3
日が暮れた闇の中。一人の男が町を抜け出し、小屋に向かって走っていった。辿りついた男は、薄い扉を叩く。
「リアー、時間だ」
その声に合わせるようにリアーは椅子から立ちあがり、扉を開けて男を中に招き入れた。それと同じにバディスは逃げ出すように小屋の外に走っていく。
それを見ていた男が、出された酒をおありながら鼻で笑った。
「なんだぁ。あいつはまだ慣れないのか?」
「・・・・・・」
「大事な姉ちゃんが寝取られるのは、面白くなかろうがな」
男の言葉には何も答えず、リアーは淡々とベットの準備を進めた。
「いづれ、あいつにもやり方を教えてやるんだろう?おまえが直接・・・」
ガンッ
音に驚いて男が目を向けると、薄暗闇の中、リアーの青い目が浮かび上がっていた。その中心に見えたのは、確かな怒りと、殺気。
ぞっとして男は思わず一歩後づさった。
「・・・おしゃべりしに来たんじゃないんでしょう?」
その様子を見て、リアーは口元を歪めて笑みを作る。
「あ、あぁ・・・」
問われて反射的に答えてしまったが、男は確かに怯えていた。しかし、情事が始まると、そんな恐怖は包み込まれて消えた。
リアーが体を売り始めたのは、冬にさしかかり、食べるものが採れなくなり始めた頃だった。バディスは当然猛反対したし、縋りさえした。しかし、リアーの決意は固く、その考えを覆させる事はできなかった。
そして、なによりもバディスが苦痛と感じているのは―――リアーは口にこそ出さないが、行為の根本的原因がバディスのためという・・・彼にとっては衝撃的な言葉を聞かされたからだ。
バディスはフトラの元に一人赴き、頭を下げた。頭を下げてリアーがそんな行為に及ぶ事を止めてくれと懇願した。その時にフトラが言ったのだ。
『誰の為にリアーは体を売るのか考えろ』と。
消沈しながら小屋に帰り着いた時、いなくなったバディスを探していたリアーに抱きしめられた。抱きしめられ、温かさを感じ、初めて涙が零れた。
言葉にならない思いが溢れて、ただ涙を流した。そんなバディスを、リアーは何も言わずに抱きしめてくれていた。
夜は寒い。冷えた空気が、体の芯まで凍えさせていく。しかし、小屋に残れば否応無しに男が姉を征服している姿を見てしまうかもしれない。声も聞いてしまうだろう。
どんなに耳を塞いでも、どんなに目を閉じていても、きっと汚濁のように流れ込んでくる。それが耐えられない。
だからバディスは、いつも男が来ると小屋から逃げ出した。リアーは何も言わなかった。行為が終わるまでどれほどの時間が経過するのか、考えないようにしている。終わればリアーが迎えに来てくれるからだ。
寒空の下で、小屋からの物音も声も聞こえないほど離れた場所にある、大きな木の下。それがバディスの逃げ場所だった。
膝を抱えて座りこんでいたバディスの肩に、上着がかけられた。
「バディス、お待たせ」
「姉ちゃん・・・」
顔を上げると、リアーの笑顔が飛びこんできた。
「飛び出して行っちゃうんだから。寒かったでしょ」
「うん、ちょっと」
「これからもっと寒くなるから、暖かい外套を買おうね。あと手袋も。他に欲しいものある?あ、毛布も欲しいね。この地方の夜は、もっと寒くなるんだって聞いたことがあるから」
傷心を見せないように明るく振舞う姉の姿に、更に胸が痛くなった。けれど、どうすれば姉を救い出せるのか、バディスには考え付かないままだった。
リアーは以前にも増して美しくなった。それは妖艶と呼ぶべきかもしれない、艶のある表情。そして視線、仕草―――その奥に秘めた怒りと侮蔑が、より一層リアーを引きたてていた。しかし、その秘めた灯火を誰も知ろうとはしない。
小屋に男を招き入れ、あるいは自らが出向き体を売る。そうして稼いだ金で弟を養う。それがリアーの生活の全てだった。
しかし、このヴァラディーランでは、そういった行為はヴァラディオーの怒りを誘うとされ、この地の女はそういう事は一切しない。まして、それを生業にするなど、ヴァラディオーを信仰する者にとって出来るはずもない所業だ。
そのため、リアーの所業は人々から見れば下卑た行為にしか映っていなかった。
それでもリアーは体を売るという行為をやめようとはしなかった。それはひとえにバディスのため。
バディスに貧しい思いをさせたくない。その気持ちだけだった。
そうして徐々に、姉弟はヴァラディオーの信仰から離れていった。
「ヴァラディオーを信じてここまで来たわ。けれど待っていたのは過酷でしかない。そして、こうなった原因はヴァラディオーを奉る信者の所業―――どう信じろと言うの・・・何を信じろと・・・っ」
リアーはベッドの上に投げ捨てるように置かれた紙幣を握り、血を吐くような叫びを口にした。
何が変わるわけでもないそんな生活が、一体どれほど続いただろう。もう月日を数える事も止めてしまっていた。初めは嫌悪しかなかった行為に、リアーは冷めた気持ちで挑むようになっていた。
父の教えてくれた信仰と、そして希望を抱いて到達したヴァラディーラン。けれど、この地でどれほどの苦汁を舐めた事か。
自分を支配し、揺れ動く男の体の下敷きになりながら、リアーはただひたすら、ヴァラディーランという地と、そしてヴァラディオーという神を信じた自分を恥じた。
昼間は決まって安穏と過ごした。
バディスと二人、小さな小屋の中で身を寄せ合う。厳しかった冬が過ぎ、暖かな春が来ても、二人の生活は何も変わらない。
しかし、ある日を境に二人の運命の車輪がゆっくりと回り始める。
リアーの闇は続きます