迷宮生活12日目その一
窓から柔らかな朝日が差し込んでいる。日の光の匂いがするベッドの上で、俺は目覚めた。
「・・・」
俺は天蓋付きのベッドの上で眠っていた。この部屋は誰か貴賓でも招く時に使われるような、非常に凝った造りになっている。まるでここが遥かな山の頂上でないかのような錯覚すらする。
「夢・・・見なかったな。」
俺は傷だらけの体をベッドから起こした。ベッドの隣には真新しい着替えの入った籠が用意されている。その脇にあるのは木靴か?今の俺はスリッパのようなものを穿いているし、こっちは外出用だろうか?俺は雲海の中から光を放つ太陽を眺めながら、程よい肌触りの麻の衣類に袖を通した。
「・・・まるでどこかのホテルみたいだ。」
昨晩、俺はエルフさん(仮)の出してくれた乳粥を食べた。その後、色々あった末にこの部屋に通されたのだ。
俺はまさかこんな豪勢な部屋に通されるとは思わなかった。俺自身は居候だし、ここに置いてくれるだけでいいから厩でも十分だ。と訴えたのだが、彼女は頑として譲らなかった。
「理由を聞いてもやっぱり教えてくれなかったしな。」
何故こうも見ず知らずの俺によくしてくれるのか、俺がいくら問いただそうと、彼女はニコニコして流すだけで、一言も口をきいてはくれなかった。
「じっと黙っていられると、下手に罵られるよりよっぽど堪える。」
それに前後して、俺は何かにつけて手伝いたいと訴えたのだが、彼女は全く取り合ってくれなかった。
俺は山頂の一軒家の階段を降り、木製の扉を開けた。いままで原人並みの生活をしていた俺にとって、こんな場所に和式トイレがあることは、甚だ違和感を感じずにはいられない。だが、出る物は出るのだ。トイレの隅には箱に所謂落とし紙タイプのトイレットペーパーが積んであった。この紙はどうやら藁をどうにかして作った物らしい。俺は藁製の紙に手を伸ばし、上から3枚を掴んだ。
「いや、ここは俺の家じゃないし、これは多分貴重品だ。」
俺は2枚を山札に戻した。藁の紙はゴワゴワするが、それでも今まで枯葉で尻を拭いていた俺としては破格に贅沢だ。今日のはキレが良かったおかげで、使った紙は一枚で済んだ。
俺が脇の木製のレバーを押すと、ごぼごぼと音を立てて、トイレの泡立つ水が俺の汚物を流してゆく。
「こんな僻地で、とんでもない贅沢をしているよ。俺は。」
昨日俺がトイレとかはあるのか?と聞いたら、彼女は少し待ってくれとばかりに皿を洗い出した。食器を持ち、キッチンまで歩いて行った彼女は恐らく手作りだろう石鹸を手にした。彼女はカリスマ主婦も脱帽するぐらいの少量の水で食器を洗い、石造りのキッチンの脇の勝手口から外に出て行った。
何をするのかと俺が付いて行くと、彼女は外に置かれた木製のポンプのようなものでどこかに空気を送っていた。レンガ造りの壁には勝手口を挟むように大きな階段が二つがあり、その両方の天辺に木製の樽が一つずつ据え付けられていた。外から見て左側の方は木の部分に幾筋も傷が付いているが、木の板を止める金属製の丸い輪の箍には錆び一つ無い。もう片方は木の板に傷は無いが、箍には緑青が噴いている。家の裏手には樽が並べられている。そのどれもが右側の樽の様に、穴が開かないギリギリまで傷がついていた。
「この樽と階段は一体?」
困惑する俺をよそに、彼女は汗を垂らしながらポンプを押してゆく。ポンプの先は煉瓦の壁を貫いて、キッチンの方へと続いているらしかった。
スコン!スコン!と、彼女がポンプをで空気を送る内に、家の壁の中からごぼごぼと水が流れるような音がしていた。ハッとした俺がポンプを押すのを代わろうとした時、彼女は触るなとばかりに手をかざして俺を止めた。壁からは水が流れる音がしなくなっていた。
時間は今に戻る。ごぼごぼと石鹸で泡立つ水が石製の便器を洗って行く。今流れている水は、昨日彼女が食器を洗っていた時の廃水だ。水洗トイレがこうも贅沢だったとは・・・仕方がないとはいえ、昨日の夜と今の二回も使ってしまった。
「俺はなんて甘いんだろうな?」
あの時食器位は俺が洗おうと思っていた。だが、それは甘い。俺は石造りのキッチンに蛇口が付いているから、反射的にあの蛇口からは水が無限に出る物だと錯覚していた。
「よく考えれば当然のことか・・・」
水は貴重だ。話の分かる存在に出会い、丁寧に介抱してもらい、さらには夕餉までご馳走になったせいか、俺は何もかもすっかり忘れていた。ここはどれだけ快適に作られようとも、山の頂上には違いない。この広場の中央に空いた下り坂を下れば、すぐにあの霧の森さえある。
いやむしろ、こんな危険と隣り合わせの環境でこれほどのものを実現しているのだ。だとすれば、その陰に一体どれほどの労力が裂かれている?
俺は恐る恐るキッチンの蛇口を捻った。だが、水は出ない。俺が勝手口から家の裏に出ると、階段の上と、地面に並べられたあの傷付いた方の樽がきれいに無くなっていた。
「まあ、そうだよな。」
多分あの傷がついた方の樽には、どこかから汲んできた綺麗な水が入っていたのだろう。空になった樽の水は、もしかしなくても俺の身を清めるために使われたはずだ。
「俺は・・・」
申し訳なかった。あの耳の長い美しい女性は何も言わずに俺の為にと、あらゆるものを差し出してくれる。そして今も。俺が惰眠を貪っていた間に、あの樽を持ってどこかに水を汲みに行っている。
石段の上で俺はスリッパのような履物から、木靴に履き替えた。木靴の底には麻布が縫いとめられている御陰で、履き心地は悪くないし、蒸れなさそうだ。
「幸せだな。」
俺は木靴を履き、朝日を浴びながら石段を降りた。石段から足を踏み出すと、不意に地面が崩れ、地に引きずり込まれるような錯覚に襲われた。
「っつ・・・大丈夫だ。ここは・・・樹海でも洞窟でもないんだ。」
トントンと俺は執拗に地面を踏みしめる。そうでもしないと今与えられたこの幸せが、一瞬の内に崩れ去ってしまうような気がした。
「大丈夫だ。」
俺は軽く視界をゆがませる眩暈を振り払い、すぐそこが柵で覆われた崖の家の裏手から歩き出した。
「トイレの水はここへ来るのかな?」
トイレの外側の壁から、そう離れていないところに石製の蓋が嵌められていた。足で軽く叩いてみると、こんこんとくぐもった音がする。所謂浄化槽って奴だろうか?だが、ここの容量も無限ではないはずだ。バキュームカーの来ないここで、どうやってし尿を処理する?その答えはさほど遠くないところにあった。
「堆肥か・・・」
麦藁と麦のもみ殻、そして多分あの牛舎から出る牛の糞で出来た堆肥の塊が幾つか並んでいる。朝もやの先、堆肥の向こうには麦畑や、麻畑が広がっていた。俺は牛舎の方を見るが、何分ここからでは遠すぎるし、雲と朝霧が邪魔で見えない。だが、あの牛舎にも結構な数の牛がいたはずだ。
「まさか、これ全部あの人が維持しているのか?」
とてもじゃないが信じられない。だが、あの人以外に仲間の姿は見えない。この場所には、あの人と俺しかいないのか?
俺は堆肥の山と畑を後にし、そのまま牛舎の方へと歩みを進めた。
早間龍彦
称号
「????」「怪獣大進撃」「泣きっ面に蜂」「露出狂」「削られる命」「脱落者」
遭遇生物
アイテム
海淵の指輪 意思読みの首飾り 返話の指輪
装備品
麻の衣服 真新しい包帯 木靴