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ヌヴェル45 これは注文していませんが

作者: 寺澤樹生
掲載日:2026/09/26

店の灯りを消し、施錠する。

今晩はライブがあり、いつもより遅くなった。

家路につく和彦は駅前通りを歩いていく。

向こうからビジネスマンと思しき三人が歩いてくる。

酒に酔っているらしい。

「あれだけ頑張ったのに、何故あんな結果になるんだ?!」

叫んだ男は、どこか昔の自分に似ている。

「そうだ、そうだ!もっと吐け吐け、愚痴を吐け!」

他の二人がはやし立てている。

自分にも、ああいう時代があったなぁと和彦は、十数年前のことを思い出した。


あの頃は三十路前、ビジネスマンとしても脂に乗ってきた頃だった。

同時にサバイバルのせめぎ合いの中に迷い込んだ頃でもあった。

横目で他人の居場所を確かめながら、己の力量を少しでも上げていくことを考えていた。

自己啓発本をオンラインショップで注文したのは、その一環だった。

が、まるで違うモノが送られてきた。

《喫茶店経営入門》

出荷元にクレームを入れようかと思ったが、返品の手間も考えると面倒になり、再注文したが届いたのは、またしても別のモノだった。

《おいしい珈琲の淹れ方》

結局お目当ての本は書店で求めたが、送られてきた二冊の本が気になってしかたない。

「どういうことだろう?」


和彦は学生の頃、喫茶店主に憧れた時期があった。

時折訪れるその店の店主は白髪で、店にはいつもジャズが流れていて、いつも香ばしい珈琲の香りに包まれていた。

ゆったりと流れる時間がそこにあった。

こんなところで、日がな一日過ごせたらいいだろうなと思ったものだった。

それが社会に出るや否や慌ただしい時間の渦に巻き込まれ、いつしか夢のような情景は消え失せてしまっていた。

その頃の気持ちが、雑然とした時間の隙間でコトリと音をたてて甦ったような感覚になっているのだ。

「落とし物を探しにいかないと・・・」

ぼんやりとそんなことを考えた。


そんな和彦に追い打ちをかけたのは、三度目の誤配送だった。

くたびれてきたビジネスバッグを買い替えようと注文したのに、送られてきたのは、《珈琲豆とドリップセット》。

さすがに今度は出荷元にクレームを入れたが、注文に間違いはないと言う。履歴を調べてみると、確かにそれらを注文していた。

「無意識の内に求めているのか?」

手挽きミルで挽いた珈琲豆の香りを嗅ぎながら、彼の思考は更に深耕していくのだった。


マイカーの車検の時期が近づいてきたので、新車への乗り換えを検討しようとカタログを要求したところ、送付されてきた中に何故か《キッチンカーのカタログと一枚のカード》が含まれていた。

「導かれているのか?」

和彦は不思議な気持ちで、そのカードを見た。

カードには、こう書かれていた。

「あなたにできること、あるいはできると夢見ていることがあれば、今すぐ始めなさい。向こう見ずは天才であり、力であり、魔法です。 ゲーテ」

和彦は決心した。

会社を退職し、退職金でキッチンカーを購入し、商売の準備を進めた。

まずは、キッチンカーから。


商売は順風満帆とはいかないものである。和彦の場合も挫折の連続。自分には向いていなかったのかなと思う日々が続いた。

部屋も引き払い、キッチンカーで寝泊まりする毎日。それでも向こう見ずは、力であり魔法であると言い聞かせ頑張った。

結果、売上は少しずつ伸びていった。和彦は本来の目的である店舗を持ちたいと思うようになった。


それから数年。店舗を持つための一定の資金を蓄えた和彦は、不動産会社の仲介で十店舗以上の物件をあたったが、これと思うものに巡り会えずにいた。


ある朝、キッチンカーの準備をしているとき、一人の郵便配達人が一通の封筒を持って現れた。

和彦宛ではあるが、差出人が分からない。「これは?」と顔を上げると、もう郵便配達人の姿はなかった。

訝しげに封を開けると、中には一つの《店舗物件》のチラシが入っていた。

「ここが、いい」と和彦は思った。

五度目の誤配送だった。


ドアのカウベルが鳴った。

喫茶“奇妙な出来事”。

店主は白髪で、いつもジャズが流れていて、いつも香ばしい珈琲の香りに包まれている店として有名だ。

「いらっしゃいませ」

和彦が、テノールの声で挨拶する。

入ってきたのは、二十代半ばぐらいの青年だ。

アメリカンを注文した彼は、カウンター席でめずらしそうに店内を見渡す。


和彦「何か気になるものでも?」

青年「いえ、素敵だなと思って」

和彦「それは、それは、ありがとうございます」

青年「雑誌を見て。このお店いいなぁと思ってやってきたんです」

和彦「そうですか。気に入っていただけたら嬉しいですね」

青年「いつか、こういうお店を持ちたいなぁって思ってて。無理なんでしょうけど・・・」

和彦「無理かどうかは、やってみないと・・・」


あっそうそう、かのゲーテもこう言っていますよ。

「あなたにできること、あるいはできると夢見ていることがあれば、今すぐ始めなさい。向こう見ずは天才であり、力であり、魔法です」

それと、シェイクスピアはこう言っています。

「望みなしと思われることもあえて行えば、成ることしばしばあり」ってね。

これは《喫茶店経営入門》っていう本に載っていました。


「あっ、これですよね?」と言って、青年は一冊の本を和彦に見せた。

そのときの青年の顔。

それは、十数年前の和彦の顔にそっくりだった。


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― 新着の感想 ―
私も、入社してから2〜3年経った頃、喫茶店主に憧れて、喫茶店開業の本を買ったことがありました。 今も本棚に、残っております。
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