性欲と困惑と
「文さん、お話があります」
場所は康太と文の拠点から始まる。リビングの一角に正座した康太は、まじめな表情を作ってソファで本を読んでいる文の方を見てそういった。
康太がこれほど真面目な表情をしていることは珍しいと、文は怪訝な表情をしながら視線を手元の本から康太のもとへと移していた。
「何よ、どうしたわけ?」
「大事な話がある」
その声に怒気は含まれていない。だが一種の決意めいたものを文は感じていた。
一体何を話そうとしているのか、文には見当もつかなかった。それなりに長い付き合いになった文ではあるが、康太の謎の表情と声に、若干ではあるが戸惑いが隠せなかった。
康太と文が出会って、もう五年近くが経とうとしていた。もうすぐ二十歳になろうとしている二人は、大学に通いながら、マンションを一部屋借りて一種の同棲生活を送っている。
拠点では普段は魔術師として。マンションではただの大学生として過ごし、日常を送る二人は、普通の恋人らしく過ごすことが多かった。
二人での生活もすっかり慣れ、大学生活も楽しく送り、同時に魔術師としても順風満帆、といっていいかは不明だが、一見すれば平和な日々を送っているといえなくもないだろう。
そんな中で康太が唐突に、正座までして大事な話をするという。文は一種の不安が胸中にあった。
まさか別れ話でも告げられるのだろうかと、一抹の不安が宿る。そんなことはありえないと思っていても、どうしてもその可能性を否定しきれない。
小さな不満が募りに募って見限られた、などということだって否定しきれないのだ。そんなことになったら、どんな顔をすればいいのか、どうすればいいのかと文は混乱していた。
あるいは身内に不幸でもあったのだろうか。否、それならば真っ先に話をしてくれるはずだと、文は若干戸惑いつつソファから降り、自身も正座していた。
「……何よ。どうしたの?」
「折り入って、お願いがあります」
一つ区切って康太はゆっくりとその場で頭を下げる。それが一種の土下座であるというのは見ればわかる。
いったいなぜ頭を下げているのか。本当に別れ話か。あるいは文が気に入っている何かを壊してしまったのか。
そんなことを考えながら不安を胸に生唾を飲み込む文をよそに、康太はゆっくりと息を吸い込む。
「お願いします!やらせてください!」
「……………………は?」
康太の端的かつ、唐突なお願いに、文はそれ以外の言葉を口から出すことができなかった。
本当に一瞬頭が真っ白になり、康太が言っている言葉の意味を考えなければ思考が始められない程度には困惑していた。
そして康太の言った『やらせてください』の意味を数十秒かかってようやく理解し、顔を真っ赤にさせる。
「あ、あんたね!いったい何言ってんの!バカなの!?なんでいきなり!?」
「いきなりじゃないから!今までずっと我慢してきたけどもう無理!これ以上我慢したらおかしくなる!」
「そ、そんなの!……いや、って言うか……その……たまに、シて、あげてる、でしょ……それじゃ、不満なわけ!」
「不満です!」
口にするのが恥ずかしくなり、しどろもどろになる文とは対照的に土下座の姿勢を崩さないまま堂々と言い切る康太に、文は顔を真っ赤にしながらもどういうことなのかと混乱する頭をフル回転させようとしていた。
「そ、そもそも、あんたあんまり、その……出しちゃいけないでしょうが!アリスからも止められてるでしょ!」
「それだよ!それなんだよ!男子大学生に自家発電もなるべくしないようにしろとか地獄か!拷問か!俺だって今までずっと我慢してきたけどもう無理なんだよぉぉぉ!」
「お、落ち着きなさいよ、ね、とりあえず頭上げなさいっての」
土下座の態勢のまま呻く康太を前に、文はまず康太の頭を上げさせようとしていた。
康太は普通の体ではない。肉体は人間のそれだけではなく、所謂神のそれと近くなっている。事情をよく知るアリス曰く、半分人間半分神という、奇妙奇天烈な状態になってしまっている。
そのため、人間部分である細胞、血液、そういったものをあまり体外に出さないほうが良いといわれているのである。
人間と神の部分が絶妙なバランスで釣り合っている康太の今の状況を崩すとどのようになるのか、康太の体を診断しているアリスも判断できないのだ。
だから康太は可能な限り、自慰行為などをしないように厳命されていた。どうしても我慢ができないときは、それこそ文などに処理してもらっているのである。具体的には手や口など、性行為に至らない、所謂前戯の形で。
「大体、なんでそんなに……あんた普通に体動かしてるんだから、そういうので発散されそうな感じするけど……」
文も男の体の仕組みをすべて知っているわけではない。どのように性欲がたまり、どのように発散されるのか。そういう仕組みをすべて理解しているわけでもない。
ただ、発散する方法の一つとしてスポーツなどの運動が適しているというのは聞いたことがある。康太の場合、かなり頻繁に体を動かしているためにそういった運動によって性欲が発散されてもおかしくないのではないかと考えたのだ。
だが康太は大きく首を横に振る。そして顔を上げた状態で文を見て憤慨する。
「お前の!そういう格好がまず股間に悪いんだよ!なんだその恰好!誘ってんのか!?」
「はぁ!?こ、これダメなの!?」
「ダメだよ!むしろいいところ一つもないわ!」
リビングでくつろいでいたというのもあるが、ここが二人の拠点ということもあって文はかなりラフな格好をしている。
季節がもうすぐ夏になろうということもあって、文はかなり薄着だ。具体的にはタンクトップに丈の短いホットパンツ、彼女の持つ長い髪は一つにくくられポニーテールになっている。
もともと、文はそれなり以上にスタイルがよかった。胸も大きく、腰は細く、足もすらりと長い。そんな状態がリビングでくつろぐ時常に晒されているのだ。男としての劣情が刺激されないほうがおかしいというものだろう。
「だ、だって暑いし、これ以上着込むと、汗かくし!」
「童貞男子大学生の性欲なめんな!お前みたいないい女が近くにいて襲い掛からないってのは俺の理性が頑丈だという証明だっての!」
いい女と言われて文は顔を赤くして照れてしまう。康太に褒められて悪い気はしないのだが、康太は気が気ではなかった。
康太自身も言ったが、文のような魅力的な女性が身近にいて、しかも恋人同士で、よくこれまで襲わなかったものだと自分を褒めてやりたいほどだった。
だが、その我慢も限界に来ている。
文と恋人になってからもう三年以上が経過しようとしている。だが康太と文はまだ一度も性行為には至っていない。
それは単純に、まだ二人が学生だからということに加え、康太の体が原因でもあった。
あまり体外に自身の細胞を出せない、出さないほうがいいといわれている康太は、おそらく子供を作ることができる回数も限られる。
だからこそ、可能な限り我慢し、将来文と子供を作るときに備えておかなければならなかったのだ。
「ふ、不満だって言うなら、わ、私も勉強するから。あんたが、満足できるように、が、頑張るから」
「そうじゃないんだよ!俺は文としたいんだよ!この男心わかってくれよ!」
「男心って言うかただの雄って感じの心だけど?とにかく、その……そういうことしたら、最悪子供出来ちゃうじゃない……子供を作るのは、親として責任を果たせるようになってから」
「責任ってなんだ!?結婚か!?こちとらお前とならいつでも籍を入れる準備はできてるんだよ!何なら今からでも出しに行くか!?」
「そ、そ、それだけじゃないでしょ!経済的に、とか」
「こちとら魔術師稼業で年収一千万超えてんだよ!食うにも寝るにも困らせねえよ!」
「ほ、他にも!わ、私の親とかと!ちゃんと挨拶してないでしょ!うちの親両方とも魔術師だって知ってるでしょ!会ったことだってあるでしょ!」
「同棲許してもらってる時点でほぼ認めてもらってるようなもんだわ!何なら魔術師として黙らせに行こうか!?」
「ま、待って!待ちなさい!いったん落ち着いて!落ち着け!」
文が魔術を使って放電すると、康太はその身を震わせながら姿を変え、ゆっくりと落ち着こうと試みていた。
半分神の姿になって、頭から羽が生えたり毛が増えたり、足の形が変わったりしているが、さすがにテンションが上がりすぎたということを自覚したのか、正座してしょんぼりとしている。
康太からいつでも結婚する気はあるぞという、一種のプロポーズをされ、文は顔が勝手に笑顔を作るのが止められなかったが、それはそれ、今はもっと大事なことを話さなければならないという自覚があった。
康太が性欲に支配されてしまっている今、少しでもそれを解消しなければまずいことになりかねない。
結婚もしていない身で、そして学生身分で、いや、そんなことはどうでもよいのかもしれない。
文だって、康太としたいと思っている。だが、理性的に考えれば、それはダメだということもわかっている。
もちろん、康太の問題さえなえれば、それこそ毎日のようにしてしまうだろうということは文も予想ができた。
文だって、そういう行為が嫌いではないのだ。康太の処理をしている際、それは文からの一方的な奉仕ではなく、康太もまた、文に対して奉仕している。
そういう意味では、文はすでに康太にかなり開発されているといっていい。
いずれ、そういう行為に至るのは時間の問題だ。それは彼女自身よくわかっている。わかっているが、わかっているからこそ、それを大事にしたいという気持ちもあった。
「それに、その……私だって初めてなのよ?その、ムードとか……そういうの、大事にしたいし……」
「ムードか!じゃあれだな!遊園地とか行ってその後高級レストランでディナーしてその後高級ホテルでしっぽりか!よし!すぐ予約するから!」
「今の説明でもうムード台無し!やめて!落ち着いて!お願いだからすぐに行動するのやめて!こっちの心の準備全然できてないから!」
もともと康太は行動力があるほうだ。自分の考え付きで海外を飛び回ることなんでしょっちゅうだし、とりあえず何でもやってみたほうが早いという、実践型の人間であるために迷うということを基本しない。
それは彼を指導した人間のせいもあるのだろう。文はこういう時程康太の行動力を疎ましく思ったことはない。
このままではどうしようもないと、文はとりあえずある人物を頼ることにした。