僕は馬鹿だ
【一】
煙草を吸う為にコンビニエンス・ストアを出ると、刺すような風が吹き抜けた。十二月も半ばだからてんで寒い。吐く息などは凍ったように白い。ライターを取り出して消えないように手で覆うと、仄かな温もりが肌越しに伝わってきた。
どちらともつかない白を吐く。もやのむこうには、電灯がぼんやり点っている。いつの間にか夜になっていたようだ。
(一服したら帰るか)
また白を吐いて、壁にもたれかかった。仕事を終えた後の愉しみといえば、専らここで立ち読みをすることくらいだ。
僕は裕福なほうではない。一般の三十代男性の平均収入に比べたら、よほど少ないほうだろう。そんな僕が、どうして気の利いた遊びに興じたり、本などを購入して家でゆっくり眺めることができようか。例え店員に「また冷かしに来たか」という侮蔑的ニュアンスのいらっしゃいませで迎えられようとも、こっちには金がないのだからどうにも仕方がない。金を稼ぐ為の良い仕事もないのだから仕方がない。さらには才能も働く気力も無いんだから仕方がない。その現実は僕の心をそれなりに暗くした。
心地の良いものを肺一杯に取り込む。ただ身体はすっとしても、骨の髄は依然として乾いたままで、ひっきりなしに僕の中で燻り、最終的には性欲という本能を捌け口とした。僕には前科がある――強姦だ。
煙草を吸うと、先っちょが赤く光る。マッチを吸って七面鳥や暖炉を視た少女の如く、僕の脳内には女のおっぱいが浮かび上がった。そしてそれは、灰が落ちるとともにふっと消えてしまった。如何ともし難い心持だ。フィルタ付近まで短くなっていたので、地に捨てて踏み躙った。
帰ろうと、帰路に足を向けたときだった。自動ドアが開く気配がしたので、咄嗟にそちらを向く。
僕の視線は釘付けになった。
出てきたのは、二十代前後の女だ。レジ袋と、四角い鞄を持っている。厚手のセーターの上からでも分かるような胸を携えている。今すぐにでもむしゃぶりたくなるようないい女だ。
僕は鰐口を開けて、女の後をつけた。
【二】
初めてではないから手順を心得ているものの、今回は運がなかったと言わざるを得ない。女がメイン・ストリート、比較的人通りが多い場所を通ったからだ。裏路地にでもはいらないかと思っていたが、一向にそんな気配は無い。
遂に女は、自宅と思しきアパートに入ってしまった。
(今回は諦めるか)
踵を返そうとしたとき、ふとしたことが頭をよぎった。僕は会社に電車で通っている。そのときに、駅に貼られていたこのアパートの広告を見たのだ。確か大学生に手頃な値段であることと、立地が大学に近いという事を謳っていたはずである。そういえばあの鞄も、よく大学生が持っているものだと記憶している。ということは、女は大学生である可能性が高い。
(僥倖がみえてきたぞ)
僕は舌なめずりをし、アパートに足を向けた。
【三】
そろりとドアを開けてみると、リビングに女の背中が見えた。荷物を下ろして、立ったまま携帯をいじっている様である。こちらには全く気がついていない様子だ。
僕は素早く女に近付いた。口を塞ぎ、手を後ろへ回させた。乾燥しているというのに、女の手はつるりとしていた。よく手入れされているのだろう。女が呻き声を揚げて身を震わせた。
「騒いだら殺す」
そう僕が言うと女はまた震えた。女は言った通り大人しくしていたので、そのまま床へ仰向けに倒した。むわあっと女の匂いがしたものだから、僕はたまらなくなって行為に及ぼうとした。
そのとき、女は初めて僕の顔を見た。
「貴方、いつもコンビニで破廉恥な本を読んでいる人」
震えた声で、そう言った。
頭を固いもので殴られたような気がした。女は僕のことを知っていたのだ。コンビニエンスストアの店員は、確実に僕のことを覚えているだろう。監視カメラにもばっちり写っているに違いない。僕は焦った。
(どうする?)
そんなことは決まっている。
(殺すしかない。この女を黙らせないと)
捕まりたくないという焦燥に突き動かされ、女の顔を厭というほど殴った。やがて女はぐったりとして動かなくなった。
その間にキッチンへ向かった。流しの横には、まな板立てにゴム手袋がかけてあった。これ幸いとそれを嵌め、シンクの下の扉を開けると、その横にちゃんとあった。あれば安心だから、その包丁を引き抜き握り締め、置いてあったタオルをひっつかんでまたリビングに戻った。喉が妙に痛かった。
女は動かない。
僕がやろうとしているのは、まごうことなき殺人である。人が最もしてはならない行為を、今まさに行おうとしているのだ。
僕は迷った。包丁の切っ先を見ると、途端に怖くなった。握る手がにちゃにちゃする。
女の胸を見据える。
そして、僕は――。
【四】
五日後、僕は普段どおり会社に出勤し、帰りに立ち読みをしていた。いつもと代わらない僕の日常。
結局僕は、女の胸に包丁を突き立ててしまった。思ったよりも、人なんて簡単に殺せるんだと思った。後悔していないといえば嘘になる。むしろ酷く後悔している。あんなことをしなければならなくなるとは、予想だにしなかった。思い出しただけでもぞっとする。
もちろん証拠などは残していない。入り口のドアについた指紋は拭き取った。返り血を浴びないように、タオルを置いて刺した。そのとき、ゴム手袋には血がついたので、洗って元の場所に戻した。包丁は残しておくと不味いだろうから、人気の無い山奥に埋めておいた。これだけ念入りに隠蔽しておけば、ばれることは、まずないだろう。
(いっそ、捕まったほうがいいのかもしれないな)
自虐的なことを考えてしまう程度には、自分のことが嫌いだった。僕はまだ懲りていない様だった。今回のことを踏まえて、今度はここから離れたところでやろうと計画してすらいた。そんな自分が厭だった。殺してやりたいくらいだった。それでも、やはり捕まるのは厭だった。僕はそんな、矛盾した男である。
そんな思考の流れで気分が乗るはずも無く、本を棚に戻した。今日は帰ることにする。
自動ドアをくぐって外に出ると、もう真っ暗だった。五日前と同じ、寒い冬の夜である。
そのときだ。
僕は二人の男に、いきなり両脇をつかまれた。
「殺人容疑で逮捕する」
頭の中が真っ白になった。
直後脳が再起動し、はっとなる。
(こいつ達、警察だ!)
心臓が一度大きく跳ねた後、それきり早い調子で血液を巡らせた。
「何だお前達! 僕が何したっていうんだ!」
そう叫んだが、屈強な二人の腕を振り解くことはできない。
「証拠はあがってるんだ。もう逮捕状も出ている。いいから来い」
片方が僕に言った。
(証拠? 馬鹿な!)
再び記憶を探ってみるが、らしきものなど見当たらなかった。だが証拠がないならば、こいつ達はここに来ないだろう。
(どうして、どうして――あ、ああっ!)
あった。
確かにあった。
僕が残した、決定的証拠。
僕はなんて馬鹿なんだ。やっちまった。
抵抗する気力が失せ、強引に車に乗せられた。もう刑務所行きは確実だろう。それはとても厭なことだが――なんだかとても安心した。
失敗といえば、人を殺した時点で失敗だったんだろう。それ以前に、強姦をしようとした時点で失敗だと言われてしまうかもしれないが、それは僕の気質なんだからどうにも仕方がない。いや、それ以前に彼女を作らなかったのが失敗だったか……まあ、一番の失敗は生まれてきたことかもしれない。
(あ。おっぱい、揉んどけばよかった)
僕を乗せた車が発進した。
【問題】
「僕」が残した決定的証拠を推理せよ。
※↓に解答があります
【解答】 ゴム手袋の中の指紋