第3章 一網打尽とクッキーと
1.
早紀が目を覚ましたのは、闇が支配する部屋。それは夜型の生活をしている彼女にとって、見慣れたいつもの情景である。彼女は起き上がると、枕元にあった煙草を1本取って火を点けた。
深く吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。彼女にとっての眼覚めの儀式を5回ほど繰り返して吸殻を灰皿に落とした後、
「よし」
と声に出して、早紀はベッドから降りた。そのままシャワーを浴び、寝汗を落とす。『寝るときは全裸』派の彼女にとって、これもまた、今からの"お仕事"に入る前に必要な流れの一つなのだ。
下着を着て、テレビをオンにする。たちまち部屋を満たし始めた番組からの音を聞き流しながら、パソコンを起動。メールをチェックするも、目新しいものはない。
(確か、エペが来たはずだよな)
まあいいか。
しばらく考えた末の、それが早紀の出した結論だった。
最近、どうも本国の様子がおかしい。相矛盾する命令が錯綜しているのだ。どうやら主導権争いの暗闘が行われている匂いがする。
(そういうとこだけは、ほんと悪の組織っぽいよな、うちって)
早紀はまた煙草に火を点けながら思い浮かべる。一人の男性の顔を。
伯爵。
初めて出会った、というのが僭越ならば、知遇を得られたのは5年前だったか。
古城を巡るツアー。その目玉の一つが、『現代に生きる貴族に謁見できる』というものだった。オプションで中世の装束(もちろんレプリカだが)を身にまとうこともでき、そういう趣向が気に入って恭しくロールプレイしている輩もいた。もっとも、伯爵本人はともかく、彼の周りを固めるフランク人たちの目は、明らかに『この黄色いサルが』と語っていたが。
(まあ、そうなるよな。逆の立場なら歓迎してあげるけど、な)
だいたい、フランク語にしか反応しないとか、サービスする気ないことがあからさま過ぎてドン引き。そういうのに快感を感じるMっ気も彼女にはない。だから彼女の番が来た時は、思いっきり日本語でしてやった。
取り巻きの険しい面と対照的な、伯爵の穏やかな笑顔。ああ、あとツアー客たちの凍りついた表情。ツアーコンダクターに呼ばれて、きっとオイタが過ぎたんだろうなと漠然と思いながら連れて行かれた先に待っていたのは、あの伯爵だった。そして誘われたのだ。
『私が日本を支配する手伝いをしないか?』と。
黒水晶で変身してみて、彼女は確信した。面白い。面白すぎる。
それから伯爵配下のバルディオールとしてディアーブル討伐で経験を稼ぎつつ、時を待った。日本に戻ってきたのは2年前。各自が割り当てられた地域でエンデュミオールと戦いつつ、地脈の噴出孔を探す。3カ月に1回どこかに集まっての状況報告会以外は束縛のない、いかにも鷹揚な伯爵らしい仕置だった。なのに。
あいつはなんと言ったか。そう、フレイム。奴が日本に来た頃から空気が変わった。
伯爵のお言葉が徐々に、余裕を保ちながらも厳しいものとなった。最近はそもそもお言葉が届くことはない。代わりにしゃしゃり出てくるのが、あのガントレット。伯爵に一番近い親族にして最側近だから当然とはいえ、あのこちらを見下した物言いにはマジむかつく。
おまけに、エペを一人で日本に送り込んでくるとは、いったいどういう了見なのか。
総司令官代理様の命令だそうだが、どうにもこうにもあからさまに怪しい。まさかエペの実力でエンデュミオールどもに不覚を取ることはないだろうが、東京にいる黒いエンデュミオールのこともある。黒水晶を破壊できるという強力な相手だ。万が一ということもあるではないか。
その黒いエンデュミオールを潰す。そのための作戦を練っていたのがミラーだった。地脈の探索をいったん打ち切って東京に集まり、西東京支部に攻撃を仕掛ける。無論ただの力攻めではなく、かの支部を内偵し、変身者を特定したうえで日中に襲う班も編成する予定だった。
どんなに強力でも、日中はただの女。数の暴力には勝てまい。情報を入手するため、伯爵家が手なずけてある警察内部の犬に渡りをつけるべく、伯爵家に打診までしてあった。
にもかかわらず、計画は成らなかった。
"事を荒立てるな。大げさに過ぎる"
それが伯爵家、いや、ガントレットからの回答だったようだ。そしてミラーは単身――姉を黒いエンデュミオールに殺された彼女の復讐心が強すぎる、とも指摘されたようだ――西東京支部に戦いを挑み、消息不明となった。伯爵家からの連絡では、彼女の黒水晶は破壊されたらしい。ということは、彼女も……。
早紀はバルディオールに変身しながら考える。エンデュミオールに対していささか劣勢とはいえ、当初の目的である地脈の噴出孔があると思われるポイントはあらかた探り出し、本国へ報告してある。そろそろ次の段階、すなわち伯爵家の先遣隊が登場する頃合いだ。それがエペ1人なはずはない。他のメンバーの到着が遅れているのだろう。
(てことは、悪の組織の法則としては、シタッパーは用済み? 伯爵様がそんなことするはずないけど、でも、あのガントレットなら……)
彼女はベランダに出て外へ飛び出しながら考え続けた。そしてその熟考ゆえに周囲への警戒を怠ったことが、致命的な隙となった。
突如、緑色のエンデュミオールが彼女の真上から降ってきたのだ! 慌てた早紀が避ける間もなく組みついたエンデュミオールは、そのままスキルを発動してマンションの6階から早紀とともに落下。必死にもがくも振りほどけず、悲鳴を上げる間もなく駐車場のアスファルトに叩き付けられて、沙紀の意識は途切れた。
2.
致命傷を与え、淡い光がバルディオールだった女性を包み込むまで見届けて、エンデュミオール・ゼフテロス――圭はふうっと息を吐いて女性の身体から手を放した。そのそばに、上から人が降ってくる。
「お疲れ、ゼフテロス」
ゼフテロスがバルディオールを捕まえ損ねた場合の第2波として、向かいの棟の屋上で待機していたプロテス――千早が、こちらはスキルで身を軽くしてふわりとアスファルトに降り立った。
遅れてばらばらと仲間たちやサポートスタッフもやってくる。まだ住民が起きている時間帯ゆえ歓声を上げることはないし、今の墜落時の轟音で住民が飛び出てくる前に撤収せねばならないが、あっさりと敵を片づけられたことにどの顔も安堵と喜びが浮かんでいる。
「さすがゼフちゃん、剛力だね」
パンツスーツの膝に付いた土埃を払っていると、黄色い髪のエンデュミオールが頭を撫でてくれた。バルディオールのもがきに負けなかったことを言っているのだろう。素直に先輩に褒められていたゼフテロスだったが、事後処理に動くサポートたちを見ながらふと眉を曇らせる。
「ん? どしたの?」とプロテスが問いかけてくると、ゼフテロスはプロテスではなく先ほどの先輩に声をかけた。
「今回の作戦って、全国一斉のなんですよね?」
「え? ああうん、そう聞いてるよ」
なでなでを止めた先輩が髪を掻き上げながら答えると、ゼフテロスは疑問を続けてぶつけた。
「このマンションに、いやここだけじゃなくて、全国に散らばって潜伏してるバルディオールの居場所の情報を、どこから入手したんでしょうね?」
『ああ、それなら、会長からだよ』
首をかしげる先輩の代わりに無線機越しに答えてくれたのはアルファ、すなわち横浜支部の支部長だった。続けて撤収の号令が出て、皆で車まで走る。
「今ごろ、ですか?」
『今ごろって?』
「だってそうじゃないですか」とゼフテロスは続けた。
「今まで姿を見せるどころかメッセージ一つ送ってこなかったのに、急にやる気を出して全国一斉奇襲作戦なんて。何があったのかな、と」
そう、これは会長立案の作戦。バルディオールが居所から出てくるところに奇襲をかけて潰す、というもの。しかも、日本各地に散らばるバルディオール全ての居所を、だ。
なおも支部長に尋ねようとしたゼフテロスだったが、サポートチーフから撤収の合図がかかり、車へと足を向けた。
そう、会長の態度も不思議だけど。ゼフテロスは車内で変身を解除しながら考える。これだけの情報を、会長はどこから入手したんだろ?
3.
「――以上が、『あおぞら』側からの作戦結果報告となります」
鷹取家参謀部主任参謀である仙道たずなは報告を終え、鷹取家の総領のほうを向いた。
鷹取屋敷のちょうど中央あたりにある広間の一室で、今回の会議は開かれている。上座に座る総領の右隣りには分家である海原家の当主とその娘の琴音、そのまた分家扱いの蔵之浦家当主・鈴香が座っている。反対側に陣取っているのは参謀長と副参謀長など参謀部のスタッフ。総勢10名がこの会議の出席者だった。
総領が問う。
「まず、あなたの評価から聞きましょうか。鴻池さん」
鴻池は、たずなの隣に座っていた。のんきな顔で茶を啜っていたが、突然の指名に慌てて湯呑を机に置くと、あごに手を当ててしばらく考えたのち、口を開いた。
「逃したバルディオールが6人いるというのは、ちょっと残念です」
「全体の3分の1ですものね」と総領が受ける。
「しかし――」
「しかし?」
総領のオウム返しに、鴻池は目を細めて応えた。
「治癒スキルを持っている奴らを、全て捕らえることができました。その点は成功と言っていいかと」
その言葉を、鷹取家側の出席者はよく理解できなかったようだ。もっとも、たずなにだってよく分からないのだが。
「その治癒スキルというのは、それほど重要な要素なのですか?」
問いを発したのは、海原家の当主である雪乃。総領の1つ年下で、海原家の人らしいほっそりした顔に歳相応の穏やかな表情を崩さないご婦人だ。
「ええ。外傷なら、死なない限り治癒できますから。たとえ腕や足がちぎれても、ちぎれ飛んだ細かい部分以外は元の場所にくっつけることができます」
「つまり、不死身の戦士が作れるということかね?」と、ちょっと勢い込んで鴻池に尋ねてきたのは参謀長。総領より20歳も年上の紳士だが、まだまだかくしゃくとしている。
老参謀長――参謀長は鷹取一族の男性最長老が就任する充て職なので、"老"が付くのは当たり前なのだが――の問いかけに首を振って、鴻池は答えた。
「怪我をすれば、体力を削がれます。それが重傷なら猶更なことは、ご理解いただけると思います。瀕死の重傷を治癒しても、その者は少なくともその日はもうリタイアです」
「なるほど」と琴音が腕組みをしたままうなった。
「ゲームとかでよくある"体力回復"じゃなくって、あくまで怪我の"治癒"いうことなんですね」
「はい」と鴻池は頭を下げて、合いの手を琴音がうまく入れてくれたことに謝意を示した。説明を続ける。
「伯爵側はこれで、かなり戦術的には不利になりました。逃亡したバルディオールたちが追手と戦闘になった場合、」
鴻池は一息入れると続けた。
「ほどほどで、あるいはヤバくなって退却しても、怪我の回復は自然治癒に任せざるを得ません。早期治療のため病院にかかれば――」
「そこから足がつくんだ。なるほど」と鈴香がポンと手を打った。
「もちろん、彼女たちが治癒スキルを新しく身につければ、話は別です」
と鴻池は忘れず付け加えた。ここで雪乃が挙手して発言を求める。
「それで、その方たちを追い込むための警察への連絡ですけど、どうします? まだしてないですよね?」
その件についてはたずなにも、『あおぞら』にも判断が任されていない。今彼女に求められているのは、参謀としての助言である。彼女は息を吸い込んだ。
「私としては、直ちに連絡して協力を仰ぐべきかと――」
「それは違うな」と突然割り込んできたのは、たずなと同じく主任参謀の袴田だった。丸い目をぎょろつかせ、たずなを見据えてくる。
「我が鷹取家からでは強制力が効き過ぎる。『あおぞら』からやらせるくらいがちょうどいい」
「どーしてですか? どうせやるならワンクッション置かずにやったほうがいいんじゃないですか?」
反問してきた鈴香にギョロ目を向けて、袴田は答えた。その声色に鈴香をいささか見下す雰囲気を感じるのは、たずなの気のせいなのだろうか。
「我が鷹取家からの要請は、警察の上層部にダイレクトに届きます。当然、現場への指令は重いものになります。『あおぞら』が警察にどれほどのコネクションを持っているか知りませんが、重みが違います。となれば、現場への伝達の過程でそれを握り潰したり、そこまでしなくとも軽んじる輩が出てくるでしょう」
いったん息をついで、袴田は出席者を見回した。
「それが伝達経路のどこであったかを探ることで、伯爵への協力者を炙り出せます。現時点ではまだこの程度しかわからないのですから」
彼が指でつまんで持ち上げたのは、琴音が用意した資料の一つ。警察内部に巣食う、"伯爵"への協力者と推定される人物のリストだ。鴻池の通報からまださほど日が経っていないこともあり、末端レベルの関係者しか判明していない。
「なるほど」と口にした琴音とその母の穏やかな無言を肯定と見て取って、袴田が総領を見やる。
「いいでしょう。仙道さん、『あおぞら』にそのように連絡してください。それから、アンヌさんがこっちに来ていることも」
「そうですね」と琴音が総領の言葉を受けてたずなのほうを向いた。
「今のところ、秋庭原をショッピングしたりして観光客を装っているようですけど、まさかこの時期に観光オンリーということもないでしょうから」
承った印にたずなは頭を下げ、同時に、得意げな袴田のにやつきを視界から消した。
4.
会議はいくつかの確認事項を確認して終了。琴音は会議室の外に出て、かなり離れたところで背伸びをした。鈴香もつられて伸びをしたのを見つけて2人で笑っていると、母の雪乃が話しかけてきた。
「琴音、私は先に戻るわね」
「え? おば様は一緒に行かないんですか?」
と鈴香が残念そう。これからまた、沙耶の部屋を訪れる予定なのだ。
「蟄居が解除された時のお祝いは盛大に――って言うのは不謹慎かしらね、ちゃんとするから」
そう言って、雪乃は2人に手を振って帰っていった。
じゃあ行こうか、と言いかけた琴音だったが、親友の厳しい表情に気づいた。その表情のまま音もなく歩き始めた鈴香に倣って、琴音も無音で動く。
鈴香が身を寄せた角の向こう。そこは参謀部が置かれた部屋へ続く渡り廊下で、談話スペースではないはずなのに、人の声が聞こえる。あのだみ声は、袴田だ。
「随分とくやしそうだな」
「滅相もありませんわ。さすがは袴田参謀。私ごとき戦術屋にはとてもできない判断ですもの」
と答えているのはたずなか。さすがというべきか、いつもの柔らかい声色に変化はないように聞こえる。
「ふん」といかにも小ばかにしたように鼻を鳴らして、袴田は続けた。
「戦術屋、ね」
用が済んだらしい袴田の足音が遠ざかる。「服屋の女店長風情が」という捨て台詞を残して。
このままたずなのところへ行こうとした鈴香の襟をつまんで、琴音は沙耶の部屋へ直行することを選んだ。かなり離れたところで襟を離すと、くるりと振り返った鈴香の頬はぷっくり膨れている。
「なんで襟を引っ張るのよぉ、もう。たずなさんに声かけちゃいけないの?」
「だめよ」と琴音はにべもなく言った。
「たずなさんなら、自分で気持ちの整理ができるわ。わたしたちよりずっと大人なんだもの」
「でも……むかつくあのチョビ髭」
鈴香は、琴音に並んで沙耶の部屋に向かいながら吐き捨てた。
「まあそう言わないで。袴田さんにも自衛隊出身っていうプライドがあるのよ。それに……」
「それに?」
「確かもう50歳。あと10年で定年だから、副参謀長で上がりにしたい。小野副参謀長さんはあと2年だからね。それには、たずなさんは邪魔なのよ」
そう鈴香に解説しながら、琴音はいささか憂鬱な気分になる。
たずなは、沙耶、琴音、鈴香という鷹取一族の次代を担うと目されている者たちと近しいがゆえに取り立てられたと、一部の人間からは見做されている。彼女が4年前の疫病神撃退の時に上げた作戦立案と指揮の実績を、そういった人間はあえて忘れているようだ。
女の分際で、とはさすがに言われない。鷹取の"血力"を使う女性、“巫女”が妖魔討伐の最前線を担う鷹取家一族において、それは自己否定とほぼ同義である。
そう、益体もないことを言っているのは鷹取の血を引く人間ではないのだ。
琴音の憂い顔を、鈴香が覗き込んでくる。いつのまにか琴音は立ち止まっていたらしい。その心配げな表情に微笑むことで親友を安心させて、一転琴音は後ろを振り返った。
「美玖ちゃん、何か御用?」
その問いに答えて、廊下の角から見えていたポニーテールが揺れて一人の少女が顔を出した。鷹取家のもう1人の総領候補者・鷹取美玖が、微笑みながら近づいてくる。
「さすが琴音様ですね。お考え事してたから、もっとストーキングできると思ったのに」
「美玖ちゃん、琴音をストーキングしてどーすんの?」と鈴香が呆れている。美玖は屈託なく笑った。
「えへへ、今度クラスの男子にやってみよっかな、と思いまして。練習練習、ですよ」
「まあ、おませさん」と琴音もころころと笑った。
「小学2年生がそーいうこと言うもんじゃありません」
琴音もなに受け入れてんのよ、と脇を肘打ちされる。
「で、どしたの美玖ちゃん? 何隠してるの?」
鈴香にそう言われた美玖は、後ろ手に隠し持っていた何かの包みを琴音たちに差し出し、元気よく言った。
「これを叔母様に渡していただきたいんです。昨日、母と一緒に作ったクッキーなんです」
「まあ! ……わかったわ。ありがとう、美玖ちゃん。お母様にもよろしくね」
「ちょっと! 何言ってるのよ!」とここで鈴香からちゃちゃが入る。
「一緒に行こうよ、美玖ちゃん。直接渡せば、沙耶様だって喜ぶと思うよ!」
鈴香の誘いは、美玖にとって予想されたものだったようだ。すぐに平板な返事が返ってきた。
「申し訳ありません、鈴香様。今からお友達の家に遊びに行くので」
琴音はなおも声を上げようとする鈴香を遮って、
「うん、分かったわ。気をつけて行ってらっしゃい」
はーい、と笑顔を残して、美玖はポニーテールを振りながら去って行った。
鈴香の表情は険しい。
「嘘だ」
「! 鈴香!」
「お友達、ってのは嘘じゃない。でも――」と琴音を見据えてくる。
「沙耶様に会いたい気持ちのほうが強いのに、なんでそんな嘘を――」
不在者に対する糾弾を、琴音は鈴香に抱き着くことで止めさせた。
「ちょ、ちょっと琴音?!」
「鈴香……美玖ちゃんもつらいのよ……でもね、姪まで会いに行ったとなれば、ますます騒音がひどくなるわ。それは鷹取家にとって良いことではないのよ」
まだ不満顔の鈴香。琴音はため息をついた。
「それにしても、こんなことで"力"を使っちゃだめよ、鈴香」
「ごめん……」と鈴香はうなだれて首を振る。
「気をつけてるんだけど、つい見てしまうのよ。ごめん……」
その言葉に、琴音は悄然とする。
「鈴香……」
もはや何も言えず、琴音は鈴香を抱く力を強くする。親友がこれ以上離れていかないようにと念じながら。
5.
「そう……これを美玖ちゃんが……」
沙耶は琴音から受け取った小袋をしばらく見つめると、戸棚から少し小さめの菓子鉢を取り出してテーブルの中央に置き、中身をそっと中にあけた。自分の席に着いてしばらく、またじっとそのバタークッキーを見つめる。
障子を隔てた庭から、敷地内巡回バスの通り過ぎる音が聞こえ、次第に小さくなっていく。
「沙耶様……」
沙耶は泣いていた。両目から零れ落ちる大粒の涙は、テーブルの天面に落ちて、はめ込まれた青貝細工を歪めている。
琴音の脳裏に、あの時の記憶が蘇った。沙耶の涙を最後に見た、2年前のことを。
『ごめんね、琴音ちゃん、ごめんね――』
20秒と持たず叩き伏せられた河原の草地。激痛で起き上がれず、それでも意地で顔を上げた先に見た、沙耶の頬を伝う滂沱の涙。それを思い出したのだ。
4時を打つ柱時計の音で我に返ったらしい、沙耶はハンカチで目元とテーブルを拭くと、2人に微笑んだ。
「ごめんね、待たせちゃって。いただきましょ」
そういってクッキーを1つつまんだ沙耶が口へと運び、すぐに感嘆の声を上げた。
「わ! おいしい!」
それを合図に琴音と鈴香もお相伴に預かることにした。噛みしめると、さっくりとした歯応えのあとに、上質なバターの風味が舌だけでなく鼻孔をもくすぐる。焼き加減も程良く、形の大小が小学2年生の作であることをわずかに思い出させるだけの、上出来の品だった。
しばらく無言でクッキーを次々とほおばっていた3人だったが、沙耶が急に声を上げた。
「あ、いけない。お茶出すの忘れてた」
ごめんごめんと謝りながら、慌てて立ち上がってお茶の支度に取り掛かる沙耶。琴音は手伝いを申し出たが、「すぐできるから、待ってて」と言われて素直に引き下がることにした。
お茶を待ちながら、鈴香が一言。
「ああ、ビールが飲みたくなる美味しさよね」
「あなたねぇ……」と琴音は呆れた。
「糖尿病まっしぐらよ? クッキーをビールでいただくなんて」
「そうかなぁ? これ、甘さ控えめでバターの風味が濃いから、ビールに合うと思うんだけどな」
「ここじゃなくて、『むかい』でやってもらいなさいよ」
琴音が鈴香の義姉の実家である居酒屋の名を出すと、お盆にお茶を乗せて運んできた沙耶が吹き出した。
「いいんじゃない? 木乃葉のお母様、お菓子作りも上手だし」
「そういえば昔、よく『むかい』で食べさせてもらいましたね、ドーナツ」
自分でそこまで言っておきながら、琴音は密かに驚いた。『むかい』、そして"木乃葉"。それは沙耶にとって、苦い思い出を呼び起こすキーワードではないのか。
「そうそう、お義母さんが懐かしがってましたよ。『沙耶ちゃんが来なくなって、ドーナツ作る機会もなくなっちゃったねぇ』って」
鈴香、それはいくらなんでもストレート過ぎるでしょ。琴音は恐る恐る沙耶の顔色を窺う。
「そうよね……あれから2年経つのよね。そりゃ美玖ちゃんもお菓子作りできるようになるわけよね」
意外にも、穏やか。沙耶の声色にはやや湿った感はあるものの、悲しみも嘆きも微塵も感じられない。
ところで、と沙耶がふっくらとした片頬に指を当てて首をかしげた。
「随分量が多いわね、これ。4、5人分かしら?」
そう言われて、琴音も鈴香もはっとなる。たずながまだ来ていないことを、今思い出したのだ。
「――何か、あったのね」
こちらの表情を読んだのだろう、沙耶が問いかけてくる。琴音は会議の結果と、ここに来る前に隠れて聞いた内容を話した。
「そ」
微笑みを湛えたまま一言のみつぶやき、沙耶の目が細まる。
このリアクションも久しぶりだわ。琴音は懐かしささえ感じていた。
「ま、取りあえずはいいわ。それより琴音ちゃん?」
「はい?」
突然話題を変えられた上に指名までされて、さすがの琴音も驚いて声が上ずってしまった。横で吹き出す鈴香を横目で軽くにらむ。
「このあいだとリップが違うけど、そんなにとっかえひっかえ変える人だったっけ? 琴音ちゃんって」
「ああ、それはですね」
と鈴香がにやけ始めた。琴音の肘による刺突を巧みに避けながら話し始める。
「サークルで、ちょっと気になる人ができたんですよ! 琴音の好みにストライクな男子が。ね? 琴音」
鈴香のバカ。琴音の憤慨は、自分のことをバラされただけが理由ではない。沙耶の前で恋愛話を語るなんて、間が悪いにもほどがある。そう思っていたのだが。
「いいじゃない! で、ウチの話はもうしたの?」
「いや、そこはまだ、なんですけどね、あははは」
自嘲気味に乾いた笑いでごまかす。実際、そこが難関なのだ。
疫病神の工作により、鷹取家の妖魔討伐を理解できないヒトがこの現世には多数存在する。工作が効いているか否か。それは打ち明けてみないと判別できないため、告白したけれど、あるいは付き合っていたけれど、打ち明けたあげく終わってしまったという話が鷹取一族には無数に存在する。
それに加えて、この一族には結婚に関する"呪い"もかけられている――これは遥か昔の身内による凶行だったのだが――ため、一族の成婚率は一般的なそれと比べて低いのだ。
「そう、そこなのよね。問題は」
と独りごちる沙耶。琴音が、なにやら意味ありげな沙耶の表情に見とれていると、鈴香が口を開いた。
「沙耶様、お目当ての人がいるんですね?」
「鈴香!」
琴音は声を荒げて親友をにらむ。
「いいかげんにしなさい! さっきの美玖ちゃんの時もそうだったけど、見えたことや思ったことを口に出し過ぎ! 時と場所を考えなさいよ!」
怒られてしゅんとなった鈴香。それを見た沙耶の顔がわずかに青くなった。
「……見えてる? そう、そうなの……」
沙耶はしばらくのあいだ目を閉じて考え込んだ後、伏し目がちに変わって言った。
「……気になってる人はいるのよ。今のところ、いい感じ、ではあるんだけど、ね……」
沙耶が言うには、彼女が勤める大学の同僚講師なのだという。もちろん、鷹取家の話はまだしていないのだそうだが。
「うまくいくといいですね、沙耶様」
琴音は心からの声を沙耶にかけた。沙耶には今度こそうまくいってほしい。
「でも、私、こんな身の上だし……」
「そんなこと、気にしてちゃだめですよ! ね? 沙耶様」
と励ます琴音の横で鈴香がはしゃぎ始めた。
「良かった! 総領様にいい土産話ができ痛ったぁぁい!」
「だ か ら」琴音は鈴香の脇腹をつねった手を放してにらむ。
「思ったことをすぐ口に出すの、やめなさいってば! 沙耶様は蟄居中なのよ? ただでさえ蟄居期間が短いって言ってる人がいるのに」
「あ……!」
琴音にたしなめられて、またしゅんとなる鈴香。
「まったく、おしゃべりも大概にしなきゃ」
「ふふ、まあまあ、スズちゃんも悪気があってのことじゃないから」
とかばって、沙耶がくすくす笑う。
「? なんですか、沙耶様?」
「いえね――」
沙耶のくすくすは止まらない。
「"おしゃべり娘"におしゃべりを止められるなんて、スズちゃんも大概だな、と思って……って、琴音ちゃん? メモはやめなさいメモは!」
沙耶の指摘にためらわず、琴音はいつも持ち歩いている手帳に今得た沙耶に関する情報を書き記すと、これまた常時携行のポーチに収めて、にっこり笑った。
「はい、やめました」
「――って、思いっきり書き終わってるじゃないの!」
沙耶は膨れた。こういうちょっと子供っぽいところも彼女にはあって、琴音だけでなく一族の同年代や沙耶の友人たちからイジられていた。それもまた、琴音にとっては懐かしい記憶。
「失礼します」
たずなが来た。沙耶が膨れっ面をやめて、満面の笑みで出迎える。琴音は鈴香に眼で(さっき聞いたことは話題にしちゃダメ)と念押しして、
「袴田さんに苛められちゃったぁ~」にズッコケた。
椅子に座り込むや泣き真似をするたずなと、よしよしする沙耶。午後は、まったりと過ぎていく。