第10話
■ 虚式── Null Schema(Null式構造)
▍定義
『虚式』とは、アンナンバードと呼ばれる“属性も契約も持たない異存在”が展開する、存在論的な位相制御構文である。
これは従来の精霊術式のような「属性」や「媒体」を通さず、また魔力や精神波動といった構造的資源すら用いない。
つまり、通常の“術式”が精霊や魔力との共鳴を前提とした情報変換構文であるのに対し、虚式は契約・属性・共鳴といったいかなる既知体系にも属さない力の行使形式に該当する
この世界の“定義”や“記述”そのものに干渉・再記述を行う行為であり、既存の魔術系統では“不可算(Non-enumerable)”に分類されている。
▍呼称の由来
“虚”の字が示す通り、その能力には一貫した属性や本質がなく、その都度現象として現れる“実体なき術式”であることから、術式管理局において「虚式」と仮称された。
また、“存在しない術式”であることから、「Null Script(空白構文)」とも呼ばれる。
▍使用者
主にアンナンバードと総称される“無属性精霊存在(未定義存在)”によって使用される。アンナンバードごとに発現する虚式の内容は異なり、同一種であっても“固有の効果”を持つとされる。
▍特徴
・属性未定義:四大属性を含む既知の精霊属性に該当しない。
・媒体・契約不在:発動に際し媒介となる道具・精霊・契約構造が一切確認されない。
・構造上の不可逆性:発動した現象が、既存の因果・物理法則から説明・再構成できない。
・局所的な法則破壊:虚式展開中、空間・時間・質量・摩擦などの物理定義が局所的に崩壊する。
▍分類上の位置づけ
【分類/概要】
□ 通常術式 / 精霊と術者の契約に基づく、属性的術式構文
□ 禁術・反術式 / 精霊界の干渉を排除・中和・逆流させる構文構造(例:反術式場)
□ 虚式《Null Schema》/ 構造そのものを“定義前の状態”に戻す、記述以前の「空白構文」
▍起動条件
虚式は以下の3つの条件が重なった時に発動が可能となる。
1. 観測遮断:対象が「術者側の観測構文」から外れている。
2. 存在再定義:空間内における“属性値”と“因果波形”が0であること。
3. 座標同期点成立:物理・魔力空間を超えた“別位相”に接続された場合。
このため、虚式は常に“人間側の認識外”で動作を始める。
▍構造要素(Null式は以下の要素で構成される)
【要素/機能・概要】
□ Ψ₀(原始波形) / 因果律の前に存在する「位相の揺らぎ」。全虚式の起点。
□ φn(位相断層) / 空間・時間の層を分離する隔壁。接触時に法則の“欠損”が起こる。
□ ΔΣ(構文破壊) / 指定領域内の既存ルール(魔力・物理法則など)を“無効化”する。
□ λ(擬似定義) / Null空間上で一時的に構築される“演技的存在”。姿や質量など。
□ Ω(終端符) / 再定義完了時に付与される“存在の境界”=終了条件。
▍虚式発動による効果例
【虚式名/効果・説明/概念的性質】
□ 《零因の殻》 / 周囲の術式・反術式を完全無効化し、構造だけを“空白”に変える領域を発生。 / 絶対的非干渉
□ 《存在構文展開式:Λ》 / 自身の姿・質量・形態を「観測者ごとに異なる構造」に分離し、同時に複数視点で存在する。 / 認識干渉・分岐投影
□ 《余剰次定義:オーバーフレーム》 / 時間座標を数秒先にズラし、現実側が“追いかける”形で未来行動を強制的に成立させる。 / 予測不能の先行定義
□ 《反復無しの記述域》 / 相手の連続動作(攻撃、思考など)において“記憶されない”モーションを上書きし、戦術の
記憶反射を封じる。 / 学習阻害/再帰不可
▍対抗手段
虚式に対抗可能な手段はごく限られ、次のいずれかに該当する必要がある。
・精霊契約外の量子干渉系術式(例:芹沢 千早のコーデックス系統)
・反術式領域と“干渉相殺”が可能な身体構造(例:柊 橘雅)
・特異存在との共鳴により逆方向へ構文改変が可能な術者(未登場)
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■ 虚式《鏡蝕斥苑/Void Echo Garden》
▶ 概要
虚式《鏡蝕斥苑》とは、術者を中心とする空間領域内において、対象の「運動入力」と「環境反応(摩擦・反作用)」との時空的整合性を意図的に“ズラす”構造干渉領域である。
この領域内では、いかなる力学的操作も即時には効果をもたず、あらゆる運動は「時間差で遅れて世界に作用する」状態へと移行する。
■ 数学的・物理的構造
【1】非線形応答関数による“力の遅延反映”
力(F)を加えた対象物が、空間内で加速度(a)を得るというニュートンの運動法則(F = ma)が成り立たなくなるよう、以下のように定義を書き換える:
◆ Modified Force Application in Mirror-Echo Space:
F(t) = m \cdot \frac{d^2x(t - \Delta t)}{dt^2}
ここで:
・\Delta t:時空応答遅延時間(0.1〜0.3秒程度)
・x(t):対象物の位置関数
・m:質量(これは保持される)
つまり、「今」加えた力が、「過去の動作」にしか反応しないため、結果として即時の力の伝達が“ズレて”反映される。
【2】摩擦係数ゼロへの“構造位相操作”
空間内の摩擦係数μを時間的に“滑らかに消失”させることで、接地や空気抵抗による力が空間に定着しないように調整:
◆ Frictional Dissolution Function:
\mu(t) = \mu_0 \cdot e^{-\lambda t}
ここで:
・\mu_0:初期摩擦係数
・\lambda:鏡蝕干渉率(干渉の強度係数)
時間経過とともに摩擦が指数関数的に低下し、結果として“すべる”ような空間構造となる。
【3】時空構造テンソルの「遅延対称性」変形
一般相対性理論の空間構造テンソル g_{\mu\nu} に対し、時間軸成分 g_{00} のみを対象に変調を行うことで、“遅れて認識される現在”という状態を定義:
◆ Modified Metric Tensor in Mirror-Echo Field:
g_{00}’ = g_{00} + \delta g(t - \Delta t)
この操作により、時間の進行に対する「重み」が歪み、動きに対する反応が世界から“遅れて戻ってくる”ように感じられる。
■ 構成範囲と制限
【要素/内容】
□ 領域半径 / 約5.0メートル(術者中心・拡張不可)
□ 反応遅延 / 約0.2秒(均一ではなく、位置依存)
□ 摩擦係数 / 時間と共に指数関数的に減衰(μ→0)
□ 反作用力 / 即時反発を一時的に打ち消す(F→0, Δt)
□ 感覚影響 / 「重力を感じるのに動けない」ような錯覚
□ 干渉制限 / 魔力系術式の定常干渉・弾性系武装に限定的効果(打撃術に特に有効)
■ 使用者の影響と応用
この虚式は術者自身にも“重力遅延”と“反作用無効”が適用されるが、術者は既にこの構造を「基準時間」として運用している」ため、内部では自然に動作可能。
言い換えれば、使用者にとっては世界全体が“追いついてこないだけ”であり、自分は通常通りに動ける。
■ 比喩的な解釈
「彼女の立つ世界は、“今”から常に0.2秒遅れている。
けれども、彼女にとってはそれが“現在”なのだ。
動こうとする相手の拳は、常に“過去の世界”にしか届かない。」
このように、虚式《鏡蝕斥苑》は、物理法則に対する局所的な応答遅延と摩擦消失を操作することで“反撃できない空間”を作る領域干渉技として構成されている。術式でも魔力でもなく、世界の“応答時間”をズラす、まさに「虚の式」としての異常存在である。
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それは、「術式」と呼ぶには異質すぎた。
術者が精霊や属性と契約して発動する「術式」とは違い、アンナンバードの“虚式”は、構造の否定と再定義そのものだった。
敵の“彼女”が右手をわずかに開いた瞬間、空間の“表層”が剥がれた。
一枚の幕が、現実と非現実のあいだからずれ落ちてくるように──
術式発動に伴う魔力波はない。
だが、そこに現れたのは明確な空間の“異常定義”。
敵の周囲、半径約4.2メートルの球体領域。
空気の密度が下がり、床との接触面が“音を立てない”。
視覚情報すら遅延するような微細な揺れを含み、明らかに物理的因果律が“書き換えられている”。
神園 梓が即座に解析を試みたが、言葉が追いつかない。
千早がようやく、その異常を言語化する。
「これは……負のエネルギー……!」
「……だとしても」
柊が一歩、前へ出る。
それは衝動ではない。
恐怖を押し殺した意地でもない。
ただ、自分の“身体がまだ動く”という事実だけを頼りに進む一歩。
その一歩の中にあるのは、先の先を取ろうとする「攻め」ではなかった。
“知ろうとする意思”だった。
(理解できないなら、触れて確かめるしかない)
形を伴わない不安が暗に漂う中、柊は虚式領域へと踏み込んだ。
床の感触が“変わる”。
いや、変わったわけではない。
床はそこにある。だが、そこにいる自分が少しだけ遅れている。
敵との距離はおよそ3.2メートル。術者であれば術式展開の射程、斬撃なら一歩で届く距離。
だが柊にとっては、最もリスクの高い“中近距離”だ。
「……っ!」
右足を半歩引き、肘を前に。そこから繋がるのは──空間を滑るようなステップ。
接地面を最小限に抑え、摩擦係数を読みきって、進行方向に対して45度の軌道で一気に駆ける。
“滑る”ことで生まれる微細な空気のずれすら、彼の動きには“余白”として組み込まれていた。
──打撃一発、右掌底。
反動を殺しつつ、敵の胸骨付近へ向けて斜めに打ち込む。
続いて、左手で巻き込むように空気を押し、その流れに乗せて――
“カッ”
金属音。
彼の左腕に装着された“魔具”が起動した。
円形の導電層から放たれるのは、衝撃波──
音速の2割強、マッハ0.26の非魔力性・瞬間圧縮波。
魔力ではない。
術式でもない。
これは、彼が唯一使える“遠距離攻撃”。
魔具 《Kinetic Drive:刻圧式打撃子》。
──だが
打撃は、触れていた。
正確に、敵の皮膚に届いていた。
なのに、“通らない”。
拳の先から生まれた圧力は、その一瞬だけ“何かに吸収される”ように拡散した。
まるで、打撃が空気に“失速”させられたかのように──
音もなく、敵の体表で意味を持たない“ただの動き”へと変じた。
(また……!)
柊はすぐに回転し、後方へ跳ぶ。
だが同時に、敵の右手が前に伸びる。
“来る”。
避ける。左へ。
ステップの軌道は、最短距離の回避用に設計されたものだった。
しかし。
“ズッ──”
右肩をかすめる“違和感”。
何かが“擦った”。
攻撃は命中していない。だが、感覚が麻痺するような“痕”が残った。
皮膚の表面を、摩擦のない“熱”が撫でたような……そんな反応。
柊の額に、汗が滲む。
(……おかしい。回避角は間違ってない……はずだ)
何度も繰り返される微細な打撃。
いずれも“避けたはず”の攻撃が、徐々にかすり始めていた。
通常の感覚なら、問題なく避けられる距離と角度。
だが──ここはもう、“通常”ではなかった。
それに気づいたのは、次の攻防だった。
彼は距離を詰め、踏み込む。
何百回、何千回と繰り返してきた踏み込み。
その一歩が、「地面を押し返してこない」。
重力は感じる。
だが、加速しない。
地面が、まるで自分の存在に反応しない“鏡面”のように、ただ沈黙しているだけだった。
(……動作に、返答がない……!)
柊は、拳を構える。
正面。
敵の胸元に向かって放たれるはずの直線。
だが──拳が、“何かに吸い込まれるように”止まる。
力が抜けたわけではない。
手応えがあったわけでもない。
ただ──“反応”が、こなかった。
拳を振るったはずの柊の動作に、世界が「遅れてしか反応しない」。
もう一撃。
今度はフェイントから角度を変え、膝を滑らせて軸を斜めに――
だが、そこに重力が“ない”。
踏み込みに使った床が、ほんの一瞬“摩擦を失っていた”。
すべてが、ずれている。
視線。
重心。
加速。
接触。
反応。
それぞれが、“彼女”を中心にわずかに後れを取る。
(……これは、“摩擦と反作用の遅延”……?)
柊の脳裏に、咄嗟に解析が走る。
踏み込み。
跳躍。
拳の衝突。
全ての動作が、「入力してから0.2秒後にしか“世界に届かない”」。
その間に、敵は“ずれて”しまう。
柊の打撃は、当たった直後に空を切る。
速度が足りないのではない。
反作用が“遅れている”のだ。
何をしても、“彼女”の方が一歩先を歩いているような錯覚。
彼女は、ゆらりとそこに立っているだけだった。
——少なくとも、対峙している柊にはそう“視えた”。
拳を振るわず、ただそこにいるだけ。
だが、その「在り方」そのものが──すべてを拒んでいた。
術式ではない。
魔力でもない。
なのに、空間そのものが“あの存在”を中心に“ズレて”いる。
千早が震えた声で呟く。
「……空間そのものが、遅れている…?」
これが──
虚式 《鏡蝕斥苑(Void Echo Garden)》。
あらゆる動作に対して、空間が1ステップ遅れて反応し、摩擦も反作用も“無効化”される干渉領域。
それは、術者が構築する術式領域とは違う。
世界そのものの構造“応答律”を、彼女自身の“存在速度”に引き寄せている。
つまりこの空間では、
「速さ」も「力」も「反応」も──敵の定義した“距離とタイミング”には届かない。
柊は立ち止まった。
額に汗がにじむ。
呼吸は浅い。
視線の先にいる彼女は──ただ静かに立っているだけだ。
動いてさえいない。
「……一回、退く」
小さく、そう呟く。
敵との距離を取りながら、呼吸を整える。
浅く、細く。
空気の抵抗を減らし、酸素交換を最適化する呼吸術。
沈み込む気体の“流れ”を胸の中に引き伸ばしながら、瞼の下で視線を傾けた。
その一瞬、彼は理解していた。
この相手は──
“あらゆる現実の接触”を、“成立させない”領域の中に存在しているのだ、と。
「……面白くなってきたな」
汗ばむ手のひらを握りしめ、もう一度踏み込むタイミングを見計らう。
思考を、爆発的に張り巡らせる。
(攻撃が“触れていない”わけではない。
だが、力が伝わらない。
摩擦も反発も──打撃に必要なすべての“媒介”が、この空間には存在していない。
振るった腕が、風を割らない。
拳が届いたはずの位置に、“ヤツ“はすでにいない。
あれは、「回避」じゃなかった。
“当たる前に、外れていた”。
逆に、ヤツの攻撃は違った。
触れてもいないはずなのに、感覚を奪っていく。
摩擦のない指先が、かすめるだけで神経が“焼ける”。
──敵の攻撃は、“遅れて当たる”のだ。
今はまだ“かする”程度。
だが、その精度が上がれば——…)




