06 絶望戦域/楽園幻想:Ⅵ
「アメフット部のコーチ、転勤でいなくなっちゃったらしいぜ」
誰かがそんなことを言ったから、廊下で立ち止まった。
「ああ、あの爽やかな兄ちゃん。確かトニーさんだっけ?」
「そうそう。アメフット部の連中が嘆いてたよ。兄貴を失ったって」
「スポ魂ドラマみたいなノリだな。惜しい人を失くしたってか?」
「死んでねえよ。でもま、会えなきゃ似たようなもんか」
唇を噛んだ。
走る。走る。非常階段を駆け下りて、何度か誰かにぶつかって、それでも走って走って走って―――高く遠く、青空がにじんでいる。ベンチで息を切らせている。
「サボり、ですか?」
七井がそばに立っていた。ここ、緑地か。ビルの狭間のところの。
「……自主休講」
「またですか。付き合いますよ」
「……なんで?」
「私も自主休講なので。奇遇ですね」
隣に座られた。澄ました横顔だけれど、いかんせん、ムフウムフウと鼻息が荒すぎる。頬も赤い。重そうな革靴でよくぞ走ったもんだ。
「七井はいつもそばにいるなあ」
「いつもじゃないです」
「そりゃね。でも相棒の必要性を考えさせられる」
「え……」
「とりあえず、何か飲む?」
自販機でコーヒーと桃ネクターを買って、幸せそうなデザインの方を手渡した。
「お前、ホント、それ好きだね」
「ひと口飲みます?」
「ブラックコーヒーを手にした男に何言ってるんだか」
「先輩って、実は甘党だと思います」
「実はって何」
「眉間にシワが寄ります、コーヒーを飲む時に」
「え、マジか」
「この前の真っ赤なラーメンも、美味しそうには食べてませんでした」
悲しそうなくらいでした、なんて悲しそうに言われた。日の当たる膝があたたかく、桃ネクターの甘い匂いが漂っている。
「……お世話になった人が、超ブラックな職場から解放されたんだ。念願叶って」
「喜ばしいこと、ではないんですか」
「うん。次の職場が大丈夫なのかわからないし、急だったことも気になる」
「望んだ転職ではなかった?」
「そうだね。およそ望ましい形じゃなかった。頑張っていたけれど」
「……心配するあまり、先輩は走ったんですか?」
「それは……」
どうしてか言葉が出てこなかったから、口を閉じた。また開けて、また閉じた。
手の内の缶コーヒーをあっちへ傾けこっちへ傾け、終いには落とした。七井が拾ってくれたそれをすぐに受け取る。彼女のハンカチを汚すのでは申し訳ない。
ラベルには髭の男のシルエット。耐える者の表情だ。現実を戦う大人の顔つき。
「先輩?」
コートの袖で拭いて、プルトップに指をかける。ゆっくりと開封していく。
「……頑張っている人にはさ、報われてほしいって思うんだ」
徐々に覗けてくるのは、飲み口の暗黒の奥に揺れる、暗い暗い水面。苦い液体。
「どんな生まれ育ちだとか、過去にどんなことがあったとかじゃなくて……性別とか年齢でもなくて……今を頑張っている姿こそ評価してほしいんだよ。いつだって人生なんて準備不足で、誰だって一度ならず失敗するんだからさ」
黒さが波打って缶を叩く音。その感触。
「……生きている限り、幸せになろうとしたって、いいじゃないか」
プルトップが開き切って、じわりと届くビターな香り。
「そうじゃないと……救われないじゃないか」
口に含めば、苦い。深みがあって、複雑な要素の絡み合うような苦み。
「理不尽だ、こんなの」
吐き捨てるような勢いで飲み込んだ。えぐみを噛みつぶした。
「何かが……悔しい。ものすごく」
どうして走らずにはいられなかったのかは、よくわからない。ただ、トニーの話を耳にした時の、拳の痛みは憶えている。壁を殴りつけたくなった衝動も。
トニー兵長は個人戦績がよくなかった。マルレを降ろされたら、もう後は……。
「先輩は」
濃く、甘い香り。七井がジッと俺を見ている。近いな。吐息を浴びたのか。
「後悔してるんですか?」
「……何を?」
「私に話してくれない何かを。きっと先輩自身のことです」
「何で……どうして、そんな風に思うんだ?」
「逃げたからです。まるで追いかけられてるみたいに」
視界一杯に七井の顔。グラスグリーンの瞳に俺の間抜け面が映っている。
「逃げても逃げても追いかけてくるものを、私、知ってます。自分です。過去の自分自身。あの時こうしていればって思いを、人は振り切れない……」
七井は俺を見ているのだろうか。それとも俺の瞳に映る自分を見ているのか。
「今を頑張れば頑張るほど、『あの時』のことが気になって……もしもああしていればって、もっとこうしていればって、自分の失敗を許せなくて……やるせない。後悔ってそういうものだと思います」
後悔。俺の後悔が何かなんて考えるまでもない。ポータブルに向き合っている。そのくせ納得しきれない。それがつまりは、振り切れないということならば。
随分と高性能なミサイルだ、日本人だった頃の俺は。いずれ撃墜されるな。
「なるほどなあ」
立ち上がってコーヒーをあおった。もう随分と慣れ親しんだ苦み。暗がりに潜むような味わい深さと、陰から囁いてくるような香ばしさ。
今更なんだ。何もかもが手遅れで、どうしようもない。
「俺、トニーの境遇に自分を重ねていたんだな」
「その方が」
「うん。いい人だった。きっともう会えない。幸せであってくれればいい……本当にそう思っているけれど」
「わかってます。先輩はやさしいですから」
「……どうかなあ」
「私、人を見る目には自信があるんです」
「ほほう?」
「欲得ずくで近づいてくる人は、臭いんです。すぐわかります」
「犬か。っていうか目じゃないじゃん。鼻じゃん。嗅ぎ分けているじゃん」
「あ、少し元気出ましたね。良かったです」
「え、今の冗談……? 七井が……?」
「さあ、どうでしょう」
「とりあえずクンクンするのやめてもらっていい? 何か、恥ずかしい……」
七井が微笑んでいる。そんな彼女へミサイルを撃ち込んだことがある。敵中に置き去りにしたことも、巻き添えにしたこともある。
どうしようもなかったなんて勝手な言い訳だ。俺は、やさしくなんてない。
「……先輩がどんなつらい境遇にいるのか、私にはわかりません」
それはそうだ。こっちではあっちの記憶が封じられる。凄惨な現実を忘れ、平和な夢の中で―――この仮想現実世界で心憩わせるために。
「それでも、いつも苦しそうだってことはわかるんです。毎晩、ひとりで泣いてるんじゃないかって……心配してます」
俺は、ダメなんだ。俺だけは心底から楽しめない。
記憶封鎖を受け付けないイレギュラー……それが俺だから。
遺伝子の古さが原因らしいから、俺が俺である限りどうしようもない。それを誰かへ告げたところで、すぐにその記憶を封じられるだけだから意味もない。
軍は俺を監視している。いつも。こうしている今も。
「先輩の力になりたいんです、私」
ああ……綺麗だな。おずおずと俺の手を取った七井は、本当に美しい。
心から誰かのために行動する人は、こういう風なのかもしれない。何か尊い覚悟のようなものが、瞳を強く輝かせている。
やさしいな、お前は。
そのやさしさを、どうして俺なんかへ向けてくれるのかはわからないけれど。
「……ありがたいな」
まぶしさに目を細めた。だから、薄汚い俺でもそれなりに微笑めたはずだ。
現実もライトノベルのようならよかった。もしもそうなら、子どもの理屈で老人を翻弄し、単純な正義で複雑な不条理を打破し、ちゃっかり幸せになれたろう。
七井の手を握り返せなかった。
そんな無責任なことを、できるはずがなかった。
◆◆◆
<記憶コントロール……失敗……特例措置を確認。記憶バックアップ……成功>
電子音。鼻をつくオゾン臭。まぶたを貫く照明。尿道カテーテルの残痛。
<慰安プログラムを停止しました。コンディション良好。行動を開始しましょう>
プシュッと鳴って開いていく出入り口。まるでプルトップの開封だ。
素足で感じるポリプロピレンの床。
目覚める度に思う。色が乏しいと。総合保養システム付き兵員待機室、あるいは単に兵隊庫と呼ばれるここは全てが青灰色だ。睡眠カプセルが効率的に格納されている様子は蜂の巣のようでもある。
幼虫よろしく人間が起き上がってくる。皆、全裸だ。髪も体毛もなく適度に痩せている。無重力下の兵士として最適な状態に調整されている。
精神も、そうだ。
俺以外の誰もが、仮想現実世界での一週間を憶えていない。
こっちでもまた、あっちの記憶が封じられる。その非人道的な効率性。凄惨な現実を戦うためには、平和な夢の記憶など邪魔になるという判断。リラックスした結果だけがあればいいという理屈。
軽く跳び、手すりをつかんだ。無重力下、浮遊する身体を運んでいく。
前の男、後頭部に灰色のシールがある。戦死明けか。そこの女もあそこの男も。肉体を再製造され、記憶を複写された証。タグシール。剥がすのは士官の役割だ。
準備室前で美女と目が合った。碧眼がいたずらに細められた。まったくあなたという人は。軽く頷いて返す。声を発して懲罰を受けたくはない。
彼女の肩には下三桁が九〇八の数字が印字されている。
俺の肩には下三桁が八四六の数字が印字されている。
名前もなく、待機中には通称を呼び合う自由すらないんだからな。俺たちは。
全周囲ロッカールーム。分厚いタイツのようなアンダースーツを着込み、軽電磁吸着ブーツを履き、多機能ベストを羽織る。胸には准尉の階級章。青いライン。
自動改札にも似たゲートで装備チェックを受け、経口栄養剤を一粒受け取った。ほんのりと甘いこいつを口の中いっぱいに頬張ることは兵隊の夢のひとつだ。死に終わってもう再製造されないことも夢。老人をぶん殴ることも夢。
たくさんの素朴な夢……まるでゴミのような。
通路をくぐり抜けて、港湾区画へ。
遥かな高みには宇宙戦艦や宇宙巡洋艦、宇宙空母などのきらびやかな威容。遠目にも色鮮やかなカラーフィルムが舞っているとわかる。またパレードか。それとも舞踏会か式典か。どれも老人たちが好むものだ。
スペースオペラかSF戦記物か……何にせよ楽しく戦争をやっているのだろう。
俺たちはあんな風じゃない。
不格好な航宙機運用艦へ粛々と搭乗していく。いや、黙々と吸い込まれていく。強襲索敵艇を動かす部品として。
俺はライトノベルの主人公じゃない。
そもそもが、だ。
この時代の人間ですらないんだ。
平成から令和の日本、東京に生きていた。金欲しさに記憶と遺伝子情報を政府へ売った。それがご丁寧にも保管されていて……三百年もの時を越えて……埃をかぶったようなデータから製造されたクローン人間だ。
幸せになれるはずだった。
母さんは手術を受けられるし、妹は高校へ通えるし、俺は参考書を買えるはずだった。借金のことであくせくせず、新しい生活ができるはずだったんだ。
目が覚めたら三世紀も未来だなんて、誰が想像できる?
しかも人権がない。自由はおろか名前すらない兵士だ。軍籍番号CS五二九八〇八四六番のクローン人間兵士だ。肩書きは、人類総軍六分儀座方面軍パラゼンナ宇宙要塞駐留艦隊戦術機動軍団所属、第二師団、第七斥候大隊、第一中隊、第二小隊第二分隊隊長の斥候准尉だ。
やさしい矢城先輩なんかじゃない。
希望のエースなんてものでもない。
夢も希望もなく、ただの無力な雑兵として使い捨てられるしかない……五年も戦い続ければいい加減身に沁みているというのに……何でだろうな、ナナイ。
今、無性にお前の顔が見たいよ。声も聞きたい。
DeFAと戦う時にしか、それも叶わない俺たちだけれど……都合のいい夢の中じゃなく、このクソッタレな現実で、俺はお前に会いたいんだ。
たとえ、すぐにまた、死に別れることになるのだとしても。




