船上の同居人
今までの旅でも、一際長く滞在していた港町がゆっくりと小さくなって地平線の縁に消えて往く。
穏やかな海風を受けて進む大きな帆船は、マストに張られた清廉な白い帆をたなびかせ、飛び交う海鳥を蹴散らして進む。
船尾楼甲板の上、太陽の日差しを受けて輝く地平線を眺め続けるベラの頭頂を撫で叩いた。柔らかいローブのそれではなく、麦わらで編んでいる硬い感触だったと思い出す。
あの夫婦から貰い受けた麦わら帽子のつばをぎゅっと握り、ベラは私を見上げた。
眉尻の下がった表情を向けられてしまうと、口を開きこそしても、何かを紡ぐには些か時間を要すものだ。
「……ベラ」
「せんせい……」
「旅、というものは。あの魚達と別れた様に。出会いと別れの繰り返しです。景色もまた然りで……」
「お魚のステーキ、もう、たべられないですか……」
「……………どうでしょうかね」
しんみりとした声でぽつりと呟かれた言葉に、ベラの肩へ手を置き、宥めるにも似て叩いておく。
強い日差しの下思うのは、この帽子を頂戴できたのがとても幸運だった。と。
「ミ、ミ」
「ヴィダル?」
「……嗚呼、そういえば。朝食からだいぶ時間が経っていましたか」
ベラの懐から顔を覗かせるヴィダルに片眉を上げ、私は心無し声を笑いに震わせる。出航の日でもある今朝は、陽が昇る前に早く乗船切符を買い付けるべく、港で列を為していた。が故に、寝惚ける彼らと共に更に早く朝食を摂っていた。
港の消えていった地平線を未だ見詰めているベラの手を取り、甲板から船内へと降りていく。
人々と行き交うのに苦労する階段を緩慢に降り、食堂を目指す。それなりに大きい船内だが、彼方此方の壁に簡易的な船内図が貼られているお陰で、迷う事はなさそうだ。
船内図に従うと、食堂へは次の角を右に曲がればすぐ着くらしい。
「さぁ、行きましょう、」
「ああああどいてどいてーーー!!!」
「か、」
ベラとヴィダルへ話し掛けた刹那、言葉尻を食らう様に、聞き覚えの無い女性の声がどこからともなく聞えてきた。
否、私達が今降りてきたばかりである、甲板と船内を繋ぐ階段の上から降ってきたと言えよう。
べしゃり。
音にしてみればそんな物だったか。咄嗟にベラの手を離す機転はきいたが、私の体は突如として押し潰される。横面から思い切り床へたたきつけられる経験は、……初めてだ。
「もう、どこ見、うえええ!!!? あああお客さま!? お客さまだったの!?」
……なにより、とても賑やかだ。
私の頭上から降り注ぐ大音量は止むことを知らず、なんで、だの、どうして、だのと叫び通す女性の声はまだまだ響き渡りそうだ。
背にかかる体重が退く気配は無く、私はと言えば、胸と腹を強打した衝撃が未だ伝って痺れを覚えて立つに立てず、船内の床を相手に接吻を余儀なくされている。
「ぁ、あの……せんせい……」
感嘆符と疑問符を綯い交ぜにした面持ちで、ベラは私の傍らで狼狽えている。
「ミー!! ミ、ミミッ」
そのベラの肩にいるヴィダルが何事かと騒ぎ、……。
「わ"ッ!? な、なにこの謎の物体!!? ギャー!! きもい!! かわいいけどきもい!!」
……ヴィダルは、私の上に未だ乗り続けている女性にでも、攻撃をしかけようとしているのだろう。
柔らかい布の手足で女性を叩いているのか知らないが、暫く女性の厭がる声が続いた末、ふっと、体の上にのしかかっていた重みが退いた。
片腕を突いて漸く身を起こすと、ベラが私の上肢に腕を回してくっつく。何事も無かったかと確認するように、彼方此方をぺたぺたと触りだしている。これはきっと、暫く好きにさせなければ、解放して貰えないだろう。
さて、私を床に押し潰した犯人の女性は、一体斯様な人だろうか。周囲を見渡さずとも、背後からばたばたと動く物音の聞える方へ目を向ければ、必然とその女性の姿を見ることが出来た。
「あー!!! もうなにこれ!!? ちょっと、私の髪に絡まらないでよー!?」
「ミ"ィーー!!! ミギュィ!!」
この世に地獄が在るとするならば、まさに眼前の光景こそがそれと言えるだろうか。
ベラに似た、毛量の多い桃色の髪を二つに結んで肩から下げているその女性、……の、右肩。星の飾りがついている紐輪に絡まっているヴィダルがいた。
円く大きな青い瞳の印象的なその女性は、眉間に皺を寄せながら、懸命にヴィダルを引き剥がそうとしている。余計に絡まって身動きがとれなくなっている気がしてならないが、声を掛けるべき…なのか。
「! あ、お客さま!! 先程は申し訳ありません……!」
些かの迷いに耽る私に気付いたのか、女性がヴィダルを引き剥がす行為を中断し、私へと向き直る。
私の怪我の有無を確かめているベラの手を休ませ、私は静かに立ち上がって頭を軽く垂れた。
改めて容姿を見ると、動きやすそうな服を身に纏い、船の乗組員である事を示す帽子を被っていた。私の会釈に合わせるかの様に彼女は右腕を擡げ、右側頭へ手を揃える。これは所謂、船乗りの敬礼とされる様式だろう。私ももう一度、頭を下げてそれに応えよう。
「私はアウロラ・サレスソトです! この船、マリユス・ラ・アル号の乗員でございます!」
敬礼をする右手指の爪は綺麗なスカイブルーに彩られ、左目のすぐ横に魚の形を模した髪留めが二つ。海を愛する女性であるのが容易に窺える。
右肩に絡まり藻掻くヴィダルがいなければ、彼女の格好はより引き締まっていただろう。
「ご丁寧に、ありがとうございます。アウロラさん。私は旅をしている修道士です。この子は……」
「! あ、の…ベラ、です!」
「それから、貴方の髪に懐いてしまっているのが」
「ミ"ィ"イ"イ"イ"」
懐いてなんかいない、そう騒ぐような。今までに聞いたことのないような、ヴィダルの唸り声が響いた。
「失礼。それは、ヴィダルです」
「了解です! 修道士さまにベラちゃん、と……ヴィダル? ヴィダル、ですね……ただの人形じゃないようですから、ハサミで真っ二つに切って取る事は無理なようですね……!?」
「ミ"ッ!!?」
なかなか恐ろしい事を言う女性だ。
肩を竦める私を余所に、彼女は敬礼をしていた右手をヴィダルの胴体に添えると、力任せにぐいぐいと引っ張っている。
「お客さまの私物ですから、は、早いところ、取り除かないと、いけませんよねー!!?」
「ミギュググググッグ」
またしても聞いたことの無いようなヴィダルの声が響き渡る。
「あの、よろしいですか。無理にとっては、貴方の髪も抜けてしまいかねません。失礼ではある事を承知の上で、ヴィダルを取り除く手伝いをしても宜しいでしょうか」
「へッ!? ふぁ、ふあ、はい!! 修道士さまのお荷物が、不肖な私の髪に絡まってしまって、此方こそ申し訳ないです……! 触り心地はよくないかと思いますけれど、あの、ど、どうぞ!!」
「いえ、では。失礼します」
無理に取ろうとしていた腕を退け、彼女は私へと右肩を寄せるように身を寄せる。
私はなるべく、彼女の体に触れないよう注意を払いながら、複雑怪奇に絡まるヴィダルの体より、彼女の薄桃色の髪の毛を選り分けて解いて往く。
食事を摂りに船内へ戻ったはずが、長く道草を食っていると知ったのは、傍らにいるベラの腹の虫が鳴った頃だ。
手早く済ませねばという思いが通じたのか、それとも、地道に髪を解いた事が功を成したか。間もなく、少々の時間を頂いて彼女の髪の毛からヴィダルを取り除く事が出来た。
「終えましたよ」
「! ありがとうございます!」
「いいえ。なにぶん此方が悪いものです。ヴィダルがご迷惑をお掛けしました」
「そんな! そんな事ないです! 私が、あの、不注意で修道士さまを背後からド突いてしまいましたので……なにかお詫びを……!!」
懸命に謝り倒す彼女に首を振り、ぐったりとしているヴィダルをベラの肩に乗せる。
気にしないでくれ、と繰り返し告げても、彼女は私の言葉に構わず、お詫びを、と繰り返している。
この船の乗員である彼女の立場を慮ると、無理も無いだろうか。ふむ、私はほんの束の間、視線をベラに落として思案する。
ぐう、と、ベラの腹の虫がまた鳴った。
「では、この船の食堂で。何が一番美味しいか、教えて頂いてもよろしいでしょうか」
「!」
焦りと困惑を顔に映していた彼女であったが、私の言葉に眉を上げ、瞳を開き、直ぐに笑みを浮かべてくれた。
今一度。ヴィダルを肩に乗せていない女性、アウロラ乗員は、背筋を正し、真っ直ぐにした右手を右の横面に揃えて敬礼の形を取る。
「もちろんです!! 私、アウロラ・サレスソト! 喜んで修道士さま達を、この近海随一の船上食堂へご案内しましょう!!!」
喜色を映し、何処か得意気に笑う彼女の敬礼に、私は頭を下げよう。腹の虫を小さく鳴らすベラもまた、私の所作を真似るように頭をへこりと下げる。ヴィダルは、……未だベラの肩の上で伸びている。
にかりと笑う彼女の前歯は白く光って、笑顔により輝きを持たせてくれていた。




