迷宮生活5日目その一
ビルが立ち並び、車が大通りを駆ける街で、俺は企業の説明会に向かっている。これでもう10件目だ。夏の日差しに暑苦しいスーツを着なければならないことに心底うんざりする。ふと見るとスーツの端っこに赤い染みがついていた。
「なんだ?」
染みをふき取ろうと押し付けたポケットティッシュが見る見るうちに赤く染まってゆく。ぼたぼたと染みは紅い雫を垂らして広がる。
「うあっ!なんだなんだ?!」
ジワジワと音を立てて紅い雫だったモノは既に俺の衣服を飲み込んでいた。辺りは血の臭いに包まれ、俺から滴り落ちた血はアスファルトに広がり、コンクリートを溶かし、ビルを街を飲み込んでゆく。
一面血の海原と化したそこに立つ俺の胸からは4本の爪が生えていた。
闇から抜け出してきたような黒い巨大な大熊がちっぽけな俺を引き裂き、唸りを上げた。
「ああああああああああああ!!!!!!!!!」
俺が望まなくても朝は来る。
「はあ・・・はあ・・・夢か。」
あまりのことに俺は思わず両手で体の震えを抑え、辺りを見回した。変わらぬ樹海がそこにはあった。
木の上の塒から下に降りるのが怖い。
泉へ行こうと蔦に手を掛けたとき、足がどうしようもなく震えているのが分かった。俺は今、森に出ることが怖いのだ。
「俺は弱い。」
初めから運が良すぎただけだ。俺自身の力で切り抜けたわけじゃない。あの大狼の群れと戦って、俺は俺の弱さを思い知らされた。俺自身は何ら特別じゃない。取るに足らない存在なのだと嫌が応にも自覚しなければいけなかった。
しかし、その大狼でさえあの巨熊にいともたやすく引き裂かれてしまった。ただ、目の前にいたというだけの理由で。
「こんな森で生きていけるのか?いや、生きて行かなくちゃいけない。少なくとも帰り道を見つけるまでは・・・」
恐怖から来る震えは収まらないが、生きて帰るためには少なくとも一歩ずつ進んでいかなければいけないのだ。
俺は震える手足を押さえつけ、泉へと歩き出した。
「何事もポジティブに考えよう。」
昨日ちょっと頭が逝っていたせいで、俺は水の冷たさに構わず一心不乱に体を洗った。そのおかげか、ここしばらく風呂に入っていないせいで溜まっていた、汗やら血やらのひどい臭いは綺麗に取れていた。
泉で顔を洗った俺は、そういえばと羊毛を流れに任せていたことを思い出した。昨日は命からがら逃げかえってくるのに必死で、刈り取った毛の事なんてすっかり忘れていたしな。
少し下流に向かうと、一晩水にさらされて幾分か綺麗になった羊毛の束を拾い上げる。昨日俺が必死になって洗い流した返り血は実は大したことはなかったようで、下流にあった羊毛は真っ赤になってしまうなんてことは無かった。
「昨日は相当動揺してたんだな。」
今思えばよくあんな状況で生き延びられたものだと苦笑した。
少し下流に流されていた羊毛の束を手もみで洗い、また上流に置いておく。羊毛の処理としてこれは果たして正しいことなのかはよくわからないが、そのあたりの知識は無いので、俺にはこうするしか出来ない。またいずれ誰かに聞くこともあるかもしれない。
「そういえば猪の皮は洗ってなかったけど、あれは汚れはほとんどなかったな。あの龍に焼かれたせいか?」
とにかく一日一日生き抜くことに必死で気にも留めなかったが、冷静に考えればあの狼にやられたあの傷がたった一日で治るなんてことも気になる。
「よく考えればおかしいことだらけだよな。これはスペースコロニー説に加えて超リアルRPG説も考えて行かなければいかないか?」
恐怖を感じるのは危機に合った時だけでいい。俺に出来ることはするが、無理なものは無理だ。恐怖にちびってしまってもいいじゃないか。脱糞してしまうこともあるかもしれない。
だけど、例えクソまみれになろうとも、俺は生きて日本に帰ってやる。
「糞クソ言ってたらお腹痛くなってきた。」
ワイシャツとTシャツはあの大狼のせいですでにお釈迦になっているが、ズボンとベルトはまだまだ健在だ。
ポケットティッシュはもうないが・・・使い道のない猪革の端切れでいいか。ちょっともったいない気もするが。
どうやら昨日食べたあの漢方の葉は虫下しの効果があるようだった。白いもやしみたいなのが何本か出てきたときは流石に背筋が寒くなったが、あれが排泄されてからは腹の痛みは嘘のように引いていた。
というよりも、たった数日であそこまでデカくなる寄生虫ってヤバくね?あの葉っぱを食ってなかったら今頃腸が食い破られてたなんてないよな?
とにかくあの迷彩柄の大羊には感謝だな。今日からあの草をもっと摂るようにして、赤小梨も洗って食べるように、肉はもっとしっかり焼くようにしよう。
例のごとく俺は痺れる実を使って大蜂を仕留めてゆく。この痺れる実の御陰でコンスタントに大蜂を狩ることが出来るようになった。だが、少しだけ文句を言うと、この蜂は得物を抱え込む性質があるせいで、蜂が齧った痺れる実をわざわざ剥がさなければならない。ぶっちゃけ面倒だ。剥がしている間に他の蜂が来てしまうこともあるしな。
今の俺は甲殻の鎧の上に新たに拾った猪革を羽織っている。甲殻の鎧も真っ黒だし覆い隠さなければならない。きっとあの巨熊は普段この大蜂の巣を襲ったりしているのだろう。大蜂どもの黒いものに対する攻撃性は半端じゃない。それに案外金色の毛皮はこの森では目立たないのだ。羽織っているからといって狙われやすくなるという訳ではないらしい。
3匹目を仕留めた所で、俺はこれ以上大蜂が近寄らないように痺れる実を遠くに投げた。龍鱗の剣で枯れ木の枝を払って集め、枯葉と火起こし機で手早く火を起こしてゆく。
昨日の出来事から俺は塒の側では食事をしないことにした。塒はもし襲われたときに逃げるべき場所だ。塒から追い出されたらたまった物じゃない。
パチパチと音を立てる火を眺める。片面が焼けた大蜂をひっくり返した俺はふと時計を見た。
11時20分。思えばここに来て丸5日か・・・俺があまり移動していないせいもあるが、他の人間の気配は全くしない。
「もしかしたらここに居る人間は俺だけなのかもな・・・」
今は帰ることが出来ると信じているが、何時になるのやら・・・20年、50年と先まで帰ることが出来なかったとして、その時までこの希望を捨てずに生きてゆけるだろうか?
焼きあがるまでの間に真似事だが、俺は剣を振り、槍を突く。その手の道の人が見たら笑われるかもしれないが、やらないよりはましだ。
焼きあがった蜂の殻を裂き、ほおばっていたころ、俺が投げ捨てた痺れる実に別の大蜂が止まった。しばらく眺めていると、蜂は案の定痺れる実を抱えたまま麻痺した。
俺はもう余計に蜂を狩る気はないので、じっと眺めている。
「大蜂が麻痺から解放されるまでどれぐらいかかるんだろうな。」
今までの経験から2,3分ということはないだろうが、復活した蜂が襲ってこないとも限らない。俺は手早く2匹目にかぶりついた。3匹目はまだ焼け切っていない。
大蜂はまだ実を抱えたまま痺れている。
幾分もしない内に、大蜂は虹色の影に攫われた。音もなく飛来したそれは、見事な制動で全く地面に触れることなく、痺れた大蜂をその抱えている実ごと抱えて飛び去った。
「なんじゃありゃ!?」
あまりの出来事に俺は思わず立ち上がり、森の上を滑るように飛んでゆく虹色の影を追いかけた。馬鹿でかい蜂を抱えているのに悠々と空を飛ぶその翼は、正に雄大としか言いようがない。
だが、飛ぶ鳥に走って追い付ける訳もなく、虹色の鳥を見失った俺はとぼとぼと焚火まで戻った。
痺れる実は、大蜂に抱えられたまま、虹色の鳥に運ばれていった。
「あの痺れる実ってああいう風に痺れさせた蜂ごと、あの大きな鳥に運んでもらうのが狙いだったんだな・・・」
痺れる実の疑問が氷解した俺は、ある一つの可能性に辿り着いた。
「痺れる実のなる木がいっぱいあるところを探せば、もしかしたら鳥肉が食えるかもしれない。」
海老で鯛を釣る・・・もとい、海老味の大蜂で鳳を釣る。俺はそう決めた。
称号
「????」「理不尽の代償」「豪胆」「怪獣大進撃」「大蜂殺し」「食わせ物」「大狼殺し」「大番狂わせ」「一撃必殺」「大カブト殺し」「樹海の匠」「負け犬」
遭遇生物
「?」
アイテム
大猪の毛皮 3枚 火起こし機 鉤爪ロープ 大蜂の針
装備品
龍鱗盾+ 龍鱗剣 龍爪ナイフx2 猪牙槍 甲殻の鎧 猪肋弓 狼牙矢x5




