存在”だからこそ可能な軌道だ。
次の攻防に、すでに死角は存在しなかった。
再構成が追いついていない。
グロウルの胸部に走る神経束が、先程の手刀一閃で「学習の中枢」を断たれたまま、再接続に手間取っている。
だが、筋繊維の再編成速度だけは落ちていなかった。
(……構造が“ズレて”いる)
柊は一歩も動かず、視線の中で戦っていた。
空間を貫通するように、敵の“修復プロセス”を読み込む。
──なぜ、学習が止まっているのに、出力が上がっている?
答えは、すぐに現れた。
グロウルの両目が、黒から灰へと染まっていく。
その虹彩には、精霊術者にあるはずの属性の色相が、一切存在しなかった。
その代わりに、瞳孔の奥から“粒状の光”が浮かび上がっていた。
「……共鳴演算が……逆流してる?」
千早の声が揺れる。
「違う。これは……“反転共鳴”よ」
神園 梓が解析式を睨みながら声を漏らす。
精霊との契約が破綻した瞬間、術式構文は通常、術者か精霊どちらかの内部に“引き戻される”。
だがこの個体は、違う。
構造が宙に浮いたまま、再接続の指向先を見失っていた。
その時──空間に、わずかな“震え”が走る。
柊が眉をひそめた。
胸部の奥、心臓の右下あたりに“濁った脈打ち”を感じる。
(……フィールドが……)
《反術式場》が、崩れ始めていた。
正確には、グロウルの内部構造から発された“波形の反転値”が、
柊自身のアンチ・フィールドの干渉位相とぶつかり合い、中和を起こし始めているのだ。
このままでは、空間そのものが“ゼロフィールド”──
術式も反術式も存在しない“虚無の層”に転化する危険があった。
それは、魔力による戦闘が不可能になるだけではない。
肉体そのものの運動律すら“定義されなくなる”ということを意味する。
(ここが臨界点……)
柊は咳き込む。
鉄の味が喉奥を満たした。
神経伝達の過負荷が、内臓の微細な毛細血管を破壊し始めていた。
(次で仕留める……)
拳を固める。
膝を落とす。
呼吸を浅く整え、皮膚温を0.3度下げる。
“全出力の限界まであと2.4秒”。
その間に、“反転共鳴”が臨界に達すれば、柊の術式は崩壊する。
グロウルが立ち上がった。
背筋が“鳴る”。
肩幅が広がり、両腕の比率が“人間”の黄金比を逸脱する。
骨格構造の左右対称性が崩れ始めていた。
──それはもはや、“術者”ではない。
意思なき存在。波動の殻。
名もなき力の残滓。
(行くしかない)
柊は、深く踏み込んだ。
左足の接地、その面積わずか2.4平方センチ。
支持点を極限まで減らすことで、“空間の接続定義”を遅延させる。
これは運動ではない。
運動と“定義される前”の動きだ。
(反術式領域の“中心座標”……この一撃で、歪ませる)
グロウルが迎撃に入る。
左右対称性を失ったその両腕が、まるで“意志なき落雷”のようにぶつかってくる。
だが、それを柊は読んでいた。
呼吸、振動、関節駆動速度、反射神経の補正値。
すべてを0.2秒前に“誤認させる”ためのモーションが、すでに仕込まれている。
──空間が“逆らう”。
柊の肉体が斜めに倒れるように滑り込んだ。
次の瞬間、左拳が下から“空間の定義座標”を穿つように突き上げられる。
「《臨界撃》──“断絶の式”」
その拳が到達したのは、グロウルの胸郭の中心軸。
だが、物理的に打ち抜いたわけではない。
柊の拳が命中した瞬間、
空間が、静かに“定義を失った”。
術式でも魔力でもない。
力が存在していたはずの“記述領域”が、空白となる。
その瞬間、術式座標が失われたグロウルの内部構造は、再構成も修復も、記憶すらできずに“崩れ始める”。
“ギシリィィィ……”
微細な粒子が、体内から逆流する。
脊柱が、支点を失って傾く。
神経と筋繊維の接続点が“意味”を失って脱落していく。
グロウルの身体が、文字通り“沈黙した”。
術式の崩壊ではない。
魔法の解除でもない。
存在構造そのものの“終端”だった。
柊が一歩退く。
右手の指が、かすかに震える。
心臓の鼓動が、わずかに“拍を落とした”。
だが、それでもまだ、立っていた。
“ドサアァッ”
グロウルの肉体が、遅れて崩れ落ちた。
それはもはや「肉の塊」ですらない。
ただの“物体”──
存在から“意味”を剥奪された、空っぽの記憶装置。
アーシェが唇を押さえる。
「……魔力が、一切残ってない……」
千早が震える声で告げる。
「術式構造ごと、“否定された”……?」
──だが、その沈黙は、長くは続かなかった。
崩れた肉体の内側から、何かが“震えた”。
それは精霊の波形ではない。
共鳴ノイズでもない。
もっと原始的で、もっと深層の、“認識できない何か”の気配が──わずかに、微かに、そこにあった。
柊が振り返る。
視線の先から滲み出る緊張が、ほんのわずかな起伏を”持ち上げる“ように膨らんでいた。




