《中編》
「ここがミリーの家か……。」
マックスは少し離れた場所で一人佇み、ミリーの家である『アリシア』と店名が書かれた看板を掲げたパン屋はここなのだと確認する様に眺めていた。
折角来たのだからとミリーの事を知りたいという思いから本当は何か買って帰るつもりであったのだが、既に閉店時間を過ぎていたのと親友にネクタリンだと揶揄されるほどに娘にベッタリの父親なのだとミリーに聞き、ミリー自身が二人でいる所を見られてはダメだと止めるのもあってマックスは中へと入らずに別れた。
「もう二度と会うことは無いかもしれない。ミリーの幸せを願うならもう二度と………。」
「マクシミリアン様。そろそろ……。」
一時とも言える短い幸せの時間に後ろ髪をひかれ、それを棄てなければならないという事で哀愁に暮れていると、マックスの護衛として付いて来ていた男がそっと背後へと近づき、マックスの事を違う名前で呼んで耳打ちをした。
「あぁ、そうだな……。もう戻らなくてはならないな……。」
マックスことマクシミリアンは一つの恋に別れを告げ、大切な思い出としてミリーのことを胸の奥底に抱き、本来あるべき姿へと戻る為に日常へと帰っていった。
一方その頃、家へと帰ったミリーは用事で出かけたままトーマスがまだ帰っていないことにホッと胸を撫で下ろし、自室のベッドに顔を埋めてボロボロと止めどなく流れる涙と嗚咽を吐き出した。
「マックス様……。」
名を呼べばあの優しい笑みを湛えたキレイな顔を思い出し、自らの手に残るマックスがキスをした場所にミリーは頬擦りをした。
「この想いを…、マックス様を忘れられるかしら………。忘れて結婚なんて……あぁ、できるわけが無いわ………。あの方は特別だった。あの方以外となんて……でも………。」
涙と溜め息で、ミリーは騒がしく暴れる自分の恋心を誰にも見つからぬ内にと精一杯慰めた。
そうして数週間が経ち、日常の忙しさから少しだけマックスのことを「思い出」として受け入れることができそうになり始め、落ち着いた気持ちで明日を見るミリーがそこにいた。
「ありがとうございました~!」
「何があったか知らないが、最近元気がなかった様子だったのに元気が出てきた様だな……。」
元気な声で店から帰る客を笑顔で見送る娘のミリーの後姿を店奥の焼き窯部屋の窓から見て、トーマスは安心感から呟いた。
「えっ? 何か言った? 父さん。」
「いや……。ミリー、今日は教会へ行く前にオルコット婆さんの家に寄ってくれないか?」
トーマスが常連客であるオルコット婆さんの家に行ってくれだなんて、珍しい事を言うものだなとミリーは首を傾げた。
「なんでも足を怪我して動けないらしくって、今は買い物に来れないらしいんだ。」
「まぁ、大変!」
「歯が弱いあの婆さんはうちのパンなら柔らかくて食べれるからとすごく気に入ってくれていたからな。普段よく買ってくれるお礼にサービスで届けてやってくれ。」
「えぇ、それなら喜んで! 分かったわ。」
ミリーはいつも歩く道とは少し経路を変え、まずは少し離れた場所にあるオルコット婆さんの家へとパンを届けた。
「まぁ、まぁ、ま~ぁ! ありがとう。」
「何か私にできることは無い? 一人だと大変でしょう。」
「それはとっても助かるわ~。」
こんな状況で一人暮らしであるオルコット婆さんはさぞ大変だろうとミリーは手助けを申し出た。
何往復か井戸から水汲みをして家まで運び、軽く掃除をして綺麗にすると躓いて危なそうだと思った家具や薪の配置を少し変えて怪我をした足でも動きやすい様にと家の中を整えた。
「本当にありがとう……。ミリーは優しいのね。」
「そんなっ……。こんな時こそ助け合わなきゃね。じゃあ私、そろそろ孤児院にも配達に行かなきゃならないから。」
そう言ってオルコット婆さんの家を出ると、次はまた更に離れた孤児院へと向かった。
「こんにちは~!」
「あら、今日はいつもより少し遅いわね。」
何度も配達に来る中で仲良くなった同年代のシスターが、ミリーが来たのが分かると出入口のドアまで出迎えに走ってきた。
「配達する場所が一個増えちゃって……。オルコット婆さんがね、怪我をしたらしくってお見舞いもかねてうちのパンを届けに行っていたの。」
「えー!? 怪我の具合は? そんなに酷いの?」
シスターは心配そうにミリーに質問を投げかけた。
「ううん、そこまでじゃなったよ。ただ一、二週間は安静にしなきゃならないらしくって。」
「そう……。オルコットさんは一人暮らしだし……、もうだいぶお年を召してらっしゃるから何かと大変そうね。」
「そうね~。」
同年代の女の子とこうやって話をしているとミリーは心が安らいだ。
以前はここまで仲が良いって程でもなく、話をするのもそこそこだった。
だがマックスとの別れの数日後に配達で会った時にミリーが酷く暗い顔をしていたのを心配をされ、そこで話をしてからかなり打ち解けて急激に仲良くなった。
今日はお互いにそれほど用事も少なく、割と時間もあったことから長話に花が咲き、ついつい長く話し込んでしまった。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん。まだいいの?」
孤児院にいる小さな子供の一人がミリーのスカートの裾をクイックイッと引っ張り、夢中の糸を断ち切った。
「あらっ! もうこんな時間。そろそろ帰らないと……。」
「フフフッ…! ちょっと話をするのに夢中になり過ぎちゃったわね。でも、元気になった様で良かったわ……。」
「ごめんね、私に付き合わせちゃって……。」
ミリーはシスターに向かって両手を合わせて拝む様に謝ると、さっき裾を引っ張った小さな子供にも頭を撫でて「シスターを取っちゃって、ごめんね」と謝った。
「じゃあ、またね。」
ミリーが別れの言葉を告げると、シスターや何人かの子供たちが手を振って見送ってくれた。
「こんな時間になっちゃったけど……父さんが心配してないといいな。今はベアハルトさんも小母さんの命日で郷里まで出かけているし、私だけじゃ大変なんだよね~。」
流石に毎年とはいかないが、何年かに一度はお金が貯まると乗合馬車で十日はかかる妻の郷里へとベアハルトは妻と新婚の頃から恒例の様に出かけており、妻が無くなった今でもそれは継続しているのだった。
ミリーの母亡き今、ベアハルトだけが暴走したトーマスを止めれる存在であり、そのベアハルトが居ないとなるとミリーの気苦労も一入だった。
「もうすぐ私も成人して大人になって、その内に家も出ていくだろうに……。父さん、大丈夫かな? ベアハルトさんがいつも言う様に、子離れできるか心配だなぁ………。」
そんなことをぼやきながらそろそろ家だと曲がり角を曲がると……。
「な、に……これ………。」
あるはずの家はそこに存在せず、石造りが故に燃え残った一部の壁や窯で炭となって煙の立ち上る痕跡だけがそこに残っていた。
火が完全に消された火事の現場からはさっきまで集まっていたと思われるやじ馬がバラバラと消えてゆき、炭に埋もれた家の中からは人の形をした誰かが引っ張り出されていた。
「うそ……。と、う……さん………。」
あまりにもな衝撃的な光景にミリーはその場へとペタンとへたり込み、ただただ目の前で流れゆく光景をまるで水面に映る景色の様に見ていた。
陽が落ちて真っ暗になったかつて家であった場所に、周りに人が誰も居なくなるとそこへと帰った。
「私、これからどうすればいいの……。」
途方に暮れ、布が一枚かけられて表に置かれている父さんの死体をチラリと見てただただ何も考えることができなかった。
どこへ行くこともできず、どこかへ行くという発想も浮かばずに煙の匂いの中で壁にもたれて地面へ座り、一夜を過ごした。
眠れるわけもなく、頭の中が真っ白になったまま夜は明けた。
そこへ少し大柄な男がミリーの所へと近づいてきた。
「だ、誰っ!?」
いきなりの事で驚いたが、近づいてきた顔をよく見れば以前マックスの護衛としてついていたあの側仕えの男であった。
「あなたは……。」
「言葉を交わすのは初めてではありますが、お久しぶりでございます。ミリー嬢。」
「どうして……。」
ミリーはそこまで言ってハッとした。
「あの方は……いらっしゃるの?」
「いえ、私だけでございます。マクシミリアン……いえ、マックス様よりミリー嬢宛てに手紙を預かっております。これを…。」
そう言って差し出された封筒にはしっかりとした蝋封がされており、表にはミリーの名前が書かれてあった。
指先が疲れと寒さで震える中でゆっくりとその封を開けると、手紙の冒頭には気遣いと優しさ溢れる言葉が紡がれていた。
そしてミリーに何かあれば即時対応ができる様にと、この街に自分の目の代わりとなる側仕えを常に一人配置していたことと、ずっと覗き見ていたことへの謝罪が述べられていた。
「そこに書かれております通り、マックス様はあなた様を保護したいと申し出られております。失礼ですが……、頼る親戚などはいらっしゃいますか? こんな状態でこれから一人でやっていくというのも、なかなか難しいでしょうし……。それにあなたのご心配の種であった御父上が居なくなった今、マックス様の許へ行かれるのが一番の幸せかと思いますよ。」
そう言われてミリーはまずベアハルトの事が思い浮かんでいた。
昔からよくしてくれてはいたが、こんな状況で頼れば小母さんの事でだいぶ弱くなっている小父さんにこれ以上の負担をかけてしまうのではと躊躇われ、決意することにした。
「自分の幸せ、か……。そうね。」
なによりミリーにはもうこの場所に思い残すことは無く、この街に友達や知り合いは居てもただ一人の肉親であった父親がいなくなったので天涯孤独の身であり、新たな家族という居場所が欲しいと思ったのだ。
「さぁ、行きましょう。とある場所にてマックス様がお待ちです。」
早朝の人通りのまだ殆どない道を歩き、街の出入りを管理している門番の所まで行くと、何やら側仕えの男がゴソゴソと何かを見せて小声で話をしていた。
しかし疑問に思えども今は心にそんな余裕もなく、聞いてはいけないことかもしれないという思いも相まってミリーは何も見なかったことにした。
街の外までくると木陰に隠れる様にして小型の幌馬車が置いてあり、側仕えの男に言われるがままその中へと乗り込んだ。
「申し訳ございません、ミリー嬢。この様な馬車となってしまって……。急での事でしたのですぐに用意できるのがこれしかなく……。」
「えっ? そんなっ! 何も謝る事なんて…。充分立派な幌馬車ですよ。」
何を謝ることがあるのだろうと、両手を目の前で振って否定した。
「…そういえば! あなたのお名前は? 聞いてなかったわね。教えて。」
「私は……、ディック。マックス様にはそう呼ばれています。」
「ディック、ね。マックス様が待っていらっしゃるのはここから遠い所なの?」
私は気分を変えようとも思い、何処へ行こうとしているのかを尋ねた。
「そうですね~ぇ………少々距離はありますがすごく遠いという程では……。ミリー嬢もお疲れでしょう。こんな所では無理かもしれませんが、少しお休みになられてはいかがですか? 一日がかりではありますが、眠っている間に着いていると思いますよ。」
「そう?」
「はい。」
ミリーの返しに優しく答えると、ディックと名乗った側仕えの男は体を冷やさぬ様にと横になったミリーの上へと自らが着ていたマントをかけた。
「おやすみなさい、ミリー嬢。」
ミリーが幌馬車の中で寝ている間にグングンと馬は走り、空が再び闇に包まれる時間になると漸く目的地へと着いたのだった。
「ミリー嬢、ミリー嬢。起きてください。」
ディックに揺り起こされて目を開けると、ミリーの目には真っ暗な中に大きなお屋敷が建っているのが見えた。
「ここは……?」
「この奥にマックス様がおられるかと思います。」
中に通されて入っていくと、シンプルな中にいかにもと高そうな燭台や花瓶が廊下に点在していた。
ここに着いたのが夜という事もあって火が灯されていても薄暗い廊下で何かに躓いたりして壊してはしまわないかと冷や冷やしながら火の点いた燭台を持つディックの後ろを歩いた。
「さぁ、こちらです。」
そう言われてドアをノックするも中から返答があったのに緊張してすぐに開くことはできず、ミリーは生唾をゴクリと飲んだ。
そうして勢いよく開け放ったドアの向こうには待ち望んだマックスの姿があった。
「ミリー!」
「マックス~!」
互いに名前を呼び合い、存在を確かめる様に抱き合った。
「あぁ、ミリー大丈夫かい? 君の家が火事になったと聞いて、私は居ても立っても居られなかったよ。」
「大丈夫よ、マックス。私は家が燃えている時には孤児院に居たから一切巻き込まれても居ないの。父さんは死んじゃったし、私の家も思い出の物も何もかもが燃えちゃったけど……。」
「うん……。代わりに新しい思い出をこれから先ずっと私と一緒に作っていこう。私と共に来てくれるね?」
その言葉に打ち震え、ミリーは何処かホッとしたのもあってか口で返事をするより先に目から涙がツーっと頬を伝って流れ落ちてきた。
「えぇ…! えぇ……! ところで………マックスのその格好は一体……?」
「あぁ、ここへは急いで来たから仕事の時のままで………。ミリー、このタイミングでって思うかもしれないけど聞いてほしい。」
「えっ? 何?」
突然両手で肩を持ってミリーの体を引き剥がしたマックスはさっきまでの微笑みから一変して強張った表情になり、緊張感を周囲にまで漂わせながらミリーの耳にも聞こえそうなぐらい大きな音で心臓の鼓動を速くしていた。
「実は……、私の本当の名前はマクシミリアン。マクシミリアン・オブ・ランカスター。今はこの国の王をやっているんだ。」
突然の告白にミリーは………失神した。
一般庶民として生まれ育ってきたミリーには無理からぬことであった。
暫くして再び目を覚ますと、ミリーは片膝を付いてしゃがんだマクシミリアンの腕に抱きかかえられており、目線の先にはマクシミリアンの困ったという表情が見えた。
「ミリー……、突然驚かせてしまってすまない。」
「えっと……まって! 王様ってさっき言いましたよね?」
「はい……。一週間ほど前に先代の王であった父が崩御し、即位したばかりです。……と言っても、ミリーの住んでいた街には王都から少し遠いのもあって情報はまだいっていなかったと思いますが。」
マクシミリアンの言う通り、この国の王様が崩御したことも代替わりしたことも、街ではまだニュースになってはいなかった。
「あっ!」
王様だと言われてミリーは思い出したことがあった。
「マック……マクシミリアン様。」
「今まで通りマックスで結構ですよ。」
「あの……王太子であった数年前に既に他国から嫁いできた王女様と結婚し、もう何人か子供が居るんじゃありませんでしたっけ?」
「……ですね。政略結婚というものではありますが。」
その答えにミリーは動揺が隠せず、両手で自分の顔を覆った。
「マクシミリアン様が高貴な身分、しかもこの国の王だというのであれば私なんて無理だなと思っていましたが……、加えて既に結婚している相手もいて何人か子供もある身なれば尚更……。」
「正妃……というのは隣国との国際問題にも拘るので変えることもできずそれは申し訳ありませんが、私は『腹妃』を持てる身なのでそれでと……。私の母の実家であるロスシー侯爵家へお願いすれば養女へと入れてくださるでしょう。そしてそこから腹妃として城へと上がれば……一緒に居ることができます。大々的な式を挙げることもできず、正式な結婚というものではありませんが……。それでも私はっ…!!」
ミリーは少し躊躇った。
愛する人と一緒に入れることは嬉しいが、正式な結婚はできないという現実を突きつけられてこのまま歩みを進めて良いものかと迷い、立ち止まったのだ。
「もしそれが気になって私と婚姻の契りを結べないというのであれば仕方ないと諦めましょう……。だけれども、ミリーがこの先の未来を得る為にもロスシー侯爵家でお世話になるという事だけでも受け入れてください。私は頼れる家族の居なくなったミリーが将来、危険な目に遭う様な事だけはどうしても避けたいのです。どうかっ……!!」
マクシミリアンが心配することはもっともである。
この国では肉親や親戚の居ない者は信用性に欠けるのだとみなされ、まともに結婚もできないし良い仕事に就くことも難しいとされているからだ。
そうなると女の子は最終的に花街で売られる華へと身を落とすものが多く、また自身のその境遇を嘆いて年も若い内に自死を選ぶ者も少なくない。
「でも私……侯爵家でなんて大丈夫でしょうか? 庶民の、しかも田舎町の娘が……メイドとして侯爵家で働くのもあり得ない事なのに………。」
「ミリーが心配することは何もありませんよ。」
安心させようとしてなのか、マクシミリアンはいつもの様にニッコリと微笑みをミリーに向けた。
「先ほども言いましたがロスシー侯爵家は私の母の実家なのです。ですから王家にとって私が生まれる前から懇意にしている家であり、私自身も血の繋がった親戚の家なので仲も良く、無理も聞いてもらい易いんですよ。とても優しい方たちなので、ミリーがどういう結果を選ぶにせよ、娘の様に大切にしてくれるでしょう。城に上がるにしても二年近くは後になってしまうと思うので、ロスシー侯爵家に居る間にゆっくりと考えてください。」
マクシミリアンの話にミリーは不安がだいぶ小さくなっていった。
「私……いいんでしょうか?」
「いいのですよ。」
マクシミリアンはミリーの体を支えているのとは逆の手でミリーの手を取って握り、おでこにキスをした。