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第7章 バルディオール・エペの襲来(前篇)

1.


 8月7日、金曜日。その日、永田は遅い出勤だった。

 大した理由ではない、と言ったら母親に怒られるだろうか。上京してきた母親とその友達の東京見物に付き合わされたうえ、見合いまで勧められた。それを断るのに時間がかかったのだ。

 支部の駐輪場にマウンテンバイクを止めて、汗を拭き拭き外付け階段へ向かって走り出そうとした永田の足が止まった。ビルの正面玄関に、そこにいてはいけない、そこにいるはずのない人物の存在を認めたから。

(あ、あれって、例のフランク人……!)

 その黒い瞳をじっと正面玄関に据えたまま、動かないフランク人女性、アンヌ。足を肩幅に開き、この夕方の蒸し暑さなどまるで堪えていないかのように佇立している。そして、杖のように両手で地面を突いているのは、どう見ても――

(剣、だよね? なんでそんなもん、堂々と持ち歩いてんのよ?)

 むき出しではないものの、あの長さ、あの尖り具合、そしてなにより、黒い鍔に黒い鞘。

 道行く人が、あるいは不思議そうに見つめながら、あるいは関わり合いを避けるように足早に歩き去って行く。

(み、みんなに知らせなきゃ……っ!)

「いつまで見つめているつもりだ」

「ひいっ!!」

 ビルの角に隠れて見ているつもりだったのに、ばれていた。

「貴様、この支部の者だな?」

「そ、そうよ。だったら、なに?」

 強がりつつ、さっと左右に目を走らせる永田。敵に拉致される可能性を恐れての行動だったが、目の前のフランク人は意に介さない様子で続けた。

「中の人間に伝えろ」

「な……?!」

 フランク人は居住まいを正す――といってもわずかに背筋を伸ばした程度だが――と続けた。

「1時間後に、この街の南にある倉庫街で待っている。全員で来い。来なければ――」

「だ、誰を人質に取ってんの?!」

「人質?」

 アンヌには、永田の反応は意外だったようだ。

「バカにするな!」

「ひっ!」

 怒られた。敵に。永田は涙目で、眼前の貴人を恐る恐る見やる。

「そんなものを取らないと貴様らに勝てない、わたしはそんな……えーと……ひ……ひ……」

「卑怯者?」

「ヒキョ……そう、卑怯者ではないぞ!」

 そう言い捨てて帰ろうとするアンヌを、永田は呼びとめた。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

「なんだ?」

 目を怒らせて振り返るアンヌ。永田はびくびくしながら反論する。

「1時間なんて無理です。全員揃うのは、いまから4時間後くらい……」

 言って、後悔した。なんでわざわざうちの戦力が揃っていないことを教えてるんだ、あたし。

「揃えろ」

「無茶言わないでください! みんな、生活してんですよ!」

 永田の抗議は、どうやらアンヌに届いたらしい。なにやら考え込むそぶりを見せた。

「4時間か……何を食べようか……」

「は?」

「なんでもない。では、今から4時間後だ。待っているぞ」

 アデュー、とかのたまって、フランク人は悠々と去っていった。

 後ろ姿を見送る呆然から立ち直って、永田は蹴転びそうになりながら支部への階段を駆け上った。


2.


 てんやわんやの支部内。その喧騒の中、支部長の可奈は考え続けていた。

 優菜は、8時には来られるという。

 るいは連絡が付かない。

 理佐は家庭教師を他日に振替すると申し出たが、それは止めさせた。よって彼女は時間にぎりぎり間に合うことになる。

 ミキマキはスタンバイ中。永田や横田、長谷川の話し声に混じって聞こえるトンカンという音は、バットに新しい釘を打ち込んでいるのだろう。

 そして、隼人は塾講師。彼の参戦は9時以降になる。それを良い方向に生かすため、可奈は考え続けているのだ。

 北東京支部に援軍も頼んだ。だが、4時間後という時間制限があること、夏休み中であること、例の作戦後の弛緩したムードは北東京支部も例外ではないこと、諸々の理由により2人しか来られない。

 しばしの逡巡の後、可奈はとある携帯のアドレスに電話をかけた。長く待たされたあと、留守番電話サービスに切り替わる寸前で、通話がオンとなる。

「……もしもし?」

『珍しいわね。この時間にかけてくるなんて。でも、もう始まっちゃうの。手短かにお願い』

「このあいだ頼まれてた九官鳥ですけど、友人から手に入ったと連絡がありました。9歳ですけど、どうされますか?」

 息を飲む音が聞こえた後、電話口の彼女はいたって平静に答えてきた。

『9歳ね……いただきたいわ。どこに行けばいいのかしら?』

 今度は、こちらが息を飲む番だった。どこへ行けばいいのかしら、なんて。

『……もしもし?』

「! ああ、ごめんなさい。サザンポート浅間の404号室に」

『わかったわ。日時はまた今度。じゃ』

 通話は切れた。可奈はツーツーと音を繰り返すのみの受話器を手に、険しい表情を取る。

 9歳の九官鳥をサザンポート浅間の404号室に。すなわち、九官鳥=アンヌが9時に浅間市南部の倉庫街に現れるため、当方は迎撃態勢に入る。投入戦力は当初4人、遅れて4人。

 盗聴や通信傍受を危惧する鷹取家からのアドバイスにより急遽設定されたこの符丁を、早速使うことになろうとは。そして。

 本当に、"彼女"は来るのか。

 可奈はため息一つして頭を振ると、横田を呼んだ。少しのち、支部長室に入ってきて気を付けの姿勢をとる横田に、可奈は指示を出す。

「7時になったら、2人連れて倉庫街へ行って。敵の具体的な戦力と待ち構えている場所、それから、伏兵がいないかどうかを調べて、連絡をください」

 了解しました、と頷く横田。その緊張した顔を見て、可奈は続ける。

「徹底して調べる必要はないわ。怪しいところの絞込みだけでいいの。もし――」

 しばし逡巡したのち、脚を組み替えた可奈は横田を見つめて言った。

「捕まっても抵抗しちゃダメ。尋問されたら、素直に答えなさい」

「支部長……」

「あなたたちが体を張るべき戦いじゃないわ。それは私とフロントスタッフ、それに……」

「それに、なんですか?」

「会長がすべきことよ」


3.


 優菜は流れてくる汗をぬぐいながら、黙々と荷物を運んでいた。

 隼人経由で紹介された引っ越しのアルバイト。お客が女子学生ということで、バイト先から女子の斡旋を頼まれた隼人がメールをくれたのだ。

 『なんでミキマキちゃんに頼まないの?』と聞いたら、『美紀ちゃんはともかく、真紀ちゃんがね……』と返ってきた。真紀がしゃべりっぱなしで、真面目に働く美紀と合わせて1人分にしかならないらしい。

 そういえば、理佐の部屋を片付ける時もそんな感じで、真紀が美紀に怒られてた記憶が優菜にはある。

(ユニゾンしたら、引越しとかの作業は捗りそうなもんだけど)

 もうミキマキイコールユニゾンになってることに苦笑しながら、トラックの後ろで荷物受け取りの順番待ちをしていると、今回の仕切り役である年配の女性、笹井が話しかけてきた。

「優菜さん、だっけ?」

「あ、はい」

「なんかそわそわしてるみたいだけど――」

 そう言って微笑む女性の目が細まる。

「隼人君は今日は来ないわよ」

「あ、はい。知ってますよ。あいつ今日も塾講師ですよね」

「ふーん」

 女性の目がさらに細まるのを見て、優菜のほうは心の準備ができた。

「隼人君が連れてくる子は、みんなしっかりしてるから助かるわ。彼、ああ見えて意外と人を見る目があるのよね」

 予測から外れた意外な一言。それを聞いて、優菜は思わず吹き出してしまった。怪訝そうな顔をした女性に、優菜は問いかける。

「ああ見えてってのは、笹井さんから見ると隼人はおちゃらけてるってことかな、と」

「うふふ、そうじゃないのよ」

 優菜に続いて荷物を受け取って、一緒にエレベーターまでの道を歩きながら、笹井は言った。

「隼人君って、男の子にも女の子にも受けがいいでしょ? 知り合いいっぱいいるし」

「え? あ、ああ、そうですね」

 女子はともかく、男子にもそうなんだ。優菜の知らない隼人の一面を知らされて、ちょっとドギマギしている自分がいる。

「そういう子に他人を推薦させると、玉虫色って言えばいいのかな、当たり障りのないコメントを付けてくるのよ」

 エレベーター待ちをしながら、笹井は続ける。

「でも隼人君は違うの。Aはここはこうだからいい、Bはこういうところがあるからこの仕事は厳しいかも、ってうちの仕事に合わせてベターだと思う人を連れてくるのよ。ちゃんと理由付で」

 優菜は、笹井のほうに時々眼を向けながら、エレベーターの階数表示のほうを向いていた。なんというか、隼人が褒められているのがうれしいような、むず痒いような。

 ――って、なにまったりとくっちゃべってるんだ、あたしは!

 ここをできるだけ早く終わらせて、夕食を軽めに取って、そして、戦闘。

「……くやしい?」

「え?!」

「だって、唇噛んでうつむいちゃったから、ね」

 笹井の誤解を解こうとしたところでエレベーターが来た。荷物とともに乗り込み、

「くやしいってなんですか?」と聞いてみた。

「うふふ、隼人君はわたしだけのものなのに、って顔してたから」

 残念ながらと言いながら、目的の部屋に荷物を運びこむ。

「あいつはあたしの連れに予約済みっすよ」

 その瞬間、室内が静まり返った。室内にいたバイトが3人全員、こちらを見て目を丸くしている。

「……えーと、優菜さん、だったよね?」

「あ、うん」

 優菜の返事をきっかけに、3人が詰め寄ってきた。

「連れって、あの英文科の子?」

「え? え? 美紀ちゃんは?」

「せっかくボランティアまで追いかけてったのに、どーなってんの?!」

 そういえばこの子ら、史学科の子たちだった。

 その後、笹井の一言で引越しを無事終わらせることに専念して、みんなでお疲れさんのお茶、というか説明会。

(くぅ、早く支部に行きたいのに……)

 自分で突いてしまった藪とはいえ、このヘビどもの食いつきのよさったら。優菜は内心で自分のうかつさを呪いつつ、現況の説明に努めた。

「――というわけで、美紀ちゃんは頑張ってんだけどさ、隼人にその気がまったくないんだよ」

 日本史ゼミの子達が押し黙ってしまったのをこれ幸いと、優菜はサンドイッチを頬張る。

「美紀ちゃんは――」

「ん?」

 ゼミの1人が話しかけてきた。

「気付いているの? そのこと」

「ん……たぶん、ね。美紀ちゃんって、勘のいい子じゃん?」

 なんとかサンドイッチを飲み込んでした優菜の返答に同意して、また黙ってしまったゼミの子たち。チャンスだ。

「んじゃ、あたしはこれで。お疲れ様でした」

「あ、優菜ちゃん!」

 笹井が立ち上がろうとする優菜を呼び止めた。

「また何かあったらメールするから、そのときはお願いね」

「あ、はい! よろしくお願いします!」

 元気よく答えて、優菜は喫茶店を出た。出て、ふっと表情を引き締める。

 今まで、敵はどこかからやってくる正体不明の人物だった。今は亡き利次が、優菜が初めて日常会話をしたバルディオールということになるだろうか。とはいうものの、正体を知らずにしゃべっていたのだし、知った後の決戦は短時間で決着が付き、彼は死んだ。

 そのおしゃべりも、友好的とは言えない雰囲気のものが多かった憶えがある。だが今度の敵は違う。利次と比べて短時間ではあったものの、結構和やかに、かつて優菜が暮らした地のこと、生活のことを話せたのだ。

 そのアンヌと、戦う。戦うんだ。

 優菜はすれ違う人が不審に思うのも構わずに激しく首を振ると、覚悟を決めた。

 隼人を護る。そのために。


4.


 ベッド脇のサイドテーブルに置かれた携帯が、るいの癇に障ってどれほどの時が経ったのだろう。また着信して震える、青いあんちくしょう。

「るい、また来てるぞ」

 もう呼び捨てかよ。るいは心の目盛を1つ下げながら、けだるげにベッドから身を起こした。

 支部からの着信であることを確認して、るいは表情を引き締める。ご本人さん登場! か。

 9時に倉庫街。今6時半か。どうしよう、お腹減っちゃったな。

「おい、誰から来たんだよ」

 男がベッドの端に腰かけて、るいをにらんでくる。ボランティアからだと説明したが納得できないご様子。どうやら彼から離れてメールチェックをしたのが気に入らないようだ。小っちぇえ奴。

 彼のことなどきっぱり無視して、るいは冷蔵庫から取り出したお茶を口に運びながら戦力読みを開始する。

 9時に間に合いそうなのは、メールによると、ルージュ、ブランシュ、イエロー、グリーンの4人。第2波という形になるのが、ブラックと北東京支部の2人。2人は電撃系と氷雪系だという。

 北東京支部の電撃系と氷雪系……るいは先月行われた戦闘を思い出す。やる気ゼロだったが、るいはるいなりに当時の現場の状況を把握し、そして記憶していた。

(氷雪系の人は、たしかベテランだったな。いい動きしてた。電撃系は2人いたな。どっちだろ?)

 こういう時は、味方の戦力は低く見積もるべし。るいは2人のうち、動きが鈍かったほうをイメージする。

(とろい子はベテランがフォローするとして、問題はブラックか)

 鴻池の推測が正しければ、アンヌの標的はブラックのはず。その標的が開戦時に現場にいないことで、

(ブラックが遅れてきてからが本番……いや)

 るいはかぶりを振る。

(援軍2人のことは知らないとして、1対5にはしたくないはず。とすると)

 ルージュたちは、開戦劈頭にアンヌの猛攻を受ける可能性が高い。敵側の理由で戦力がそろわないことを好機と見るはずだ。

 でも、とるいはまた首を振った。敵の戦力がわからない。わかるのは、"アンヌは鴻池より強い"ということだけ。

(るいは、どのタイミングで登場しようかな)

 となると、敵の戦力情報が必要か。しようがない。るいはため息を一つつくと、支部に『ヤボ用で遅くなります。敵の詳細がわかったら続報ください』とメールした。

 隼人君にも連絡取らないと。

 最近、隼人と軍事関係のネタを話すことが多くなった。もちろん直に話せるのは支部の控え室だったり、食堂でご飯を食べている時だけで、大抵はメールでのやりとりだ。

 だが、楽しい。特に、歴史に詳しい隼人と過去の合戦や会戦について、あーでもないこーでもないと議論できるのがうれしい。

 そんなこんなで、なんだか最近すっかり『自分ならどう動くか』『みんなをどう動かすか』を考えるようになった。

 るいは男の存在などすっかり忘れて、隼人に送る第2次攻撃プランの概要メール、その文案を練り始めた。


5.


 理佐は家庭教師先で夕食をいただきながら、考え続けていた。

 剣の使い手とは、何度かやりあったことがある。直近で言うと、鴻池姉妹だ。そして、確かに彼女は押されていた。

 唇を噛む。何が自分に足りないのか、未だ彼女は見つけられていない。

 真紀との模擬戦で見せたあれを、持続させるしかないのか。

(お前はきれいに戦おうとしすぎる、か)

 それでいい。あの時はそう思った。だが、このままでは。

(グリーンにすら勝てなくて、あのフランク人に勝てるわけがない……!)

 帰りたい。実家に。師範たる、父のもとに。

 槍術は現代においてはマイナー武術と言わざるを得ない。ゆえに腕を磨くことは言うに及ばず、調整のための道場を見つけることすら困難だ。

「理佐さん?」

 家庭教師先の母親が話しかけてきた。

「随分難しい顔していらっしゃるけど、もしかして、お口に合いませんでした?」

「あ、いえいえ」と理佐は即否定する。

「おいしいです。ほんとにいつもおいしいご飯を食べさせていただいて」

「ねーねー、先生?」と聞いてきたのは教え子。

「先生も、カレシに手料理とか作ってるんでしょ?」

 母親が苦笑してたしなめるが、教え子もお年頃の女の子。理佐が普段自分のことをほとんど話さないのを密かに不満に思っているらしく――母親がこれまた苦笑気味に教えてくれていた――、ここぞとばかりに目を輝かせている。のだが。

「ううん。わたし、料理とか苦手でね、ほんとに簡単なものしか作ってあげたことないのよ」

「ていうと?」

「……目玉焼き、とか」

 不意に、理佐の記憶が蘇る。

 亡き利次の部屋にお泊りしたとき。朝起きたら大雨で帰れず、もちろん外食も行けずに仕方なく作ったのが、その一品だった。さすがの利次も空腹には勝てず、『もっと手の込んだものを作ってくれ』とか言いながら食べてくれたっけ。

 理佐は目を閉じる。

 利次は隼人に倒されて、でも利次の収集した情報を元にバルディオールが来て、そしてあのフランク人がやって来た。わたしたちを倒しに。隼人を倒しに。

 そんなことさせない、と理佐は心に喝を入れる。

(隼人君を狙う奴は、わたしが倒す。倒さなきゃ)

 そして心置きなく横浜で演奏会を楽しむのよ。隼人君と、2人で。


6.


「なー、ねーやん」

「ん?」

 美紀がバットを机の端に固定し、真紀が釘を打ち込む。2人は作業中一言も発しなかったが、釘打ちが一区切り付いたことで真紀が息を吐いた。それがきっかけで、双子の会話が始まる。

「勝てるんやろか、うちら」

「さーな」と真紀は汗をぬぐって笑う。

「剣の使い手なんて戦ったことないしなぁ」

「せやな。ナイフ使いばっかやったもんな」

「こないだほれ、公園で鴻池さんとやったときは、斬られただけやったしな」

「だけ、て」美紀も笑う。

「間合いも斬撃の速さも、あれで掴めた言うてたやん」

「ミラーのは、やで」と真紀が手を振って訂正する。

「フランクねーちゃんは、もっと強いいう話やし」

 しばし、顔を見合わせて。美紀は溜息をついた。

「"アネクゼーション・ドライヴ"、間に合わへんかったね」

「しゃーないわな、そればっかりは」と真紀がしれっと答える。

「もうちょい必要なわけやし。ユニゾンの、ていうかうちら自身のシンクロが。ええんちゃう? これが最終決戦ってわけでもないやろし。あとは――」

 ここで真紀はにやりと笑った。

「今度のデートん時の、隼人君の協力次第、やね」

 先日ココロや千早と呑んだ時、聞き出した情報。それが姉のにやつきの元であろう。

 はぁ。やや頬を赤らめた美紀のついた溜息が、静まり返った会議室に響く。

「溜息ばっかしとると、シワヨセが逃げてくで?」

「どこに皺寄せが逃げてくねんな。それ言うなら幸せやろ」

「ふっふっふっふっ。まあ、悪いようにはせえへんよ」

「ノリノリやな、ねーやん……」


7.


 隼人が授業を始めてすぐ、教室の戸が開いた。

「えへへ、すみませーん」と悪びれもせず入ってきたのは、木造みやびだった。

 席にすぐ着くよう穏やかに告げて、隼人はクラスの面々を見回す。あれ?

「えーと、坂本さんは――「ごめんなさーい!」

 と叫んで坂本沙良がタイミングよく教室に飛び込んできた。どっと笑いが湧き起こる。

 2人ともこういった遅刻の常習犯ではないし、女の子にはいろいろあることくらい、隼人にはわかっている。さあ始めるぞ、と一声で生徒を黙らせて、隼人はテキストに戻った。

 しばらく説明を続けた後、練習問題を生徒に解かせる。

 隼人は目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、あのフランク人女性、アンヌのこと。

 きれいな人だったな、と思う。少なくとも、悪人には見えなかった。

 自分が他人のすべてを見抜けるとは思っていない。だが、あの短い道中、優菜と快活に話す彼女の姿は正直微笑ましかった。

(そもそも、侵略者は悪人っていう前提条件がおかしいのか)

 侵略者。その尖兵たる彼女が、自分を狙っている。

(狙われてるのが命とか国とかじゃなきゃ、大歓迎なんだけどな)

 まあでもほんと、男に興味なさそうだったしな。隼人は心の中でつぶやいて、異変に気付いた。

 そっと目を開けると、生徒たちがこちらを凝視している。

「せんせー?」と沙良が声を上げた。

「制限時間、過ぎましたよ?」

 素直に謝って、隼人は練習問題の解説を始めた。今は目の前のことに集中しないと。



 それからもいろいろあったが、本日の講義は概ねつつがなく終了した。

 隼人は可及的速やかさで帰り支度を行う。戦闘開始時刻まで、あと5分。ここから倉庫街近くまで原付を飛ばしても、10分はかかるのだ。

 とここで、隼人に近づく影が。さすがに少し苛ついた表情で見上げると、塾長の東堂だった。

「隼人君、今日はちょっと心ここに在らずの風情だったけど、もしかして――」

 隼人の心臓が跳ねる。

「妹さんの容体が悪いとか?」

 あ、しまった。妹の近況を話してなかった。隼人は慌てて、妹が先日退院したことを伝えた。

「そうかそうか、よかったな」

 東堂塾長は満面の笑みで隼人の肩を軽く叩いてくれる。お心遣いは大変うれしいが、今夜だけは勘弁してほしい。

「ん? じゃあ、一体何に気を取られて――」

「すみません! ちょっと急ぎますんで、お先に失礼します!」

 かなり失礼な去り方になるのを承知で、隼人は勢いよく塾長に頭を下げるとナップザックを引っ掴んで講師控室を飛び出した。後日ちゃんと謝ろうと心に誓う。今夜の戦場から生きて帰ってこられれば、の話だが。

「わ! 先生!」

「おっとごめんよ!」

 塾が入居しているビルの出入り口で、塾生たちとぶつかりそうになる。謝るのもそこそこに隼人は駐輪場に駆け込むと、原付の座面下からヘルメットを取り出した。あご紐を結ぶのももどかしい。塾生たちの聞えよがしな噂話までヘルメット越しに聞こえてくるし。

(あれはゼッタイ、女に呼び出されたんだよ!)

(きゃー! ズバリな推察だね! みやびちゃん)

(いいの? 沙良ちゃん。ここは1つ、デートのお誘いでもしてだね――)

(んなことできるわけないじゃん! 協定だってあるし)

 なおも騒がしい友達を制して、沙良は言った。

(いいの。今日はせんせー、忙しいみたいだし)

 "協定"って、2年前に女子の塾生たちが作ったあれか? まだ生きてるのか?

 まあいいや。沙良が皆を抑えてくれたのを奇貨として、隼人は原付のアクセルをふかした。

 女に呼び出された、戦場へ向かうために。

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