少年は笑う
目の前に広がっているのは真っ白な空間だった。
見渡す限り白一色。家具らしいものもなければ、窓すらもないただの白い空間。
マンションの一室とは思えないほどの広さを持つその部屋の中に、座り込んだ状態でこちらを見ている少年が一人いた。
真一が歩みを進めると、部屋の中には鎧がこすれる金属音だけが響いている。雑音が一切ないためか、真一の出す金属音が妙に大きく聞こえたのは気のせいではないだろう。
座った状態の少年は怪訝な表情をしている。真一のことを一体誰だろうかと疑問に抱いているのだろう。
『オルビア、あれが・・・』
『はい、あの方こそ、私のかつての主、五十嵐静希様です』
五十嵐静希。能力者の中で語り継がれる英雄。世界を何度となく救い、オルビアのかつての主で、真一が今持っている霊装『歪む切札』の製作者。
目の前にいる少年が立ち上がり、こちらを怪訝な表情で観察し続けている。年齢は真一と同じ十六歳。こうしてみると普通の少年のように見える。
黒い髪にわずかに吊り上がった目、筋肉が程よくついたその体。身長自体もほんの少し真一よりも高いだろう。
今真一が学校であっている友人たちと同じような印象しか持てなかった。
『マスター、どのようにいたしますか?』
『・・・とりあえずやりたいことは決まってる。まずは挨拶だろ』
金属の鎧を纏った状態で真一は五十嵐静希の目の前までやってくると、ゆっくりと右手を差し出した。
言葉による伝達ができなくても、行動によって伝達することはできる。握手を求められていると知ったのか、五十嵐静希は恐る恐るその手を取ってぎこちない握手をした。
『マスター、ここでは話をすることはできませんが、技術を見せ合うことくらいはできます。マスターの努力を、静希様に見せてあげてください』
『自分の教えを自慢したいってか?オッケー。任せとけ。英雄様に挑戦してやろうじゃないか』
まだこの当時、五十嵐静希は世界を救っていない、ただの能力者だったのだが、真一はそんなことは知らない。
真一にとって五十嵐静希は誰からも聞いてきた英雄なのだ。目の前の少年が、自分と同じ年だろうと、やはり自分とは違う、どこか格上の人間として見ているのだ。
真一は手を放し、ゆっくりと後退すると、いつもそうしているように一礼する。
よろしくお願いします。
声を出したいところだったが、ここで声を出すとどうなるかわからないため、真一は頭を下げるだけにとどめた。
『それじゃあ行くぞ、オルビア!』
『はい、行きましょう!』
トランプからオルビアを引き抜くと、対峙している五十嵐静希は驚愕の表情を作った。
オルビアを見て驚いたのだろう。そして真一が自分自身とどのような関係にあるのかをおおよそ理解したのか、目を細めて真一を観察していく。
五十嵐静希は必ず剣を抜く。そう、真一もよく知る、真一が唯一もっている剣と同じ剣を。
それがわかっているからこそ真一は待った。いきなりこちらだけ情報を押し付けてしまったのだから動揺が収まる前に突っかけたりはしない。
そして五十嵐静希も真一のその素振りに納得したのか、一礼してから懐に手を入れ、その剣を取り出した。
真一が持つ剣と全く同じ。霊装『オルビア』
世界で唯一意志を持った、生きた霊装。その主として、五十嵐静希は真一と向かい合ってくれている。
剣を正眼に構えたオーソドックスな構えだ。真一の構えとは全く違う。教えた人物が異なるとここまで違うものかと真一はわずかに姿勢を低くする。
右手で持った剣を隠すように体の後ろに、突撃できるような前傾姿勢をとった真一に対して、五十嵐静希はわずかに腰を落としているだけで、ほぼ正眼に剣を構えている。同じ剣を持つものでありながら全く違う構え。
だが真一は五十嵐静稀のその構えをよく知っていた。
オルビアの構えに似ている。毎日手合わせをしている真一がそう思ってしまったのも無理はない。
何せ真一がそうであったように、五十嵐静希もまたオルビアと毎日のように剣の訓練をしていたのだから。
真一の手に収まっているオルビアがわずかに震える。早くかつての主と触れ合いたいと思っているのだろう、その気持ちがあふれてくる。
真一も、これほど震えたことはない。武者震いというやつだが、これほど心が躍ったことはない。
今までのどの訓練よりも、どの戦いよりも楽しみだった。
自分の中でカウントダウンをしてから、真一は一気に駆け出し、五十嵐静希めがけて襲い掛かる。
全力で襲い掛かる真一に対して、五十嵐静希は動かない。まっすぐとこちらを観察している。
真一はまず小手調べと言わんばかりに剣を思い切り振りかぶり、五十嵐静希めがけて振り下ろす。
瞬間、振り下ろした剣は軽く受け流され、その動きのまま胴に剣撃を加えられる。
だが鎧に阻まれてほとんどダメージにはならなかった。
斬られるとわかっていても、オルビアの質量自体がないために、簡単な盾や鎧があればその攻撃は無力化できる。
毎日振るっているためにその程度は熟知しているとはいえ、思いきり振り下ろした攻撃をあそこまで見事に受け流されるとは思っていなかったため、真一は驚いていた。
だが意外ではなかった。さすがは英雄、さすがはオルビアのかつての主。防御に関しては圧倒的に相手の方が上手だろうと、真一は分析しながらそのまま走り抜ける。
まだ始まったばかりなのだからと、真一は走り抜けたそのままの勢いで再び五十嵐静希めがけて襲い掛かる。
攻撃が対処されるのはあらかじめ予想できたことだ。ならば攻撃しながら相手の隙を探すまでのこと。
再び真一が斬りかかると、五十嵐静稀はその攻撃を易々受け流した。だが今度は斬りかかることはせず、真一の足めがけて強烈な蹴りを放ってきた。
走っている足に対して蹴りを当てられた真一はバランスを崩し、前方に転がってしまうが即座に受け身を取り、勢いを殺すことなく再び走り出す。
一瞬の接触で的確に足を狙えるだけの体術を五十嵐静希は保有している。さすがに英雄の称号を得ただけあって体術の心得も十分備えているようだった。
このまま走り続けていてもきっと同じように攻撃を返されるだけだろう。走り続けることができるのも時間の問題だ。鎧を着た状態で延々と走り続けることができるほど真一の体力はまだ鍛え上げられていないのだ。
多少相手の間合いに入ってでも強引に隙を作らなければならない。
真一は覚悟を決めると再度五十嵐静希めがけて斬りかかった。
当然のように真一の剣を受け流した五十嵐静希に対して、真一は今度は足を止めて横薙ぎに剣を振るう。
自分の体重すべてを乗せた一撃を、五十嵐静希は同じ形をした剣で受け止める。体重を乗せたことで多少は威力が出たとはいえ、完璧に防御されてしまってはさしたる効果を持たない。
真一は剣だけにこだわらず、拳や蹴りなども多用して五十嵐静希に攻撃を繰り返していた。
剣撃を同じ剣ではじき、拳は上手く受け流し、蹴りに関しては回避する。そして要所要所で反撃してきているものの、同じ剣を使う者同士その性質には気づいている。反撃してきたところで真一の鎧を貫くことはできていない。
そしてそれがわかっているからこそ、五十嵐静希はその左腕を伸ばしてきた。
瞬間、真一は後方へと跳躍し五十嵐静希との間に距離を作った。
五十嵐静希の逸話は今までいやというほど耳にしてきたのだ。その左腕がいったいなんであるのか、いくら真一でもよく理解していた。
実体のないものを掴むことができる神秘の左腕。その左腕はありとあらゆるものを掴み、そして握りつぶす。
岩だろうと鉄だろうと、そして実態を持たないはずの精霊などの人外であろうとそれは例外ではないという。
銀色の装甲、甲冑、それを装備した五十嵐静希。家族の前でもその装備をとることはなかったというその正体。
オルビア曰く、五十嵐静希の左腕の正体は霊装『ヌァダの片腕』
実戦の最中、左腕を失った五十嵐静希が手に入れた新たな腕。霊装の義手。その効果を真一はオルビアやから嫌というほど聞いていた。
意のままに動く。それはどのような力でも発揮できるということだ。
つまり、掴まれたら終わり。少なくとも掴まれた状態から逃れる術はほぼないに等しいということだ。
真一が左腕を警戒したのを察してか、五十嵐静希は先ほどまでとは構えを一変させる。
その構えは奇しくも真一のそれと似通っていた。
左腕を前に、そして剣を体で隠すように右手を後ろに。
明らかに左腕での牽制を目的としているか前に、真一は突っ込むのは危険と判断し五十嵐静希との距離を一定に保とうとしていた。
あの腕がどのような動きをするのかもまだわかっていない。牽制しながらうまく相手の動きを把握していきたいところではあるが、相手もそこまで悠長に待っているつもりはないようだった。
背筋が凍り付くような笑みを浮かべた後、五十嵐静希は真一めがけて一気に駆け寄ってくる。
走る速度は並、少なくとも同級生の強化系統の能力者に比べれば速度は格段に落ちる。
それもそうだろう。彼に身体能力強化の力はないのだから。
一直線に突っ込んできた五十嵐静希は、まるで先ほどの真一の真似をするかのように体ごとその剣を叩きつけてきた。
お返しと言わんばかりの剣撃に、真一は一度冷静になってその剣を受け流す。そして今度は自分が返す番だと、最初に斬られた動きそのままに、五十嵐静希の胴めがけて受け流した動作そのままに斬りかかる。
だが、そこからは先ほどまでの再現のようにはいかなかった。
五十嵐静希は体を反転させ、体の回転をそのまま利用し回し蹴りの要領で真一の足を蹴る。
僅かにバランスを崩した真一の体と、自分の体を密着させるようにして懐に飛び込み、真一の剣の動きを強引に止めて見せた。
こんなやり方で剣を止めるなんてと真一は驚愕していた。自殺行為にも等しい行動だが、結果的に真一の剣は五十嵐静希に届いていない。
一歩間違えればカウンターの要領で通常よりも深く剣が突き刺さっていてもおかしくはない。頭のネジが二、三本外れているのではないかと思われるような対処に真一が驚いている中、この状況が危険だと気付く。
左腕の射程圏内に入ってしまっている。
真一は即座に離れようとするが、すでに遅かった。
五十嵐静希の左腕は、真一の片腕を掴んでいた。
掴まれたと気付いたときにはもう遅い。気づけば目の前に五十嵐静希の顔が近づいていた。そしてその表情を見て真一は目を見開く。
今まで見たことがないような、まるで悪魔のような笑みを浮かべた少年がそこにいた。
次の瞬間、鎧を着た状態の真一の体が強引に持ち上げられ、地面に叩きつけられた。