船上の食卓
足取りは軽く、鼻先からは小粋な歌を奏で、意気揚々として前を歩くアウロラさんに連れられた食堂に、私は思い掛けず目を丸くした。
隣に立ち竦むベラも、私の手を力一杯に握り込んで、食堂の風景に見入っていた。因みに、ベラの肩で伸びていたヴィダルも、いつの間にか体を起こして、食堂を見渡している。
「……これは……」
「ふっふっふ!! びっくりでしょう、びっくりですよね、びっくりしない人なんていません!! この食堂が近海随一なのは言うまでもなく、此れのお陰!!」
腰に両手を添え、鼻高々といった様子で声を張り上げるアウロラさんの言葉通り、私達は、否応なしに驚愕させられてしまった。
食堂へ、と、お願いしたはずだったのだが、如何せん、その食堂の一角に――
「美味しいお魚さんがたっっくさんいる大海原、そこを往く船だからこそ出来る芸当!! 生~~け~~簀~~~!!!」
広い食堂の三割を占めるかという、硝子で作られた大きな箱の中に、生きた魚が泳いでいたのだ。
どれ程までに驚いていたのか、自らでも覚えて居ない。ただ只管、口を開け、悠々と水を往く魚の軌跡を見る事しかできない。
呆けていた私ではあるが、ふと我に返ってアウロラさんを見遣ると、彼女は直ぐ様、あの箱を指差した。
「このマリユス・ラ・アル号の食堂は!! 数年前に錬金術師さんが尽力して作ってくださった硝子の箱を使って、生け捕りにしたお魚さん達を彼処で保存! お客さまの口に運ぶ直前でお料理するという、新鮮で画期的で意外性にとむ何よりの特徴がございますのです!!」
「なるほど……他に類を見ない、最先端…といえるのでしょうか」
「お魚さん達は毎日行われる明け方の検査の停泊中、私たちが一生懸命海に潜って捕まえたものでして!」
「そこは古典的なのです」
「はい!!!」
「……………ね」
私の言葉尻を食い気味に、彼女は輝かんばかりの笑顔で詰め寄って大きく頷いた。
この海を、ましてやこの船を如何に愛しているかが見て取れる。……いや、事実、あの様に見事な大きさの硝子を見たのは初めてだ。遠目からでも魚の姿がくっきりとこの目に見える。
錬金術師と言う者は、立派な方なのだろう。
「ではでは!! で!! は!!!」
いつの間にか、彼女は両手に大きな木の板を持って私へとそれを披露した。
みると、丸みのある文字で幾つかの料理名が書かれている。これは何か、と尋ねるよりも先に、ベラが一つ一つの文字を指で追い始める。
「三日に一度の当番制、今日は私が潜って捕りにいったものばかり! 日替わりでオススメが変わってしまうのが難点ですが!! キダライという白身魚を使ったムニエルです! 本来でしたら相応の代金を頂くのですが、キダライは私が捕まえたものですし、修道士さまにはご迷惑をおかけしましたし、私の身銭を切ってご馳走させて頂きた、く……!」
身銭。
彼女の口上が述べ終わるのを見計らって、こっそりと木の板、料理名の横に書かれている代金を確認してみる。
……一人分であろうが、あの港町の部屋代一泊分に相当する値がつけられている。無理もないだろう。食堂を改めて見回すと、私達以外にいる人間は、誰もが身なりの良さを表わすかの様に、身綺麗な者ばかりだ。
「そう、ですか。……では、その。貴女のご厚意を頂ければと思いますが、この子の分だけでお願いできますか」
「え!? えぇ、でもあの、修道士さまもお食事を……」
「……では、一番下の。私は魚介の野菜スープのみを頂ければと思います」
「わ、わかりました!」
私の提案にどこか安堵した風な表情が見えたのは、気のせいでは無いだろう。木の板を持つ手が、気持ちだけ拳を作るよう指を曲げられていた。
木の板を近場の壁へ立て掛けると、彼女は食堂の奥に向かって走り出す。程なくして賑やかな足音を携え戻ってくると、私達を引っ張り、生け簀の近くへ設えられたテーブルへと案内してくれた。
見れば見る程、魚が泳ぐその硝子の箱は丸みを帯びた綺麗な真四角に造られており、曇りの無い窓として魚の様子を見せてくれる。
水を持ってきてくれた彼女へ頭を下げていると、その魚達の泳ぐ姿へ見入るベラが、久しく口を開けた。
「せんせい……! おさかなさん、おさかなさんがいます! ここの、お船のうえにいられるあいだは、おさかなさんと、いっしょに、旅ができます!」
「そうですね。ベラ」
「はい! おさかなさんが、ひろいお水のなかを泳いでいるんです…! とても体がおっきくて、おめめが、きらきらしてます!」
「ええ、そうですね。貴女が掬ったあの魚達より、随分と大きいです」
「はい! せんせい、先生! このおさかなさん、このお船のうえのあいだ、また見にきてもいいですか!」
「あぁ……そうですね。先程のアウロラさんに、どんな名前を持つお魚か聞くのも良いでしょうね」
「おべんきょうです!」
「ええ」
自由に泳ぎ回る魚の存在を見られる事など、そう滅多にある物では無い。海に潜って捕まえる、といっていたからには、きっとアウロラさんは魚の名前にも強いだろう。
海を渡る旅などいつ出来るかも判らない。海を多く知らないベラだ。彼女に無理が無い範囲で、教えを乞うてみようか。
そう、考えている私の頭に、水滴が一つ二つと跳ねた。
「ん……?」
「ああ! すみません……!!」
「あ……」
何かと見上げる私の目に、今まさに、ベラが見ていた魚が、豪快に網で掬い上げられていた。アウロラさんとは違う、白を基調にした服装の青年だ。腰から脛までを覆う様に、青色のエプロンが巻かれている。
きっと彼は、この食堂で料理を振る舞う側の人間なのだろう。私へ頭を下げると、腕に魚を抱えて食堂の調理場らしき奥への扉を潜って行った。
……妙な空気が流れている事を、私は否が応でも察せられている。
「ベラ」
「…………」
「あのお魚さんは、今日も誰かの糧となりに行ったのですよ」
「……せんせい……」
「……はい」
「わたし……おいしく、おさかなさん、いただきます……」
「そうですね……」
思いがけない勉強をさせてしまうとは、今朝の私には悟ることなど出来なかった。とは、思おう。
被り続けている麦わら帽子の縁を握って、深く被り直すベラに、私は肩を竦める。
「ミ? ミ、ミィ、ミ!」
ベラの肩から飛び降りたヴィダルが、卓上に用意されたフォークを体全体を使って腕に抱く。
そのフォークの切っ先は、紛れもなく、悠々と泳ぐ魚に向けられていた。
彼の性格は今に始まった事では無いものだが、なんとしたものか……。
さながら、虫の声すら響かない寒い冬の空の下にも似て、静かな空気が支配するテーブルであったが。賑やかな足音を再度携え、アウロラさんは両手に持つ皿を私達の前へと置いた。
「おっ待たせしました!! 今日のキダライのムニエルはレモンバターソースなのです! こんがりとした焼き色と香る匂いが食欲を誘う事間違い無し! サッパリとしていて、でも何処か懐かしい味を感じさせてくれるこのムニエル……! 焼きたてのライ麦パンと一緒に召し上がれ!
それからそれから! 修道士さまのスープはですね、魚介の旨味を濃縮したスープに、トマトを始めとする野菜をふんだんに用いたもので! 一緒に入っているキダライの切り身は勿論ですけれど、旬のメニル貝がこれまた格別に美味しくて!!」
「ごはんー!!」
「ミィー!!」
ベラが両手に食器を持ったのは、僅か数秒の事である。
はしたなく声を上げるベラとヴィダルを、常ならば諫めなければならないものの。静かにするように、と、二人の横面を軽く撫でるのみにして、それ以上の口を挟まずにいた。
「んっふっふ! おいしいでしょう、美味しいでしょう!! なんたって、新鮮! ですものー!!! ……所で、修道士さま、もうお食事はいらないのですか?」
「……ええ。けれど、とても美味しかったですよ」
ほんの少し飲んだスープの残りが、彼らの口に運ばれていったのは、……常の話である。




