その告白は虚妄
暑くもなく寒くもない初夏のさわやかな風が俺の頬をなでる。
体育館と特別棟の狭間は日陰で学校の中で最も人目が少ない場所だ。
普通であればこのすがすがしい空気に身を委ねて昼寝をしたくなる環境だが、今、俺は人生の一大イベントを迎えていた。
「侑斗くん。あなたが好きです」
目の前で演劇部の二年先輩にあたる麻里先輩が俺にしっかりと視線を合わせて小さく言った。そんな彼女の長い黒髪が風に吹かれて小さく踊る。
麻里先輩は演劇部の中心メンバーの一人だ。去年の文化祭で二年生でありながらヒロインの演じただけあって、その美貌は演劇部で一、二を争う。
「へ?」
俺は気の抜けた返事をしてしまった。
この展開はまったくの予想外だ。
つい一カ月前にこの高校に入学し、二週間ほど前に演劇部に入部したばかりなのだ。
それだけではない。
はっきり言ってつり合いが取れていない。
俺の容姿は自分で言うのも口惜しいがお世辞にも良いとは言えない。出っ歯だし、鼻はでかいし、この高校に入るために勉強しすぎてやや猫背だし。身長だって高くない。いい所なんて全くない。
曾祖父の顔が絶望的にひどいのを写真で見たことがあるから、これは隔世遺伝かもしれない。
この告白シーンの絵面はまさに美女と野獣だ。
だが、言われてみれば入部して以来、麻里先輩と視線が良くぶつかっていた。あれはこういう事だったのか……。
「何度も言わせないでほしいな……」
頬を桜色に染めて呟くようにうつむいた後、息を大きく吸って戸惑う俺に再びしっかりと視線を合わせた。「もう一回だけ言うね。侑斗くん。あたしはあなたが好きです」
まりせんぱいのこくはく。こうかはばつぐんだ! めのまえがまっくらになった!
鼓動が高まり、全身の血管が心臓の高鳴りと同期して身体を締め付けてくる。口から心臓が飛び出そうというのはこういう事を言うのだろう。
「返事を聞かせてほしいな……」
どれくらい時間が経ったか分からない。麻里先輩が声をかけなければ間違いなくフリーズしたままだった。
「俺、麻里先輩の事、よく知らないし……」
「イエスなの? ノーなの?」
多少苛立っている声色だ。「ハッキリ言って」
「俺、女子と付き合った事ないんで、しっかりできるか分からないです。だから」
「だから?」
麻里先輩が一歩踏み出してきた。その勢いに押されて思わず、一歩後退してしまう。
「友達から始めませんか?」
「それは、とりあえずイエスって事でいいよね?」
「えっ。あ、はい」
「よっしゃーー! 主役ゲットォー!」
両手でガッツポーズをして歓喜の声をあげている。
「え? 麻里先輩?」
何が何だか分からず、近づいて手を伸ばすと思いがけない言葉が返ってきた。
「触んな。クロ」
その道の業界人なら『ありがとうございます!』と歓喜しそうな、冷めた見下すような視線を俺に向けてきた。
ええ? 何かしましたか? 俺。
っていうか、麻里先輩の地声って結構低いんですね。
それより、なんで俺のあだ名知ってるんですか?
この高校の初登校日に担任の先生に「お前、クロマニョン人に似てるな」という何気ない一言で俺のあだ名が『クロ』になってしまったのだ。
マジ、勘弁してほしい。
ちなみに先生の脳内では北京原人をイメージしていたのではないだろうかと俺は想像している。クロマニョン人をググってみると結構イケメンの画像が出てくるしね。
そしたら、俺のあだ名は『ペキン』とか『ゲンジン』とか『ゲン』とかになってたかもしれない。なんというバタフライエフェクト。
などと目の前の事態が把握できずに無意味な思考が別方向にフル回転中の俺の背後で足音がしたので思わず振り返った。
「はーい。カットー」
そこにはカムコーダ片手に演劇部の部長の倉橋先輩がいた。その表情はニヤニヤとして嫌な笑顔だ。
「あたしの負けね」
その隣には里美先輩があきれ顔で小さくため息をついた。「麻里のガッツに負けたわ。あたし、たとえお芝居でもクロに告白なんてできないわ」
「すまないね。文化祭のヒロイン役を決めるオーディションだったんだ」
そう言う倉橋先輩へ麻里先輩が「褒めて、褒めて」とアピールしながら駆け寄ってその左側におさまる。
倉橋先輩は両手に華という状態だ。倉橋先輩も両手の華に負けないイケメンなので、不細工な俺としてはすぐにこの場から逃げ出したくなる。
「で、ですよねー」
美人先輩から愛の告白なんて話がうますぎですよね。
えぇ。分かってましたよ。
どうやら次回の演劇のヒロイン役を決めるにあたって俺がダシに使われたという事だ。『次回のヒロイン役はクロに告白してOKをもらう事が条件』みたいな事があったのだろう。
「『友達から』だって、バカウケる」
醜く歪んだ唇を麻里先輩は白く細長い指で隠した。「クロ。あんたに告白してくるような女がいるわけねーだろ。鏡見ろ」
「もし、次にクロに告白してくる女子がいたら、土下座して『ありがとうございます』って言わなきゃだめよ」
笑いをこらえているせいか里美先輩の声が震えている。
「二人とも、言い過ぎ」
にやけ顔の倉橋先輩が二人をいさめる。
でも何かきっかけがあれば大爆笑しそうな雰囲気をひしひしと感じる。
あー、これは完全に馬鹿にされてますね。
「ごめんな。演劇部の伝統みたいなもんだから、気にしないでくれよ。毎年の事なんだ」
「はあ」
「じゃあ、配役決めにいこいこ」
「あんたね。さりげなく腕組むんじゃない」
「うるさい。いつものファミレス行こうよ。そこで打ち合わせ」
「そうだな」
倉橋先輩は両手の華達に同意した後、爽やかな笑顔を俺に向けた。「それじゃ。また明日」
「あ、ハイ……」
「悔しいからこのビデオ拡散するわ」
「なにそれ。やめてよ!」
「迫真の演技をみんなに見てもらわなきゃ」
「ぶっ殺すぞ」
「二人とも、ケンカしない!」
「はーい」
俺を一人置いて三人は青春を謳歌しながら去って行った。
残された俺は青春の搾りかすだな。うん。
ふざけんな!
こんな容姿だし、それほど人付き合いがうまいわけでもない俺は人に馬鹿にされたり、いじめられたりなんて言うのは日常茶飯事だ。
もう、慣れた。
と、言えるほど強いメンタルは残念ながら持ちあわせていない。
つらいものはつらい。痛いものは痛い。
暗澹たる気分のまま家へ帰る。
「おかえりー」
玄関に入るとリビングの方から母さんの明るい声が飛んできた。
「ただいま」
正直、返事するのも億劫だ。さっさと自分の部屋に引きこもってしまおう。
俺はそのまま階段を上り始めた。
傷ついた心に塗る傷薬なんてこの世にはない。時間をかけて傷を忘れてしまうほかない。
そう。『忘れる』だ。心の傷はそう簡単に消えない。だから人はトラウマを抱えるのだ。
「侑斗。明日の晩御飯は適当に買っておいて」
足取り重く、階段を上っていると母がリビングから顔を出して俺に話しかけてきた。
「どうしたの?」
「節子ちゃんの娘さんが危ないらしいのよ。お見舞いに行ってくるから」
「わかった」
『節子ちゃん』というのは母の従妹だ。その娘さんという事は俺にとっての再従妹という関係になる。だが、二人とも会った事がない。
いや、ひょっとしたらどこかの法事ですれ違っているかも知れない。いずれにせよ、縁遠い人たちだ。
いつもの俺だったらどんな状態なのか、もう少し聞いていたかも知れないが、一度も会った事がない再従妹のことなどどうでもよかった。
自分の部屋に戻ってゲームでもやるか、ぼんやりと音楽を聴くか、そのまま寝てしまうか。
とにかく、一人でぼーっとしたかった。
悶々と家で一夜を過ごし、朝になって重い足取りで学校に登校した。
マジ俺がんばってる。超頑張ってる。
ここで引きこもったら高校デビュー失敗だ。
「クロ。ウケる」
教室に入るとそんな女子の声が耳に入った。
『クロ』という単語が自分の事だと認識してしまう自分が悲しい。
思わず反応して声の主に視線を向けると、思いっきり視線を外された。しかも、ニヤニヤと笑っている。
あー、あれですね。あっちむいてホイ的なゲームですね。これは。
なんていう心の余裕はもうない。俺はじっとその女子の周辺を観察した。
その女子の周りには人だかりができていた。その女子がスマフォをいじると、その画面を見ながら人だかりがキャーキャーと囃したてる。
「イエスなの? ノーなの? ハッキリ言って」
「俺、女子と付き合った事ないんで、しっかりできるか分からないです。だから」
「だから?」
「友達から始めませんか?」
その人だかりから昨日のやり取りが漏れ聞こえてきた。
どうやら動画が流出してるらしい。里美先輩の麻里先輩に対する嫌がらせだろうと想像できた。
とんだとばっちりだ。
「クロ。ドンマイ」
女子に混じってその動画を見ていた奴が親指を立てながらにこやかに声をかけてくる。
「すっかり騙されちゃった! テヘペロ!」
そんなふうに返せばいいのだろうか?
だが、もはやそんな余裕なんてない。
もうやめて、俺のライフはゼロよ!
生き地獄だ。人のうわさも七十五日というが、俺はそんな長い間、耐えられるだろうか? これから始まるゴールデンウィークが七十五日あればいいのに……。
朝礼が始まった。長い一日の始まりだ。
憂鬱だ。もう死にたい。でも、自殺する勇気なんてない。
そのうち――俺は考えるのをやめた。
次回、テンプレの死亡回です。