第1章 Flying Moped Princess
1.
ケーキというのは、暑い中食べるようなものではない。そんなことは隼人にだって分かっている。だからこの、隼人がバイトしているケーキ屋『ヴィオレット』の店内は冷房が実によく効いている。ちょっと効かせ過ぎじゃないですかと店主に聞いたら、
「プリンやゼリーを冷やして提供してるからね。それに暖かいと、生クリームも緩くなってきちゃうし」
なるほど、そういうものか。隼人は自分に貸与された執事服がなぜ長袖しかないのか、やっと理解できた。
今日の喫茶コーナーは8割ほどの混み具合。いつもの美人2人組もいる。店主の奥さん曰く、この界のお店では有名なお客さんらしい。なんでもロングヘアーのほうはお金持ちのお嬢様なんだとかで、ケーキに限らず食べ歩きが趣味らしい。結構な大食漢であることまで奥さんは知っていて、そういう情報はすぐに仲間内で流れると言っていた。
(痩せの大食い、ってやつかな。相方のほうがどっちかというとよく食べそうだけど)
「あの、すみません」
別のテーブルでお客さんが手を挙げた。小走りで行こうとして、隼人は思いとどまる。この間バイト仲間の女の子にダメ出しされたっけ。
『召使いじゃないんだから、もっとゆったり行きなさいよ』
なんというか、執事ってそういうものか? 召使い頭じゃないのか? 執事って。
頭の中に浮かんだ疑問を振り払いながら、できるだけゆっくりと手を挙げたお客さんのテーブルに歩み寄る。紅茶のおかわりを承りバックヤードに向かおうとすると、その客に呼び止められた。
「執事さんは大学生なの?」
隼人が肯定すると、40台半ばかと思われるその女性客はなにやら目を細めて、
「お小遣い稼ぎなの? もしよかったら――」
猫なで声を出しながら、隼人の手を握ってくるではないか。
お客様困ります。そう言おうとした時、背後でお客にまた呼ばれた。
「すみませーん、紅茶のおかわりお願いできますか?」
これ幸いと隼人は目の前の女性客に恭しく頭を下げると、向きを変えて呼ばれたほうへ向かった。声の主は青黒髪の美人さん。隼人を仰ぎ見るその眼が笑ってる。
「ふふ、大変でしたね」
「めっちゃにらんでるよ、あのおばさん」
黒髪さんが先ほどのテーブルのほうをチラ見して、くすくす笑ってる。
「ありがとうございます。紅茶をお一つ、ですね?」
二重の意味を込めて感謝を述べた隼人が頭を下げた時、店の入り口が開いて、客が足音も騒々しく入ってきた。
「いらっしゃいませ――」
声をかけた店主の声がうわずる。
ついに来たのだ。例のチンピラな夫婦が。
隼人は今度こそゆっくりとレジのほうへ歩いていった。"大柄な男性店員"の存在を夫婦者に知覚させるために。
「いらっしゃいませ」
低く、ゆっくりとチンピラ夫婦に声をかける。言われて振り向いた2人が一瞬ぎょっとした顔になったのを、隼人は見逃さなかった。
気を取り直したようにチンピラ妻が、ケーキを次々と注文していく。対応する店主の声にはまだ震えが残っている。隼人は女の子のバイトに喫茶室に行くよう促すと、レジに付いた。
夫婦者から眼を離さず店内の空気を探ると、やはりというべきか、怯えている雰囲気。何やらひそひそ話し声がしていたが、チンピラ夫がギロリとそっちをにらむと已んでしまった。
「6,780円になります」
うわ、誰がそんなに食うんだよ。隼人も甘いものは嫌いではないが、いくらなんでも多すぎる。
「あぁ? いくらだって? 高ぇじゃねぇか、計算間違ってんじゃねぇのかコラ!」
案の定、夫が因縁をつけ始めたが、今日はこいつらのペースにはさせない。隼人は店主の言葉を繰り返した。
「6,780円になります」
意外と落ち着いて言えた自分に、内心密かに驚く。向こうは別の理由で驚いたようだが。
「あぁ? んだとコラ! お前ぇには聞いてねぇんだよ!」
「俺も店員ですから、同じことですよ。6,780円になります」
夫が目を剥いて隼人にガン付けしようとレジテーブル越しに身を乗り出したが、10センチ以上の身長差はいかんともしがたく、真顔で見下ろす隼人に唾を飛ばしながら罵声を浴びせるのが精一杯。妻が慌てて援護射撃を始めた。
「何よこのエラっそうな店員! あたしら客よ! 神様よ!」
うん、それ、本来の意味と違うから。隼人は冷え冷えとした声でツッコもうとして止めた。こちらから火種を提供することもないし。
仕方がないので目の前のチンピラのヤニ臭い口を眺め、その妻がキャンキャン吠える声を聞き流していたが、他の客には到底要求できるスキルではなかったようだ。
「あ、あの、お代、ここに置いておきますから……」
さっき隼人に紅茶お代わりを注文した婦人客が裏返った声とともに席を立ったのをきっかけに、次々と客が帰っていく。客たちにとってのチキンレースは終了したようだ。
「ありがとうございましたー」
店主が涙目無言で客を見送る。奥さんはもやはり声は出ず、かねて打ち合わせしてあった『いざというときの110番』役すら忘れて、夫の背に隠れて震えている。だから今のあいさつは隼人が発したのだが、
「てめぇ! なにノンキにあいさつしてやがんだコラ! お客様の話無視してんじゃねぇよ!」
隼人は胸ぐらをつかまれた。えーと、もうこれ通報していい案件ですよね? 隼人は問いかけるため奥さんのほうを向いた。その時――
「無視すんなっってんだよ、オラァ!!」
カッとなったチンピラが隼人の腹を殴ってきた!
「ギャァア! 痛ってぇぇぇ!」
大仰な悲鳴を上げてレジテーブルの前にうずくまったのは、チンピラのほうだった。こんなこともあろうかと――というのはウソで、とっさに腹に力を入れた隼人の判断が間に合い、鉄板とは大げさながら白水晶の力で強化された腹筋を、チンピラは素手で殴る羽目になったのだ。ちょっと痛かったが、それが別のことを連想させる。
(るいちゃんはやっぱりちゃんとトレーニングしてんだな。痛さが全然違うや)
さて、鉄面皮鉄面皮、と。
泡を食って夫のそばにうずくまる妻。何やら小声でキレているのを聞けば、
(バカ野郎! 先に手ぇ出してどーすんだよ?!)
どうやら手筈どおりにいかなかったご様子。そして、
(ああ、こんな時でも、この手の人ってヤンキー座りなんだな)
隼人はまた場違いな感想を抱きながら告げた。
「奥さん、6,780円になります」
プッ、と吹き出す笑いが聞こえたのはその時だった。場所は喫茶室。チキンレースの勝者がそこにいた。バイトの子がアワアワしている傍らで、青黒髪と黒髪のコンビがこちらを見て笑っていたのだ。
隼人の対応に唖然としていたチンピラ妻の表情が、自分と同い年くらいの女の子2人に笑われたことで激変した。立ち上がって口角泡を飛ばし、逆ギレの因縁をつけ始める。
「最低! ダンナに怪我させて、あたしらに恥までかかせてェ! 待ってろよ、仲間呼んで、この店もあんたらもギッタンギッタンにしてやっからなぁ!」
まだうずくまっているダンナの尻を蹴っ飛ばして立たせると、妻はギラギラにデコレイトされたスマホを取り出して、それに向かってキンキン声で喚きながら店を出て行った。さ、今度こそ警察呼ばないとな。
「奥さん、110番――」
「ちょっと待ってください」
青黒髪の美人さんがそう言いながら席を立って、隼人たちのほうへと歩いてきた。
「警察なんか呼んでも、無駄ですよ」
「え? どうしてです?」とやっと声の出た店主がおずおずと尋ねると、美人さんはにっこり笑って答えた。
「警官が店にいたら、適当なこと言って帰っちゃいますよ。で、後日キッチリお礼参りか恐喝。それがああいう手合いの行動パターンです」
だから、ここはわたしに任せてください。美人さんの提案は突拍子もないものだった。
「いや、そんなどうやって?」
実はこの子、すごい人なんだろうか。でもこんな華奢なお嬢様に、何か荒事ができるとも思えない。ゆえにいぶかしみながらも止めざるを得ないのだが、その制止にも微笑んで首を横に振るだけ。
「来たわよ、琴音」
足音からすると6人ね。黒髪の美人さんが青黒髪――琴音にそう告げる。隼人が耳を澄ましても何も聞こえないのだが、琴音には信用に足る情報のようだ。
「じゃ、行こっか、鈴香――あ、いっけない! また戻って来ますけど、とりあえず」
そう言って5千円札を隼人に手渡した琴音は、鈴香と呼ばれた黒髪と一緒に店を出て行った。
店内を、重苦しい沈黙が支配する――なんて気取ってる場合じゃない!
「店長、俺、行ってきます」
「ああ、うん、頼んだよ」
もし何かあったら大声出しますから、警察呼んでください。そう言い置いて、隼人は店を走り出た。が、女の子2人だけでなく、6人来たというチンピラの姿も見えない。
(まずいな、もう拉致されちゃったんじゃ……)
焦りながら辺りを見回した隼人は、すぐに目的を達した。店の裏手から声がする。予想に反して穏やかそうな感じだが、
(迂闊に飛び込んでも3対6で、しかもこちらは2人女の子。チンピラの不意を突いて退路を確保して、あの2人をまず逃がさなきゃ)
そう考えた隼人は、足音を立てないように苦労しながら忍び寄り、プロパンガスのボンベの陰からそっと現場を確認する。
……いた。やっぱりというべきか、琴音と鈴香は6人のチンピラに囲まれていた。それもさっきのチンピラ以外はガタイのいい、いかにも荒事専門でございという風体の男たちだ。
やばい。そう考えて、思わず苦笑する。手が、知らず白水晶をポケットから取り出そうとしていたのだ。まだ昼の3時過ぎ。変身はできない。
(笑ってる場合じゃないだろ俺! どうする?)
焦る隼人。だが、琴音の涼やかな声は、そんな焦りとは無縁のよう。
「ですから、もう一度だけ申し上げますね? このお店とスタッフの皆さん、それからお客さんたちに、二度と関わらないでください」
悠然と言い終えた琴音。横で鈴香も、こちらは神妙な顔でうんうんとうなずいている。
男たちは失笑気味。お互いに顔を見合わせてニヤニヤしていたが、そのうちの一人、恐らく兄貴分なのだろう、先のチンピラに比べて押し出しが違う男が琴音に話しかけてきた。
「それはさっき聞いたぜ。俺たちが知りてぇのはよ、それを守ったら、あんたらは何してくれんだってことよ」
そうそう、ナニしてくれたっていいんだぜ? シモネタに流れて、どっと笑う男たち。鈴香の表情が険しくなったが、琴音がそれを抑えて答えた。
「今の言いつけを守ったら? 当然です。あなた方の身の安全は保障します」
その言葉を受けて、さらに嗤うチンピラたち。その一人が気安げに、琴音に話しかけてきた。
「ようようよう、んじゃ、守らなかったらオレたち大ピンチ! ってこと?」
そうです、とまた悠然と答える琴音に別のチンピラが絡んできた。
「ねーちゃんよぅ、どーやってオレたちを大ピンチにするのか、ちょっと見せてくれよ。な?」
嵩にかかって囃し立てるチンピラたちの喚声が突如已んだ。
琴音が優雅な仕草で後ろを向くとツカツカと歩み寄ったのは、店の裏に止めてある原付。それのハンドル部分と後部の荷台に手をかけると、なんと頭上高く、しかも軽々と持ち上げてしまったのだ! そして――
「やあ」
なんともかわいらしいというか、気の抜けるような掛け声とともに両腕が振り下ろされ、原付は宙を舞った。7月午後の陽ざしを照り返しながら放物線を描いた原付は、10メートルほど先の舗装道に着地いや激突。結構派手な音を出して全壊してしまった!
チンピラたちも、陰からのぞく隼人も唖然呆然。到底信じられないような出来事なのだから、当然のはず。なのに、
「あれ? 意外と飛ばなかったわ」と琴音は本当に意外そう。
「そりゃそうよ」と鈴香も平然と「あんた、本気で投げてないでしょ?」
「それもそうか、てことは――」
と一人納得の態の琴音が、すっとチンピラたちのほうを向いた。ビクッ、と明らかに怖気づいた男たちに向かって微笑み始める。
「本気で投げたら、あなたたち、何メートル飛ぶのかしら?」
笑みを崩さず、ずい。歩み寄ってくる琴音はもはや華奢な女の子でも、わかった風な口をきくお嬢様ですらなく、
「ば、化物……」
「失礼ね」と口にした琴音の表情が平板なものに急変した。
「さ、帰った帰った」
鈴香が追い立てる仕草をこれ幸いと、男たちは逃げうせた。が、1人失敗。
琴音が兄貴分の左手首を掴んでいた。男がどんなに身をよじっても微動だにできない中、琴音は最初の涼やかな声に戻って告げる。
「いい? わたしのアドレスをお店の人に教えておくから。もしオイタをしたら……分かるわね?」
琴音が手を離すと、勢い余ってすっ転んだ兄貴分はもう振り返りもせず、他の男たちの後を追って走って消えた。
隼人もそれを潮に店に戻ると、スタッフ一同がほうきやらモップやらを握り締めて、入り口に突っ立っている。顛末を話してあげると、ほっとするやらあきれるやら、取り合えず危機が去ったことに安堵はしたようだ。
琴音と鈴香はすぐに戻ってきたので、オーダーを思い出した隼人は紅茶を席に持っていった。ありがとうとにこやかに返され、こちらも笑顔で応じる。店主夫妻もやってきて、こちらはペコペコ。2人も立ち上がってペコペコ。
「いえ、本当にもう……執事さん? 何がおかしいんですか?」
ペコペコがじわじわキて、思わず隼人は吹き出してしまっていた。琴音のふくれ面に慌てて言い訳を探すと、
「いや、その、今のその様子とあんな怪力とがアンマッチ過ぎて」
「きゃー! 見てたんですか?!」
ええまあ、と肯定する隼人に、なぜか涙目の琴音。見かねたのか、鈴香が口を挟んできた。
「執事さんだってすごいじゃないですか。最初の腹パン、ふつー耐えられませんよ?」
ギクッ
「いやまあほら、この執事服、結構地厚だし……」
納得できない表情の鈴香。琴音が何かを思い出したように、手をポンと打った。
「そういえばあの原付、片付けしてもらわなきゃ」
「あ、そうだね。持ち主も探してもらわないと」
源田さんの電話って、とスマホを取り出した琴音を隼人は止めた。
「持ち主は大丈夫っすよ。あれ、俺の原付ですから」
たっぷり3秒。
「ごめんなさい!!」
勢いよく立ち上がった2人に、深々と頭を下げられた隼人であった。
ちなみにこの顛末、その後届いた新品の原付に対する説明として誰に話しても信じてもらえず、ただ支部長のみ『まあウナバラさんだし』と意味不明なコメント付で流されてしまった。