迷宮生活7日目その五
「ぐはー、ぐはー。」
俺が大猪に取り囲まれてから数分も経っていないが、もう心身ともに限界が近い。あれだけ意気込んでたくせに、我ながら情けないな。
だが・・・おかしい。
大猪達は自分達の仲間の死骸も構わず、突っ込んでくるような連中だ。それなのに俺がまだ死んでいない理由、大猪達が決定的な一撃を繰り出せない理由があった。
それは、大猪達もあの紅い大狼が避けていた死骸は避けているということだ。
大猪達は仲間の死骸を跳ね飛ばして俺に突進してきた。しかし、奴等は仲間の死骸を利用しても平気なほど、非情な生き物ではないということは分かっている。なぜなら、大猪の突進をもろにくらえば俺など一溜りもないはずだ。
つまり、俺が生きているということは、大猪達は作戦とは言え仲間の死骸ごと俺を轢き殺すことに躊躇いを覚えたのだろう。
だが、それとこれとは話が違う。
金色の大猪達はあからさまにもう一体の方の死骸を避けている。それに、群れを指揮する巨猪も俺への包囲網を動かし、俺を例の死骸から離そうとしているように感じた。
最後の猪の死骸に一体何があるのかは知らないが、これは危険をはらんだ賭けだ。
俺は大猪どもの牙が鎧や肌を掠めるのも気にせず、そのもう一方の死骸の方へと駆け出した。
もしかしたら、俺がこうすることもあの巨猪の思惑なのかもしれない。いや、それともまったく別の危険が潜んでいるのかもしれない。
だが俺はそれでも良いと、包囲網の円陣を遮るようにして横たわる大猪の死骸に向かって駆けだした。
ほとんど予想だにしていなかったことだが、俺が金猪の死骸に近付くにつれて金猪の群れの突進は目に見えて数を減らした。俺が死骸を背にした時、ついにはどの大猪も突進してこなくなった。
金猪の死骸は相変わらず傷口から黒い液体を滴らせ、先ほどよりもきつい饐えた臭いを放っている。この際、安全を買うためだ。この程度の臭いは我慢しなければならないだろう。
大猪達は先ほどまでの全力疾走を止め、静かな足取りで歩みながら円陣を崩さず、俺を見据えている。
「とりあえずは助かったのか?」
金毛の大猪達は突進どころか、俺への距離を詰めようとさえしない。なんだ?この違和感。背中を気が付かない内にじりじりと焼かれるようなこの感覚は?
俺がふと大猪の死骸を見た瞬間だった。大猪の死骸の、金色の毛皮がバリリと不吉な音を立てて大きく裂け、中からドバリと黒く、そしてぬらついた粘液の岩のような塊が飛び出してきた。
「なっ?!」
この死骸には何かある。
予想していなかったわけではなかった。俺はこの死骸にもある程度の注意を払ってはいた。しかし、これは完全に予想外だ。大猪の屍から吹き出した粘性の何かの量は尋常ではない。まるでこの黒い粘性体自体が、大猪の毛皮を被っていたようだ。
破裂した風船ガムのように飛び散る黒いモノ。大狼も、大猪も、こいつを避けていたのだ。絶対に触れてはならない。俺の勘がそう告げている。だが俺は迂闊にも、手を伸ばせば死骸に届くほど近くまで近寄ってしまっていたのだ。
飛び散った無数の塊が宙を舞う。その一つ、ハンドボール大の酸を放つ黒い一塊は、まるで吸い込まれるように俺の右腕にべちゃりと張り付いた。
「ぎいやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!っぐあああ!!」
じゅうじゅうと俺の右腕から信じられないほどの白い煙が上がる。俺は咄嗟の判断で龍爪のナイフを抜き、焼かれた肉ごと大蜂のプロテクターを削ぎ落とした。
「ああっ!ぐううううう!」
ぼたりと落ちた黒い塊は、ウジュルウジュルと俺が切り落とした僅かな肉を一瞬で溶かしてしまった。黒い体がぶくぶくと泡立ち一瞬身震いした。そしてその肉の味を覚えたのか、地面に生えた下草を炭化させながら俺の血を辿ってくる。
俺に当たったのは、この黒い物体の僅かな一部でしかなかった。金猪の屍から噴き出た黒い粘性体は、俺から数歩もしないところに巨大な塊を作っている。黒いブヨブヨとねちゃねちゃのちょうど中間、スライム的なその何かは強烈な酸を作っているらしかった。
黒くおぞましい、物体とも生き物ともつかぬそれは、硫酸が水を求めるあまり有機物の分子を破壊して水を奪い、炭にしてしまうように、触れる生き物全てを悉く炭にしていた。
筋骨隆々としていたはずの金猪の死骸は今や、骨と裂けた皮だけになっていた。
俺はほんの数日前、大羊を仕留め肉を取るのに夢中になっていたせいで、大狼に取り囲まれてしまったあの場所を思い出していた。再びあの場所に足を向けた時、たった一日しか経っていないのに大羊や大狼の死骸が無残な白骨死体になっていたのは、この生き物のせいだったのだ。
「はは・・・ヒントはいくらでもあったのに・・・なんて様だ。痛てぇなあ・・・」
あまりの痛みに涙も出ない。俺はぼたぼたと右腕から流れ出る血を抑えて、辺りを見た。
大猪は円を崩さず俺を取り囲んでいる。大猪のところまでは、まるで計ったように黒い飛沫は一滴も届いては居なかった。大猪達はこの惨状を見ても全く動じていない。あの円陣を抜けることは出来ないだろう。
では・・・内側はどうだ?
一塊となっていた黒い強烈な酸を放つ巨大な粘菌は、触手のようにその身を伸ばし、小蟲や草を飲み込みながら散らばった分身を回収してゆく。こいつが俺の血肉を啜った分身と接触すれば、今度はこの巨大な塊が俺を狙って来るのではないか?
今度こそ俺に逃げ場はない。
俺は黒い粘菌に追われまいと、土産の大蜂を入れた上着で滴る血を抑える。こればかりはどうしようもないが、切り付けた場所が悪かったようだ。そう簡単には血は止まらない。押し当てた上着に血がにじむ。俺は大猪の包囲を気にしつつ下がれるだけ下がるが、黒い分身は確実に俺の血を追って来る。もう、猶予はない。
「覚悟を決めるしかないか。」
俺の血を啜る粘菌が、本体から延びてきた触手に繋がった。巨大な黒い粘菌の塊は、一瞬全身を身震いさせた。そして刹那、黒い粘菌が凍ったようにぴたりと止まった。
「まずい。」
巨大な黒い塊が一気にその身を広げ、俺に向かって飛び掛かって来た。その時俺は間一髪、大猪の包囲網に向かって飛び出した。一瞬前に毛皮の足袋が踏みしめた草を、黒い粘菌が飲み込んで炭にした。
「うおお!」
黒い粘菌は一度その身をかがませ、黒豹の様に俺に向かって跳躍してくる。俺は右へ左へと勘で躱しながら進む。大猪達は黒い粘菌に手を出せないのか、門に逃げる俺を包囲したまま進んでいる。
もしこのやたらと機動性のある巨大な粘菌に飲み込まれれば、一溜りもないだろう。だが、逆にこれは好機だ。
大猪達が黒い巨大粘菌を避けているのは明白だ。なら、この包囲網を抜ける手立てもある。俺は右腕の傷口を見た。未だに滴る血を受けた大蜂入りの上着は真っ赤に染まっている。これを囮の餌に使う。これが失敗しても次の囮がある。俺の背にはまだ木の葉で包んで蔦で縛った肉の塊があった。
「上手く掛かってくれよ!」
巨大な飢えた獣と化した黒い粘菌が俺に飛び掛かってくる。右後方から来たそれを、俺は今までの様に左右に躱すのではなく、身をかがめて右手へすり抜けた。粘菌は俺の上すれすれを左へ抜けてゆく。
ジュッ!っと俺の左前に着地した粘菌が、俺の血の臭いを探ろうと静止した一瞬、俺は血の染みついた上着を中身の蜂ごと右前へ投げつけた。
ほとんど血袋と化した俺の上着は、染み込ませた血を滴らせながら弧を描く。獰猛な黒い粘菌は屈んだ俺を無視して飛び上がり、まるでそれ自体が口であるかの様に俺の投げた上着を追った。
「よし!やった!」
俺の上着は、門へと走る俺を逃すまいと追っていた一体の大猪の前に落ちた。
早間龍彦
称号
「????」「怪獣大進撃」「大蜂殺し」「食わせ物」「大狼殺し」「大番狂わせ」「一撃必殺」「大カブト殺し」「樹海の匠」「鳳殺し」「魔弓の射手」「必中」「影無き追跡者」「悪運」「鉄人」「敵の敵は味方」「喉元過ぎれば」「心眼琉舞」
「強い決断力」:多少の痛みを伴うことでも、今後の事態を計りにかけ、切り捨てる判断をした
遭遇生物
「万人怯える 鋼鉄溶かす 黒粘菌」
「屈強な 金毛の 大猪」
「偉大なる 金剛の 巨猪」
アイテム
大猪の毛皮 大猪の牙 火起こし機 鉤爪ロープ 宝石? 鉱石? 饐えた肉 長い蔦 薪 水筒x2
装備品
龍爪ナイフ 甲殻の鎧+ 革の小手+ 猪肋弓 魔の矢(狼牙+虹の羽)x5 大羊の兜 毛皮の足袋