第5章 この先につながる未来3
1.
7月27日、月曜日。その日は、最近のお天気模様にしては珍しく、雨が降っていた。
隣野市民病院の正面玄関は、平日の午後ともなれば訪れる人は見舞客くらいのものである。あるいは、今この時のように、退院する者を迎えに来るか。
隼人となごみがくるみの荷物を持って正面玄関まで来ると、くるみの父が待合の椅子から立ち上がった。相変わらず趣味の悪い服装。いかにも風俗営業の経営者でございという装いで身を包んだ父は、しかし隼人の記憶にある姿とは違っていた。
(ちょっと縮んだな)
確かもう60を超えたはずの継父の髪は真っ白で、仕事柄さすがにきっちり整えられてはいるものの、老いと苦労は隠せない。その父が、くるみに付き添ってきた看護師に、丁寧に頭を下げた。
「お世話になりました。……ほれ、くるみも」
言われてくるみも振り返ると、ぺこりとお辞儀をした。隼人となごみもあわせて会釈をし、それで看護師との別れとなった。正面玄関の軒先で、なごみが車を回してくるのを待つ。
「隼人、お前はどうする?」
このあと、親子でご飯を食べに行くらしい。隼人が考えていると、くるみに腕を取られた。
「お兄ちゃんと一緒にご飯が食べたいの。ね? いいでしょ?」
くるみがそう言うなら、と隼人は答えた。
「じゃ、オレとお前で割り勘な」
「親父、相変わらずだな……」
せこい。この継父の思い出は、いつもこのキーワードがタグ付けされて、隼人の記憶内で管理されている。店のほうは繁盛しているのだから、せこさは私生活でのみ発揮されているのだろうが。
退院したてのくるみに配慮して、なごみの運転する車は市内の和食処へと向かった。『ステーキ食って景気付けしようぜ』という継父の冗談に隼人もなごみも無視で答えて、車はこの微妙な家族を運ぶ。
「なあ、隼人」
「ん?」
「あいつのところには、帰ってるのか?」
「ご冗談を」
"あいつ"とは、継母のこと。大学進学のために家を出て以来、一度も帰っていない。
「お前な、仮にも息子なんだから、正月くらい顔を見せに行くべきだと思うぞ」
「"仮"じゃなくて"義理"だろ。関係ないじゃん。そういう親父は行ってんのかよ」と隼人は反撃。
「もちろん」継父は後部座席で胸を張る。「行ってない」
「だろうな」
継父の場合、妻――つまり継母から開店資金を借りて、いまだに返済を続けているのだから、金主にあいさつはいらないのか。そう聞いたら、心外だと言われた。
「ちゃんと年賀状は送ってるぞ」
「あんたそれ、完全にただの知り合い扱いじゃねぇか」
「別にいいんじゃない?」となごみが運転しながらぼそりとつぶやいた。
「向こうも会いたくないでしょ。わたしもあいつには会いたくないし」
くるみが後部座席で息を飲んで身をすくめる音を、隼人は聞き逃さなかった。
この"あいつ"とは継母ではなく、その息子の真吾のこと。実母の威光を笠に着て、真吾は隼人たちに何かとつっかかり、いじめを繰り返してきた。特に、か弱い義妹2人への攻撃は性的なものまで混じる執拗さ。ゆえに隼人がバイトでどうしても家を開けなければならない時は、2人を千早か圭の家に行かせていたほどだ。
そんな会話をしながら着いた和食処は、もう2時を過ぎているにもかかわらず混んでいる様子。10分ほど待って、奥まった座敷席に案内される。
「なるほど」
なごみが憮然とした表情。隼人が問えば、
「お父さんのカッコで、要注意人物扱いされたんだわ」
そういえば、この席に向かう途中がちょこちょこ空いてたよな。
「失礼な! このイカした格好がわからんなんて、客商売として――」
「今度ここに来るときはサムライの格好してくれ、親父。和食にさぞ合うだろうからな」
くるみが吹き出し、続いてなごみもくすくすしだした。
「まったく、隼人君は大人気で結構でございますねー」
ガキみたいに拗ねる継父が、ちょっとキョドった様子のお店の人に冷酒を頼み始めた。まるでついでのように食事を注文すると、隼人のほうに向き直る。
「隼人、お前も飲め」
「飲めねぇよ。夕方から塾講師だっつーの」
「お父さん――」となごみが釘を刺す。
「お兄ちゃんに迷惑掛けないで。お兄ちゃんにもしものことがあったら、わたしとくるみの野望が潰えちゃうんだから!」
「なんだよ、野望って」
と聞きながら、継父は早々に届いた冷酒をお猪口に手酌で注ぐ。
「お兄ちゃんにがんばってもらって、今のこの生活状況から引き上げてもらうのよ。前々から言ってるじゃない」
「あー、あれか。無理無理。蛙の子は蛙。こいつもどうせ女に頭から喰われておしめぇだよ」
カカカ、と笑い出した継父の笑いは、すぐに凍りついた。くるみの涙目に、そして――
「消えて。お父さん」
彼の横から放たれる、なごみの冷たい視線と言葉に。
「こら」
隼人は対面に座るなごみの顔をのぞきこむと、デコピンをかました。
「親に向かって言う言葉じゃないぞ、なごみ」
むー、と額に手をやったなごみの表情が元に戻ったのを確認したところで、食事が来たので隼人は席に座り直す。
(邪魔はさせない。誰にも)
なごみのつぶやきを聞き流しながら。
2.
アンヌは自宅マンションの一室で、先遣隊として派遣されていた家臣の一人から、レクチャーを受けていた。目の前には、今は亡きバルディオール・フレイムが収集した『あおぞら』の資料がある。
支部の所在地をざっと読み飛ばす。本部というべきものはないらしく、支部長会議もどこかの支部で不定期開催。そもそも一般のスタッフには開催予定日さえ知らされていない、とフレイムの報告には有った。
(たしか、スタッフの一人を盗聴していたんだったな)
そのやり方は不快だが、必要であることは十分承知している。
「では次に、例の黒い奴のいる西東京支部ですが――」
家臣がアンヌの目の前に差し出したのは、西東京支部のスタッフリスト。もちろん『あおぞら』公式のものではなく、フレイムが盗聴した音声から抜き書きしたスタッフの氏名と、どこで盗撮したのか一部のスタッフの顔写真が付いている。
その写真の1つに、アンヌの目は釘付けになった。
(これは……!)
心の動揺を目の前の家臣に悟られないように、その写真の付けられたスタッフプロファイルを見つめる。
(Yuuna TADOKORO ……ユウナ……まさか、あの時の?)
写真はいかにも盗撮らしい、遠目からの横顔。先日アキバでショップへと向かう途次の情景が、アンヌの脳裏に再現される。
(似ている……まさか、監視されていたというのか?)
予期せぬ事態にじっとりと手のひらに汗をかきながら、アンヌはスタッフリストを眺め、再びある人物の上に目を留めた。
(この男、ユウナと一緒にいたな。となると……)
1人なら、偶然。2人なら、必然。
「お嬢様。何か不審な点でも?」
心配げな顔の家臣を手振りで下がらせて、アンヌは立った。窓辺に寄り、カーテンを少しだけ開けて、眼下の街並を見下ろす。
どれほどそうしていただろうか。背後に立った控えめな足音に振り返ると、執事のベルゾーイが直立不動で、しかしあくまで穏やかな顔で控えていた。彼の手にした盆からワイングラスを取って、アンヌはまた窓と向き合う。
「監視、されているのだろうか?」
「とおっしゃいますと?」
壮年の執事が発した反問に応えて、アンヌは疑念を説明した。
「恐れながら、杞憂と考えます」
「なぜだ?」
「私めが陰からお嬢様をフォローしていたことは、ご存じかと思います」
とベルゾーイは姿勢を崩さず話し始めた。
「お嬢様がかの日本人たちと別れてのち、お嬢様に親しげに接触してくる者はおりませんでしたし、先の者たちも付近をうろついたりはしておりませんでした。単なる偶然であり、杞憂と考えます」
「そうだな……」
「迷って、おられますか?」
「いや」
アンヌはワインをぐいと飲み干すと、莞爾と笑った。
「小細工ならば、嗤って切り捨てるところであった。偶然ならば――」
近づいてきたベルゾーイの盆に空のグラスを戻し、彼女は眼に力を込めた。
「心置きなく味わえる」
3.
「お疲れさん。はいこれ、今日の分」
7月28日。今日の午前は単発バイトに費やした。手渡された日当をボディバッグにしまいこんで、隼人は現場を後にする。
(腹減ったな)
コンビニ飯か、それともどこかで食べるか。汗を拭きながら隼人が隣野駅にむかって歩く道すがら決めかねていると、まさに誘惑そのものの匂いが流れてくるではないか。
その根源、道沿いの中国料理店は、隼人にとって思い出の場所だった。
まだ女に狂う前の父と、優しかった母。何度か連れられて、ここで食事をした覚えがある。あまりのおいしさに詰め込めるだけ詰め込んで、夜腹痛でうなる。『言わんこっちゃない』と顔をしかめる父と、そんな父をなだめながらも介抱してくれた母の記憶が、もう戻れないあのころの自分が脳裏に蘇る。
『青山飯店』と看板を掲げた店の前に立ってしげしげと眺める。店構えは、記憶と違って妙にきれいだった。リニューアルでもしたのだろうか。『お店ってリニューアルしちゃうと、味が落ちるよね』ってこのあいだ言ってたのは、るいだった。
(ま、俺には関係ないし)
雑巾舌の自覚がある隼人は、店の戸を開けた。30席ほどの店内は空調が効いていて、2時過ぎという時間帯ゆえかお客も1組のみ。
「いらっしゃ……!」
店員の掛け声が途中で止まる。聞き慣れたその声、見慣れたその顔。
優菜だった。
「いらっしゃいませなにになさいますか?」
「……なぜに棒読み?」
お冷とメニューを机に置いて、テーブルの傍に立つ優菜。表情は『なんでこんなところに』と『見つかっちゃった』をない交ぜにしたもの。服装は中国料理屋の店員らしく黒っぽいチャイナドレス風のお仕着せなのだが、
「で……なんでズボン履いてんの?」
「め く る な !」
裾をつまんでめくった指を、優菜に思いっきりつままれてしまった。
「お客さ~ん、踊り子はお触り禁止だよ~」
「誰が踊り子ですか! 店長!」
厨房から顔をのぞかせた男性の、なぜかのんびりした口調での注意に優菜が鋭く反応する。と、少し離れたテーブルにいた、常連客らしいオジサンとオバサンのグループがどっと沸いた。
「いやあ、お若いの。キミはわかってるねぇ!」
「そそ、せっかくかわいい子がいっぱいいるのにさ、もーちょっとこー、扇情的なコスチュームで客寄せをしたほうがいいと思うんだなぁ、ぼかぁ!」
確かに、ほかのバイトの女子もなかなか可愛い。そう思った瞬間、隼人の脳天に優菜の右拳がねじ込まれた。
「な に 品 定 め し て ん だ このエロ猿がぁぁぁ!」
「優菜ちゃ~ん、お客さんには優しくねぇ~」
「こいつには優しくしなくていいんです!」
「いいわけあるかよ痛い痛い痛い!」
余計なリアクションをしたせいで、隼人との関係を問われてしぶしぶ答えている優菜。それを尻目に、隼人は頭の天辺をさすりながらメニューを開いた。
『今日のランチ』や『おすすめの一品』をざっと読み飛ばして、たしか昔食べてうまかったのは……
「牛肉飯と小龍包、お願いします」
「お兄さん、ここ、初めてじゃないね?」
と尋ねてきたのはオバサン。テーブルの上に空のビール瓶が林立しているのを見るまでもなく、濃い化粧の下から透けて見えるくらい顔が真っ赤だ。真っ昼間なのにだいぶ飲んでいるとみえる。
隼人が昔の話をすると、常連客一同はさもありなんと頷いた。
「10年くらい前っていったら、先代が鍋振ってた時だね」
「そそ、もう混んでる時しか厨房に出てこないけど、あの人の作る丼物はうまかったなぁ」
「あたしは小龍包に中華おこげが定番だったね」
もう一人のオバサンがタバコをふかし、懐かしそうに天井を見やる。
その後しばらくこの界隈の昔話で盛り上がった後、常連客たちは帰っていった。厚化粧のオバサンの店で、もう一度飲み直すんだそうだ。
(昼間からそんなんで、いいのか? お店)
そんなことを考えながら文庫本を読んでいた隼人がふと気が付くと、客は彼だけになっていた。店の柱に吊るされた時計を見ると、もう2時30分である。
「お待たせしました、っと」
優菜が注文の品を持ってきた。と思ったら、牛肉飯がもう一つ。
「おお、もしかして2倍キャンペーン?」
「んなわけないでしょ。あたしもこれからご飯なの」
賄いを友達と一緒に食べといでよ、と店長に言われたらしい。
「いつからここのバイト始めたの?」
「ん? 先々週からだよ」
そう答えた優菜は律儀に手を合わせて、いただきますをした。隼人もつられて手を合わせ、レンゲ一杯に取った牛肉飯を口に運ぶ。濃い目のあんかけに絡まった牛肉の小片と細切りの筍、小ぶりにカットされた白菜、そしてほかほかのご飯。それらがレンゲを離れたとたん、口の中でほどける。
「うん、うまいな。久しぶり」
「ああ、子供のころ来てたんだって?」
優菜も同じくレンゲで、こちらは女の子らしく少しずつ口に運びながら聞いてきた。
「うん。実の親父とお袋と、一緒に」
「あ……そっか……」
以前隼人から聞いた家庭事情を思い出したのだろう、気まずげな優菜に笑いながら手を振って、隼人は小龍包を一つ口に放り込む。アツアツのスープが口中に広がってジタバタして、
(子どもの時もやったな、これ)
「なにやってんのよ。はい、お冷」
待っている間に飲んで減ったお冷を優菜が注いでくれた。それをごくごくと飲んで、ほっと一息つくと、隼人は牛肉飯に再び取りかかりながら優菜を見た。
「そういえば、前はどこかのショップでバイトしてなかったっけ?」
「ん……あれさ、モトカレの紹介で入ったところだったから。居づらくなっちゃって、ね」
今度は隼人が気まずくなる番。
「ごめん……」
「ううん、いいんだ。……もう、アゴ」
「ん?」
優菜がおしぼりを隼人のアゴに押し付けてきた。そのまま左右に拭いてくれる。
「もうちょっと落ち着いて食べなさいよ」
「ん」
拭き終わって満足そうな優菜にお礼を言って、隼人が食事を再開しようとした時。
隼人の携帯がメールを受信した。
「理佐から?」
「そだね……今、中華料理屋でメシ――」
優菜が席を立って、隼人の腕に手を添えてきた。
「あたしがバイトしてるってメールしないで。できれば、この店で食べてることも」
優菜の眼は至って真剣で、その勢いに押された隼人は素直に当たり障りのない文面で返信した。
ごめんね。そう言いながら戻った優菜に笑いかけて、尋ねる。
「なんで秘密にするの?」
「ん……ほら、このあいだのこと、いまだに理佐が根に持ってるみたいで、何かとうるさいんだ」
"このあいだのこと"とは、あの雨の晩のことだろう。
「んじゃ、るいちゃんとかにも――」
「あ、うん。そうしてくれると助かる」
そう言った優菜の顔が怪訝そう。
「……何?」
「いや――」隼人はニヤニヤが止まらない。
「オトメちゃんも大変だな、と」
「! もう! こんなとこでやめてよ。バカ……こないだも言ったでしょ、変な呼び名付けて楽しいの?」
「変じゃないってば。あの封筒にあの便箋。あんなの渡されりゃ、な」
おまけにあの字にあの文面、と続けようとして、隼人は脛を優菜に思いっ切り蹴られた。
「んとにもう……。捨てた? あれ」
そういえば『捨てて』って言ってたっけ、こないだ。脛の痛みに顔をしかめながら、隼人は答えた。
「ああ」
「よかった」
「ちゃんと食ったよ」
「嘘?!」
「うそ」
「バカ……」
夕方の掻き入れ時も終わって、今日の優菜は上がりとなった。
控え室のちゃぶ台の前に座って、供されたプーアル茶を飲んで、ほっと一息。
(今日は何事もなく終われたな。あいつが来たこと意外は……)
「ゆーなさん」
突然背後からかけられた少女の声に、隼人のことを考えていた優菜は仰天した。
(相変わらず気配がしない子だな)
優菜が苦笑しながら振り向くと、予想通り、この家の長女がいつものおすまし顔で立っている。
小学校5年生と聞いているが、なかなかのおませさんな彼女。お人形さんのような端正な顔に付いたおちょぼ口が開いて、優菜への質問をつむぎだした。
「今日の男の人、ゆーなさんの彼氏さんですよね?」
一瞬思案して、優菜は微笑んだ。
「違うよ。残念ながら、ね」
その答えに反応があったのは、長女の背後からだった。
「いえーい! んじゃデザート、いっただき~!」
どうやら今の優菜の回答には、夕食後のデザートが賭けられていたらしい。ぴょんぴょん跳ねながら奥の台所へ駆けていく次女とは対照的に、長女は眉根を寄せて立ちすくんだまま。優菜がリアクションに困っていると、うつむき加減なおませさんがつぶやいた。
「くっ……連勝記録がここで途切れるなんて……わたしの見立てが外れたことなんてなかったのに……不本意だわ……」
おかっぱ頭を揺らしながら小さくため息をついて奥へ消えていく長女。彼女の背中を見送って、優菜も一つため息をつくと立ち上がって帰り支度を始めた。