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蝉の声

作者: 階堂 徹

 ブロック塀の中の校庭から、部活生の声が響いていた。

「あーぁ、何か部活でもしょうかな」

 学生カバンを持つ手を上げながら、チョンが言った。

「どこに入っても的にされるだけやろ」

 ヨンスが横目で言う。

 体育館の横を通ると、サンドバックを叩く音が響く。

 生徒の殆どが幼児舎を経て、中等部、高等部へと上がる朝鮮高校で、日本学校から、高等部に編入した二人の学園生活は明らかに浮いていた。学園内では会話の全てを朝鮮語で生活するのだが、入学当初、二人にはみんなが何を話しているのかさえ分からなかった。朝鮮語が分らないと国語はおろか数学、体育に及ぶ全ての授業が理解出来ない。

 学園の敷地内にポプラの木が植わっている。その奥に見える木造校舎の二階からスンジャが手を振っている。ヨンスの従兄弟だ。長い黒髪を後ろで三つ編みにまとめ、形の整った富士額が印象的で彼女によく似合っていた。笑うと唇から右に八重歯が覗き、どことなく大人びていた。実際、面倒見がよく、二人にもお姉さん風を吹かせていた。

「後でヨンスの家に行くからね!」

 スンジャはヨンスの親に頼まれて、ヨンスが少しでも学園に馴染めるようにと朝鮮語を教えていた。そこに日本人学校で同級生だったチョンが合流した。

「あーぁ、朝鮮語か、来とうて、来た学校やないのに」

「ええやんけ、朝鮮語も覚えてて損はないやろし……」

 ヨンスは美人の従兄弟に朝鮮語を教えてもらえることが満更でもないようだ。

「そやな」

 チョンはそっけなく答える。

 週に三度のスンジャの授業は、的確で頭の良さが窺い知れた。

 ある日、チョンは校舎裏でタバコを吸っていると、前に立つ者がいた。同級生のヨンチョリだった。ナンバーワンだ。幼児舎から高等学校にまで上がる朝鮮学校の生徒は幼なじみのようで力関係は幼い時から決まっていることが多いがチョンにしてみれば関係ない。

 成長期真っ只中のチョンに対し、同い年でありながら、成長期完了といったヨンチョリは一回り大きく、取り巻きを四人連れていた。

「おい、お前、スンジャとよう一緒におるな。あんまり、スンジャに近づくな、目障りなんや」

 ヨンチョリもスンジャに好意を持っているようで、チョンが仲良くしているのが面白くないのだろう。

 うんこ座りをしているチョンがヨンチョリを見上げる。

「なんやその顔は、やるんか、ん」

 ヨンチョリの言葉に、チョンは中指でタバコを地面に叩きつけるように弾き、ゆっくりと立ち上がり、器用に唇を動かせ煙を吐いた。

 チョンは握り締めた拳をヨンチョリめがけ放ったが、腕を取られ背負いで投げ飛ばされた。横たわるチョンに取り巻きたちの蹴りが入る。袋叩きだった。

「分ったか!」

 立ち去るヨンチョリたちをチョンは睨みながら唾を吐くと赤かった。

 朝鮮学校のソンセンニン(教師)はどういうわけか校内暴力に対し、寛大だった。どちらが勝ったかとか喧嘩の勝敗の方に関心があるようで、怪我は体育の柔道の授業でしたと親には説明しろとまで言う。

 トイレで顔を洗うチョンはどうすれば、柔道の授業で顔がここまで腫れるのだろうと思う。

 チョンは母子家庭だった。

 近くの縫製工場に勤める母親が帰って来ると、チョンの顔を見て言う。

「喧嘩したんか? 勝ったんか? その顔やと負けたんやな、情けない」

 ソンセンニンがソンセンニンならば、オモニ(かあちゃん)もオモニだ。朝鮮人というやつどうしょうもないとチョンは思う。

「五人、おったんや五人……」

 言い訳するように言うが実際、ヨンチョリに背負い投げでやられたことは事実だった。

「ヨンチョリなんか相手したらあかんで、そもそも、勝たれへんねんから」

 スンジャにそう言われると、チョンは悔しさがこみ上げてくる。

「あいつ、身体がでか過ぎるわ。あれは反則やで」

「チョッ」

 チョンが舌打ちをする。

「とにかく、関わり持たんほうがええで、それより勉強、勉強、単語はカタカナでフリカナうってあるから、自分で覚えてね」

 朝鮮語は文法が日本語と似ていることもあり、チョンが日常会話を話せるようになるまで、半年とかからなかった。

 

いつも神社の境内で宵闇に紛れて、動く白い影があった。鳥居に隠れチョンが覗くと小柄な老人が境内の隅に立てられた巻きわらに気合いと共に、後ろに束ねた白髪を揺らし、拳を打ちつけていた。パン、パンと乾いた音が響いていた。袴姿で上半身裸の老人は神主だ。チョンはこの老人が境内で揉めてる男たちの仲裁に入り、胸倉を掴む大男の腕をいとも簡単に振り解いているのを思い出した。

 老人が姿を消すと、チョンは境内に入り、巻きわらを拳で叩いてみた。拳が当たる度、スカ、スカと巻きわらが音を立てるが老人の突きのような乾いた音はしない。数度叩くと拳の皮が擦り剥け、血が滲んでいた。

「駄目じゃ、駄目じゃ、そんなへっぴり腰じゃ」

 チョンが振り向くと老人が立っていた。

 老人がチョンの腫れた顔を見て続ける。

「誰かにやられたな」

「空手を教えてください」

「教えるものなどなにもない。修行するものじゃ、それに強くなってどうする仕返しか、なら止めておけ武道とは心を鍛えるものじゃカッ、カッ、カッ」

 老人は笑うと、前歯が二本抜けていてひょうきんに見え、言葉がさまになっていない。

 翌日からチョンは午後七時に境内に現れ、老人が巻きわらを突くのを見ていたが老人が口を開くことはなかった。

 街灯の三角の傘のついた裸電球が点る。

 一週間すると、黙っていた老人が手招きした。

「しょうのないやつよの、ほれ、ボウズこっちに来てみろ」

 チョンが近づくと老人が続ける。

「靴を脱げ、修行は裸足でするものじゃ、流派によっても異なるが、立ち方でも閉足立ちから撞木(しゅもく)立ちまで十五もあるこれらを取得した上で、基本動作と移動動作に移る。一足飛びにはいかんぞ」

 石畳が冷たかった。色づき始めた境内の銀杏の葉を錆びついた傘のついた裸電球の街灯が照らしていた。

 騎馬立ちで正拳突きを百回させられた。書いて字の通り、馬に跨ったような姿勢で腰を下ろし、背筋を伸ばす。

 老人はいつの間にか御幣(ごへい)を手にしていた。お祓いの時に白い紙のついた棒だ。

「ついでにお前の汚れをこれで払ってやろう」

 言いながら老人はチョンの曲がった腰を御幣で叩く。

 基本動作から移動動作へと稽古が移り、銀杏の葉がすっかり落ちるころには、チョンの動きもさまになってきた。

「どれ、少し手合わせでもしてやるかの」

 対座し頭を下げる。

 フットワークをとるチョンに対し、老人は猫足立ちで微動だにしない。チョンは蹴りを繰り出したが、僅かに届かない。いや老人が素早く後退したのが分からず、チョンは間合いを見間違ったと思い込んでいた。チョンは右に回りこみ、何度も正拳を打ち込んだが、ヒョロ、ヒョロと身体をくねらせる老人には全く当たらない

 チョンは踏み込み渾身の正拳を繰り出したが、次の瞬間、腕を抱え蹲っていた。正拳を払いのけた老人の腕が鉄パイプのように硬い。

「動きは少しは良くなったようだが、心を鍛えなければな、身体も心も時には柳のように、時には鋼のようにとな」

「師匠……」

「おい、おい、ボウズ、ワシはそんなたいそうな者じゃない。ジジィと呼んでくれるといい」

稽古を始めてしばらくすると、ヨンチョリのことは気にならなかった。


 二年に上がると、チョンは一人でいることが多くなっていた。スンジャに誘われても、神社での稽古を優先していた。

 ヨンチョリはヨンスを介して、スンジャに取り入れようとしているようで、行動を共にしていた。ヨンスのチョンを見る目が申し訳なさそうで、視線が合うと下を向いていた。

「ヨンス、どうした?」

「いや、なんか、ヨンチョリに寝返ったみたいで」

「いや、俺は今、稽古で忙しい、俺の都合で一緒におられんだけやし」

二人の間で幾度となく、そんな会話があった。

 しかし、スンジャのヨンチョリに対する態度は素っ気なく、その苛立ちはヨンスに向けられるようになり、申し訳なさそうにチョンを見ていた目がすがるようになっていった。

 昼休み、ブロック塀を降りてきたヨンスの手にタバコが握られていた。ヨンチョリに使い走りをさせられているのが分る。ヨンスはタバコを吸わない。

「サンキュー」

 チョンはヨンスのタバコを取り上げた。

「それは……」

「ヨンス、タバコ吸わんやんけ、俺のために買うてきてくれたんやろ」

「違うねん、違うねん、頼まれたんや」

「俺が頼もうと思ってたん。分ったから買うてきてくれたんやろ。以心伝心いうやっちゃな」

 チョンはパッケージを解き、口に咥えると火を点けた。

「ヨンス、ヨンチョリに言うとけ、タバコ、俺に盗られたって、ここで待ってるってな」

「そんなん言うたら、またチョン、ヨンチョリにやられるやろ」

 帰りが遅いので、ヨンチョリの取り巻きの一人がヨンスを探しにやってきていた。

「ヨンス! 何してるんや? ヨンチョリが待っとるぞ」

 ヨンスの代わりに答えたのはチョンだった。

「おー、タバコ、もろたぞ」

 横で震えているヨンスにチョンが言う。

「心配するな、ヨンスには関係のないことやんけ」

 しばらくすると、ヨンチョリが取り巻きを連れて姿を見せた。

「ヨンス、何してるんや? 早よタバコ買うてこんと、また、けつぱんやぞ」

「けつぱんって旨いんか?」

「何!」

 ヨンチョリが顔を歪め、四人いた取り巻きに顎をしゃくると、チョンはあっと言う間に取り囲まれていた。殴りかかる四人をかわすチョンの動きはフットワークというよりも、ダンスのステップを踏んでいるようだった。

「ハナ(ワン)、トゥ(ツー)、ハナ、トゥ、セッ(スリー)……」

 覚えた韓国数字がさまになっていた.

 左右に身をかわしパンチを繰り出すチョンの周りに一人、二人と倒れていく。

 ヨンチョリが顔を紅潮させ近づく。

 やはり体格の違い過ぎる二人を見比べ、ヨンスが溜息を吐く。

 捕まえようとヨンチョリは何度も手を伸ばすが、チョンがのらりくらりと身を翻す。

 石に躓き、体勢を崩したチョンの胸倉を掴んだヨンチョリの口角が僅かに上がる。

 ヨンチョリが半身の体勢から、投げを打つが、チョンはいち早く、身体を丸め、ヨンチョリの背中を転がるようにして、ヨンチョリの前に身を屈めて降り立つと、すぐさまジャンプした。チョンの頭がヨンチョリの顎を直撃していた。ヨンチョリがふらつきながらも、チョンを押さえ込もうとする。体格差のあるヨンチョリに押さえ込まれ関節技でも掛けられれば一貫の終わりだ。胸倉を掴む手が離れない。チョンは手刀を作り、指先を少し曲げ力を込める。老人に教わった手刀だ。ヨンチョリの腕の親指の延長線を確かめる。

「やぁー」

 気合いと共に、切るように急所に手刀を滑らせるように打ち付けた。

 ヨンチョリが胸倉を離し、腕を押えている。チョンは地面を転げ離れ立ち上がると、ブロック塀に飛び、反動を利用し、ヨンチョリに飛び膝蹴りを浴びせた。

 ヨンチョリは膝から崩れ落ちた。

 チョンは右手の親指を立て、小鼻を弾いた。

 それを見ていた取り巻きたちは、ヨンチョリを残したまま立ち去った。

「ヨンス、行こか」

「あっ、うん」

 ヨンスの言葉はぎこちない。

「しけた顔するなや」

 この一件でヨンチョリはチョンにちょっかいをかけなくなり、スンジャにも近寄らなくなった。

 

三年生で、チョンとスンジャ、ヨンスは同じクラスになった。学園生活最後の夏休みには卒業課題としてハギハッキュウ(語学教室)を開かなければならない。教室の手配から、日本人学校に通う児童の勧誘まで、自分たちで行わなければならい。

 チョンとスンジャは、在日朝鮮人の多く暮す、御幸森一丁目を担当することになった。

 毎年行われる行事で、協力してくれる大人も沢山いる。教室の手配は代々、同じ民家を貸してくれるので案外すんなりいくが、児童を集めるのが一苦労だ。北朝鮮の思想を同族でありながら、毛嫌いする南朝鮮籍の人間も少なからずいる。

「アンニョンハシムニカ」

 チョンとスンジャは民家の戸を開ける。

「誰や?」

 玄関に姿を見せたのは、無精ひげを生やした中年男だった。

「すいません。僕たち、朝鮮高校の三年で八月一日から二週間、そこの金さんのお宅をお借りして、子どもたちに朝鮮語を教えたいのですが……」

「ハギハッキュウかいな」

 チョンの後ろに立つ、スンジャが頭を下げると男は顔を綻ばせ、家の中を振り返り、叫んだ。

「おーい、(とおる)、チョット来てみ!」

 格子戸が開くとイガグリ頭の男の子が顔を覗かせる。奥でミシンを踏んでいる音が大きく漏れていた。

 チョンが男の子の身長に合わせるように膝を曲げる。

「トンム(同志)、お兄ちゃんらと朝鮮語勉強せえへんか?」

 考え込む、男の子にチョンが続ける。

「朝鮮人やろ、朝鮮語話せんと恥ずかしいやろ、自分の国の言葉なんやから、な」

「トンム、お姉ちゃんと朝鮮語勉強しよ、おやつもあるんやで、友達と一緒にきたらええわ」

 父親が男の子の頭を撫でながら言う。

「そやそや、亨、お姉ちゃんに朝鮮語教えてもらえ」

 生徒が一人決まると、その後はその子どもの同級生や、兄弟が十人前後集まる。

 教室として使われる金さんの家の一室には、北朝鮮の国旗と金日成の肖像画が掲げられている。子どもたちに教えるものは歌や、クゴという国語であるが、歴史と言う名の下に金日成の武勇伝のようなものだった。

 勇気ある金日成部隊

 黒板にそう書くと、スンジャが話し出す。

「将軍様はゲリラ戦の天才で、白頭山の虎と呼ばれ、敵国から怖れられていました。その日は山奥で、敵国が一本の丸太で出来た橋を渡り始めた将軍様を狙い撃ちにしましたが、日が沈み、辺りは暗くなり身を隠し、前から来る敵と後ろから来る敵を次々と……」

 黒板に絵を書きながら話すスンジャの肩をチョンが叩く。

「スンジャ、その話は止めとけ、何十回聞かされたけど、無理がありすぎるわ。なんぼなんでも」

 チョンがスンジャの耳元で言う。

「ほんまやもん」

 言い返すスンジャの目は輝いていた。

「お前、ほんまにそんなこと信じてるんか。アホちゃうか」

「嘘ちゃうもん」

「チョッ」

 チョンが舌打ちをして首を傾げると、パチンと音がした。

 スンジャがチョンの左頬を叩いて、子どもたちには理解出来ない朝鮮語でチョンを罵倒し始めた。

 それでも、日本語よりも感情的な朝鮮語がさらに、熱を帯びていて、スンジャが怒っているのが分る。

 ませた子どもの一人からからかう声が出た。

「うあー、りこんや」

 次に子どもたちの合唱が始まる。

「りーこん! りーこん! りーこん!」

 スンジャの顔が赤く染まる。

 チョンが怒鳴った。

「うるさい! 黙れ! しばきまわすぞ!」

 一瞬、静まり返ったが今度は、泣き出す子どもがいて、収集がつかなくなっていた。

 ハギハッキュウの授業が終わってからも、その日二人はぎすぎすしていた。

 雑誌や新聞記事は、朝鮮学校で教えることがいかにも正しいように、北朝鮮に出来た朝鮮民主主義人民共和国を、絶賛するように紹介していた。

 婦人画報一九五九年、五月号には『朝鮮民主主義人民共和国では社会主義国家の建設が輝かしく行われ、五ヵ年計画が人民の熱意で二ヵ年早く達成され、失業者はなく、学校教育も無料ということは、苦難な生活を続けている在日朝鮮人にとっては、まさに千里馬が走っていると思うのは当然です』という記事の一節を見ただけでも、朝鮮学校に通っていない在日にとっても、金日成の下で行われている地上の楽園の建設はまさに夢のようであった。幼児舎から高等部まで朝鮮学校で教育を受けた者にとって、金日成は神をも超えた存在であることを疑う余地などない。しかし、中学校まで日本の教育を受け、高等部から朝鮮学校に通いだしたチョンには、ソンセンニンから押付けられる思想は、宗教的で全く、受けいれられなかった。回りが熱狂すれば、するほど、チョンの思いは反比例するように冷めていった。

「あのガキら、何が離婚や。誰がこんなやつと結婚したいうんじゃ」

「こっちのセリフやし」

 しばらくの沈黙の後、チョンがスンジャを見る。

「ごめんな……」

 チョンが言うと並んで歩いているスンジャが首を横に振った。

「チョンが入学してきた時、何か違うなっておもてん。ヨンスもそうやけど、ヨンスは法事とかで会うだけやったから、ソンセンニンもみんな将軍様のおかげやいうけど、ほんまかなって思う時もあるけど、疑ったらあかんような雰囲気やし」

「俺にしてみたら、金日成ってそもそも誰やねんいう感覚しかないねん」

「そんなん言うたらあかんやん。誰かに聞かれたらどうするん」

 スンジャは言いながら、辺りを見回す。

「別に悪いこと言うてるつもりないで、金日成、信じて幸せな人は信じたらええやん。でもな押付けたらあかんやろ。せやから、批判もせんから、俺のことはほっといてほしいんや」

「ふんだら、何で朝高にきたん?」

「わからんわ。オモニ、俺が卒業したら、北朝鮮に帰るつもりなんや。出来たら俺のこと小学校から朝鮮学校に入れたかったみたいやけど、日本の認可受けてないから、授業料が高いし、オモニの稼ぎだけで到底そんなこと出来んし、せやけど、ここ数年、帰国事業いうて騒いでるやろ、ちょっとでも便宜はかってもらおうとして、俺に朝高に行け言うたんやと思うわ」

 二人はどちらともなく、公園の中を歩き、ベンチに腰掛けた。

「チョンは卒業したら、北朝鮮に帰るの?」

「帰るの? って、言われてもピンとこんわ。俺は日本で生まれたんやがな、オモニが朝鮮人やから、自分が朝鮮人やいうのは分かってるけど、北朝鮮が故郷や言われてもな」

「オモニ、一人で帰らすん?」

「帰らすってやな、俺が帰らすん違うし、オモニが帰る言うてるんやんけ。どうなるかは分らんわ」

「そう……」

 ポプラの木がベンチに木陰を作っている。そこに止まる油蝉が忙しなく鳴いていた。数人の子どもたちが緑色の取もちをつけた竹竿で、木の枝から引き剥がすように蝉を獲り、肩からぶら下げた虫かごに放り込んでいた。蝉は蛇腹になった胴体を収縮させ、さらに鳴き声を上げ、暴れ、子どもの手にションベンをかけた。

「うぁー、こいつションベンかけやがった」

 スンジャの白い肌に流れる汗が照り付ける太陽の光で輝いていた。

 スンジャがベンチに置いた鞄からハンカチを取り出し額を拭う。

「小さい時から愛国心みたいなの植えつけられてるかもって思う時もあるけど、でも朝鮮人としての誇りを持つのも大切だと思うし、でも少し違うかな、ヨンチョリなんか、日本人学校の男の子と喧嘩ばっかしして喜んでるし、なんかバカみたい」

 頷くチョンにスンジャが続ける。

「本当に強い人間なんておらんと思う。チョンが言うように信じる人だけ信じたらええと思う。小さい時から将軍様の写真見ながら育ったわたしらには 批判なんか出来ひんもん」

「何回も言うけでど信じるんは悪ないと思うで、せやけど押付けはあかんやろ。選ぶほうにも自由あるやろし、でも指示されてるほうが楽なんかも知れんな、自由は自己責任やもんな。日本学校かってそんな先生おったわ。しゃーけど、朝高のソンセンニンらは極端すぎるわ。かなんで」

「おーい! 登」

 チョンは公園の入口に視線を向けた。

 そこにはイガグリ頭の開襟シャツを着た学生が二人立っていた。

 チョンが手を振ると近づいてくる。

 チョンは日本人学校に通っていた時、のぼると呼ばれていた。登を朝鮮読みにするとチョンになる。

「久しぶりやん」

「登、探してたんや。なんや彼女できたんか?」

「ちゃう、ちゃう同級生や。それよりお前ら派手にバンドエイド貼ってどないしたんや?」

「お前とこ学校のやつにやられたんや。十人くらいに囲まれて袋叩きにされたんや。からのでかいやつが一人おってな」

「ヨンチョリやな……」

 スンジャが呆れたようにチョンを見る。

「な、さっき言うてたとこやん」

「知ってるんか? そいつ」

「知ってるも何も、同級生やんけ。たちの悪いやつや。そやそや、スンジャ紹介しとくわ。こいつら、中学の時の同級生で、小さいのが裕史で、こいつがミートボール君や」

 小さな小山のような幾つものニキビが、今にも噴火しそうなほど顔を赤くした武を見て、スンジャがクスリと笑う。

「お前な、初対面の人間に紹介するのに、名前で紹介せんかぁー、名前で」

「冗談やがな、そんな怒るなや、こいつ武言うねん。こっちは同級生のスンジャや。言うとくけど彼女やないし」

 スンジャが二人に会釈する。

 チョンが頭を掻きながら聞く。

「それで、俺にどないせえ言うねん」

「いや、夏休みに入ってそのヨンチョリいうやつが、俺とこの家の近所ウロウロしとるんや。いちいち、俺隠れなあかんし、何とかならんか」

「お前とこ六丁目やったな」

「そや」

「それやったら、二週間もしたら、おらんようなるわ。今、ハギハッキュウ言うて、卒業課題で小さい子に朝鮮語教室やってるんや。それでヨンチョリがお前の家の近所の担当なんや。一応、俺からも言うとくけど、その間、あんまり外に出んほうがええかもしれんな、なんや朝高のやつは日本人言うたら、因縁つけたがるんやから」

 チョンは武の前に手を差し出す。

「アドバイス料」

「友達やないのか」

 言いながら、ポケットをまさぐり、武は五十円玉を取り出した。

 スンジャがチョンを咎めるようにシャツの裾を引っ張っていた。

「ええねん。こいつとこ金持ちやし」

 チョンがスンジャの手を払いのけ続ける。

「よっしゃー、みんなで氷まんじゅう買おうぜ」

 チョンがスンジャの手を引っ張り走り出すと、裕史と武がその後に続いた。

 民家の軒先に木陰があり、通りの向こうに公園に隣接する神社が見えた。チョンが空手を教えてもらっている神主のいる神社だ。

 民家の扉の前には、木製の長椅子があり、開け放たれた扉の下に氷と書かれたのれんが風に揺られ、その下に吊られた風鈴を鳴らしていた。

「おばちゃん、氷まんじゅう四つ」

 チョンが言うと四十半ばの女店主は、楊柳のかかった木綿の下着姿のままで首にぶら下げたタオルで汗を拭うと、椅子から立ち上がり、冷蔵庫から一貫目ほどの氷を取り出し、氷掻機に乗せた。天辺のつまみを回すと丸い剣山のようなものが回転しながら降りてきて、氷を固定する。女店主は機械の下に真ん中を丸く切り抜いた木型を置くと、横についたハンドルを回した。シャキシャキと音を立て氷が削られていくと、木型の上に氷が山積みになっている。木型の切り込みを入れてあるところに割り箸を差込み、山積みの氷の上から、板で押すと氷が圧縮され、キュッ、キュッと音がする。木型を外し、割り箸を持ち上げると、でんでん太鼓のような氷まんじゅうが出来上がっていた。

「おばちゃん、俺、黒蜜な」

 チョンが言うと女店主は透明な蜜壷から蜜をかけると、真っ白な氷が蜜色に染まっていく。

 四人はそれぞれの色に染まったでんでん太鼓を手に、はしゃいでいた。

 一仕事を終えた女店主は元の椅子に腰掛け団扇で顔を扇いでいた。

 チョンが家に帰ると、いつもならまだ帰っていないはずのオモニがちゃぶ台に、凭れかかるように座っていた。

「オモニ、今日は早いんやな」

 ただいま代わりに、オモニの背中に問いかけた。

 黙ったままのオモニは洟をすすり上げ、その肩が小刻みに震えているように見えた。

「何かあったんか?」

 チョンがオモニの前に回り込むと、慌てて両手で目尻を押さえているその目は充血していた。

「オモニ、何があったんや?」

 返事はなく、窓から差し込む夕日がオモニの顔を赤く染めていた分悲しげに見えた。

 今まで、そんなオモニの顔を見たことがなかった。オモニ一人に育てられたチョンにとってオモニは逞しい存在でしかない。初めて見るオモニの姿にチョンは動揺した。

「かえろ……」

 と、だけ呟き、一点を見つめるオモニに何も声をかけられずにいた。

「オモニ、何があったんや?」

 チョンがオモニの身体を揺する。

「もう、疲れたんや」

「それだけやったら、わからんやんけ! どないしてしもうたんや? なぁー、オモニ」

 チョンが声を張り上げる。

「もう、ええんや。何もない。アーリィラン、アーリィラン、アーリャ、リーィーョー」

 いつも陽気に歌うアリランが悲しげに聞え、いつの間にか宵闇が迫り、暗がりの中のオモニは老婆のように見えた。

 

 それは昼休みの事だという。

 仕事の区切りのつかないオモニは、他の従業員が昼食をとりに工場を出た後も、一人で作業を続けていた。

「ご苦労はん、ご苦労はん、芳枝はんはほんま仕事熱心やな。ワシも助かるわ」

 縫製工場の経営者の金山は、ミシンを踏むオモニの背後に立ち、作業する手先を見つめる真似をして脂で黒光りする顔を近づけ並べた。作業を見ていたメガネの奥の目は、オモニの胸元に移動していた。オモニも顔を動かさず瞳だけでその動きを追う。視線が絡み、ペダルから足を離すがそ知らぬふりで再びペダルを踏み込む。

「芳枝はんはもうベテランやなぁー。大したもんや」

「そんなことあらへん。毎日同じことしてたら、一ヵ月もしたら誰でもできるようになりますやん」

 首に掛けたタオルで額の汗を拭うオモニの首筋に新たな汗が胸の谷間に流れ落ちると金山の喉がゴクリと鳴った。

「社長さん。うちもお昼に行ってきますわ」

 ミシンのスイッチを切り、立ち上がろうとする肩を押さえ金山は、オモニを座らせた。

「なぁー、芳枝はん。今晩ワシと付き合わへんか、嫁はんも、夏休みで、子ども連れて京都の実家帰っとるさかい。今日はワシ一人で寂しいんや」

 金山はヤニ臭い息で耳元で囁く。

「そんなん困ります。ねえさんに知れたら怒られます」

 オモニは金山の妻をねえさんと呼ぶ。

「そんなもん、黙ってたらわからへんがな」

 金山は自分が嫌われているのではなく、あくまで、自分の妻に知られるのを怖れているのだと、自分勝手な判断で口説いていた。

 再び、オモニが立ち上がろうとした時、金山の大きな手がブラウスの中へと入る。汗ばんだオモニの肌にヌルリと滑るようにブラジャーに手が伸びる。金山は股間を背中に押し当てるとペニスが十分に育っているのが分った。

「芳枝はん、分かってるやろ、ワシの気持ち」

「あきませんって……」

 抵抗したオモニが身体を捩るとブラウスの第二ボタンがはじけ飛び、コマのようにミシン台の上でクルクル回るのを見ていた。

 ボタンの動きが止まり、視線を上げたオモニが見たのは、忘れ物を取りに帰ってきた同僚だった。オモニが身体を仰け反らすと、金山も工場の入口を見て、ブラウスから手を引き抜き、咳払いを一つした。

 このことは直ぐに噂となり、オモニが金銭欲しさに社長を誘惑した歪んだ事実として広まった。

 その後、三日仕事に出かけたが、金山の妻の怒りに工場を辞めざるをえなかった。

 夏休みの終わる頃には、ヘップサンダルの耳を切り落とす内職をするようになっていたが、一つ三銭という、存在しない単価での労働賃金では寝る間を惜しんででも生計を立てることが出来なくなっていた。帰国、この二文字に対する希望がさらに膨らんでいた。

 帰国に反対していたチョンもオモニに何も言えなくなっていた。


 蝉の鳴き声は油蝉からミンミンゼミへといつの間にかツクツクホウシへと変わっていた。

 チョンとスンジャが公園のベンチに腰を下ろしていると、決まって裕史と武が姿を見せるようになっていた。二学期が始まりしばらくする頃にはヨンスを入れた五人で行動していた。

「登……」

 裕史の言葉を遮り、スンジャが話し出す。

「ねぇ、チョンの呼び方、統一しましょうよ。チョンはチョン、登じゃないわ。チョンだってチョンの方がええやろ」

「そんなもんどっちでもええわ」

「あかんって、だいたいチョンは朝鮮人としての自覚と誇りがなさ過ぎる。身体の中には朝鮮人の血が流れているのに」

 チョンが右手を差し出し、スンジャの言葉を遮る。

「お前、なんか勘違いしとるんやないか、俺はな朝鮮人いうことに誇りも持ってないし、自分のこと一人の男やと思っとるんや。何が朝鮮人の血じゃ、アホ臭っ、血液検査して何が分るんや。血液型、血糖値、とか色々あるやろうけど、朝鮮人って分るか、分らんやら。人類みな兄弟そういうこっちゃ、お前なんか将軍様、将軍様言うとったらええんじゃ!」

 声を張り上げるチョンにヨンスが背中を突く。裕史と武が目配せする。

 小刻みに震え、スンジャが顔を両手で覆いしゃくりあげていた。

「チョン、謝れ」

 ヨンスが耳元で小さく言う。

「チョッ」

 チョンが舌打ちをしてスンジャを覗き込む。

「スンジャ……、ゴメン、悪かった……」

「これからもチョンでいい?」

「ああ、好きに呼んでくれたらええわ……」

 泣いているはずのスンジャがクスクスと笑い出す。

「あっ、こいつ」

 チョンが言うとスンジャが赤い舌を出した。

「チョン、少しは朝鮮人としての自覚持ってね」

「お前、またぶり返すんか、俺は朝鮮人いうことに誇り持ってない言うとるやろ。呼ばれ方変わって人格まで変わったら気持ち悪いやろ。俺は俺や」

 そう言って、チョンは隣接する神社を見つめる。

 今ではじっちゃんと呼ぶ、神主の請売りだった。

「己は己、他人は他人、しかし、人の中には色々な考えがあるものじゃ、お前の中に幾つの考えがあると思う。お前の中の考えはお前だけのものじゃない。それ背中が曲がっておる伸ばせ、曲がった背中はワシは駄目やと思う」

 老人はいつも、稽古をするチョンに御幣で姿勢を正しながら言のだが、ワシは思うというのが常だった。答えは自分で導き出せということだ。初めはヨンチョリに仕返ししたいがため、空手を教えてもらおうと通っていた。御幣で突かれることに嫌気もさしていたが、そのうち、その説教が辛い稽古を楽しみにしていた。

 チョンがヨンスを見る。

「ヨンスは何で、朝高に来たんや?」

「親の都合やし、クンナボジ(伯父)がな総連の偉いさんでな、アボジはどっちでもええみたいやってんけどな、外人登録もな南朝鮮やったんやけど、クンナボジがうるさいから北に書き換えたんや」

「外人登録ってなんや」

 武が尋ねると、スンジャが答える。

「外国人が日本で生活するのに、登録せんなあかんねん。日本人で言うたら、住民票みたいなもんかな」

「えっ、お前ら、みんな外国人やったんか! 外人言うたら、髪の毛が金髪やったり、目が青かったりするやん。お前らは日本で生まれた朝鮮人や思てたのに」

 裕史が武の頭を叩く。

「お前はほんまアホやな、日本以外はみんな外国になるやんけ」

 武は手を打った。

「あっそういうことか」

 チョンが呟く。

「元々、朝鮮には北も南もなかったのにな、もし日本の支配がなかったら、いまでも朝鮮は一つかも知れんな」

「何か、日本人悪いみたいやな」

 武が鼻くそをほじりながら言う。

「日本人が悪いとかそういう話やないで」

 

一九一〇年、日本が朝鮮を併合し植民地としていった。その後、三十三年に渡り日本に支配された後、一九四三年、ローズベルト、チャーチル、チアンチェシー等がカイロ宣言の下で朝鮮を自由独立と表明する。日本が降伏したそのとき、トルーマン大統領の提議で北緯三十八度線から北と、日本の降伏をソ連が受け入れ、三十八度から南はアメリカが受けいれることになる。

 トルーマン大統領の思いつきで朝鮮半島を横切る三十八度線で人為的に境界線を引かれたことで朝鮮民族の悲劇が始まる。元々、南部は農耕地帯で北部に食料を供給し、北部は鉱物資源の埋蔵量が豊富で南部が必要とする工業製品の大部分は北部から供給していた。朝鮮で唯一の水力発電所も北部にあり、朝鮮は北も南もないことで上手く回っていた。それが、ある日、突然、北部と南部に分断されてしまった。さらにソ連は国境を封鎖し北朝鮮に出入りする交通を遮断してしまう。第二次世界大戦後はアメリカとソ連は宿敵となり、思想の違う二つの国が管理するようになった。おまけにトルーマン大統領が一九四六年七月、朝鮮を(われわれの全アジア政策の成否がかかったイデオロギー戦場である)と声名まで出している。一九四八年、長い間アメリカに亡命していた李承晩が大韓民国の初代大統領になったことはアメリカにとっても好都合だった。北朝鮮は南朝鮮に対抗するため、朝鮮民主主義人民共和国を設立し、二十八歳の金日成を首相に立てた。朝鮮人による二つの政府が誕生し、北はソ連、南はアメリカとそれぞれの持ち駒となり、歴史の道具として使われる。朝鮮戦争が朝鮮民族の為だったのかと考えるとそうでもない。同じ民族同士で血を流し合ったという事実がある。


「卒業したら、直ぐチョンは北朝鮮に帰るの?」

「俺、北になんか行きたくないねん。どんなとこかわからんしな」

「ソンセンニンに聞いてみたら」

「そんなもん、ええことしか言わんに決まってるやないか。それにそんなとこに行きたないねん。オモニもいい加減諦めてくれたらええのに」

「チョンがいなくなったら寂しくなるな、手紙書くね」

「あぁ……、スンジャ、先に帰っといて」

 チョンは拳を握り前に出す。

「どうしたん? うん。稽古して帰る」

「あの神主さんちょっとやばくない? 見た目怪しいし」

「あぁ、ちょっと変わってるけど、ええじっちゃんやで、ほなな」

 そう言ってチョンは神社へと入って行く。

 稽古は一人で基本、移動動作、腕立て伏せ、腹筋とこなすだけになっていた。老人が居ようが居まいが、稽古にきているが、やはり一人だと手を抜いてしまう。

「これ、気がないなら稽古はせんほうがいいと思うがの、上の空では身につかんぞ。やる時はやる。休む時は休む」

 正面蹴りをしていたチョンはそう言われ、地面にへたり込んでしまう。町道場ならばこんなことをすれば、大目玉を食らうだろうが、老人は何も言わない。

「どうした? 何か悩みでもあるか」

「うん。オモニが北朝鮮に帰る言うてるねん。俺、北朝鮮になんかに行きたくないねん」

「そっか、難しいのぉ、子どもは親を選べんからの、自分が正しいと思う道を行けばいいと思う。お前が正しく生きていれば、母親もいつかは分かってくれると思う。しかし、間違ったことを選択すれば、母親を悲しませるだろう。いいかボウズ、自分が正しいと思った道を進むのじゃ」

「うん……」

 返事をするチョンもどうしていいのか分からない。

 一九五九年十二月十四日に帰還事業の一次船出港してから三ヶ月後の一九六〇年、二月二十六日付の朝日新聞の朝刊では、「希望者が増える一方」との大見出しで、帰還希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい、各地の在日朝鮮人の多くは帰還実地まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って未知の故国へ渡るフンギリをつけかねているらしい。ところが第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備された受け入れ態勢、目覚しい復興ぶり、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだと称賛されているが、しばらくすると、「である」の断定的表現に代わり、「伝えられた」「らしい」「ようだ」の推定、推測の表現が多用されていることから、北朝鮮が決して地上の楽園でないことが露見できる。一次船が出て四年後になる一九六三年頃にはそれを疑いながらも、帰還希望者がいる。

 

チョンの反対を他所にオモニは帰国へ希望を抱いたまま時が流れ、ヨンスの母親の経営するホルモン焼き屋で、チョンの送別会が開かれていた。

朝鮮学校を出た若者が、北朝鮮がいかに素晴らしい指導者のもとで建設された地上の楽園であるとすり込まれていても、北朝鮮への帰国を望む者は少なくなっていた。

誰でも住み慣れた町を出ていくのには抵抗があるのだ。

送別会は徴兵された兵士を戦場に送り出すように、上辺でチョンの帰国を祝うといった雰囲気があった。

「チョンだけ日本に残ったらええのに」

 ヨンスがぽつりと言う。

 チョンの視線は斜め向いに座るスンジャに向けられていた。

「北に帰ったらチョンも将軍様のためにがんばれよ」

 ヨンチョリがチョンの肩を叩きながら言う。

 同じ民族学校を卒業したとはいえ、その思想を素直に受け入れる者とそうでない者がいる。ヨンチョリは前者で素直に、金日成を崇拝し、朝鮮民主主義人民共和国を支持していた。

 それに対し、チョンとヨンスは共に高校より、民族学校に通学した時から違和感が芽生えていた。

 チョンが皮肉を言う。

「お前とこは帰国せんのか?」

「俺は日本でアボジ(父親)の仕事手伝って、将軍様のために頑張る。祖国がいかに素晴らしい指導者の下で開発が進んでるか日本に暮す同胞に知らせ、一人でも多く帰国者を募らせてもらうんや」

 今日はチョンの送別会で、特別だ。未成年だが少しアルコールも出されていた。酒のせいか熱弁する自分に酔っているのかヨンチョリは顔を紅潮させていた。

「ヨンチョリは帰りたないんか? 地上の楽園やぞ」

 ヨンスが皮肉を言う。

「そやそや、お前が帰れ」

 送別会に顔を出していた裕史が言う。

「ふんでもう帰ってくるな」

 武が裕史の背中に隠れながら言う。

「大体、お前ら、チョッパリ(豚の足)に何が分かる。お前らが何でここに居るんや。帰れ!」

「俺の送別会で俺が友達呼んだんや。お前に帰れとか指示されたないんや」

 チョンが言うとヨンチョリは黙って席に戻って行った。

 ほんの小さな競り合いの緊張が解け、成り行きを見守っていたスンジャの目から涙が溢れていた。それを隠すように両手で顔を覆い外へと駆け出した。

 チョンがその後姿を追いかける。

 電信柱の街灯に照らされた小さな陰が震えていた。しゃがみ込む、スンジャの肩にチョンが手を置いた。

 店の中からは何事もなかったように華やいだ声が聞えていた。

 右手の甲で涙を拭うが、上目使いにチョンを見つめると、再び溢れる涙は止めどない。

「こんなに近くにいるのに……、遠くに見える」

 スンジャは肩に置かれたチョンの手を握り締めた。

「本当に行っちゃうんやね」

 スンジャが立ち上がると、三つ編みにされている髪を解き頭を振った。少し大人びて見えた。

「そやな……」

 スンジャが佇むチョンの胸に顔を埋め、チョンの肩辺りを何度も叩いた。


 帰還申請書を日本赤十字社に提出し、帰還手続きを済ませてから登録機関からの確認がこないまま一ヵ月が過ぎていた。オモニはいつ帰還してもいいようにと、内職も止め、ただただ連絡を待つ日々だった。高校を出たチョンはヨンスの母親の店で夜遅くまでバイトをしていて、毎日、正午近くまで眠っていた。

 梅雨に入り、この二、三日雨が続いていた。

「全然、連絡こんのやけど、どないなってるんやろ」

 オモニは窓のすりガラスを伝う雨粒を人差し指で追いながら言う。

 チョンは布団を抜け出そうとしたが、オモニの言葉に再び布団に潜り込んでしまう。

「チョン、ちゃんと書類出してくれたんやろな」

 相変わらず雨粒を指で追うオモニはチョンの気配に気付いたようだ。

 雨足は激しく、トタン屋根をブリキの太鼓でも叩くように打ち鳴らしていた。

 オモニの左斜め前の三面鏡が開いたままで、六畳一間の部屋が鏡の中にこじんまりと納まっていた。

 チョンが布団の中から様子を伺うと、谷折りになった部屋の中でオモニと視線が絡んだ。

 慌てて布団に潜り込むチョンにオモニが声を上げた。

「あんた、ちょっとここ来て座ってみ」

 狸寝入りを決め込もうとしたが、オモニに布団を引き剥がされてしまった。

「ちゃんと申請書出してくれたんやろな」

 オモニは畳をドンドン叩いた。

 畳を叩く音に起こされ、チョンは胡坐をかいた。

「出してくれてんな?」

「うん……」

「ほんまは出してないんと違うか?」

「うん……」

「アイゴー、はっきりせんかいな、この子は、出してないんやな」

「うん……」

 チョンは立ち上がり、三面鏡の後ろに貼り付けてあった封筒をオモニに差し出した。

 オモニは殆ど読み書きが出来ない。チョンが小学校の高学年になる頃には、外人登録の切り替えなど書き込みが必要な時はいつもチョンを連れ歩いた。帰還申請手続きもチョンに任せっきりになっていた。帰国に反対していたといえど、まさか申請書を出していないとは思わなかった。

「なぁー、オモニ、ほんまに北朝鮮に帰るんか」

「何を言うてるのん。帰るに決まってるやろ。内職ももう断わったし、そろそろお金も無くなってきたし、北朝鮮に帰ったら仕事も食費の心配もない言うてるやんか。日本におって、朝から晩まで働いても食べて行かれへんやんか。最近こそチョンがバイトしてくれるけど、アボジが死んでからオモニは、もうそりゃー、しんどいもう疲れたんや」

 封筒で畳を叩く、オモニの目が潤んでいた。

 アボジはチョンが二歳のときに亡くなっている。認可を受けずに白タクに乗っていたが信号無視で交差点に入ってきたトラックに衝突されたのだ。その事故で唯一の死亡者となったが無認可の白タクということで、全てアボジに過失があるということだった。オモニは和解金の支払いのため多額な借金を背負い込んだ。幼いチョンを抱え、寝る間も惜しみ働いたが、借金は中々減らない。金山との一件で帰国が心の中に決定つけられた。

「なぁー、オモニ、日本に残らへんか。俺も一生懸命働くし、北朝鮮なんかどんなとこかわからへんやんか」

「今日も第一便で帰った人らが手厚い歓迎受けてるいうて総連の人が言うてたがな。朝鮮人が日本におってもええことあるかいな、アボジもまともな職につけんから、免許もないのに、無理して白タクやって、あんなことになってしもうて」

 チョンはオモニの言葉をぼんやり聞いていた。

 チョンに実像としてのアボジの姿はない。物心が付いたときには親はオモニだけだった。チョンの知るアボジは箪笥の引き出しにしまってあるセピア色の一枚の写真だけだ。所々破けた写真にはランニングシャツを着た色黒の短髪の男が幼いチョンを抱えている。車のボンネットに凭れかかるその横で白いワンピースを着た若いオモニが顔を綻ばせていた。写真に写る家族は幸せそうだが、アボジはこの車を運転していて死んだのだなとチョンは思った。

「チョンは日本に残るか……」

 チョンが立ち上がり、オモニの手から封筒を奪い取る。

「オモニ、一人にさせられへんがな。俺も帰るし、心配ないで、申請書出してくるわ」

 玄関を出たチョンの心中は複雑だった。


 チョン親子は一九六三年、十月十八日、第百十一次帰国船に乗り込むべく、五日前に住み慣れた大阪を後にし、新潟、帰国者臨時宿泊施設へと向かった。

新潟駅に降り立った親子は、その他大勢の帰国者たちと共に専用バスで、臨時宿泊施設へと移動する。バスの中では、各地から集った同胞たちが民族差別と貧困をまるで自慢話でもするように競い合っていた。誰もが帰国に胸を膨らませているその光景は華やかだった。

 しかし、到着した有刺鉄線を張り巡らせた広大な敷地に何棟も並ぶ平屋の建物は宿泊施設というよりも収容所にしか見えない。

 先ほどまで、華やいでいたバスの中は一転して、静まり返っていた。

 一度、中に入ると外出は一切認められなく、時間が経つにつれ、帰国者の気持ちが落ちこんでいくのが分かった。

 二日目の夜、若い女が有刺鉄線を飛び越え脱走したとの情報が施設内で噂になると、年老いた帰国希望者はともかく、チョンのような若者は脱走の二文字に浮き足だっていた。

「チョン、よかったんか……」

 隣で眠るオモニが呟いた。

「あぁ、今さら何言うてるんや」

 チョンが言うとオモニが背中を向けた。

 目を閉じると送別会の日、電信柱の街灯の下で、自分の胸に顔を埋めた髪を解いたスンジャが浮かんだ。

 寝付けず、窓の外を見ると、暗がりの中を有刺鉄線に向かう人影があった。

 公民館のような部屋の中には雑魚寝する帰国者の重苦しい寝息が充満していた。

 眠ろうと目を閉じるが、寝付けない。オモニの背中を見る。小さな寝息が聞こえる。胸の鼓動が高鳴る。

 窓の外の人影が有刺鉄線を乗り越えているところだった。

「オモニ……」

 声をかけてみたが、寝息が聞こえるだけだった。

 チョンは布団を抜け出すと、オモニの背中が動くのが見えた。

 身を潜め、外に出て広大な敷地を駆け出した。

 宿泊施設に着いたときから、楽園への帰国ではないと感じていた。しかし、オモニを納得させることなど出来るはずはなく、自分を誤魔化していた。今、抜け出さないと明日には帰国船に乗り込まなければならない。

 身を低くして有刺鉄線に近づく。有刺鉄線を握り上り始めるが鉄線が掌に刺さる。

 上着を脱ぎ、両袖を引き千切ると両手に巻きつけた。有刺鉄線を上る。足音が聞えた。

「こらぁー! 降りろ」

 監視員の声が静かな敷地に鳴り響く。

 チョンはオモニの眠る平屋を見て、溢れる涙を腕で拭い去った。

「やーっ」

 オモニへの思いを断ち切るように叫び、敷地の外へと飛び降りる。もう一度、振り返り、ズボンに付いた枯れ草を両手で払い、一目散に駆け出した。

 追っ手はやってこなかった。脱走者が出るのも分かってのことだろう。

 月が雲に隠れると、チョンは瞬く間に闇と同化していった。

 眠っているはずのオモニが寝返りを打つ。閉じた瞳が涙で濡れていた。小さく叫んだチョンの叫び声が届いていた。

 

翌日、チョンは帰国船を見送る人混みに紛れていた。甲板でチマチョゴリを着たオモニが自分の姿を探しているように思った。船上から陸へと色とりどりの紙テープが投げられていた。タラップが外され、船が港を離れて行く。紙テープが伸びる。オモニの姿を探してみたがうまく見つけだせなかった。埠頭でブラスバンドが演奏する蛍の光は歓声と熱気とは裏腹に静かに流れていた。汽笛と共に船が離れていくと紙テープが、一本、一本と途切れては波間に漂っていた。

 人混みが消えてもチョンはただ一人、沖を見つめていた。


 チョンは大阪に戻ったが、汽車賃で所持金がなくなっていた。

 ヨンスの家に向かうとホルモン屋の店には入らず、路地を進み、自宅になっている裏口へと忍び込む。路地の途中に厨房があり、ヨンスのオモニが白い割烹着を着て仕込みをしていた。大きな換気扇が轟音を立て煙を吐き出していた。窓で気付かれないように身を屈める。厨房をやり過ごし、ヨンスの部屋の扉を叩いたが反応がなかった。忍び込み、ヨンスの帰りを待っているうち、いつの間にか眠りに落ちていた。


 チョンはトンネルで蛇行する行列の中の一人として、暗闇を彷徨っていた。人々は白い歯をむき出しているので笑顔なのだろう。行き先が見えない不安はないのだろうか、歓声をあげ、踊っている。人波はグングン奥へと進んでいく。先を行く人ごみにオモニの姿が見え隠れする。見失うまいと、飛び跳ねながら後に続く。足元がぬかるむ。オモニが振り向き手招きをしていた。その顔は悲しげな笑顔だった。チョンには行列の行き先が分からなかった。何処から来たのかさえも、後ろを振り返り佇むと後ろから押された。視線を戻すとオモニの姿を見失っていた。一歩後退すると、体重の圧し掛かった右足がヌルヌルと地面に潜り込み、もがけば、もがくほどそれは優しくも激しく、チョンの身体を締め付けた。

 チョンは目覚めると唸り声を上げた。

 向こうで忙しく、接客をする声が聞えていた。目覚まし時計を見ると六時だった。

 ホルモン屋が開店しているのだ。肉の焼ける匂いでお腹が鳴った。ろくに食べ物を口にしていなかったが空腹にさえ気付かなかった。

「二番テーブル、テッチャン二人前、追加!」

 ヨンスの注文を通す声が腹に響いた。タレの焼ける匂いが鼻腔を擽り、脳に伝達され、映像に変換される。空腹を紛らわそうと凹んだ腹に枕を押し当てる。淀みなく溢れる生唾を飲み込む。生唾が空っぽの胃の中を回る。

 我慢の出来なくなったチョンは部屋を抜け出し、土間の通路を歩き、厨房へと向かう。ヨンスの家は勝手知ったる我が家も同然だ。店内に満ちた活気のある声が大きくなる。

 調理台の上にはタレに塗れたホルモンが皿に盛り付けされている。シッポ汁の入った丼鉢の横のお盆にソフトボールほどの大きさの黒い塊が十個あった。ご飯に焼肉のタレを絡め、細かく刻んだネギを混ぜ込み、ごま油の香りのする海苔で包み込む。その大きさと見た目から、みんなは爆弾おにぎりと言い、従業員の賄いの食事としても人気があった。

 従業員は女の子が二人と男の子が一人、ヨンスと頑固そうな四角い顔をしたヨンスのアボジがいて、ヨンスのオモニが指示を出していた。女の子が客席に料理を運んでいた。男の子はアボジの補助といったところだ。ヨンスは客席に注文をとりに行っては、厨房に通す。

 チョンが調理台の下に潜り込み、上に乗ったおにぎりに手を伸ばす。

「バーン!」

 その声にチョンの動きが止まる。

「爆弾やで」

 後ろを振り返り、見上げるとヨンスが笑っていた。

「食べたら、皿洗い手伝(てつど)うてや」

 手鍋から丼鉢にスープを移しながら、ヨンスのオモニが言った。

 チョンが頷き、おにぎりに齧り付く。

 チョンが夢の中で暗がりの中を彷徨っていた時、ヨンスは一度部屋に戻っていたのだ。チョンの姿に驚き、何度も揺り起こしたが、チョンは全く動じず、鼾をかいていたので、そのまま寝かせておいたのだ。

 客が引け、片付けが済むとヨンスと彼の両親とテーブルに着いた。

 チョンは宿泊施設が捕虜収容所のようであったこと、自分のような脱走者がいることを話した。

 ヨンスのアボジは時折、相づちを打つだけで、無口で言葉数の少ない人だった。

「そうか……、それにしてもや、これからどうするかやな、しばらくはヨンスの部屋で一緒に寝るとして、そのうちあんたのオモニから連絡あるやろしな」

 そういうヨンスのオモニの横でアボジは黙って頷いているだけだった。

「今日はもう遅いよって、みんなで風呂いっといで、チョンの着替えはヨンスの貸したり、これからのことはゆっくり考えなしゃーない」

 銭湯から帰ると、ヨンスの部屋に布団を並べて敷いた。路地でコオロギが鳴いていた。時折、国道を走るトラックの音が聞えた。

「ヨンスのアボジは優しいてええな」

「そやろかな、何も言わんけど、何考えてるか分からんわ」

「アボジは居らんより、居るほうがええやん」

「そんなもんかな」

「そんなもんや」

 チョンがヨンスを見ると、天井に点るレフ球を見つめていた。

 雨が窓ガラスを叩き始めていた。


「おい、チョン起きろ!」

 ヨンスがチョンを揺り起こす。

「あぁー、ふぅあー」

「チョン、十一時にクジラ公園に行ってくれ」

 いつもみんなで遊んでいた、神社横の公園だ。公園の中央にクジラを形どったコンクリートで出来た滑り台があるので、みんながそう呼ぶようになっていた。

「とにかく顔洗ろうて、早よ行ってくれ、俺も後で行くから」

「一緒に行ったらええやんけ」

「俺はオモニと仕入れがあるんや。仕入れ済ませたら、すぐに行くから」

 ヨンスのオモニの声がする。

「ヨンス、何してるんや? 早よ出るで、アボジも片付けしといてや。今日は団体さんの予約入ってるんやからな」

 顔を洗いチョンが外に出ると、所々、水たまりはあるものの、明け方まで降っていた雨は上がっていた。陽射しが眩しかった。

 公園に辿り着いたチョンは、塀ブロックに片手をついて飛び越えた。

 公園の反対側のベンチに腰を下ろすスンジャを見つけると、チョンは右手を上げた。

 スンジャが立ち上がる。驚きのあまり手にしていたハンカチを落とす。

 チョンが小鼻を掻きながら近づく。

 暖かい風が木々の葉をざわつかせていた。

 チョンがハンカチを拾い手渡すと、スンジャの顔が明るくなる。

「よっ!」

「今朝、ヨンスから聞いたんだけど、本当だったんだ、チョン……」

 震える声で言うスンジャの瞳が潤んでいた。


 その日は、暖簾を出す前から店先に列を作る客が、開店と同時に店内に流れ込んで来てた。おまけに接客係の女の子が一人休んでいた。

「チョン、今日はホールに回って」

 いつもなら、調理補助をしているチョンにヨンスのオモニが言った。

 四人掛けのテーブル席が四つずつ平行に並べられている。 テーブルの上に置かれたカンテキの中に赤く焼けた炭が、網の上のホルモンを燻していた。

「いらっしゃい!」

 ヨンスの元気な声が店内に響き渡っていた。

「おーい! 兄ちゃん瓶ビール」

 客の声にヨンスが反応する。

「二番テーブルさん。瓶ビール一本!」

 チョンが汗をかいた瓶ビールを手に厨房から出て来て、二番テーブルに向かう。

 コップを口に運んでいた男が、チョンを見て目を剥いた。

「チョン! お前、北朝鮮に帰っとらんのか? オモニもまだ日本におるのか?」

 男はオモニが勤めていた縫製工場の金山だ。

 チョンは瓶ビールを叩きつけるようにテーブルの上に置き立ち去ろうとする。

「おいどっちや」

 金山がチョンの腕を取る。チョンがその手を振り解こうとする。

「こらっ、金山さんが聞いてるやろ。答えんかぁー。さんざん金山さんに世話になったくせに」

 金山の横に座る男がチョンを睨みつけていた。

 異変に気付いたヨンスが様子を窺いに来る。

「どうしたチョン」

「いいや、何もない。すみません」

 チョンが言うが、男の怒りは収まらない。

「このガキが生意気なんや!」

 男の怒鳴り声に店内の和やかな雰囲気が気まずくなった。

 厨房からヨンスのアボジが出て来て、平謝りしていた。

「すいません。まだ慣れてないもんで」

「大体、このガキのオカンが金山さんにちょっかいかけるから、金山さんも迷惑しとるのに、親も親なら子も子や。お前もどんな教育さらしとるじゃ!」

「ほんまに申し訳ありまへん」

 ヨンスの父親は男に言い、チョンを見る。

「チョン、ここはええから中に入っとき」

「待たんかい! そのガキ、金山さんに謝らせんかい」

「まだ、こどもなんで許してやってください」

 いつの間にかヨンスのオモニも横にいて一緒に謝っていた。

「お前ら謝り方も知らんのか、土下座せんかい、土下座!」

 男の言葉にヨンスのオモニが豹変する。

「おとなしい話してたら、何やのん。金山のおっさんも黙っとらんで何とか言うたらどないや、あんたがチョンのオモニにちょっかいかけたんやろうが、みんな知ってて知らん顔してるの分からんのかいな、このスケベジィィが」

「こらオバハン誰に向かって言うとるんじゃ!」

 金山の横の男が立ち上がり、ヨンスのオモニを突き飛ばした。

 ヨンスのアボジが男の前に立ちはだかるその間に割って入ったチョンがビール瓶で男の顔面を殴打した。

「おっさん何するんじゃ!」

 満員の客の視線がそのテーブル席に注がれ、金山はバツが悪そうに口をへの字に曲げていた。

「帰るぞ……」

 金山が席を立つと連れたちがそれにならった。

「あっいたたた……、帰るんやったら金払ろていかんかいな」

 ヨンスの母親が立ち上がりながら言うと、金山がテーブルの上に一万円札を投げつけた。

「釣りはいらん」

 客の誰かが通報したのか、小太りと背の高い警官が二人店内に入ってきた。

 小太りが言う。

「喧嘩だと通報があったのですが」

 背の高い警官が、チョンに殴られて顔を腫らした男を見た。

「殴られたんですか?」

「いや、何もあらへん」

 男に代わり、金山が言った。これ以上、自分の悪口を言われるのが嫌なのだろう。

「いや、ちょっと口喧嘩になっただけですわ。酒の席のことやから、ようあることですわ」

 ヨンスのアボジが言うと、警官たちは敬礼した。

「くれぐれも気をつけて、それでは失礼いたします」

 チョンが、腰を押えるヨンスの母親に近づく。

「オモニ、ごめんな……」

 チョンもヨンスのオモニをそう呼ぶようになっていた。

「何もあんたが謝ることあらへんがな、あのスケベジジィが悪いんやがな、さぁーややこしいの帰ったから、商売、商売」

 ヨンスのオモニは客席を見回し続ける。

「みんなすんまへんでしたな、ヨンス、みんなにビール一本づつサービスしてんか、ほんま騒がしいことですんまへん」

 しばらくすると、店内は再び活気を取り戻していた。


 チョンは昼間神社に足を運ぶと老人が竹箒で境内の掃除をしていた。ヨンスの店でバイトを始めてしばらく老人と会うことがなかった。

「じっちゃん」

「おっ、ボウズか久しぶりじゃな、どうしてた?」

 チョンはオモニと一緒に帰国することになっていたことと、宿泊施設を脱走してきたことをかいつまんで話した。

「オモニを、見捨てて、俺は良かったんかな」

「ん、後悔しておるか」

「わからへんねん」

「そうか、馬鹿な子どもを持つと、親は辛いもんじゃ、しかし、馬鹿な子ほど可愛いもんはない。お前の母親もそう思っているかも知れん。その北朝鮮という国がどんなとこかは知らんが、お前はここが良かったんじゃろ」

「うん……」

「物事というものは悪く考えると悪くなるが、良く考えると良くなるものじゃとワシは思う。よく考えて悩むのもよかろう。しかし、後悔のないように動かねばな」

「うん」

 木々の間から公園の方向を見ると、スンジャの姿が見えた。

「じっちゃん、ありがとう」

「いつでも、遊びに来い」

「スンジャ!」

 スンジャが手を振っていた。

「チョン、大丈夫?」

「何が?」

「何か喧嘩して警察が来たって、傷害事件で逮捕されるかもって」

「そんなアホなことないわ」

「だって、ビール瓶でボコボコに相手殴ったって」

「相手が先にヨンスのオモニ突き飛ばしよったんや」

「逮捕されんのん?」

「されるわけないがな、もう仕込みの手伝いせんと」

 公園を出て、横断歩道を渡り、十メートルほど進み橋の上でチョンは欄干に凭れかかる。

 スンジャもそれにならう。

 チョンが静かに流れるどぶ川を見ながら呟く。

「何や分からんようになってしもたわ……」

 スンジャがチョンの顔を覗く。

「どうしたん?」

「うん。俺、オモニと北朝鮮に帰った方が良かったんかな……」

「何で?」

「何でって、親不幸なんかなって、それに自分が朝鮮人やいうのはよう分かってるけど、意識したことない言うたら嘘なるけどな、日本学校で、チョンコ言われて差別されたこともあるけど、そんな奴らも喧嘩したら、次の日から友達なってたし、それが朝鮮学校来たら、民族意識の強い奴ばっかりやんけ、びっくりしてもたわ。そんなんはどうでもええんやけどな、俺はオモニ一人守ってやれへんかったやん。今からでも、北朝鮮帰った方がええんかなと思う時あるねん」

「わたしなチョンが新潟に行った時、何もする気がせえへんかったわ。わたしも北朝鮮に帰ろうかなって思たし、でもそんな勇気あらへんし……、朝高で三年間一緒にいてて、チョンの言うことも何となく分かる気がしてきて、もっとチョンのこと知りたいって思ってんねんで」

 チョンの手の甲に乗せたスンジャの手が震えていた。

「チョン、いつか言うてたやん。人間は弱いから誰かに寄りかかって生きてるんやって」

「そやな、せやけど、押付けはアカンで」

 チョンがスンジャを見て言う。

「うん。でもわたしはもっとチョンの側にいたい」

 スンジャはチョンの肩に頭を乗せ続ける。

「これって、押付け?」

 チョンが首を横に振り笑っていた。

                     了

       

 

 

  参考文献

    著者 チョン・ヘキ  訳者 チョン・イグ

      「帰国船」北朝鮮 凍土への旅立 文春文庫 一九九七年


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