第12話
柊の足元、床面が微細に振動していた。
術式ではない。
魔力でもない。
空間そのものの“反作用”が、彼の肉体を押し戻していた。
(……これが、“運動を否定された空間”)
(なら、ここに“運動しない運動”をぶつける)
柊は左足を、わずかに後ろへ引いた。
踵を浮かせ、足裏の接地角を「3°外旋」。
この角度は、通常の跳躍運動では“反発しない方向”。
だが。
柊がそこに重心をかけた瞬間――
空間が“戸惑った”。
“動くべき”方向へ、動かなかった。
“斜面を降りる”ように導かれた重力に、従わなかった。
それは、たとえるなら――
「回転する観覧車の中で、逆方向に跳ぶ」ような違和感。
通常ならば軌道を外れ、脱落する運動。
だが柊は、それを選んだ。
肉体が、滑るように空間を抜ける。
それは跳躍ではない。
重力の定義が通用しない方向へ、自らを“置き直した”挙動。
「位置軌道、パターン外!」
千早が叫ぶ。
その言葉どおり、柊の運動はアンナンバードの「空間勾配」に一切属さなかった。
“そこにあるはずの運動斜面”に乗らずに跳んだ一撃。
それは、“相手の加速度ベクトルを参照せずに動いた運動”だった。
「決めるぞ──!」
柊の右肘が閃く。
突き出されたのは拳ではなく、“質量圧の定義域”そのもの。
関節の回転軸、骨の接触角、筋肉の収縮と伸展を全て同時展開。
そこに魔力はない。
だが、“軌道”がある。
重力に依存せず、ただ“筋肉の配置”だけで構築された、物理の外の衝突。
アンナンバードの瞳が、わずかに動いた。
動作ではない。反射でもない。
空間構造に“入力された定義のズレ”に、彼女が遅れて気づいた証拠だった。
柊の肘が、その胸前に届いた瞬間――
“ボン”という、鈍い圧の解放音。
音ではなく、空間が耐え切れなかった音。
彼女の身体が、数十センチ後方へ押し出された。
それは初めて、“アンナンバード”という存在が“因果に触れられた”瞬間。
そして、彼女の“加速度の遮断能力”が通じなかった一撃。
「……効いた?」
アーシェの声が震える。
だが、引きつけられるように彼女の脚元で“床”が逆巻いた。
──反撃が来る。
柊がすぐに体勢を崩す。
予期しない変遷が地を這うように迫ってくる。
畝るような変形。
重力が“逆向き”に跳ね上がった。
空間が、“踏み台として機能しない”軌道へと変形したのだ。
(くる……!)
全身をひねるように、柊は“空間から跳ねて”逃れた。
“バシュ”という低い圧力音が、床から這い上がった。
アンナンバードの背後、半径1.6mの範囲に存在する床材の一部が、まるで逆方向から“めくれ上がる”ように変形した。
音ではない。
これは、空間そのものが「内側に巻き込まれている」音。
「重力が……反転してる!?」
アーシェが即座に反応する。
だが千早は、静かに首を振る。
「違う。“反転”じゃない」
「これは──重力が“位相ごと逆向きに定義され直してる”」
通常の術式であれば、重力の変化はベクトル方向と出力だけに限定される。
だがこの現象は、「空間の法則自体が数秒前と“別の計算式で記述されている”」状態。
構造が一度“塗り替えられた”のだ。
アンナンバードの足元、わずかに沈む。
それに伴って、空間の基準面が“歪みの中心”として変化を始める。
柊が立っている床――それが、唐突に“自分の真下へ沈んでいく”。
(……ベクトルが、落ちてる……?)
足元の反力が抜けた。
床が崩れたわけではない。
だが“地面が地面としての役割を放棄した”。
全身のバランスが、微細な崩壊を起こす。
それは“姿勢を崩した”のではない。
空間の“支持軸”そのものが、再定義されてずれたのだ。
すぐさま柊は対応する。
内腿の屈筋に一瞬の圧縮をかけ、空間の沈下に対して“前方へ跳ぶ”形で身体を滑らせる。
だが、アンナンバードは追う。
静かに足を一歩、滑らせた。
それだけで、彼女の足元の“重力座標”が前方へ移動した。
地面が、また歪む。
床板の素材ではなく、“空間の支持定義そのもの”が、ねじれる。
そのまま――
“ドゥオン!”
視界の中心が一瞬で跳ね上がる。
柊の足下、支持点が“消えた”。
彼は浮いた。
重力によってではなく、“重力が定義されていない場所”に踏み込んだことによって。
(しまった……空間が、“床としての意味を持ってない”)
中空に投げ出される。
いや、違う。
空中にいるのではない。
“位置座標そのものが保持されていない領域”に存在しているのだ。
質量はある。
だが、“重さがない”。
それは、「この空間の中で位置情報を持たない物体」と同義。
柊の身体が、ゆっくりと沈み始めた。
何もない空間に、“意味を持たない速度”で落ちていく。
彼の肘が、一瞬だけ揺れた。
反術式領域の出力を最大に上げる。
重力の無い空間の中で、「重力を持つ」ことを宣言するために。
「――“力場、再定義”。」
柊の背中から、一条の青い圧が走った。
《反術式:インパクト・シンク》
空間内で物理座標の再固定を行う限定式。
それは、自身の“存在そのもの”を物理に引き戻す技術。
その“存在の錨”が、空間に引っ掛かった。
足裏に微細な反力。
柊は、戻った。
追いかけるようにアンナンバードが動く。
左手を上げた。そこから、微細な“粒子”が空中に浮かぶ。
千早が叫ぶ。
「それは“反応物”じゃない! ――“再定義因子”!」
柊が、空間に呑まれかけていた。
アンナンバードの“反重力誘導斜面”が、空間を再定義するたびに、柊の軌道は微細な“意図なき変位”を繰り返す。
視界がぶれる。
物理座標が“確定しない”――それは、あらゆる武術家にとって「死に等しい遅延」だった。
間に合わない――そう思った、まさにその瞬間だった。
空気が震える。
視界の縁を、赫焔が裂いた。
“キン”という、金属的な音。
そして、時間が数フレーム分遅れてから追いついたように、アンナンバードの指先が跳ね上がった。




