第5話
視界の先。
柊は、グロウルの爪撃をそのまま片腕で“受け流した”。
魔力も術式もなく。
ただ、鍛えられた肉体と、内側から魔力を変換した神経加速だけで。
「彼……魔力を使ってない……! なのに、どうして──っ」
それはまさしく、“魔力を殺して生きる”異常。
術式社会においては完全に“禁忌”とされる分野だった。
グロウルが地を砕いて跳躍した。
変異した脚力で天井まで跳ね上がり、そのまま巨大化した右腕をハンマーのように振り下ろす。
アーシェが思わず目を覆った──
──“ドォォオォン!!”
空間が鳴った。
柊の身体が、グロウルの一撃を真正面から受け止めていた。
手のひら一枚で凶悪な物理衝撃を殺し、魔力の破片すら弾き返す。
「急かすなよ……」
言葉の裏側で、骨がきしむ音がした。
それでも柊は地面から一歩も退かない。
廃棄された地下区画――剥き出しの配管、湿った床、吹き抜ける冷気。
その中央で、二つの影が向き合っていた。
柊 橘雅と、“完全転化型”リズ・ブレイク体。
その間合い、ちょうど3.4メートル。
この距離は、術式戦における「詠唱回避不能圏」。
だが、今ここに魔力はない。
柊が張る《反術式場》は、精霊構造そのものを殺す空間。
つまりここでは、“肉体だけ”が全てだ。
グロウルが動く。
両足の腱がはじけるように伸び、地を滑るように踏み込んだ。
巨体に不釣り合いな速度。脚の屈筋と伸筋を交互に収縮させる、異様な動き。
「──来るか」
柊は反応しない。目線すら変えずに足の指先だけを内旋させ、重心を2cmほど後ろへ引いた。
その動作で、間合いは“3.4”から“3.6”へ。
ほんの“20センチ”。
だが、そのズレが決定的だった。
グロウルの右腕が振り抜かれる。重量のある破砕打。
筋繊維が剥き出しとなったその腕は、空気を切り裂くような音を立てて襲いかかる。
「左肩の回旋が甘い」
柊はそう言いながら、膝を少し曲げて腰を落とす。
相手の拳が鼻先をかすめる。だが当たらない。
──“すでに位置が変わっている”。
(肘で反転、脇に崩す)
柊の左腕が背中から回り込み、グロウルの肘を“押し出すように”引き取る。
筋肉ではない。
これは、「重さのかかる方向に、別の重さを差し込む」技術だ。
ぶつかるのではなく、“ずらす”。
物理運動の重力点を“解体していく”かのように、柊はグロウルの右半身を浮かせた。
そこに、右の踵が踏み込まれる。
床を突く。
足首、膝、腰椎、肩甲骨、拳──
全身の関節が正確な順序で連鎖する。軌道は直線ではない。曲線から螺旋へと変じていく。
放たれる拳は重いわけではない。ただ、“深く届く”。
「ッ――」
グロウルの胸骨が、内部からひしゃげるように陥没した。
だが、それだけでは終わらない。
倒れるかに見えたグロウルの体が、ぶるんと震えた。
「……再構成?」
千早の声が震える。
「いや……“回復”してる……細胞単位で」
アーシェが呟く。
砕けた胸部が、筋繊維で“縫い直される”ように盛り上がり、数秒のうちに元通りになる。
グロウルが再び咆哮する。
今度は、柊の左側へ。
回転するような斬撃モーション。軸脚がすでに前傾に入っている。
「──反応速度、上がってるな」
柊は、拳では受けない。
肩を落とし、股関節を軸に半身を沈めてスリップステップで“間を抜ける”。
グロウルの攻撃が空振りになった瞬間、柊は背後に移動していた。
「“動きの記憶”を取り始めてる……!」
梓の言葉どおりだった。
グロウルは戦いの中で学習する。破壊されればされるほど、反応と補正が早くなる。
「なら……速さで上回る」
柊は、呼吸を変える。
深く吸わない。
肺ではなく、横隔膜を収縮させて“浅く速く”回転させる呼吸法。
これにより、筋内の酸素供給を最小限に制御し、“爆発的な瞬間強度”を連続使用可能にする。
(脚が折れる前に、決める)
柊が跳ぶ。
床の破片を踏み台に、右膝を高く上げてグロウルの肩口へ“軸打ち”。
グロウルが振り向く――が、間に合わない。
拳ではない。
柊の肘が、“心臓の真裏”へ叩き込まれた。
内部から、骨のきしむ音がした。
だが──
グロウルは、崩れない。
むしろ柊の膝裏へ回り込み、反射的に肘を返してきた。
「っ……!」
柊は腕でガードするも、反動で半歩、後退させられた。
“力が、増している”。
適応反応による筋出力の向上。それも、数分前の個体と別物レベルの進化だ。
(……まるで、俺を模倣してるみたいだな)
柊の肩がわずかに揺れる。
指の震え、視界の歪み。神経過負荷が限界に近づいている。
「限界……まだだ」
再び、前へ。
柊は拳を握る。
これは“魔力の拳”ではない。
“筋肉と骨の連動”、“慣性の殺し合い”──ただの、物理そのもの。
だがそれを最も合理的に、最も殺意を込めて使いこなしているのが、柊 橘雅という存在だった。
炎架は、その戦いを黙って見つめていた。
言葉にできない“違和感”と、“確かさ”。
魔力の一切を使わず、精霊すら拒んで、それでも戦えているという事実。
(……この男、術式を“否定”してる……?)
天真の剣士と、反術式の天才。
ふたつの“相反する力”が、今この場に並び立っていた。
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■ グロウル:転化段階識別分類
【分類/名称・特徴/危険度/備考】
□ G-0 / 微細化段階(軽度の共鳴ノイズ) / ★☆☆☆☆ / 自我の崩壊なし。共鳴再調整可能。
□ G-1 / 低出力暴走型(魔力挙動の暴発) / ★★☆☆☆ / 精霊と術者の分離不全。誤作動。
□ G-2 / 構造融合型(術式と自我の融解) / ★★★★☆ / 今回該当。異形への肉体変性が始まる。
□ G-3 / 出力限界突破型(空間歪曲発現) / ★★★★★ / 物理法則を無視した魔力存在。
□ G-4 / 精霊核形成型(仮想精霊化) / ★★★★★★ / 外部精霊を模倣する準神格構造。
□ G-X / 不明領域(記録・生還例なし) / ???? / 上位存在との干渉疑惑あり。