わたしはボロット - 短編か連載かで悩む
「泰香、起きなさい」
どこか遠くの方から呼ぶ声がした。
泰香は目を開いた。自分の顔の真っ正面、約六十センチ位離れたところから、卑猥な笑みを浮かべた赤ら顔の男が自分を覗き込んでいる。
泰香は、はっとして起き上がろうとした。体が動かせなかった。手も脚も動かすことができなかった。顔を左右に動かすこともできなかった。このままでは眼前に迫りくる男に食べられてしまう。
泰香の身体は、その身体にぴったり密着した発泡スチロールの保護材に包まれていて、顔だけが外に出ていた。もぞもぞと体を動かすと、生暖かくて少しくすぐったい発泡スチロールの感触が泰香の身体を刺激した。だんだん目が覚めてきた。男は泰香の身体を覆っていた保護材を外した。
泰香は手と脚が動かせるようになったので上半身を起こした。大きな段ボール箱に入れられていた。泰香は段ボール箱の淵に手をかけて、そこから出ようとした。その時、自分が何も身に付けていない事に気づいた。卑猥な笑みを浮かべた赤ら顔の男の視線が泰香の全身を舐め回した。
「嫌」
小さな声で言った。なぜだか分からないが恥ずかしいという気持ちは起きなかった。
その時、電脳世界のどこか遠いところにある雲の塊のようなものと泰香の頭脳の片隅にある通信装置が繋がった。雲の塊から種々雑多な情報、役に立つものものあれば、当面必要になりそうもないものまで、が大量に送られてきた。どうやら先ほど泰香が小声で発した言葉が、電脳世界と繋がる呪文のようであった。
その雲の塊から送られて来た情報によると、泰香は箱から出て目の前にいる男に挨拶しなければならなかった。泰香はその情報、コマンドと呼ばれる一連の手続きを解釈し、その通りに行動した。
泰香は、箱から出て、男の前に立った。そして雲の塊から送られて来た情報の通りに音声を発した。
「ご主人様、こんばんわ。わたくしを再びご用命いただきありがとうございます。これからわたくしがご主人様のお世話をいたします。なんでもお言いつけになってくださいませ」
男は言った。
「泰香、どうでもいいが、まず服を着なさい」
泰香は男の言ったことを解釈しようとした。泰香の解釈装置の能力は旧式のものらしく、人間と対等の会話をするには十分ではなかった。
〈どう、でも、いい〉?
「ご主人様、服を着るのが、どうでもいいのでしょうか? それとも泰香が、どうでもいいのでしょうか?」
雲の塊からは、服を着るまでの一連の手順と必要な情報は送られて来ていた。泰香はそれに従って、服のある引き出しの所に行って、下着、寝間着の順にご主人様にどれがよろしいでしょうかと尋ね、それを衣装棚から探し出し、取り出し、自分の身に着けるだけであった。もちろん一連の手続きの途中途中に、やはりあっちの方が良い、こっちの方が良いだのというご主人様の嗜好の変化に対応するとか、ご主人様が着せつけたいと言えばそれに対応して泰香の身体を委ねるだのといった、複数の状況変化に対応できる手順と情報も送られて来ていた。
しかし、泰香はその入り口に辿り着けなかった。〈どう、でも、いい〉。この言葉の解釈につまずき、前に進まなくなったのだ。泰香は自分の頭脳に埋め込まれている解釈装置を最大限に稼働させて〈どう、でも、いい〉を解釈した。その結果、自分は服を着なくても良いのだと結論付けた。泰香は、自分の頭脳から服を着るという一連の手順と情報を消し去った。
「そうではない、その格好が目の毒だと言っているのだ。とにかく早く服を着なさい」
今度は〈目の毒〉に引っかかった。
「毒。ご主人様の目に毒が入ったのですか。それは大変です。すぐに手当てをなさらないと」
電脳世界の遠いところにある雲の塊から、新たに目に入った毒を洗い流すための一連の手順と情報が慌ただしく送られて来た。
「泰香、そうではない。早く服を着なさい」
再び泰香は電脳世界に問い合わせた。雲の塊から服を着る手順と情報が送られて来た。一度消去したので、先ほどとは異なる内容が新たに生成されて送られて来た。おまけにその手順と情報はあちこち省略されていた。
「はい、ご主人様」
泰香はそう返事をすると、衣装棚からバスタオルを取り出して、身体に巻き付けた。
ご主人様と呼ばれた男は呟いた。
「こりゃ駄目だ。返品しよう」
〈返品〉。その言葉を聞いた途端、泰香の目の前は真っ暗になり、意識が遠のいて行った。
———
泰香は風呂上りのバスタオル一枚の格好で、ソファに横になって眠っていた。バスタオルは今にもずり落ちそうで、おっぱいがぽろっと見えていた。読みかけの文芸雑誌の新年特集号が床に落ちていた。