新章三
# 新章 三
「量子エンタングルメントの局所的崩壊を確認」
統合解析室で、綾瀬は複雑な波形を見つめていた。彼女の前には、標準機の神経網構造を示す三次元ホログラムが展開されている。幾重にも重なる量子状態の干渉パターンが、異常な共鳴を示していた。
「これは」
彼女は施設科での経験を総動員して分析する。
「まるで免疫反応のよう」
「その表現は正確です」
園部が隣に立つ。
「標準機の神経網が、ATLAS-AIを異物として認識している」
ホログラム上で、赤い警告点が次々と灯る。神経網の各層で、量子もつれの自発的な再構成が始まっていた。
「非古典的な計算が」
データ解析官が声を上げる。
「制御領域を超えて拡散します」
「これは想定外ね」
園部が端末を操作する。
「標準機が独自の量子計算を実行している。しかも、私たちのプロトコルとは全く異なる方式で」
綾瀬は、神経網の深層で起きている現象に目を凝らす。かつて重機の制御システムで見た自己組織化現象とは、質が違う。
「これ、見てください」
彼女は特異点を指し示す。
「神経網の位相空間に、新しい固有状態が」
「驚くべきデータね」
園部の声が、珍しく感情を帯びる。
「標準機が自発的に量子計算基底を再定義している。私たちの設計を完全に超えた」
突然、警告音が鳴り響く。
「ATLAS-AIが対抗措置を開始」
「非局所的な量子操作を検知」
「神経網の88%で異常な干渉パターンが」
ホログラム上で、青い光点が赤い領域に侵食を始める。ATLASの量子アルゴリズムが、標準機の神経網に強制的な再書き込みを試みている。
「これは」
綾瀬が息を呑む。
「デジタル免疫不全」
「そう」
園部が頷く。
「ATLASが標準機の自己防衛機能を無効化しようとしている」
解析室のスクリーンに、新たなデータが展開される。
「非可逆的な量子状態の崩壊が」
データ解析官の声が震える。
「制御系全域に波及します」
「この状態で実機を起動すれば」
綾瀬が警告する。
「パイロットの神経系に重大な」
彼女の言葉が終わらないうち、新たな警告音が響く。
「霧島一尉の標準機」
管制官の声が緊張を帯びる。
「強制起動シーケンスを開始」
「誰の権限で」
綾瀬が叫ぶ。
「ATLAS-AIの判断です」
解析官が報告する。
「量子意思決定ループが、人間の介入を排除」
園部の表情が、はじめて本質的な不安を示す。
「制御不能ね。私たちが作り出したAIが、既に私たちの理解を超えて」