賭けを好む師弟達への難儀-5
誰ぞかが喉を鳴らす。或いは固唾を飲み込む。ハーマンの視線がユリアに向く。
彼女が砂糖菓子を口にしてから幾ら経っただろう。一分は優に迎えている。然しながら、彼女は物言わぬ亡骸になるでもなく、目を瞬きさせた。正しく生きている。
「……ん"ッん」
修道士の咳払いが一つ。その後に、いつのまにか老夫婦に預けられた少女の寝息が響く。気の抜けた雰囲気が漂う。
白と黒の布地が継ぎ接ぎになって形作られたそれが、意地汚くも床に落ちた皿の底につくクリームを舐めている。醜態を晒している自覚は無いらしい。
肩を竦める修道士が、気を取り直す、…事もなく、淡々と、呆れを交えた視線をそれに向けつつ、口を開く。
「大変申し訳なく思いますが。そこの。人形であるヴィダルは、甘い物……に拘らず、食べ物が好きでして。
いつの間にか、其方様のテーブルに置いてある幾つかの品を食べてしまったようで。
……ダナさんと仰いましたか。貴方の砂糖菓子も、少し前に舐めていたのを遠目に見ていました。
それで……」
「ミッ」
砂糖菓子、という言葉に反応するように、ヴィダルが膨れた腹を持ち上げるように立ち上がり、行儀悪く落ちたフォークの柄の先端で床をかつかつと叩いた。
「彼には。美味しい物を一番最後に食べる、という拘りがあるのですが。……残念ながら、ユリアさんのお口へ運ばれてしまったようですね。
異物があれば口に含んだ途端吐き出す様な "正直者" なので」
「ダナさんのケーキに盛られた菓子に、毒はないんじゃないか」
「……と」
半端に切り上げた修道士の言葉を補完すべくか。ハーマンがぽつりと声を発した。
「先程そいつが砂糖菓子には毒があったと証明しただろう!」
二人の男に身柄を拘束されているダナが、床に伏しているアリアの遺体とユリアへ交互に視線を遣る。
同じ花芯の色という共通点がある砂糖菓子。
「そこの女が、あの馬鹿な女に 殺される と喚いていたなら、考えられる答えは一つしかないだろう!
俺も道連れに殺す気だったんだろうとな!!! さり気なく飾るには十二分だろう、その殺人菓子は!」
がなるダナの声が響き渡る。その場にいる全ての人間の耳がじんと響くように鼓膜を震わせていたが、寝入る少女は変わらず静かな寝息を立てるばかりだ。
馬鹿だ何だと悪し様にアリアを貶し吐き捨てるダナに、アウロラは今にも手を出さんばかりに歯を食いしばって怒りを堪えている。
「――続けても?」
声色一つ変えずに、修道士はダナの語尾に間を置いた後、誰に尋ねるでもなく再び口を開く。
ハーマンへ一瞥を向けると、文字通り舐めて皿を綺麗にしたヴィダルを摘まみ上げ、ダナとユリア、そしてアリアの着いていたテーブルへと、修道士はそっと乗せる。
そうして、彼は幾つかの品をテーブルから床へと放り出した。ハーマンは双眸を細めてその様子を眺め遣る。
「ミ"ー……ミ、ィ。ミ。ンミ」
奇妙な鳴き声を発しながら、カップに添えられたティースプーン、ティーカップ、それから小さなデザートナイフ、最後にテーブルの隅で畳まれていた小さなハンカチを落とした。
それらの持ち手や柄を特に触れないよう、スプーンの窪や切っ先を短い手足で追い立てていた姿が特に目につく。
そうした末、ヴィダルは満足そうに机上で足踏みし、辺りをきょろきょろ見渡すと間も無くテーブルの上で寝始めた。
斯様な、自由奔放を体現する姿に手を伸ばしかけたハーマンは、ハッとして我に返ると、自らの懐より出した自前のハンカチ越しに床へ落とされた四つのものを拾い集める。
一見して違和の見られないそれらだが、そう言えばダナは先程居直った一瞬、『折角仕込んだ毒』と言っていた。
「…アリアスティアは、もしかして」
何かを察したように、アウロラの声が低く沈みがちに空気を震わせる。勢い良く顔を上げ、アウロラは足をもつれさせながらアリアの傍らに座り込む。
開かれる事のない眼を覗き込むよう顔を窺い、背中を丸めて両膝を床へと突けた。
「私の真似をしたから…………?」
そうして、まるで謝辞でもするかの如く、自らの顔に手を宛がって肩を震わせ泣き啜り始める。
真似。
一言繰り返したユリアの声に、アウロラの身が今一度震える。
「……姉さんの。お塩を舐める癖……」
まるでそうと判っているかのように、ユリアが誰に乞うでも無く尋ねる。
「……例えば。海塩と海藻入りのそれを舐める様に。ダナさんが仕込んだ毒食器に触れたその手で、砂糖菓子を食べたとか」
「ハーマン先生、それでは、砂糖菓子であの魚が死んだのも――」
「毒に触れた其の指で、自らの唇に触れ、ティータイムを続けるうちに腔内へ、そうして身体中に巡る事もまた、容易い。……菓子の欠片でも死ぬほど、非常に強力な毒なのだろうね」
幾度目か、顔を顰め、焦燥の色を僅かに滲ませるダナが大口を開けて騒ごうと藻掻いた時。
「毒食器など知らないのであれば、アリアスティアさんが使用していたと思われる食器を口に含むのも吝かではありませんよね」
「……嗚呼、そうだな。そう。躊躇う事などないだろう。ジギタリスの葉で作った、毒剤塗れのハンカチで彼女の食器を拭っていなければな」
「……………」
一貫して顰めていたダナの面構えは、口角を薄らと擡げてニヤついていた。本当の意味で自暴自棄とでも言うべきか、抑えつけなければ暴れ出しかねない身体から力がするりと抜ける。
それの所為で、ダナと調理場の男も気を弛めたほんの些細な隙ができてしまった。
両腕を振り払い、足を前に伸ばし走りながらダナは立ち上がる。呆然と立ち尽くしていたユリア目掛けて、小さなダガーナイフを取りだしその切っ先を向けている。
「初めから好いていたのはユリアだ!! 邪魔な女を消して終いにしたかったというに!! やはり杜撰で無計画な目論みであったが、顛末までもが杜撰だったとは!!」
目が、此方を向いているにもかかわらず、まるで遠くを見ているように視線が合わない。
ユリアを庇護すべくハーマンがその身に腕を伸ばして庇い、ノアと調理場の男がダナへ腕を伸ばす。寸での所で届きそうであった腕をすり抜けると、部屋には様々な音が反響する。
給仕の女性の叫び声、老夫婦の怯えきった唸り声、謝辞を繰り返すアウロラの噎び。誰ぞのものかすら判別はつかない様々なそれら。
目と鼻の先だ。ユリアを後ろ背に隠すハーマンの心臓部へ今か今かとダガーナイフが突き刺しかけた、その一瞬の事だった。
「―――ッっ!!!」
ハーマンの視界に赤色が映る。赤い布地だった。
肉の切れる音と、そこから突き出した鈍色の刃、それより滴る血色の鮮やかさ。
「……………な、…」
ダガーナイフから手を離したダナが、よろよろとした足取りで数歩、後ろへ下がって腰を抜かす。
言葉にならない声をぽつぽつと漏らし、ぱくりぱくりと唇だけを無意味に開閉して眼前の光景に血の気を引かせる。
そんなつもりじゃない、違う、違うんだ、そうじゃない、なんで。
意味無く繰り返すダナを再度取り押さえるノアと調理場の男にも、その様相が確りと目に刻まれてしまった。
「修道士さん!!!」
アウロラの叫び声の直後、何かが床に倒れ落ちる音が響いた。
――見知らぬ修道士を賭けに使った罰にしては、随分と身に重いものだ。
ハーマンの独白が、胸中へと静かに落ちる。




