迷宮生活6日目その三~7日目その一
「ああ・・・」
茂みから覗く俺の目に飛び込んできた光景は、酷いありさまだった。
俺が寝床にしていた三つ又の大木は真ん中からへし折られ、周囲の木々ももれなくなぎ倒されている。
まるで竜巻でも通った後のようだ。なぎ倒された木々には、漏れなく巨大な爪痕が深々と刻まれていた。
俺がこの森で築き上げた小さな城は、粉みじんになっていた。
「一体何が?」
俺のカバンが壊されていた周囲と同じような感じがする。だが、こちらの方が遥かに恐ろしい。破壊された跡からは、殺意や狂気がまるでそこにあるのが当たり前とでもいうように、全く隠すことなく滲み出ていた。
不意に背筋が寒くなる。これだ、この感覚。幾度となくこの森で俺を救ってくれた感覚だ。俺は槍に手をかけ、さっと飛びのいた。
ゴリッ!と、大羊の骨でできた槍の柄が抉られる。
一拍置いてミシミシと倒れた木々の間から現れたのは、あの漆黒の巨熊だった。
黒い巨熊の姿が掻き消えた。
いや、俺の目が追い付いていないだけだ。巨熊を見失った俺は、咄嗟に両手に持った槍を頭上に掲げた。ミシッ!っと乾いた音が聞こえた。
俺が手にした槍の大羊の骨製の柄が叩き折られた時、俺はようやく巨熊の姿を再び捉えた。大熊の振るったその腕は大羊の骨程度で止まるはずもなく、俺がかぶっている大羊の頭蓋骨に生えた太い角をも易々と刈り取ってしまう。
「くおっ!」
骨の兜越しに響く衝撃に俺は一瞬怯んでしまった。その隙を衝いて大熊は反対側の腕を振り抜いた。俺はぐらつく頭で、必死に手にした折れた槍の柄をクロスさせ、下から迫ってくる巨熊の腕を受け止めた。
「ぐほっ!」
ドサリと受け身も取れずに俺は跳ね飛ばされた。手にした槍は一瞬前の頑丈そうな面影すら無く、被った大羊の兜も左の角が折れ、左の眼下に大きな爪痕が刻まれていた。
あの時咄嗟に槍を構えなければ、もし俺が骨の兜を被っていなければ・・・どれ一つをとっても即死だっただろう。
だが、俺にとって厄介なのは、まだ何の問題も解決していないということだ。折れた槍の穂先だけを毛皮にねじ込んだ俺は、龍鱗の盾に手を掛けた。
巨熊がその巨体に見合わず、疾風のように駆けてくる。俺は体当たりしてくる大熊に辛うじて龍鱗の盾を合わせる。
当たる一瞬前に跳んで直撃を避けようとする俺だが、巨熊はその圧倒的な筋力に物を言わせてギリギリでも方向を修正し、こちらに突っ込んでくる。俺は無様に吹き飛ばされるしかない。
「とてもじゃないが流しきれない。」
ここは隙を見て逃げるしかない。だが・・・
「隙なんてねーよ・・・」
横に跳び、なおかつ盾で防いでも、振り下ろされる大熊の腕からは逃れられない。何とか気を逸らそうと、大狼の牙や爪、大蜂の針を投げつけてみても屁の突っ張りにしかならない。じりじりと奪われてゆく体力。徐々に足腰が立たなくなってくる俺は、確実に追い込まれていた。
躓けば終わり。避け損ねれば終わり。諦めれば終わり。
「八方塞がりかよ!!」
盾を通して伝わって来る衝撃に身を竦める。巨熊は俺の動きを見切り、フェイントを混ぜ始めていた。
ピシッ!と小さな、それでいて俺に確実な絶望感を感じさせる音が聞こえた。次々と繰り出される大熊の爪が容赦なく地面を、木々を抉ってゆく。龍鱗の盾と言えども、例外ではない。この森の猛獣の攻撃を悉く退けてきた龍鱗の盾すら、皹が入り始めた。
この盾が砕けたとき、俺は一体どうすればいいんだろう?俺は真黒な巨熊の腕を機械的に避けることに必死で、それ以外は全く考えられない。いや、考えたくない。頼むから持ってくれと祈ることしかできない。
しかし、この森では祈りなど空しい。俺が大木を挟んで大熊の爪を受け止めた時、パリンと、驚くほど小さな音を立てて龍鱗の盾はあっけなく砕けてしまった。
盾が砕けた時、俺の心も砕けてしまった。
「無理だろ・・・」
俺は良くやった方だと思う。
こんな訳の分からないところに放り出されて、6日間も良くやったよ。
物語にお約束の案内役もいない。俺自身何の力もない。この猛獣の跋扈する弱肉強食の原生林では、吹けば飛ぶような存在だ。
鱗の盾が砕けた今、俺を守るのは角の折れた大羊の頭蓋骨と大カブトムシの甲殻、そして僅かな金猪の毛皮だけだ。そのどれもが、俺を死へと引きずり込もうとしているあの巨熊の黒い腕の前では、薄紙同然だった。
俺はただぼうっと、いつの間にやら集まってきた大蜂の群れが、巨熊が腕を振るうたびに砕かれてゆくのを見ている。
大蜂達は自分たちの巣を、巨熊が襲いに来たのだと勘違いしているらしい。伊勢海老よりも大きい大蜂は、俺が今まで見たことがないほどの必死さで巨熊に挑んでゆく。だが、あり得ないほど大きい大蜂も、黒い巨熊にとってはうるさい蠅程度の存在でしかないのだ。
べちゃり。みしり。と、俺の側に砕かれた大蜂の死骸が落ちてくる。
大蜂の複眼は窪み、首はおかしな方を向いている。翅と脚はもげ、頑丈なはずのその殻からは千切れた臓腑と肉がはみ出していた。
落ち窪んだ複眼、砕けた顎のもう羽ばたくことのない大蜂が俺を見る。
傍白としていた俺の心に、静かだが、確実に湧いてくるものがあった。
触れるだけで火傷してしまうほど冷たく、全身を切り裂かれるような痛み。そして何より、どんな感覚よりも寂しさと無力感をもたらすもの。
全てを諦め、何もなくなってしまった俺の心。現実から目を背け、閉ざしていた心を容赦なくこじ開けてきたのは「死への恐怖」だった。
「死にたくねえな・・・」
次の瞬間、俺は脱兎のごとく駆け出していた。出来るだけ速く、出来るだけ遠くへ、俺にとっての死そのもの。真黒な巨熊から。
巨熊は向かってくる大蜂を跳ね飛ばしながら、逃げ出した俺を執拗に追ってくる。俺は木々の間にダイヴして飛び掛かってくる巨熊を躱し、目つぶしにとっておいた針やら爪やらをぶちまけ、掬った泥を投げつけ、振り下ろされた爪を咄嗟に抜いた龍鱗剣で防いだ。
とにかく俺は必死だった。剣を鱗の盾の代わりに使い、砕けた破片すら投げつけた。俺は持てるもの全てを使って逃げた。暗くなり、辺りが見えなくなっても木々にぶつかりながら逃げた。大熊に跳ね飛ばされ、血みどろになっても逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。
だが、逃げども逃げども巨熊は追ってくる。なぜそうまでして追ってくるのか、理由なんて知らない。走り続ける俺には、それを考えるだけの血液を脳に与えることが出来なかった。
「がっ!はぁ。」
ガツン!と、暗闇の中俺は何かにぶつかった。なんだ?!
後ろから追ってくる巨熊が茂みをかき分けて迫る音がする。俺は暗闇の中、必死になって前へ進もうとするが、見えない何かに阻まれて進めない。
ぺたりと俺の手がそのナニカに触れた。
「壁・・・だ。」
壁だった。
この原生林は、いくら巨大な生物が悠々と暮らせるだけの広さがあると言っても、所詮は箱庭に過ぎない。俺は原生林の広さに圧倒され、この森林が壁と天井に区切られた有限の世界だということを完全に失念していた。
「もう・・・逃げられないか。」
ふぅと一息ついた俺は、闇の中からこちらを見ている巨熊の目を見る。暗闇の中でぎらつく双眸は遥かな高みにある。
だが、もう逃げ場はない。剣も盾も槍も失った俺にはもうこれしかないと、二本の龍爪ナイフを抜いた。最後ぐらいは戦って見せないといけないよな。
「いくぞおお!!」
慣れというのは恐ろしいもので、この暗闇の中でも俺は壁を背に巨熊の攻撃をしのいでいた。恐怖で頭がいっぱいになると、恐怖を感じているのが普通になってしまって、恐怖が恐怖でなくなってしまうようだった。
さらに驚いたことに、迷宮の壁は巨熊の爪を食らってもビクともしないどころか、傷一つつかなかった。孤立無援のこの状況で、俺は俺が背にしているこの壁がとてつもなく頼もしく思えた。
もう逃げ場はないという事実と、恐怖が飽和してしまったこと、そして何より、俺の生きたいという思い、それだけが俺を生かしていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
初めは、切り付けると逆に爪が欠けてしまうほど硬い壁に戸惑っていた巨熊も、しばらくするとこの状況に慣れ、その攻撃は鋭さが増していった。
鋭い爪が俺の喉首目がけて振り下ろされた。
躱しきれないと判断した俺は、二本のナイフを交差させて何とかその爪を受け流そうとした。なんとか致命的な一撃は避けた俺だったが、勢いは殺しきれず壁を背にして初めて跳ね飛ばされた。
「くっ!これ以上は・・・」
この巨大な原生林はそうそう踏破出来るものではない。その森を、しかも逃げながら端から端まで走り抜けた俺にはもう体力は残っていない。今までほとんど気力で立っていたようなものだ。
俺の心を代弁するかのように爪を逸らした直後、今までの無理が祟ったのだろうか、使い込んだ方のナイフが無念とでも言うようにパキンと折れた。ザクッっと、落ちた刃の切っ先が地面に突き刺さる。
「これまでか。」
巨大な熊の爪が地面を削りながら俺に近付いてくる。俺には避ける手段はない。だが、俺は最後の最後まで左手に手にしたナイフを構える。
俺には何が起こったのか分からなかった。
最後の最後まで目を開けナイフを構えていた俺の目には、夜の闇を切り裂く金色の影が虚空に向かって体当たりをしているように見えた。
次の瞬間、呆けていた俺はいきなり横から来た何かに跳ね飛ばされ、宙を舞う。地上には十数頭の闇夜に輝く金色の影、光を失った天井、そして真っ平らな壁の歪み。大猪の牙に引っ掛けられるようにして投げられた俺は、激しく地面に背を打ち付ける。
「ぐっ!」
立ち上がる気力は無い。もう限界なんだ。だが、立たねばならない。立ち上がった俺は、金色の猪の群れに囲まれていた。
助かったとも助かっていないとも言えた。
俺が巨熊に止めを刺される瞬間、金猪が割り込んできたらしい。そして金猪も俺を助けに来たという訳では無くて、お前を殺すのは俺達だという感じか?
金猪が乱入してきたおかげで、巨熊は俺を仕留め損ねた。そして、金猪に跳ね飛ばされたのに生きていることから察すると、大猪は壁際の戦いに慣れていないらしい。
金猪に翻弄されていた闇に溶け込む黒い巨熊は、長時間俺を追いかけまわした疲れを露程も見せない。巨熊は次第に大猪の群れを押し返し、こちらに近付いてくる。
一方の俺を囲んでいる金猪は、巨熊が来る前にケリをつける気らしい。しかし、やはり「壁」という、原生林には全くなじみのない存在には、そう簡単に対処できるものでもないらしかった。
だが、どちらにしても俺は死ぬ。遅いか速いかだけだ。
大猪が突進に失敗し、壁にその巨体を打ち付ける中、俺は最後の賭けに出ることにした。
「行くぞ!」
動かぬ足を動かし、進まぬ体を進める。壁ギリギリを進む俺は最後の希望にすがるしかなかった。
さっき跳ね飛ばされるときに見た「壁の歪み」。もしかするとあれは神殿に有ったものと同じ「扉」なのではないか?横から見えた壁の歪みは、あの装飾過多な扉の形によく似ているような気がした。
グオオオオオオオオオオオオオ!
巨熊の堪えようのない怒りを込めた咆哮が、月明かりのない箱庭の森にこだまする。
天が俺に味方したのか、壁際ギリギリを進む俺は壁と木々の間をすり抜けてゆく。足では俺が到底敵うはずもない金猪相手に、俺は最後の力を振り絞って差を広げていった。
「出る!出てやる!」
木の根に躓くも、気力で前回り受け身をし、走り続ける。
俺の手が遂に壁の歪みに届く。
正しくあの扉だった。
神殿に有ったような巨大な扉が、森を挟んで神殿とは対極の位置にその巨体を壁に預けていた。
「開け!」
追ってくる金猪が飛び掛かってくる。大扉は全く重量を感じさせず、俺が押した分だけ開いた。金猪の牙が俺の右腕を掠るが、俺はすんでのところで2枚の巨大な観音扉に身をねじこんだ。
扉の向こう側へ飛び込んだ俺は、開きっぱなしの扉を閉めにかかる。扉の向こうからは方向を変え終わった大猪の群れが、土煙を上げて今にもこちらへ突っ込んで来ようとしていた。
「閂は?!鍵は無いか?!」
遥かな天井まで届く巨大な扉をくぐった俺は、扉を閉じるべく鍵を探す。だが、装飾扉の反対側には、同じような華美な装飾が施されているのみで、鍵らしいものは全く見当たらない。
「何でもいい。閉じてくれ。」
一縷の望みをかけて俺は全身に力を籠め、扉を閉じた。もう大猪が扉を破って入って来た時に、安全なところまで下がる余裕はない。
今の俺が出来るのは、ただこの扉が俺の言葉に応えてくれるというファンタジーに頼ることだけだ。
いつまでたっても大猪が突っ込んできた振動は感じなかった。
あれだけの勢いだ。大猪の群れが突撃を止めることは出来ない。ならば、
「この扉もあの壁みたいにアホほど頑丈だってことか・・・」
開けと願えば羽より軽く開き、閉じろと叫べば城壁よりも強固に閉じる。俺は神殿からこの森に出た時既に、この世界の神秘に触れていたのだ。
「超科学か、魔法かは知らないが、助かった。とにかく樹海は出られたんだし・・・」
ふう・・・と、扉から目を放した俺は絶句した。
「出るどころか・・・全然駄目じゃん。」
目の前に広がるのは今までいた樹海よりははるかに狭いが、それでも端から端までが霞んで見えるほどの空間。一言で表すならば、巨大な洞窟だった。
本来真っ暗なはずの巨大な閉鎖された空間は、壁や天井が所々青白く輝き、幻想的な美しさを放っている。
天井は樹海と同じく高すぎて距離感がうまく掴めないが、巨大な鍾乳石が剣山のように並び、所々巨大な亀裂が開いている。
そして何より目を見張るのが、この四角い空間の真ん中を端から端まで占領する巨大な池だった。
扉を抜けた俺は、このほとんどが池で出来た、洞窟の巨大な一室のわずかな陸地に立っていたのだ。陸地はここと、遥か数百メートル向こうの対岸にしかない。
「一体どうすればいいんだよ・・・」
俺の時計は夜中の2時を指していた。
早間龍彦
称号
「????」「怪獣大進撃」「大蜂殺し」「食わせ物」「大狼殺し」「大番狂わせ」「一撃必殺」「大カブト殺し」「樹海の匠」「鳳殺し」「魔弓の射手」「必中」「冷静沈着」「影無き追跡者」
「理不尽の代償」→「悪運」
「泥だらけの勇気」+「ど根性」→「鉄人」:どんなに絶望的でも生きる気力を失わず生き抜いた
「敵の敵は味方」:敵を利用して活路を見出した
遭遇生物
「屈強な 金毛の 大猪」
「恐怖撒く 血を裂く 巨熊」
アイテム
大猪の毛皮 大猪の牙 火起こし機 鉤爪ロープ 宝石? 鉱石?
装備品
龍爪ナイフ 甲殻の鎧+ 革の小手+ 猪肋弓 魔の矢(狼牙+虹の羽)x5 大羊の兜 毛皮の足袋
 




