迷宮生活20日目その二
お待たせしました。何度も同じことを言っていますが申し訳ない。
緑色のぬらついた薄い肌に鋭い爪をもつ痩せた小鬼たち。リフリスが言うイビルゴブリンたちは俺とリフリスが出会ったころから執拗に追ってきた。他の生き物は殆ど見なかけなかったのにだ。何故他の獣たちは隠れているのにイビルゴブリンたちだけが懲りずに何度も襲い掛かってくるのか?一体何が目的なのか?けれども、そういう疑念を持っていたのは初めのころだけで、何度も何度も襲い掛かって来ては軽く追い払うことのできる緑の悪鬼たちに俺達は慣れて・・・いや、油断していたのだ。
イビルゴブリンのいつも通りの襲撃、そういう先入観によって思いがけずピンチに陥った俺達を救ってくれたのは弓に似た槍とも剣ともつかない武器を携えたおっさん・・・もとい狩人風の男だった。疲労し、手傷を負った俺達は傷痕を洗い、こびりついた血の臭いを落とすために森を流れる川沿いに広けた草地にまで退いた。
「まず先に自己紹介からだね。」
と、森の陰に溶け込む浅葱色の革鎧を着こんだ男が口を開いた。中年というにはまだ若い偉丈夫が、川原に転がる岩に腰かける。そうだなと、俺は頷き、川で汚れを落とした金猪の毛皮を木の枝にかけて干した。リフリスは一足先に洗濯を済ませて、疲れもあるのだろう。焚火の脇におとなしく座っている。まだ天井は完全には光を失ってはいないが、森から流れる空気は静かに冷え始めていた。
俺がマントを外した時、男はチラリと俺の欠けた腕や包帯、要は身なりを一瞥しただけで、その後は俺のことをじろじろ見るでもなく、ごく自然にふるまっているように見えた。しかし、内心はどう思っているのかは分からない。リフリスも少し緊張しているのか、それとも俺が無意識に抱いている警戒心を察したのかじっと黙っている。森から風は流れては来るが、木の葉を揺らすほどでもなかった。
パキッ!と火にくべた枝が弾けた。その音を合図に男は話し始めた。
「僕の名はウォルポットのブラン・マナフ=スヴァイン。『猟友会』の団長をやっている。ブランでいいよ。」
ブランと名乗った男は、弓で言うと弦の部分が持ち手、弧の部分が刃になっている武器を刃を自分の方に向くように地面に置き、俺達にあいさつした。敵意は無いということなのだろう。
「私は『リフリス』と申します。名乗る土地はありません。『リフリス』とお呼びください。で、こちらは・・・」
「俺は・・・『羊』でも『包帯』でも・・・何とでも呼んでくれ。」
リフリスが俺の方を手で示したので、俺はとりあえず応えておく。
「ん?それはつまりは、『名無し』ということかい?・・・そういえば『リフリス・・・」
ブランはリフリスの方を確認するように見た。リフリスは構まいませんよと答えた。
「リフリスちゃんも『羊さん』と呼んでいたね。何か訳が・・・あるのかい?」
言いたくなければ言わなくてもいいよとでも言うようにブランは尋ねた。金猪の毛皮やその他諸々の装備は普通ではありえないほどの価値があるらしい。だから初め、このブランと名乗った男は俺を貴族かなんかだと早とちりしたようだが・・・しかし、それを着ていた俺はと言えば右目右腕は欠けていて、他の残った部位も包帯まみれという怪しさが爆発したようなことになっている。
ブランの方でも、俺の正体について混乱しているのかもしれない。変な予想を立てられているかもしれない・・・そう考えた俺の方は少し言葉を選ぶように考えながら答える。
「・・・いや、別に深い意味は無いんだ。ただちょっと記憶が飛んでると言うか・・・名前が思い出せないんだ。」
俺の答えにそうかと頷いたブランは、刺すほどではないが抜け目ない視線で俺を観察するように見つめ続けている。
「なるほどね。じゃあ、頭のその骨は?外せない理由でもあるのかな?」
「これは・・・ただ。」
俺をじっと見つめる鳶色の目が羊頭の暗い眼窩を貫いて、俺の左目を射抜いてくるような気がした。俺の脳裏に今までの難敵の目が浮かび、反射的に背筋に冷たい汗が流れる。固まった俺を見たブランはしまったという顔をして慌てて視線を焚火に落とした。
「あ、いや。すまないね、そんなつもりじゃアなかったんだ。ただちょっと仕事柄ね・・・」
「いえ、俺の方こそこんな怪しい身なりですし・・・」
自分の見た目は自分が一番よく把握している。いまさらどう思われようが気にはしていない。
「・・・」
俺はおもむろに包帯まみれの左腕を前に差し出した。さっきの傷跡の部分は予備の包帯で巻きなおしている。多分傷痕自体は完全に硬化している。そうなってしまえばもう化膿したりすることもないだろうし、包帯も傷痕隠し以上の意味は無い。ただ、肉の上にいびつな白い剥片を無数に埋め込んだようになっている俺の体は見れたものじゃない。
「これは・・・」
リフリスは目を背け、ブランは平気そうにしてはいるが俺の手のありさまを見て動揺を隠しきれない様子だった。
「頭の先から全身。まあ大体こんな感じだ。」
手の包帯を巻きなおす俺に、済まないとブランは返した。
「いや、別に俺はこの傷自体は気にしてないんだ。血もすぐ止まるし、化膿したりもしない。ただ・・・」
キュッと包帯の端を縛り直した俺はブランの方に改めて向き直った。
「どうやら傷を受ければ受けるほど・・・この体はあの白い剥片に冒されていって、最後には砕け散る。」
俺がちらと龍の爪を括り付けた右腕を見ると、ブランの顔には何とも言い難い苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいた。
「その・・・何か方策はないのかい?その鱗みたいなのが広がらないようにするには。」
俺は羊頭の奥で歯噛みした。このブランという男の他人を気に掛けずにはいられないという一面、それが見えたからイラつくのではない。さっきまで俺を疑っていた心はどこへやら、こいつの心は俺への憐憫に満ちているとその鳶色の眼が告げていた。お人よしが・・・俺は小さくため息をついた。
俺を心配するブランの気持ちは正直言ってありがたい。が、逆にそれはブランがこの”病”の解決策を知らないということに他ならない。せっかくリフリス以外の、それもある程度知識のありそうな人間に出会えたのに、その人間も今の俺の状態に対して何の知識もないのだと知ってしまったことに・・・手を差し伸べてくれる人がいると分かったのに、本質的な救いはまだ見えないことに苛立ったのだ。
「まあ、受け入れては・・・いるさ。そうとも。受け入れていなかったら剣を取ってうろついたりなんてしねーや。」
噛みしめるように、言い聞かせるように俺は言った。そうか。とブランは静かに頷く。俺は無意識に力を込めていた左手を緩めて見つめた。
「・・・ただまあ、解決策があるならさっさと解放されたいし、何よりも・・・故郷・・・なんだろうな。こんなとこから出て帰りたいんだ。俺は。」
ぱちぱちと焚火が爆ぜる音がして、俺は枯枝を火にくべた。いつの間にやら迷宮の遥かに高い天井は光を失って、あたりは闇に塗りつぶされ、暗い空間はどこまでも広く何もないような錯覚に陥りそうだった。
「この迷宮へはその答えを探しに?」
赤い焚火の炎は俺の頭の白い骨を暗がりの中でぼうっと浮かび上がらせる。だが、その目の部分に光が入ることは無く、周囲と同じ闇がぽっかりと白い骨を丸く切り取っているように見えただろう。
「いや・・・。いや、案外・・・結局はそうなるのかもしれないな。」
焚火から顔を上げた俺は、風化しかかってざらざらとした白い頭蓋骨の奥からブランを見つめ返した。リフリスは疲れが出たのかいつの間にやら静かに寝入っていた。
「ここは『叡智の迷宮』だったか。託宣紙―オラクルペンダント―を最奥の祭壇にもっていけば、聞きたいことを、その答えを教えてくれる・・・」
「ああ。僕たちもその真偽は知らないけど、おそらくは真実だろうね。」
”僕たち”か・・・
「俺の話を聞いてくれないか?多分びっくりすると思うが・・・そこの人も。」
俺の光を寄せ付けない暗い眼窩が、光の届かぬ森影を見る。
「あらら、気付いてたのかい?」
いたずらがばれた少年のようにブランは、闇に向かって手招きをした俺に白い歯を見せた。
「この骨の中には焚火の光はあまり入ってこないんだ。明るいところに居ても暗がりに慣れたままでいられる。なによりアンタの目は素直すぎるしな。」
黒い眼で俺がブランの視線の先をたどると、木々の間に細身の人影がゆらめいた。
「参ったね・・・ああ。別に敵意があるとか値踏みしていた訳じゃないんだ。ただ、彼女を見ると怯える人も多くてね。」
「・・・」
俺は無言でブランを視界の端に捕らえつつ、森の方を見る。ブランの言葉は実際どこまで本当だったのか?だが、どうでもいいと言えばそうだ。結果論的には。俺はブランを襲うことは無いし、ブランが保険を立てていたとしても俺は気にしない。当然のことだからだ。
サクサクと草を踏む乾いた音を立てて”彼女”が暗がりから表へ出た。
「驚く人も多いんだが・・・あまり驚かないね。」
しまったなという顔をしたままブランは語りかけた。
「・・・いや、驚いてはいるんだが。どう反応していいのか分からなくてな。」
森の木々の影からこちらに歩いてきたのは女性だった。関節各所に補強を重ねた軽鎧に身を包んでいる。彼女は歩き方からして抜け目なく、左手は剣の鞘にあてがっていつでも抜けるようにしていた。
「ただ、ちょっと以前似た人に会っているから面食らったんだ。」
「それは・・・なるほど。見ての通りだけど、彼女はハイエルフでね。」
彼女の流れるようなやや金の入った銀髪は後ろ手に束ねられ、焚火の火を照らして狩りたての稲穂のように黄金色に染まっていた。そしてその目はあの山小屋の透き通った瞳の彼女を思い起こさせる深い紫色だった。あの山小屋で牛たちと共に暮らす彼女からは透き通り、冷たい湖のような印象を受けたが、今目の前にいるこの女性にもっと暖かな力強いものを感じた気がした。
「エルフは多いが、ハイエルフと会ったことのある人間は少ない。特に私はどちらかというとアーク・・・先祖の奴らに似ているからな。余計なもめ事を避けるために、隠れていた方がいいことも多いんだ。だが無礼だったな。済まない。」
そう言ってハイエルフ・・・の彼女は鞘から手を離して俺に一礼した。それを見た俺はすぐに気にするなと左手を振ってみせる。彼女の言葉にはまた気になる点がいくつかあるが・・・いまはまだ時期じゃない。
「いや、俺は気にしてないよ。後で詳しく話すが・・・先に言っておくと俺はここの『常識』って奴にひどく疎くてな。何が失礼なのかよく知らなかったりするんだ。」
腰かけていた岩から立ち上がった俺はハイエルフの彼女に左手を差し出したが、ふと気になってブランの方を見る。
「そういえば握手って習慣はあるのか?左手を出すのは失礼とかない?」
ブランは心配ないとでも言うように首を振った。安心して気を抜いた俺の手先がふと暖かくなった。
「サンジャスのニーファだ。冒険団ドラゴンスレイヤーで騎士をやらせてもらっている。」
振り向くと整った顔の中に凛とした強さを秘めた顔がそこにあった。その深い色の目には彼女の生きざまが刻まれているようだった。
「ああ・・・俺はそうだな・・・」
握手して挨拶した時になってやっと俺は返すべき名がないことに気付いた。ああ、どうしようと内心焦っていると、俺たちを見ていたブランが助け舟を出した。
「羊頭クンだよニーファ。」
ん?と、ニーファは首を傾げ、俺はため息をついた。ブランの奴め、もっといい名は無いものか?
「・・・羊頭だ。とりあえずそういうことだ。よろしく。」
「ああ。ここで会ったのも何かの巡り会わせだろう。よろしくたのむ。」
そう頷くニーファ。岩の上で笑うブラン。全く・・・気のいい奴らだ。まあ、悪い気はしないがな
レンジでチンした食べ物よりも鍋で温めたモノの方がおいしいのはレンジだと水分子しか温まっていないからでしょうか?