第6章 海は水着かモトカノか
1.
隼人は隣野市にある海水浴場、その監視台の上で、今日も暑くなりそうな予感に囚われていた。
なんてったって、8月最初の土曜日の晴天である。雲一つないのだ。
隼人が今座っている監視台の背後から始まって、はるかに波打ち際へと続く砂浜は、昨日と同じく真夏の太陽を受けて火傷しそうなくらい熱くなるだろう。その酷熱地獄を抜けて来た――裸足で駆けてく、陽気なサザ……輩もいるが――海水浴客を待っている太平洋特有の緑っぽい海だって、砂と同じく太陽熱と、何よりたくさんのヒト体温で温くなることは必定。
おまけに西風は大駐車場、あのコンクリとアスファルトで鎧われた熱源度満点のある意味必要悪をわざわざ経由して、熱風を人々に提供してくれるのだ。これで暑くならないほうがおかしいというものだろう。
(あー、早く終わらないかな)
隼人はこういう時定番の考えを、今日だけは振り払うことにした。なぜって? 今日は約束の日だから。
「隼人君、お疲れ様~」
ほら来た!
元気のいい声とともに小ぶりなクーラーボックスが、るいの手で隼人の足元に持ち上げられた。受け取って、隼人は笑顔を返す。
「サンキュー、みんな」
お礼を言って、隼人は友人たちに砂浜の一地点を指差した。シートとビーチパラソルで、彼女たちのベースを確保しておいたのだ。一般客より先に1箇所だけ確保が許される、いわば役得なのだが、
「ありゃ、意外と海から遠いね」
真紀が小手をかざして眺める。隼人は苦笑して説明を加えた。
「砂浜の海寄りに取るのは、さすがにご法度なんだ。ごめんな」
「いや、あたしらはいいんだけどさ」と優菜が苦笑いしている。
「雪女が、ね」
そういえば、理佐の姿が一団にない。隼人が心配顔で周りを見回すと、一同がベースのはるか手前、更衣室付近を指差した。
そこに隼人は、白い人影を視認。
「ああ、日陰まで持たなかったんだね……」
理佐が倒れ伏していた。気持ち溶けてる気がするのは、隼人の気のせいだろう、たぶん。
「じゃね、隼人君。お昼は一緒に食べられるんやろ?」
美紀が確認してくる。なんというか、普段も身長差のせいで上目遣いなのに、今日はことさら可愛く見える。海水浴というイベント効果なのだろうか。
隼人がうなずくと美紀はにっこり笑って、理佐の救助に向かう仲間に追いつこうと走り出した。
2.
みんなが来てから1時間。予感どおりというのも無意味に、暑い。
隼人は時々双眼鏡で周囲を監視し、やんちゃをしているお客を見つけてはハンドマイクで注意していた。額の汗をぬぐうタオルはもうぐっしょり濡れて、拭いた汗特有のすえた臭いが鼻につく。
(今年はまだ、ライフセーバーの人にお世話になってないな)
遊泳可能ラインを示すブイまで泳ぐのはいいのだが、足がつる人が毎年現れる。ブイまで行くだけならまだしも、ブイによじ登って女の子にアピールプレイする奴までいるから、隼人たち監視員はビーチ以外にもまんべんなく双眼鏡を巡らせねばならない。のだけれど。
(うーん、いかんな)
隼人は自戒の念に駆られるも、やっぱりやめられない。双眼鏡は広い波打ち際のあるポイントで、どうしても止まってしまうのだ。
そこでは、隼人の友人たちが遊んでいた。
優菜は、理佐とビーチボールで遊んでいた。動く時にお腹や背中の肌がちらちら見えるので恐らくビキニなのだろうが、赤い大きめのラッシュガードの前をきっちり閉めているところが彼女らしい。だがその用心深い恰好も、隼人が先日口走ってひどい目にあったふくよかさは隠しきれていないのだが。というか逆に上半身が隠されていることで、お尻や太もものむっちり感が際立ってるような。
るいは競泳用の水着なのだろうか、黒ベースに青いラインも鮮やかなぴっちりしたものを着ている。肩から膝上まで覆われた肌色成分少なめの水着なのに、引き締まった体つきと、生地に逆らうかのような胸や腰周りのふくらみが妙に強調されて、なんというか、エロい。
そのるいと水鉄砲対決をしているのは、真紀と美紀。真紀は緑と白が混じったパレオ付きのワンピースの水着で、美紀は黄色に赤や白でアクセントのついた、同じくパレオの付いたワンピースを着ている。本人達が常日頃主張する"ちっぱい"が真実だと改めて確認できるいでたちで、変に露出度の高いものを選ばなかったところが彼女たちらしい。
そして、理佐。白一色のビキニの上からスポーツブランドの長袖Tシャツを着ている。もともと上背があるのに加えて、出るところがバランスよく出ている彼女にしてみれば、『ごちゃごちゃした水着は嫌味になるから』って言っていたことを隼人は思い出す。彼女はボール遊びがどうも不得手のようで、無茶な取り方をしては転んでずぶ濡れになる、を繰り返している。そのたびに体に張り付くTシャツのおかげで、均整の取れた体つきが逆に強調されてしまう。それが、隼人の凝視がやめらない主因となってしまっていた。
あの状態からどうやって海辺までたどり着いたのか、まさか一部始終を見ているわけにいかなかったので隼人にはわからないが、それにしても、
(楽しそうだな)
最近、彼女の憂い顔や歯軋りするところしか見ていなかった。だから、弾けるように笑っている理佐の笑顔を見ると、隼人の胸に暖かいものが通ってくる。……あ、総攻撃くらってる。
水鉄砲×3とビーチボールスパイク。痛くはないだろうけど、なんか痛々しいのは隼人の気のせいなんだろうか。笑顔ながらもむきになった理佐が反撃しようとすると、陸に上がってあっかんべーされてる。ああ、追いかけられないんだ。溶けちゃうんだな、きっと。
そして、周囲の注目浴びまくり。まあみんな水準以上の可愛い子たちばっかで、男の連れもなしだからな。あ、3人グループが声かけに――
(――はっ! いかんいかん、仕事仕事)
隼人は呪文を念じながら、仕事に復帰した。ハヤクオヒルニナレハヤクオヒルニナレ。
3.
「で、お昼になったわけだが――」
隼人はビーチパラソルと、その横に設営したワンタッチターフの下に集いし者たちを見回した。
「なぜお前らがいる?」
「なによ」と千早がむくれた。
「そうよ、せっかくなんだもん」となごみも調子を合わせれば、
「お兄ちゃん、わたしがいると邪魔なの?」とくるみは目を潤ませ始めた。
千早たち3人はサプライズゲストととして、るいに呼ばれたらしい。千早が緑主体の結構派手なビキニで、なごみが黒に赤いワンポイントの入ったワンピースの水着。この2人が海に入る気満々なのとは対象的に、くるみはオフホワイトの無地Tシャツに同じ配色の綿パンといういでたちである。
先日退院したばかりで、さすがに海水浴は無理なのだろう。体力的なこともあるし、なにより長期の入院生活で痩せ細った身体を水着で人目にさらすのは本人にとってもつらいはず。
「圭ちゃんは?」と理佐が焼きそばを食べる手を休めて、千早に問いかけた。
「ああ、あいつはよんどころない事情で欠席だよ」
そう千早は答え、持参の卵サンドイッチを食べ始めた。
「なんだよ、よんどころない、って」
納得したような声を隼人が出したせいだろう、優菜がハチミツバターサンドを奪おうとする美紀の手を払いながら聞いてきた。
「ん? ああ、大したことじゃないよ」
「「そーなん? なごみちゃん」」
双子に振られたなごみは一瞬だけ隼人を見つめた後、にっこり頷いた。
「圭ちゃんの、乙女の事情です。ね? くるみ」
まさか自分に振られると思っていなかったらしいくるみがびっくり。野菜サンドをのどに詰まらせてしまい、どたばたのうちにこの話題は流れてしまった。
その後も適宜会話に参加しながら、隼人は早々に昼ご飯を食べ終えて、ほっと一息ついた。それを聞き逃さなかった者これあり。
「なんだよ、ため息ついて」
優菜が隼人の対面からにらんできた。
「別に。また優菜ちゃんに怒られるから」
「言えよ」
「……せっかくの水着回なのに、双眼鏡越しに眺めるだけで終わっちゃうんじゃないかと思ってたから、ほっとしてるんだよ」
「メタ発言すんな」
「だから言ったのに……」
そこへくるみが割り込んでした。前々から思ってたんですけど、と。
「みなさん、お兄ちゃんとどういうご関係なんですか?」
「ボランティア仲間だ」
隼人の即答に、微妙な空気が流れる。なぜに?
「なんでみんな押し黙っちゃったんですか?」ときょろきょろしだしたのはくるみ。るいが笑いだす。
「ただのボランティア仲間で終わらないように、みんな頑張ってるわけよ。ね? 優菜」
振られた優菜は、やっぱり来たかと言う顔をした。
「あたしを混ぜるな」
「じゃなんでラッシュガードの前開けてるの?」
確かに、海に入ってるときはきっちり締めてあった前のファスナーが半分ほど開けてあって、ビキニに包まれた小どんぶり並みの形と大きさのふくらみが露わになっている。
「い、いや、これは暑かったから――」と優菜が赤くなってワタワタし始めた。真紀の追い討ちがそこにかかる。その眼は実に楽しそうである。
「なるほど、それでわざわざ隼人君が対面に座ったわけやね」
「いやいやいやいや」
全然考えもなしでした。隼人は即否定して、茹でダコのようになった優菜から(残念ながら)目をそらすと、むくれている妹を一人見つけた。
「むー、わたしの胸見ればいいのにぃ」
……もしかしてお前、そのために水着を着てきたの?
「うん、育ったな、なごみ。兄はうれしいよ」
「「うわー、これは見事な棒読みが決まりました! なごみ選手、がっくりうなだれております!」」
双子の実況風ユニゾンにびくっと怯えるくるみが、ちょっとかわいい。
「で、隼人君?」と隣に座っている理佐が話しかけてきた。
「わたしたちを見て、何かこう、コメントはないの?」
「「せやせや、誰それはふくよかだとか、誰それはプリチーやとか」」
そんな剣呑なこと、言えるわけがない。隼人はしばらく口ごもった後、午前中の双眼鏡による観察での疑問を口にしてみた。
「みんななんでさ、こんな時までボランティアの"作業着"と同じ色着てるんだ?」
隼人の疑問は一瞬の溜めを生んだ後、劇的な効果を示した。千早以外のボランティア仲間が皆、一様に落ち込んでしまったのだ。
「ほんとだ……なんでこの色選んだんだろ……」と優菜。
「確かに緑は好きな色やけど……」と真紀。同色の千早はライバー1号っぽい配色の水着をあえて選んだのだろう、落ち込むことなく真紀の肩にそっと手を置いて慰めの態。
「ううう……黄色は選ばんよう気ぃ付けとったのに……」と美紀が言えば、
「る、るいは黒主体だからセーフだよね? ね?」と、るいが珍しく頬を赤く染めて抗弁してくる。
「似合う色だからよ」と理佐。強がってるようにしか見えない。と言ってみた。
「う、うるさいわね! ……似合ってない?」
「似合ってるよ」
((うわぁ、即答しよったで))
(ラヴフィールドの発生を確認! パターン:黒! 隼人です!)
(優菜! 逃げちゃダメ! 逃げちゃダメ! 逃げちゃダメ!)
(あたしを混ぜるなってんだろうが!)
「おぉい! そこ! 人を使徒扱いすんな!」
「いや、語感が似てるかな、と」千早が笑って言う。
「"と"しか合ってないだろ! まったく……」
隼人は一同を一渡りにらんで立ち上がった。どこに行くのかと問われ、
「もうすぐ休憩終わりだから、監視台で食う物買いに行って、そのまま戻るよ。んじゃな」
「あ、待って! お兄ちゃん!」
くるみが急いで立ち上がろうとしたが、立ちくらみで座り込みそうになってしまう。慌てたなごみに支えられながら、くるみは態勢を立て直すと、隼人を見て言った。
「わたしとなごみお姉ちゃん、もうちょっとしたら帰るから」
「あ、そっか」と隼人はくるみに近づくと、肩に手を置いた。
「ほんとに退院したんだな。やっと実感できたよ。がんばって体力付いたらさ、なごみや千早たちと旅行とか行こうぜ」
「あ……うん!」
潤み眼のくるみを残して、隼人はコンビニのほうに歩き去った。
4.
それからしばらくして、余りの暑さに、デザートを食べ足りないという話になって。
「あ、じゃああたし買ってくるよ。何がいい?」
と優菜が名乗り出てくれて、くるみたちもデザートを食べて帰ることになった。なんとなく会話が途切れたその時、なごみが千早に向かって言った。
「千早姉が介護ボランティアなんて、なんか似合わないんだけど、どういう心境の変化なの?」
「な、何をおっしゃるなごみさん」
千早の狼狽っぷりに、理佐たちはお互い顔を見合わせる。どの眼も『ヤバイ。関わりたくない』と語っているのが丸わかりで、理佐の胸も動悸が激しくなるのを自覚する。でも、
「ほ、ほら、大学の単位ももらえるし、さ」
やっぱり何も言わないのは不自然と思ったのか、るいがフォローに入った。
「「せやせや、えーと、就活にも使えるんやで。履歴書に書けるし」」
「へぇ、そういうもんなんですか」となごみが腕を組む。
「そうそう、ほら、不景気だから、あたしも就活を見据えて大変なんだよ、うん」
と千早がものすごい笑顔でまとめようとしたのだが、くるみがここで首をかしげた。
「あれぇ? 千早姉、大学出たらカレシの会社に入れてもらうから、就活しなくていいんだって言ってなかった? このあいだ」
理佐には見える。仲間たちの顔に『もうしゃべるな』と書かれているのが。わたしの顔にもきっと――
ボランティア所属者全員の携帯に着信! まさか、支部から?
『スグコイ』
呼び出したるは、優菜。
「あ、わたしたち、荷物番してますから」
なごみの笑顔に見送られて、理佐たちはコンビニへと急いだ。
昼過ぎの日差しは苛烈で、理佐にとって夏定番の大きな麦わら帽子がなければ冗談抜きで頭から溶けてしまいそう。それでなくても砂浜からの照り返しでこんがりローストされるというのに。
「なごみちゃんたちを呼ばなかったのは、やっぱボランティアのことだよね」
暑さから少しでも気を紛らわせようと、理佐は会話を皆に振った。
「せやろね。でも昼間やし。なんやろね?」
「もしかして、例のアン……Aさんが来てるとか」
千早の推測に同意を示して、理佐は彼女に問い返した。
「そういえば、隼人君がAさんのこと、オトコに興味なさそうって言ってたけど、そんな感じだった?」
千早はそれを受けて少し考え込んだ後、頷いた。
「そうだね。ま、周りにアジア人しかいなかったからかもしれないけど。なんで?」
「隼人君がそんなこと考えながらほかの子としゃべってるのかな、って思っただけよ」
千早の目は、明らかに笑ってる。それが理佐には我慢できず、にらみ返した。千早も負けずと、歩きながら目をそらさずに声を上げた。
「理佐ちゃん、1つだけ、いいかな?」
その言葉に理佐が頷いたその時。
「あ、優菜いた!」
るいが指差した先、コンビニの軒下には、憮然とした表情の優菜がいた。こちらに気付いて『静かに』という仕草をしたあと、コンビニ脇の駐車場を指差す。
(? あそこがどうかしたの?)
意外に目的地が近いことに理佐たちの警戒感は増したが、優菜に近寄っても、彼女から緊張感が伝わってこない。
では、いったい指差された先に何が。理佐たちが、それでも慎重に覗き込んだコンビニの角の先。そこには。
1人の女の子が携帯を取り出して、男に何事かを話しかけていた。手を振って困り顔ながら笑っているその男は、
(は や と く ん……っ!!)
理佐の頭の中が沸騰する。その怒りの熱視線が届いたのか、あるいは単純に気取られたのか、隼人がこちらを見やって一瞬ぎょっとした顔になった後、意外な行動に出た。
「千早! 水越さんだぜ!」
「わ! ココロじゃん!!」
応えてこちらからも歓声が上がる。千早が理佐たちを押しのけると、隼人の傍にいる女の子に走りよった。二人して喜色満面で手を取り合い、ピョンピョン飛び跳ねている。
「えーと……チハヤっち、誰?」
優菜の問いに答えて千早が曰く……かと思いきや、なぜか言いよどむ千早。代わってココロと呼ばれた女の子が、髪をかきあげながらしゃべり始めた。
「はじめまして! 水越です! つか隼人君、まーたこんなに……あ、逃げた!」
隼人はもう監視台に向かってダッシュ。仕事再開の時間だからしょうがない……わけないじゃない!
「「ま、ええんちゃう? 帰りに捕まえれば」」
監視台に向かう隼人の後姿ををにらむ理佐だったが、双子の言葉をきっかけに、水越を連れてみんなで戻った。
「うわー! 妹さんが育ってるぅ!」
「あはは、お久しぶりです。えーと、水越さん、ですよね?」
「ん? なごみちゃんも知ってる、ってことは……」
るいの眼がキラキラし始めた。千早が苦笑して切り出す。
「うん。高校ん時に、隼人と付き合ってた奴の1人なんだ」
てへ、という顔をした水越が、一転驚きの表情で千早の腕を掴んだ。
「なに? もしかして千早、4回目?」
ふるふると首を振るモトカノであった。
「あ、やっぱだめなんだ……で、この子たちは?」
千早も参加しているボランティア仲間だと聞いたが、なぜか水越は疑わしげ。
「相変わらず集まってきちゃうんだねぇ。うちの兄貴なんかいまだにドーテーなのにさ」
「それが聞いて驚け」と千早が水越の耳に手のひらと顔を寄せる。
「いまだに誰にも手ェ出してないんだぜ!」
「うっそ~?! まさかこの人たち、みんな男?」
「「なんでやねん」」
「わ! 揃った!?」
双子のツッコミなんかどうでもいいとばかり、理佐は2人を押しのけると水越に詰め寄った。
「隼人君って、そんなに手当たり次第だったの?」
「違うよ~! 優しいけど甘くないし、誰にも差別とかしないから、みんながいつの間にか集まって来るんだよ! ね? 千早」
うんうんと腕組みしてうなずく千早の表情は、なぜかちょっと苦々しげ。
「つか、手出してないって、ありえなくない?」
「だよねぇ」との千早の返事に、水越は悲しげな表情になった。
「……もしかして」
「もしかして?」
「もう枯れちゃったとか」
「んなこたない」と優菜。るいと真紀が勢いよく手を挙げた。
「ね! ね! なんで別れちゃったの?」
またおどけた表情で水越は言った。気の迷いで浮気しちゃったの、と。
「そんでその男とデートしてるのを隼人君に見つかっちゃって。口論になってね」
そこまで話した水越の顔が急激に曇る。
「売り言葉に買い言葉のあと、やっちゃったのよ」
「何を?」優菜の表情は真剣だ。
「ドーン、て」
水越は両手のひらを前に勢いよく突き出すと、萎れてしまった。
「……千早や圭ちゃんから聞いてたのに……怒ってた隼人君が急にすーっと笑顔になって、『ん、わかった。お幸せに』って言われて……」
顔を覆った水越の両手から嗚咽が漏れ、涙滴が足元の砂に吸い込まれていく。
「……それっきり……名前ですら呼んでくれなくなって……」
「……ごめん」
るいと真紀は神妙な面持ちで頭を下げ、理佐は目の前の光景を静かに見つめていた。
5.
バイトから上がった隼人が帰り道、夕焼けで赤く染まった駅で切符を買っていると、後ろから体当たりをされた。
「痛いよ、美紀ちゃん」
隼人が振り向くと、いつもの仲間が、ちょっと物憂げな顔で隼人のほうを見ている。
「千早は?」
「ココロちゃんと帰ったよ。一緒にお酒飲みに行くんだってさ」
優菜がパスカードを改札に押し当てながら言った。どうやら酒に誘われて、るいと真紀も付いていったようだ。隼人は苦笑いする。
「相変わらずだなぁ、あの2人は。千早はともかく」
「なんでやのん?」
「ん? だってさ」と隼人は、首をかしげた美紀に説明する。
「例の、ほら、Aさんが現れるかもしれないんだぜ?」
鴻池の予測では、A、すなわちアンヌは小細工をせず、まっすぐに西東京支部を、それも黒いエンデュミオールを攻撃してくるはずだ。
「ま、相変わらずという意味では、わたしたちもだけどね」
「せやな。なんせそろって海水浴に来てるわけやし」
そのまま会話は途切れ、やがて来た電車に乗って、浅間市へと帰る。バイトだった隼人はもちろん、一日遊んでいたからだろうか、女の子たちの元気もない。
しばらく窓の景色を眺めていたその車上、隼人はぽつりとつぶやいた。
「……このままで、いいんだろうか」
物問いたげに注目されて、隼人は少し声を低めて続けた。
「俺たちがAさんにうまく対処できる。そんな自信が持てなくて、さ」
「まあね」と理佐は腕を組む。
「わたしたち、あの公園での仕事以来、現場がないものね」
おまけに例の全国一斉奇襲作戦で、バルディオールは多数が捕らえられた。逃れたバルディオールたちも潜伏中で、したがって全国的に『あおぞら』の戦闘ボランティアは開店休業の状態だ。近い支部同士で模擬戦をやるかという話まで、先日開催された支部長会議では話題に上ったほど。
ちなみに、その会議でもう1つ話題となったことがある。それは、倒したバルディオールたちから取り上げた黒水晶の処置のこと。黒水晶は現在、会長の指示で某所に秘蔵してあるらしい。
『なぜ、ブラックに渡して滅失させないのか』
先日開催された支部長会議で問われた会長――彼女も潜伏先からWEB経由での会議参加だったようだ――は、こう答えたという。
『全部滅失させることは、逆に敵を有利にするからよ』
「……会長の言ってる意味は分からないけどさ」と優菜は自らを奮い立たせるように顔を上げて言った。
「まあとにかく、近々くるその、Aさんを目いっぱい叩くだけさ」
そこで電車が浅間駅に着き、改札へと向かいながら、隼人はそれでも気分がすっきりしなかった。
「隼人君――」
理佐が隼人の顔をのぞきこんでくる。
「気になるのはわかるわ。ボランティア始めて3ヶ月ちょっとだもんね」
「ああ、そっか」と優菜も手を打った。
「あたしは4年ちょっと、理佐は中1からだから……」
「「ええ?! 理佐ちゃん、中学校からもう雪女なの?!」
「ちょっと! 声が大きい! っていうか、雪女って言わないで!」
昇降客に注目されて軽く赤面した理佐がちょっと可愛いと思う隼人であったが、それはともかくやはり不安は残る。隼人だけじゃない。ミキマキだって経験が浅いのだ。
バイトに向かう優菜や美紀と別れ、理佐と2人で帰る。彼女が何か言いたそうにチラチラ見てくるが、あえてこちらからは振らない。たぶん、水越のことだろうから。隼人は別の、彼と彼女の話題をこちらから振ることにした。
「このままだと、横浜の演奏会に行くのもお流れになりそうだな……」
「そんなこと、させないわ」
「いや、どうやって――」
「Aに勝てばいいのよ」
もはや"さん"付けすらせず、理佐は前を見たまま言い切った。
そうだなと答えながらも、隼人の仰ぎ見た夕空は雲が出始めていた。