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闇バイトに堕ちた少女と、彼女を食い物にするやくざ

 「自分だけは、そんな道を選ばない」


 私たちは、犯罪のニュースに触れたとき、そう思うことがあります。


 危険だと分かっている仕事に、なぜ応募するのか。

 怪しいと気づきながら、なぜ引き返さないのか。

 家族や警察に相談すればよかったのではないか。


 安全な場所から眺めれば、答えは簡単に見えます。


 けれど、明日の家賃が払えないとしたら。学費の期限が迫っているとしたら。頼れる家族も、相談できる友人もいないとしたら。そして、目の前に「短時間で高収入」「誰にでもできる仕事」という言葉が差し出されたとしたら――人はどこまで冷静でいられるのでしょうか。


 『使い捨ての青春』は、二十歳の大学生・真壁紗良が、学費と生活費を得るために匿名の高額バイトへ応募するところから始まります。


 紗良は、最初から犯罪を望んでいたわけではありません。


 ただ、金が必要でした。

 今の生活を失いたくありませんでした。

 誰かに迷惑をかけず、自分の力で何とかしたいと思っていました。


 その思いは、決して特別なものではありません。


 だからこそ、この物語の闇は、遠い世界の出来事ではなく、私たちの日常のすぐ隣にあります。


 人を犯罪へ引き込む者たちは、必ずしも恐ろしい顔で近づいてくるとは限りません。怒鳴り声や暴力より先に、優しい言葉を差し出すことがあります。


 「君の苦しさは分かる」

 「困っているなら助けてあげる」

 「少し手伝ってくれればいい」


 誰にも理解されなかった人ほど、その言葉を救いだと思ってしまいます。


 しかし、差し出された手が、逃げられない鎖であることもあります。


 本作に登場する津久井竜司は、若者を力だけで支配する男ではありません。相手の貧しさ、孤独、罪悪感、守りたい人を見つけ出し、それらを利用します。


 彼が奪うのは、金や自由だけではありません。


 何が正しいのかを判断する力。

 誰かに助けを求める勇気。

 自分はまだ善良な人間だと信じる心。


 そして最後には、被害者だった人間に、別の誰かを傷つける役目を与えます。


 この物語では、被害者と加害者の境界を単純には描いていません。


 追い詰められていたから、何をしても許されるわけではありません。

 誰かに命令されたから、傷つけた責任が消えるわけでもありません。


 けれど、犯した罪だけを見て、その人がそこへ至るまでの苦しみを切り捨ててしまえば、同じ悲劇は何度でも繰り返されます。


 紗良は、正義のヒロインではありません。


 迷い、嘘をつき、恐怖に負けます。自分を守るために目を背け、親友を危険な世界へ引き込みます。誰かを救おうとして失敗し、生き延びるために別の誰かを切り捨てます。


 彼女が選ぶ道の中には、正解と呼べるものがほとんどありません。


 それでも、人は選ばなければならない瞬間があります。


 誰を守るのか。

 何を捨てるのか。

 どこまで自分の罪を引き受けるのか。


 この作品で描きたかったのは、犯罪組織の恐ろしさだけではありません。


 若者が助けを求められない社会。

 困っている人に自己責任という言葉を投げる空気。

 家族でありながら、本当の苦しみを話せない関係。

 そして、「救ってくれる人」を求める心につけ込む、利用と依存の構造です。


 青春という言葉には、明るさや希望の響きがあります。


 けれど、すべての若者が、夢を語る余裕を持っているわけではありません。明日の生活を守るだけで精いっぱいの人もいます。将来を選ぶ前に、今日を生き延びる方法を選ばなければならない人もいます。


 その弱さを買い取り、人間を消耗品として扱う者たちがいます。


 使えなくなれば切り捨てる。

 逃げようとすれば家族を脅す。

 罪を犯させ、戻る場所を奪う。


 彼らにとって、若者の人生は交換可能な道具にすぎません。


 けれど、使い捨てられた側にも、名前があります。家族があり、友人があり、夢がありました。間違った選択の前には、助けを求めても届かなかった時間があります。


 本書を読みながら、紗良の行動に腹を立てることがあるかもしれません。


 なぜそこで逃げなかったのか。

 なぜ友人を巻き込んだのか。

 なぜ誰かを犠牲にしたのか。


 その問いは、物語の最後まで残ります。


 ただ、そのとき少しだけ、「自分が彼女と同じ場所にいたなら」と考えていただければと思います。


 人は、自分が追い詰められるまで、自分の弱さを知りません。


 そして一度踏み込んだ闇から抜け出したとしても、以前と同じ自分に戻れるとは限りません。


 この物語に、完全な救いはありません。


 けれど、救いがないことと、目を背けてよいことは同じではありません。


 紗良が何を失い、何を守り、最後にどのような人間として生きることを選ぶのか。その先に残る「代価」を、最後まで見届けていただければ幸いです。


 若者は、金のために夜を売る。

 そして悪意ある大人は、弱さのために人間を買う。


 これは、特別に愚かな少女の物語ではありません。


 誰にも助けを求められなかった、一人の若者の物語です。


                         朝霧颯

第一章 金がない夜



 金がない、という事実には音がない。


 腹が鳴るような分かりやすい音も、窓ガラスが割れるような派手な音も立てず、少しずつ人間の暮らしの中へ入り込んでくる。冷蔵庫の中身を減らし、電気をつける時間を短くし、友人からの誘いに返す言葉を奪っていく。最後には、まだ何も起きていない顔をしている人間の胸の内側に、いつ破裂するか分からない焦りだけを残す。


 真壁紗良は、大学の講義室でその焦りを見つめていた。


 机の下で開いたスマートフォンには、大学から届いた通知が表示されている。


『後期授業料納付期限のお知らせ』


 文面は丁寧だった。期限までに入金が確認できない場合は、所定の手続きを取ってください。事情がある場合は学生課へ相談してください。赤い文字も、脅すような表現もない。けれど紗良には、画面の白い余白までが、自分の逃げ場を塞いでいるように見えた。


 納付期限まで、あと九日。


 必要な金額は二十八万四千円。


 銀行口座の残高は、四万八千二百十三円だった。


「真壁さん」


 名前を呼ばれ、紗良は反射的にスマートフォンを伏せた。


 講義を担当する教授が、教壇の向こうから彼女を見ていた。


「今の問い、どう考えますか」


 周囲の学生が一斉に紗良を見る。前のスクリーンには、「自己責任と社会構造」という文字が映っていた。


 よりによって、と思った。


 紗良は資料のページをめくるふりをした。何を聞かれていたのか分からない。隣の席の女子学生が小さくページ番号を指さしてくれた。


「個人の選択だけで判断するのは……難しいと思います」


「なぜ?」


「選択できる条件が、人によって違うからです」


 自分の声が、他人のもののように聞こえた。


「なるほど。では、その条件が厳しい人の選択は、どこまで社会が引き受けるべきでしょう」


 答えは出なかった。


 教授は少し待ったあと、「考えておいてください」と言って講義を続けた。視線が外れ、紗良は息を吐く。隣の女子学生が「大丈夫?」と口だけで尋ねた。紗良は笑ってうなずいた。


 大丈夫。


 その二文字は、最近の紗良が最も多くつく嘘だった。



 講義が終わると、学生たちは明るい声を連れて廊下へ流れ出した。週末の予定、飲み会、旅行、恋人の愚痴。紗良は人の波から少し遅れて歩いた。


「紗良、今日バイト?」


 階段の手前で、早瀬湊が追いついてきた。


 湊は同じ学部の二年生で、入学直後の必修授業からの付き合いだった。柔らかい癖のある髪と、少し眠そうな目をしている。誰とでも話せるくせに、広く浅い関係に疲れると、紗良の隣に戻ってくる。


「うん。六時から」


「最近ずっと入ってない?」


「お金が好きだから」


「それ、稼いでる人が言うやつ」


 湊が笑った。紗良も笑う形を作った。


「飯、食ってから行かない? 学食のカレーなら奢る」


「なんで?」


「今朝、親から仕送り入った」


「じゃあ大事に使いなよ」


「三百八十円で恩を売れるなら安い」


「今日はいい。間に合わなくなるから」


 本当は時間がないのではなく、奢られるのが嫌だった。湊の三百八十円を受け取ったら、自分が困っていることまで見抜かれそうな気がした。


「また断る」


「今度ね」


「その今度、いつ来るんだろうな」


 湊の声が一瞬だけ低くなった。


 紗良は足を止めかけたが、振り返らなかった。


「来週くらい」


「適当」


「じゃあ、バイト行くから」


 手を振り、大学の正門へ向かう。背中に湊の視線を感じたが、追ってはこなかった。



 紗良が働いているのは、駅前の商業ビルに入るカフェだった。


 時給は千百円。平日は夕方から閉店まで、土日は昼から入る。半年前までは週に五日ほど働けたが、店長が変わってからシフトは削られ始めていた。


「真壁さん、来週の希望、見たんだけど」


 休憩室でエプロンを着けていると、店長の倉田が入ってきた。四十代半ばで、いつも眉間に浅い縦じわを寄せている。


「はい」


「ちょっと人件費が厳しくてさ。平日二日、土曜だけでお願いできる?」


「来週だけですか」


「しばらくかな。学生さんは扶養とかもあるでしょ」


「私は大丈夫です。もっと入れます」


「うん。でも、会社から時間数を落とせって言われてて」


 倉田は申し訳なさそうな顔をした。その顔が本当に申し訳ないのか、単に面倒を早く終わらせたいのか、紗良には分からなかった。


「日曜も入れます。朝からでも」


「日曜は主婦の人がいるから」


「閉店作業だけでも」


「真壁さん」


 倉田は声を少し柔らかくした。


「君だけ特別扱いできないんだよ」


 特別扱いしてほしいわけではなかった。働いた分の金がほしいだけだった。


「分かりました」


 紗良はシフト表を受け取った。来週の勤務は合計十六時間。交通費を除けば、手元に残るのは二万円にもならない。


「何かあったら、また頼むから」


 倉田はそう言って休憩室を出ていった。


 何かとは、誰かが休むことだ。誰かの子どもが熱を出すこと。誰かが辞めること。誰かの不幸が起きたときだけ、自分の生活が少し助かる。


 そんなことを望む人間にはなりたくないと思いながら、紗良は毎日、勤務交代の連絡が来ないかスマートフォンを確認していた。



 閉店後、廃棄するサンドイッチをゴミ袋へ入れながら、紗良は一つだけ持ち帰れないか考えた。


 店では廃棄品の持ち出しは禁止されている。理由は聞いたことがない。持ち帰れるようにすれば、廃棄を増やす者が出るからだと誰かが言っていた。


 透明な袋の向こうに、まだ形の崩れていない卵サンドが見えた。


「それ、食べたい?」


 同僚の坂下が笑った。


「見てただけ」


「分かる。もったいないよね」


「うん」


「でも前に持って帰った子、クビになったらしいよ」


「知ってる」


「真壁さん、まじめだから大丈夫か」


 まじめ。


 その言葉は褒め言葉のはずなのに、最近は、自分を狭い場所へ押し込める札のように感じた。


 紗良はゴミ袋の口を結んだ。



 帰宅したのは午後十一時を過ぎていた。


 駅から徒歩十五分。築二十七年のワンルームは、外廊下の蛍光灯が一本切れたままになっている。家賃は四万七千円。安いとは言えないが、大学まで電車一本で行ける部屋の中ではましなほうだった。


 ドアを開けても、部屋は朝出たときと同じ冷たさを保っていた。


 冷蔵庫には卵が二つ、豆腐が半分、賞味期限を一日過ぎたもやしが一袋。紗良はもやしを洗い、豆腐と一緒に鍋へ入れた。味噌を溶き、卵は使わずに残した。


 食べながら、支出を書いたノートを開く。


 家賃、四万七千円。


 電気、三千八百六十円。


 ガス、二千九百円。


 通信費、四千三百円。


 定期代、八千四百円。


 食費は、一日六百円で計算しても月一万八千円。


 奨学金は学費の一部に消える。高校時代に申し込んだ給付型は家計基準の変更で外れ、貸与型はすでに上限に近かった。


 数字を足しても、引いても、二十八万四千円は現れなかった。


 学生課に相談すれば、納付猶予を申請できるかもしれない。だが猶予は免除ではない。支払いが先へ移るだけだ。来月になれば家賃も、生活費も、また必要になる。


 スマートフォンが震えた。


 母からだった。


 画面に表示された「お母さん」の文字を、紗良はしばらく見つめた。


「もしもし」


『今、帰ったところ?』


「うん」


『ちゃんと食べてる?』


「食べたよ」


『何を?』


「カフェで余ったパスタ」


 嘘は口から出るたびに滑らかになっていた。


『あんたのところ、余り物もらえるの?』


「たまにね」


『よかった。若いうちは食べないと』


 母の後ろで、食器がぶつかる音がした。実家の台所が浮かぶ。古い換気扇。欠けた茶碗。父が家を出てから、母が一人で使っている狭い食卓。


「お母さん、仕事どう?」


『どうって、普通よ』


「腰、まだ痛い?」


『痛いけど、そんなの皆同じ。湿布貼れば何とかなるわよ』


 何とかなる。


 母もその言葉を使った。


 紗良はノートの上の授業料を見た。


「あのさ」


『何?』


「大学の……」


 そこで声が止まった。


 電話の向こうで母が小さく息を吐いた。


『紗良、ごめんね。今月、ちょっと送れそうにないの』


 頼む前に断られた。


『車検と、給湯器の修理が重なっちゃって。来月なら少しは……』


「違う。お金の話じゃないよ」


『そう?』


「大学のゼミ、どれにしようかなって」


『そんなの、自分の好きなのにしなさい。あんたは昔からちゃんと考える子だから』


 母の声に安堵が混じった。紗良はそれを責められなかった。母が送ってくれる毎月一万円が、どんな生活の削り方で作られているか知っていた。


『何とかなるでしょう。まだ二年生なんだし』


「うん」


『大丈夫よ』


「うん。大丈夫」


 通話を終えると、部屋はさっきより静かになった。


 紗良は冷めた味噌汁を飲み干した。



 日付が変わっても眠れなかった。


 布団の中でスマートフォンを眺める。求人アプリを開き、「高時給」「単発」「夜間」で検索する。


 倉庫での仕分け、イベント会場の撤去、試験監督、コールセンター。時給は高くても千五百円程度で、交通費や勤務可能日を考えれば、九日で二十八万円には届かない。


 検索結果の間に、SNSの広告が挟まった。


『短時間・即日・高額』


『学生歓迎。秘密厳守』


『困っている方を支援します』


 黒い背景に白い文字だけの画像だった。仕事内容は書かれていない。連絡先として、匿名性の高いメッセージアプリのアカウントが載っていた。


 紗良は一度、画面を閉じた。


 闇バイト。


 ニュースで見た言葉が頭に浮かんだ。強盗、詐欺、受け子。高額報酬で若者を集め、個人情報を握って逃げられなくする。


 そんなものに応募する人間の気が知れない、と以前は思っていた。


 どうして怪しいと分からないのだろう。どうして警察に相談しないのだろう。どうして最初の一歩を踏み出してしまうのだろう。


 今なら分かる気がした。


 怪しいと分からないのではない。


 怪しいもの以外に、自分を救うものが見つからないのだ。


 紗良は銀行口座の残高をもう一度確認した。四万八千二百十三円。明後日、家賃が引き落とされれば千円余りになる。


 スマートフォンのメモに、授業料の金額を入力する。


 二十八万四千円。


 その数字を消し、求人広告の連絡先を検索した。


 プロフィール画像は灰色の円。名前は「サポート窓口」とだけ表示されている。


 メッセージ入力欄に指を置いた。


『募集を見ました。大学生です』


 打っては消し、また打った。


『仕事内容を教えてください』


 送信ボタンを押す直前、母の声を思い出した。


 あんたは昔からちゃんと考える子だから。


 紗良はスマートフォンを伏せた。


 布団を頭までかぶり、目を閉じた。だが、瞼の裏に浮かぶのは大学の通知と口座残高だった。


 五分後、紗良は起き上がった。


 そして、送信した。



 返事は一分もかからずに届いた。


『お問い合わせありがとうございます』


 自動返信のように丁寧な文章だった。


『当方は、事情があって通常の勤務が難しい方へ、短時間のお仕事を紹介しています。違法な業務はありません。個人情報は厳重に管理します』


 続けて、簡単な質問が送られてきた。


 年齢。性別。居住地域。勤務可能時間。借金の有無。家族構成。


 借金の有無で紗良の指が止まった。


 奨学金は借金に含まれるのだろうか。


『奨学金があります』


『承知しました。多くの学生さんが同じ状況です。心配ありません』


 その一文に、胸の奥がわずかに緩んだ。


 多くの学生が同じ状況。


 自分だけではない。


 担当者は「ハヤシ」と名乗った。文末には必ず柔らかい顔の絵文字をつけた。


『本人確認のため、身分証の表裏と、ご本人様のお顔が一緒に写った写真をお願いします』


 紗良は返事をしなかった。


 ニュースで聞いた話と同じだった。個人情報を送らせ、脅迫に使う。


『不安でしたら、今回は見送っていただいて大丈夫です』


 追いかけてこない言葉が、かえって紗良を引き止めた。


『ただ、明日夜の案件は三万円です。作業時間は一時間ほどです』


 三万円。


 カフェで二十七時間働いて、ようやく届く金額だった。


『何をするんですか』


『封をされた荷物を運んでいただきます。中身には触れません。依頼主のプライバシーを守るため、詳細は採用後にお伝えします』


『危ない仕事ではないですか』


『困っている人を助ける、簡単な仕事です』


 同じ言葉が広告にもあった。


 紗良は身分証を机に置いた。スマートフォンのカメラを開き、学生証と自分の顔を一緒に写す。髪は寝癖で乱れ、目の下に薄い影があった。


 撮影した画像を確認する。


 送れば戻れない。


 そう思った。


 けれど戻った先に何があるのか、紗良には分からなかった。


 画像を送った。


『ありがとうございます。緊急連絡先として、ご家族のお名前、電話番号、ご勤務先をお願いします』


『そこまで必要ですか』


『万一、勤務中に事故があった場合のためです。一般的なアルバイトでも提出しますよね』


 もっともらしい説明だった。


 紗良は母の名前と電話番号を書いた。勤務先の欄で手が止まったが、実家近くの介護施設の名前を入力した。


『登録完了です。真壁さんの生活が少しでも楽になるよう、こちらも支援します』


 画面の向こうの誰かは、紗良が大学へ通い続けたいことも、今夜何を食べたかも知らない。


 それでも「支援します」という言葉は、母の「何とかなる」より具体的に感じられた。


『明日、十九時。駅北口のコインロッカー前へ来てください』


 メッセージの最後には、また柔らかい顔の絵文字があった。



 翌日、紗良は講義の内容をほとんど覚えていなかった。


 何度もメッセージを読み返し、アカウントを削除しようとした。だが、授業料の通知が届くたびに指が止まる。


 夕方、湊から食事に誘われた。


『今日はカレーじゃなくてラーメン』


『バイト』


『昨日もだろ』


『人が休んだ』


『働き者だねえ』


 最後のメッセージに返事はしなかった。


 指定された駅の北口は、帰宅する会社員と学生で混雑していた。紗良はコインロッカーの前に立ち、黒いパーカーのポケットで手を握った。


『着きました』


『三十七番のロッカーを開けてください。暗証番号は九一六四です』


 ロッカーの中には、コンビニの小さな紙袋が一つ入っていた。口はホチキスで留められている。持ち上げると、薄い箱のような感触がした。


『中身は見ないでください』


 見られている。


 紗良は周囲を見回した。柱の陰、改札前、ベンチ。誰が担当者なのか分からない。全員が無関係に見え、全員が自分を監視しているようにも見えた。


『次の場所を送ります』


 電車で三駅先の繁華街だった。


 紙袋を抱え、ホームへ向かう。改札近くに制服姿の警察官が二人立っていた。紗良の心臓が強く打った。


 別に悪いことはしていない。


 荷物の中身は知らない。配送するだけだ。もし尋ねられたら、知人に頼まれたと言えばいい。


 警察官の一人がこちらを見た。


 紗良は目を伏せ、交通系カードを改札に当てた。警告音が鳴る。残高不足だった。


 後ろに並んでいた男が舌打ちした。


 紗良は慌てて列を外れ、千円だけチャージした。手が震えて硬貨を落とした。拾おうとしゃがんだとき、紙袋の中で何かが小さく滑った。


 逃げたい。


 今なら紙袋を駅員に渡して、事情を話せる。


 だが、身分証も、母の勤務先も送っている。まだ脅されたわけではない。それでも、話した瞬間に母のところへ何かが起きるような気がした。


 紗良は紙袋を抱え直し、電車に乗った。



 指定されたのは、雑居ビルの裏口だった。


 表通りには居酒屋やカラオケ店の看板が並んでいるが、一本裏へ入ると人通りが急に減った。室外機の音と、排水の匂い。壁の落書き。壊れた傘がゴミ箱に突き刺さっている。


『裏口横の青い箱へ入れてください』


 青い宅配ボックスのような箱があった。鍵はかかっていない。


 紗良が紙袋を入れようとしたとき、裏口の扉がわずかに開いた。


 暗がりの向こうに、人の目が見えた。


「置け」


 男の声だった。


 紗良は紙袋を箱へ押し込み、ふたを閉めた。


「待って」


 背を向けたところで呼び止められた。


 足が動かなくなった。


 扉の隙間から、黒い袖の腕が伸びた。手にはスマートフォンがある。


 画面に紗良の顔写真が表示されていた。昨夜、学生証と一緒に撮ったものだ。


「本人だな」


 紗良は答えなかった。


「帰っていい」


 扉が閉じた。


 走り出したかったが、走れば追われる気がして、角を曲がるまで歩いた。表通りへ戻り、人の声と明かりに包まれた瞬間、膝から力が抜けた。


 コンビニの前にしゃがみ込み、呼吸を整える。


 スマートフォンが震えた。


『業務完了です。お疲れさまでした』


 続けて、送金アプリの通知が表示された。


 三万円。


 本当に振り込まれていた。


 紗良は何度も金額を確認した。


 怖かった。怪しかった。二度とやりたくなかった。


 それなのに、最初に湧いた感情は安堵だった。


 これで家賃が払える。


 明日、食べ物を買える。


 少なくとも数日は、口座残高を見ずに眠れる。


 紗良はコンビニへ入り、弁当売り場の前に立った。いつもなら値引きされたおにぎりを選ぶ。だがその夜は、五百九十八円のハンバーグ弁当をかごに入れた。


 レジへ向かう途中で罪悪感が襲った。


 この弁当の金は、何を運んで得た金なのか。


 紗良はかごを戻し、百二十八円のパンを一つ買った。



 それから一週間、仕事は来なかった。


 紗良はほっとしながら、同時に落ち着かなかった。


 三万円のうち二万七千円を家賃口座へ移し、残りは食費にした。授業料には程遠い。それでも、あの仕事をあと十回すれば届くという計算が頭から離れなかった。


 十回。


 一時間ずつなら十時間。


 カフェなら二百五十八時間必要になる。


 比較すること自体が間違っていると分かっていた。けれど金額は、正しさよりもはっきりしていた。


 湊が紗良の変化に気づいたのは、学食でのことだった。


「今日、ちゃんと定食じゃん」


 紗良の前には、日替わり定食が置かれていた。四百九十円。以前なら一番安いうどんしか選ばなかった。


「給料日だったから」


「カフェの?」


「うん」


「シフト減ったって言ってなかった?」


 紗良は箸を止めた。


「誰が?」


「この前、坂下さんに会った。駅前で」


「勝手に話したの?」


「別に探ったわけじゃないって。真壁さん最近大変そう、って言ってたから」


「大変じゃない」


「じゃあ、なんで怒るんだよ」


 湊の声も硬くなった。


 紗良は定食の味噌汁を見た。


「単発の配送をやったの」


「配送?」


「荷物を運ぶだけ。三万円」


 湊の眉が動いた。


「一回で?」


「夜だったし、急ぎだったから」


「それ、やばくない?」


「普通の仕事」


「普通の配送で三万出るなら、みんなやるだろ」


「やってる人いるよ」


「どこで見つけた?」


「もう募集終わった」


 紗良は食べる速度を上げた。


「紗良」


「何」


「変なのに関わってないよな」


 問いかけは心配から出たものだった。分かっていた。それでも紗良には、責められているように聞こえた。


「湊には関係ない」


「そうだけど」


「自分は仕送りもらって、学食奢るとか言えるんだから、分からないでしょ」


 言った直後、後悔した。


 湊の家も裕福ではない。父親が勤める工場は業績が悪く、仕送りが遅れることもあると聞いていた。


 湊は少し黙り、やがて笑った。


「そうだな。分かんないかも」


「ごめん」


「いや」


 湊は自分の丼を見つめた。


「俺も、先月の家賃、カードで払ったから」


「え?」


「親には言ってない。バイトも人減らされてるし。スマホの分割も残ってる」


 湊は笑ったが、目は笑っていなかった。


「危なくないなら、紹介してよ」


「やめたほうがいい」


「なんで? 普通の仕事なんだろ」


 紗良は答えられなかった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 ハヤシからだった。


『お知り合いをご紹介いただければ、紹介料一万円をお支払いします。現在、若い男性のスタッフを募集しています』


 まるで会話を聞いていたようなタイミングだった。


 紗良は画面を伏せた。


「誰?」


「店長」


「シフト入れそう?」


「ううん」


 湊はしばらく紗良を見ていた。


「俺、金ないんだよ」


 冗談のない声だった。


「来月、学費の引き落としもある。親にはもう無理って言われた。奨学金も増やせない」


 紗良は自分を見ているような気がした。


「一回だけなら」


 口にした瞬間、胸の奥が冷えた。


「本当に荷物を運ぶだけだった。中身は分からないけど」


「連絡先、教えて」


「でも、身分証とか送らされる」


「普通のバイトでも出すだろ」


 自分が昨夜、同じ理屈に納得したことを思い出した。


 紗良はハヤシのアカウントを湊へ転送した。


「変だと思ったら、すぐやめて」


「分かってる」


「絶対に一人で決めないで」


「紗良もやったんだろ」


「そうだけど」


「じゃあ大丈夫」


 湊は、紗良が一番聞きたくなかった言葉を笑って言った。



 授業料の納付期限の二日前、大学の窓口で紗良は十万円を入金した。


 全額ではない。だが、一部納付の記録があれば、猶予申請が通りやすくなると学生課の職員が教えてくれた。


「残りは来月末までです」


「はい」


「難しい場合は、早めに相談してくださいね」


「大丈夫です」


 封筒を受け取り、大学を出た。


 空は低い雲に覆われていた。風が冷たく、秋が急に近づいていた。


 この一週間で、紗良はあと二回荷物を運んだ。


 一度は封筒。もう一度は鍵の束。報酬は合計七万円。仕事内容を尋ねると、ハヤシは「依頼者のプライバシーに関わる」と答えた。


 怪しい。


 間違いなく怪しい。


 けれど何も起きなかった。警察に捕まることも、誰かに殴られることもなかった。金は振り込まれ、授業料の一部を払えた。


 人間は、恐怖にも慣れる。


 最初は鳴り続けていた警報が、少しずつ遠くなる。何も起きない日が続くと、自分の不安のほうが大げさだったと思い始める。


 紗良は、仕事を一度きりで終えるつもりだった。


 それが三回になった。


 残りの授業料を払うまで。


 その言葉を、新しい終わりにした。



 部屋へ戻り、ハヤシのアカウントを開いた。


『これまでありがとうございました。もう仕事は受けません』


 送信した。


 既読はすぐについた。


 返事はなかった。


 紗良はメッセージアプリを閉じ、登録したアカウントを削除しようとした。


 その直前、画像が届いた。


 駅のコインロッカー前に立つ紗良の後ろ姿だった。


 次は、雑居ビルの裏口へ向かう姿。


 三枚目には、カフェの従業員用出入口から出てくる紗良が写っていた。


 撮影されたことに一度も気づかなかった。


『勤務記録として保管しています』


 続いて、別の写真が届いた。


 介護施設の裏口から出てくる母だった。制服の上に古いカーディガンを羽織り、腰を押さえながら歩いている。


 紗良の指が冷たくなった。


『どうして母の写真を』


『緊急連絡先の確認です』


『母は関係ありません』


『もちろんです。真壁さんが契約を守ってくだされば、ご家族へ連絡することはありません』


 脅迫という言葉は一つも使われていない。


 それでも、画面の文字は刃物よりはっきりと意味を持っていた。


『私は契約なんてしていません』


『登録時に同意いただいています』


 利用規約のリンクが送られてきた。長い文章の中に、業務上の損害が発生した場合、登録者と緊急連絡先へ確認を行うことがある、と書かれていた。


『次の仕事は、明日の夜です』


『行きません』


『真壁さんは責任感のある方だと評価しています』


『警察に相談します』


 入力したが、送信できなかった。


 母の写真を見た。


 もし本当に相談したら何が起きるのか。何も起きないかもしれない。すぐに守ってもらえるかもしれない。


 だが、警察へ説明するには、自分が何を運んだのか話さなければならない。中身を知らなかったと言って信じてもらえるのか。湊も紹介してしまった。


 湊。


 紗良は慌てて別のアプリを開いた。


 ちょうどメッセージが届いた。


『俺にも仕事来た』


 続けて、笑っている猫のスタンプ。


『紗良のより簡単そう。車の助手席に乗ってるだけで五万だって』


 紗良は文字を打った。


『行かないで』


 送信ボタンの上で指が止まる。


 自分が紹介した。


 危なくないと説明した。


 そして今、母の写真を見せられていることを話せば、湊は警察へ行こうと言うだろう。湊はまだ何もしていない。自分だけならともかく、彼まで巻き込んだことが明らかになる。


 スマートフォンがもう一度震えた。


 ハヤシから、明日の集合場所が届いた。


『困っている人を助ける仕事です。よろしくお願いします』


 紗良は湊への返信を消した。


 窓の外では、向かいのマンションの明かりが一つずつ消えていく。


 自分が仕事を選んだのだと思っていた。


 金のために、怪しい募集へ手を伸ばした。危険かもしれないと知りながら、身分証を送り、家族の情報を渡した。


 けれど今、その選択はもう自分の手の中になかった。


 紗良は母の写真を閉じることができず、夜明けまで画面を見つめ続けた。



第二章 見えない仕事



 翌日の集合場所は、駅から二十分ほど離れた立体駐車場だった。


 最上階には数台の車しかなく、風がコンクリートの柱の間を抜けていた。街の明かりは見えるのに、人の気配だけが遠い。紗良は柱に書かれた番号を確認し、指定された場所に立った。


『白い車の後部座席を開けてください』


 目の前に古いセダンが停まっていた。エンジンは切られ、運転席にも助手席にも誰もいない。


 後部座席のドアは施錠されていなかった。


 中には、箱に入った新品らしいスマートフォンが三台と、小さな鍵が一つ置かれていた。


『携帯電話は駅西口のロッカーへ。鍵は南町のマンションへ運んでください』


『一度に二か所ですか』


『はい。順番はお任せします』


『これは何に使うんですか』


 既読がつくまでに十秒ほどかかった。


『知らないほうが安全です』


 紗良はその文章を読み返した。


 安全。


 まるで担当者が自分を守ってくれているような書き方だった。


『質問をしないことも、仕事の一部です』


 続いた一文で、意味が反転した。


 紗良はスマートフォンの箱をバッグへ入れた。鍵はパーカーのポケットにしまう。鍵には番号が刻まれた小さな札がついていたが、建物名も部屋番号も書かれていない。


 駐車場を出るとき、入口の防犯カメラがこちらを向いていた。


 撮られている。


 そう思った瞬間、昨日までの日常が薄い膜の向こうへ退いた。大学の講義も、カフェのシフトも、冷蔵庫のもやしも、今ここにいる自分とは関係のない出来事に感じられた。



 スマートフォンを入れたロッカーは、最初の仕事で使ったものとは別の駅にあった。


 指定の番号へ箱を入れ、扉を閉める。すぐに別の暗証番号が送られてきた。


『鍵は五〇三号室の郵便受けへ』


 南町のマンションは、表通りから一本入った場所に建っていた。築年数の古い五階建てで、エントランスのオートロックは壊れたまま開いている。


 五〇三号室へ向かうエレベーターの中で、紗良は鍵を見た。


 この鍵で何が開くのだろう。


 部屋のドアか、倉庫か、車か。


 知らないほうが安全。


 その言葉を自分に言い聞かせ、五階で降りた。


 五〇三号室の郵便受けは、玄関扉についていた。鍵を差し込もうとしたとき、部屋の中から音が聞こえた。


 人の声だった。


「本当に、もうありません」


 男か女か分からないほど弱い声。


「昨日もそう言ったよな」


 別の男の低い声が返した。


「親にも頼みました。これ以上は……」


「頼み方が足りないんじゃないの」


「すみません」


「俺に謝ってどうすんの」


 何かが倒れる音がした。


 紗良は手の中の鍵を握りしめた。


 部屋の中で何が起きているのかは見えない。扉を開けることも、声をかけることもできない。ただ鍵を入れろと指示されている。


 郵便受けの口を持ち上げ、鍵を落とした。


 金属が床へ当たる、小さな音がした。


 室内の声が止まった。


「誰だ?」


 紗良は走った。


 廊下を抜け、階段を駆け下りた。エレベーターを待つ余裕はなかった。四階、三階。足音が大きく響く。


 背後で扉が開く音がしたように思えた。


 振り返らずに外へ出て、マンションから二つ先の交差点まで走った。信号が赤だったが、そのまま渡りかけ、車のクラクションを浴びた。


「危ねえだろ!」


 運転手の怒鳴り声に、紗良はようやく立ち止まった。


 スマートフォンが震えている。


『業務完了を確認しました』


『走る必要はありません。目立つ行動は控えてください』


 見ていたのだ。


 紗良は周囲を見回した。通行人、停車中の車、コンビニの店員。どこに目があるのか分からない。


『あの部屋で何をしていたんですか』


『真壁さんの担当業務ではありません』


『中にいた人は大丈夫なんですか』


『余計なものを見ても、見なかったことにできる人は長く働けます』


 続けて五万円の振り込み通知が届いた。


 褒められた。


 そう理解した瞬間、吐き気がした。


 紗良は歩道脇の植え込みにしゃがみ、口元を押さえた。胃には昼に食べた小さなパンしか入っていない。何も出ず、苦い唾だけが喉へ上がった。



 翌朝、口座残高はこれまでにない数字になっていた。


 家賃を引かれても、九万円近く残っている。


 紗良は大学へ行く前にコンビニの端末で公共料金を払い、滞納していたガス代も清算した。スーパーでは卵と牛乳、野菜、肉を買った。値引きシールのない商品をかごへ入れるたびに、胸の奥へ罪悪感が積み重なった。


 それでも冷蔵庫が埋まると、安心した。


 帰宅して電気をつける。暖房を入れる。湯船へ湯を張る。


 当たり前の暮らしが戻ってくる。


 そのたびに、マンションの扉の向こうで謝り続けていた声が聞こえた。


 紗良は湯船の中で耳を塞いだ。



 仕事は二日置き、やがて毎晩のように届くようになった。


 封筒を運ぶ。


 鍵を受け取る。


 公園のベンチの裏へ携帯電話を貼りつける。


 駅のトイレで紙袋を交換する。


 どれも一つ一つは簡単だった。全体が見えないため、犯罪だと断言できるものもない。だが、すべてをつなげれば何かの形になる。その形を想像しようとすると、ハヤシの言葉が先回りした。


 知らないほうが安全です。


 紗良は講義中も指示を待つようになった。


 スマートフォンが震えるたびに心臓が跳ねる。仕事の連絡でなければ安堵し、連絡が来ない時間が長くなると不安になった。


 自分が監視されているからではない。


 報酬が必要だった。


 授業料の残り。翌月の家賃。教科書代。冬物のコートも買い替えなければならない。壊れかけたノートパソコンも、いつまで持つか分からない。


 金が入れば、一つ不安が消える。


 すると、その下から次の不安が現れた。


 暮らしには終わりがない。支払いにも終わりがない。


 危険な仕事を一度受け入れた人間にとって、普通の時給は、もう別の世界の数字に見えた。



 湊も仕事を始めていた。


 最初は車の助手席に座り、指定された場所で待つだけだったという。誰かを乗せることも、荷物を触ることもなかった。


「二時間で五万」


 大学近くのファミリーレストランで、湊は声を潜めた。


「さすがに変だと思ったけど、本当に何もなかった」


「誰の車?」


「知らない。駐車場に置いてあって、鍵がタイヤの上にあった」


「運転したの?」


「助手席に座れって指示だけ。途中で男が運転席に乗ってきて、十五分くらい走った」


「どこへ?」


「分かんない。外を見るなって言われた」


 湊は笑っていた。


「でも俺、何もしてないから」


 紗良には、その言葉が自分への弁明にも聞こえた。


「もうやめたほうがいい」


「紹介した本人が言う?」


「思ってたのと違う」


「何が?」


 紗良はマンションで聞いた声のことを話せなかった。


「とにかく、危ない」


「でもさ、危ないって何が危ないんだよ。俺も紗良も、捕まってないし、誰かに殴られてもない」


「まだ、でしょ」


「じゃあ、あと一回」


「そのあと一回が続く」


 湊はドリンクバーのコーラをストローで混ぜた。


「今月、カードの支払いが十二万ある」


「何に使ったの」


「生活費。スマホ。あと、前の彼女と旅行した分」


「そんなの……」


「そんなの、って言うなよ」


 湊の目が鋭くなった。


「紗良の学費は仕方なくて、俺の借金は自業自得?」


「そういう意味じゃない」


「同じだろ。金が必要なんだよ」


 紗良は黙った。


 自己責任と社会構造。


 講義室のスクリーンに映っていた言葉が浮かんだ。


 湊の借金には、たしかに無駄遣いも含まれている。けれど一度足りなくなった金は、理由によって重さを変えてはくれない。


「それに、前借りできるって」


「前借り?」


「次の仕事を何回か受ければ、先に十万貸してくれる」


「やめて」


「返せるよ」


「絶対やめたほうがいい」


「なんでそんなに必死なんだよ」


 湊が身を乗り出した。


「紗良、何かあった?」


「何もない」


「嘘だろ」


「何もないって」


 紗良は伝票をつかんで立ち上がった。


「帰る」


「まだ来たばっかだろ」


「バイト」


「今日は休みって言ってたじゃん」


 紗良は答えず、レジへ向かった。



 その夜、湊からメッセージが届いた。


『十万借りた』


『返すまで三件だって』


『余裕』


 紗良は電話をかけたが、出なかった。


 しばらくして、ハヤシから仕事の指示が届く。


『明日、十八時。市民病院裏の駐車場』


『湊に前借りをさせたんですか』


『個別の登録者についてはお答えできません』


『返させます』


『早瀬さんご本人が希望されました』


『危険な仕事をさせるつもりですか』


『真壁さんがご紹介くださった方です。信頼しています』


 責任を返された。


 紗良が湊を連れてきた。


 それは事実だった。


『私の報酬から十万円引いてください』


『契約は個人ごとに管理しています』


『じゃあ、私が追加で働きます』


 送信してから、自分が何を申し出たのか気づいた。


 ハヤシの返事はすぐに来た。


『真壁さんは友人思いですね。上に相談します』


 上。


 初めて出てきた言葉だった。


 ハヤシの向こうに、別の誰かがいる。


 紗良はその存在を想像した。顔のない男。画面に並ぶ名前と金額を見て、誰に何をさせるか決める人物。


 自分も湊も、その人物にとっては数字にすぎない。


『今後も協力していただけるなら、早瀬さんの返済条件を調整できます』


『今後って、いつまでですか』


『困っている方がいる限り、仕事はあります』


 終わりがない、と言われたように感じた。



 市民病院裏の駐車場には、若い男が一人立っていた。


 紗良より少し年下に見えた。短く染めた髪、薄いダウンジャケット、足元は汚れたスニーカー。何度もスマートフォンを確認し、落ち着きなく周囲を見ている。


『彼を車で指定場所まで案内してください』


『私は車を持っていません』


『迎えが来ます。真壁さんは同行してください』


 数分後、黒いワゴン車が停まった。運転席には帽子を深くかぶった男がいる。顔はほとんど見えない。


 後部ドアが開いた。


「乗って」


 運転手が言った。


 若い男は紗良を見た。


「あんたもスタッフ?」


 紗良は答えに迷った。


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


「私も、指示されて来ただけ」


 男は不安そうに車内をのぞいた。


「俺、荷物運ぶって聞いたんだけど」


「私には分からない」


「どこ行くの?」


「分からない」


「何も知らねえじゃん」


 運転手がクラクションを短く鳴らした。


「早く乗れ」


 二人は後部座席へ乗った。


 窓には濃いフィルムが貼られ、外が暗く見える。車内には芳香剤と煙草が混じった匂いがした。


 走り出してしばらく、誰も話さなかった。


「名前、何?」


 若い男が小声で聞いた。


「言わないほうがいいと思う」


「そっか」


 彼は自分の膝を見た。


「俺、直人」


「言わなくていいって」


「誰かに名前知っててもらったほうがいい気がして」


 紗良は直人の横顔を見た。


「何歳?」


「十九。専門辞めた」


「どうして、この仕事を?」


「金」


 直人は乾いた笑いを漏らした。


「それ以外ある?」


 答えられなかった。


「家、追い出されてさ。ネカフェも金かかるし。これやれば寮入れるって」


「寮?」


「住むとこ用意してくれるって言われた」


 紗良はハヤシへメッセージを送った。


『この人はどこへ連れていかれるんですか』


『勤務場所です』


『本人は寮だと聞いています』


『詳細は現地で説明します』


『帰りたいと言ったら帰せますか』


 既読はついたが、返事はなかった。


 車は市街地を離れた。窓の外に店舗の明かりが減り、倉庫や空き地が増える。


 直人がスマートフォンを取り出した。


 圏外ではない。だが画面を開いた瞬間、運転手がバックミラー越しに言った。


「携帯しまえ」


「ちょっと連絡するだけ」


「指示聞けないなら、預かるぞ」


 直人は慌ててポケットへ戻した。


「俺、やっぱ帰りたい」


 運転手は反応しなかった。


「すみません。降ろしてください」


「着いたら説明する」


「今、降ろして」


「道路の真ん中で降ろせねえだろ」


「次のコンビニでいいから」


 直人の声が震えていた。


 紗良はドアの取っ手へ目をやった。走行中はロックされている。


「戻ってあげてください」


 運転手に言った。


 返事はない。


「本人が帰りたいって言ってます」


「真壁さん」


 運転手が初めて紗良の名前を呼んだ。


「仕事しようか」


 静かな声だった。


 紗良は息を止めた。


 運転手は自分たちのことを知っている。車に乗る前から、名前も、住所も、母の勤務先も。


 直人が紗良の腕をつかんだ。


「助けてよ」


 細い指だった。


「同じスタッフなんだろ」


「私には……」


「警察呼んで」


 紗良のポケットでスマートフォンが震えた。


 ハヤシから画像が届いていた。


 母の勤務する介護施設の正面。撮影時刻は数分前。


『業務に集中してください』


 紗良は画面を伏せた。


「ごめん」


「何が?」


「私には、できない」


「何ができないんだよ」


 直人の声が大きくなった。


「運転手さん、降ろして! 俺、やらないから!」


 車が急停止した。


 直人の体が前へ投げ出され、シートベルトが胸に食い込んだ。


 運転手は振り返らずに言った。


「次、騒いだら携帯と財布預かる」


「脅してんの?」


「安全のためだ」


 同じ言葉だった。


 直人は紗良を見た。


 助けを求める目。


 紗良は見返せず、窓の外へ顔を向けた。


 暗い田畑が流れていく。遠くに街の明かりが見えた。あそこには店があり、駅があり、普通に帰宅する人たちがいる。わずか数キロしか離れていないのに、声は届かない。


 車は郊外の古い工場のような建物へ入った。


 鉄製の門が開き、中に男が二人立っている。ワゴン車が停まると、後部ドアが外から開けられた。


「降りろ」


 直人は動かなかった。


「帰ります」


「説明聞いてからにしろ」


「嫌です」


 男の一人が直人の腕をつかんだ。


「やめろ!」


 直人が暴れた。紗良の膝に足が当たり、バッグが床へ落ちる。


「紗良! 助けて!」


 初めて名前を呼ばれた。


 運転手が教えたのか、車内で画面を見られたのか分からない。


 紗良は手を伸ばしかけた。


 その瞬間、母の写真が頭に浮かんだ。


 伸ばした手は、バッグを拾うための動きに変わった。


 直人は二人の男に挟まれ、建物の中へ連れていかれた。振り返りながら何か叫んでいたが、扉が閉まり、聞こえなくなった。


「真壁さんは帰っていい」


 運転手が言った。


「彼はどうなるんですか」


「仕事するだけだ」


「嫌がってました」


「最初はみんなそうだ」


「帰してください」


 運転手はようやく振り返った。


 帽子の下には、まだ若い男の顔があった。三十歳にも届いていないかもしれない。右の眉の上に薄い傷がある。


「帰すかどうか決めるのは、あんたじゃない」


 その言葉は怒鳴り声ではなかった。


 だからこそ、決定として紗良の中へ入った。



 駅まで戻されたのは、日付が変わる頃だった。


 紗良は直人にメッセージを送ろうとしたが、連絡先を知らない。名前しか知らない。直人という名が本名かも分からない。


 ハヤシへ問い続けた。


『彼を帰してください』


『業務は完了しています』


『どこにいるんですか』


『登録者の個人情報はお伝えできません』


『警察に言います』


『真壁さんも同意の上で同行されています』


『私は何も知りませんでした』


『車内で、早川直人さんから帰りたいと相談されましたね』


 姓まで知っていた。


『その上で目的地まで同行し、引き渡しを確認されています』


『脅されたからです』


『誰が、どのような言葉で脅しましたか』


 紗良は答えられなかった。


 ハヤシは一度も「母を傷つける」とは言っていない。写真を送り、「業務に集中してください」と書いただけだ。


『真壁さんは、現場で最も落ち着いて行動されました。追加報酬をお支払いします』


 十万円が振り込まれた。


 紗良は送金元へ返そうとした。アプリには返金機能があったが、送り主のアカウントはすでに削除されていた。


 銀行振込の名義も、以前とは違う個人名だった。検索しても何も出てこない。


 紗良は現金を引き出し、封筒に入れた。


 使わない。


 そう決めた。


 けれど二日後、授業料の残額を払う期限が来た。


 窓口で二十万円を差し出すと、職員は領収書を渡しながら笑った。


「これで今年度分は大丈夫ですね」


「はい」


「よかったですね」


 紗良も笑った。


 封筒に残った金は三万円だった。



 直人のアカウントを、紗良はSNSで探した。


 名前、年齢、専門学校、居住地域。分かる情報を組み合わせても、それらしい人物は見つからない。


 工場の場所も正確には分からなかった。車の窓から見えた景色を地図と照らし合わせたが、似たような道路と倉庫がいくつもあった。


 警察へ行くことを考えた。


 大学から少し離れた交番の前まで歩いた。ガラス越しに制服姿の警察官が書類を書いているのが見えた。


 扉を開ければいい。


 匿名の高額バイトに応募した。個人情報を送った。荷物を運んだ。若者を車で連れていき、嫌がっていたのに降ろさなかった。


 どこから話せば、自分は被害者として扱われるのだろう。


 どこから先を話せば、加害者になるのだろう。


 交番の中の警察官が顔を上げた。


 紗良は通り過ぎた。



 部屋へ戻ると、母から宅配便が届いていた。


 段ボールの中には、米、レトルト食品、缶詰、使いかけの洗剤が入っていた。隙間に、五千円札を入れた封筒があった。


『少しだけでごめん。ちゃんと食べて』


 母の丸い字。


 紗良は床に座り込んだ。


 五千円を送るために、母は何を削ったのだろう。腰が痛いと言いながら働き、給湯器の修理を先延ばしにしたかもしれない。


 紗良の口座には三万円ある。


 使ってはいけない金。けれど、すでに二十万円を大学へ払った。


 汚れていない金と、汚れた金の境目は、口座の中では分からなかった。


 スマートフォンが鳴った。


 知らない番号だった。


 紗良はしばらく見つめ、通話ボタンを押した。


「もしもし」


『真壁紗良さん?』


 男の声だった。


 低いが、威圧する響きはない。落ち着いていて、年齢は判断しにくい。


「誰ですか」


『急にごめんね。ハヤシから話を聞いてる』


「何の話ですか」


『君の仕事ぶり』


 紗良は立ち上がった。


「早川直人さんはどこですか」


 電話の向こうで、男が小さく笑った。


『最初にそれを聞くんだ』


「帰したんですか」


『君は優しいね』


「質問に答えてください」


『優しい人間は、使い方を間違えるとすぐ壊れる。でも君は違う』


「何が違うんですか」


『怖くても、やるべきことをやれる』


「脅したからでしょ」


『俺は君を脅したことはないよ』


「母の写真を送った」


『安全確認だ。君の家族に何かあった?』


 何も起きていない。


 それこそが、この男の言葉を強くしていた。


『君が思っていたより使える人間で、安心した』


「私はもうやりません」


『そう言うと思った』


 男の声には怒りも失望もなかった。先の答えを知っている教師のようだった。


『明日、会おう』


「嫌です」


『君の友達の話もしたい』


 紗良の呼吸が止まった。


「湊に何をしたんですか」


『何も。彼は自分で仕事を選んでる』


「前借りを取り消してください」


『会って話そう』


「どこですか」


『明日の昼、こちらから連絡する』


「待って。あなたは誰なんですか」


 数秒の沈黙のあと、男は穏やかに名乗った。


『津久井。津久井竜司』


 電話が切れた。


 紗良は名前を検索した。


 すぐには何も出なかった。漢字を変え、地域名を加える。古い記事が一つ見つかった。


『暴力団関係者を逮捕 傷害容疑』


 記事の本文に、津久井竜司という名前があった。十年以上前の事件で、当時二十代。写真は載っていない。


 紗良はスマートフォンを取り落とした。


 画面には、男の最後の言葉が残っているように思えた。


 君は、思っていたより使えるね。


 その評価が、報酬よりも、脅迫よりも恐ろしかった。



第三章 掌の上の人間



 津久井から指定された店は、大学から二駅離れた商業地区にあった。


 古いビルの二階。昼は定食、夜は酒を出す小さな店で、入口には紺色の暖簾が揺れている。やくざとの待ち合わせ場所として紗良が想像した、暗い事務所でも、高級ホテルのラウンジでもなかった。


『十二時半。奥の席』


 メッセージはそれだけだった。


 紗良は駅前の交番へ寄ろうと考えた。津久井と会う前に、名前と場所を伝えておけばいい。何かあれば踏み込んでもらえるかもしれない。


 しかし交番へ向かう途中、湊から連絡が届いた。


『今日の午後、仕事になった』


『終わったら連絡する』


 電話をかけても出ない。


 津久井が湊のことを知っている。約束に行かなければ、湊に何が起きるか分からない。


 紗良は交番の角を曲がらず、そのまま店へ向かった。



 暖簾をくぐると、焼き魚の匂いがした。


 昼休みの会社員が数人、カウンターで定食を食べている。店員の「いらっしゃいませ」という声も、テレビの情報番組も、あまりに普通だった。


「真壁さん?」


 奥の四人掛けの席から男が手を上げた。


 白いシャツに濃紺のジャケット。髪は短く整えられ、腕時計も靴も目立つものではない。年齢は四十歳前後に見えた。柔らかく笑うと、保険会社の営業か、大学の職員のようだった。


「津久井さんですか」


「そう。座って」


 紗良は向かいではなく、出口に近い斜めの席へ腰を下ろした。


 津久井はそれを見て笑った。


「警戒するよね。当然だ」


「湊はどこですか」


「まず何か食べよう。昼、まだでしょ」


「いりません」


「朝も食べてない」


 紗良は顔を上げた。


「どうして」


「顔色」


 津久井は卓上のメニューを開いた。


「それと、君は昨日の夜、ほとんど眠っていない。部屋の明かりが朝までついてた」


 紗良の手が膝の上で固まった。


「監視してるんですか」


「守ってる」


「同じじゃない」


「全然違う。監視は、相手が困っても助けない」


「あなたたちは助けてない」


「学費、払えたんだろ」


 言葉が止まった。


 津久井は店員を呼び、焼き魚定食を二つ注文した。


「勝手に頼まないでください」


「残してもいい。食べたくなければ食べなくていい」


 選ばせているように見せながら、すでに皿は運ばれてくる。そのやり方が、これまでの仕事と同じに思えた。


「早川直人さんを帰してください」


「帰ってるよ」


「嘘」


「嘘じゃない。あの子は今、別の仕事をしてる」


「嫌がってた」


「最初の説明が足りなかったんだろうね。現場には注意した」


「どんな仕事ですか」


「本人が選んだ仕事」


「選べる状態じゃなかった」


 津久井は水を一口飲んだ。


「真壁さんは、選べる状態だった?」


「何がですか」


「最初の仕事に応募したとき」


 紗良は答えなかった。


「誰かに銃を突きつけられた?」


「そんなことはされてない」


「殴られた?」


「されてない」


「じゃあ自分で選んだ」


「お金がなかった」


「そう。それが君の事情だ」


 焼き魚定食が運ばれてきた。湯気の立つ味噌汁、白い米、大根おろし。紗良の胃が反応した。


 津久井は箸を割った。


「人間はね、事情で選ぶ。自由な人間なんていない。金、家族、病気、孤独。何かに押されて、その中で一番ましな道を選ぶ」


「それを利用してる」


「世の中は全部そうだろ。大学は、将来が不安な若者に学費を払わせる。銀行は金のない人間に利息をつける。会社は辞められない人間を安く働かせる」


「だから犯罪をしていいって?」


「犯罪かどうかの話はしてない」


「じゃあ何の話ですか」


「君が、自分だけ特別に騙されたと思わないための話」


 津久井は魚の骨を丁寧に外した。


「君は悪い子じゃない。ただ、誰にも助けてもらえなかっただけだ」


 紗良は、その言葉を聞いた瞬間、目を逸らした。


 母にも、学生課にも、店長にも言えなかった苦しさを、津久井は簡単な一文にした。


 理解されたわけではない。


 調べられただけだ。


 分かっているのに、胸の奥の硬いものが少し緩んだ。


「お母さんも大変だね」


「母の話をしないで」


「介護の仕事、十五年。腰を悪くしてる。父親は六年前に出ていった。養育費は最初の一年だけ」


「やめて」


「高校のとき、君は給付型の奨学金を取った。成績は上位。大学でも出席率は高い。カフェは無断欠勤なし」


「どうやって調べたんですか」


「君が送った情報を基に、確認しただけ」


「違法でしょ」


「どこからが?」


 津久井は声を荒らげない。


 紗良が強い言葉を使うほど、彼の落ち着きが際立った。


「湊を解放してください」


「縛ってないよ」


「前借りで逃げられなくした」


「返せば終わる」


「危険な仕事をさせて返させるんでしょ」


「働いて返すのは普通だ」


「普通じゃない」


「君のカフェも、来週からシフトがさらに減る」


 紗良は津久井を見た。


「どうして知ってるんですか」


「店の経営が厳しいから。君が悪いわけじゃない」


「店長に何かした?」


「してない。世の中は、俺が何もしなくても人を追い詰めてくれる」


 焼き魚の皮が、津久井の箸の先で静かにはがされた。


「残りの学費は払った。でも来月の家賃は? 再来月は? 大学はあと二年以上ある。奨学金の返済は卒業後から始まる。お母さんはいつまで働ける?」


「自分で何とかします」


「どうやって?」


「働く」


「どこで?」


「探します」


「時給いくらで、何時間?」


 具体的な数字を問われると、言葉が弱くなった。


「君は頑張ってる。だから分かるはずだ。頑張るだけじゃ足りない」


 津久井は箸を置き、内ポケットから一枚の紙を出した。


 大学名義の振込用紙の控えだった。


 紗良が払った二十万円とは別に、残りの不足分と来年度前期分の一部が入金されている。合計三十万円。


「何、これ」


「今朝、払っておいた」


「勝手に?」


「退学されたら困るから」


「返します」


「急がなくていい」


「受け取れません」


「もう大学へ入ってる。返したいなら、ゆっくり返せばいい」


「いくら働けばいいんですか」


「今の仕事じゃない」


 津久井は初めて、少し楽しそうに笑った。


「俺の近くで手伝ってほしい」


「嫌です」


「内容も聞かずに?」


「あなたの仕事はしない」


「今までも俺の仕事だったよ」


 紗良は立ち上がった。


「帰ります」


「湊の前借りは、俺が止められる」


 足が止まった。


「条件ですか」


「お願いだよ」


「断ったら?」


「彼は契約どおり働く。それだけ」


 津久井は水を飲んだ。


「今度の仕事は、危ないかもしれない」


「脅してる」


「可能性を伝えただけ」


「私がここに残れば、湊を外すんですか」


「考える」


「外すって約束してください」


「約束は、守れることしかしない」


 紗良は津久井を睨んだ。


 彼は怒らない。笑顔も崩さない。紗良が立っている間も、食事を続けていた。


「座りなよ。魚、冷める」


 紗良は座った。


 その瞬間、何かを承諾したような気がした。



 津久井の「手伝い」は、最初のうちは事務作業だった。


 指定された小さなオフィスへ行き、応募者の情報を整理する。名前、年齢、住所、勤務先、家族構成、必要金額。画面上には毎日、十数人の新しい登録者が並んだ。


 オフィスは繁華街の外れにある雑居ビルの三階にあった。表札はなく、室内には机が四つと、パソコン、複数の携帯電話が置かれている。窓にはブラインドが下ろされ、時間の感覚が薄かった。


 ハヤシという人物はいなかった。


 複数のスタッフが同じアカウントを使い、登録者へ返信していた。


「この人に質問して」


 眉の上に傷のある男が、画面を指した。直人を運んだ車の運転手だった。


「何を聞くんですか」


「金が必要な理由。いつまでにいくら。家族と連絡取ってるか。今の仕事。借金」


「本人確認で聞いたはずです」


「詳しく」


「何のために?」


 男は紗良を見た。


「知らないほうが安全なんじゃない?」


 口元だけで笑った。


 男の名は坂崎といった。津久井の部下らしいが、肩書きは分からない。


 紗良は登録者へメッセージを送った。


『ご事情に合った仕事をご案内するため、現在お困りの内容を教えてください』


 返事はすぐに来た。


『家賃を二か月滞納してます。今週中に十万必要です』


『ご家族へ相談は可能ですか』


『無理です。縁切られてます』


『現在のお仕事は?』


『コンビニ夜勤。でもシフト減りました』


 自分と似ていた。


 紗良は別欄へ「生活困窮。家族支援なし。勤務先あり」と入力した。


「この人、普通の仕事を紹介できませんか」


 坂崎へ聞いた。


「普通って?」


「配送とか、倉庫とか」


「本人が高額希望してる」


「危ない仕事しかないんですか」


「危ないかどうか決めるのは俺じゃない」


「誰が決めるんですか」


「上」


 ハヤシと同じ答えだった。


 数日後、その登録者の名前は一覧から消えた。



 紗良は、自分の役割を「危険な仕事を避けさせるための聞き取り」だと思おうとした。


 家族と同居し、勤務先が安定している者には、「条件に合う案件がない」と返信した。未成年には登録をやめるよう伝えた。明らかに精神状態が不安定な者には、相談窓口の連絡先を送った。


 津久井はそれを止めなかった。


「好きにやればいい」


 週に一度、彼はオフィスへ現れた。


「君が向いてないと思うなら外していい」


「本当に?」


「人を見るのは君の仕事だから」


 選ぶ権限を与えられた。


 紗良は、少しだけ人を救えていると思った。


 だが一週間後、坂崎が評価表を見ながら言った。


「真壁、いいの拾うな」


「どういう意味ですか」


「家族なし、住居不安定、借金あり。逃げても帰る場所がない」


 彼が指していたのは、紗良が「優先的な生活支援が必要」と書いた二十二歳の女性だった。


「危険だから外してください」


「何が危険?」


「追い詰められてる」


「だから働くんだろ」


「普通の仕事を」


「何回言わせるんだよ。普通の仕事で足りないから来てんの」


 坂崎は登録者の欄に印をつけた。


『即応可』


 紗良が弱いと判断した人間ほど、彼らにとって使いやすい。


 その事実に気づいてから、何を書けば相手を守れるのか分からなくなった。


 家族がいると書けば、人質にされる。


 家族がいないと書けば、消えても探されにくいと判断される。


 借金が多ければ逃げられない。


 借金が少なければ、前借りをさせられる。


 紗良が入力する一つ一つの言葉が、誰かの弱点へ変わっていった。



 母からの電話は、次第に短くなった。


『最近、忙しいの?』


「うん」


『大学は行ってる?』


「行ってる」


『声、疲れてるよ』


「バイト増やしたから」


『無理しちゃ駄目よ』


「大丈夫」


『変な仕事じゃないでしょうね』


 紗良は息を止めた。


「何、それ」


『この前、施設の前にずっと車が停まってたの。若い男がこっち見てて』


「偶然でしょ」


『そうよね。自意識過剰よね』


 母は自分で笑った。


 紗良も笑うふりをした。


「知らない人に声かけられても、ついていかないで」


『子どもじゃないんだから』


「夜、一人で歩かないで」


『紗良こそ。都会は危ないんでしょ』


「分かってる」


『何かあったら言いなさいよ』


「うん」


 何かあったら。


 何も言えないと分かっている人間ほど、その言葉を使うのかもしれない。



 湊とは大学で顔を合わせる回数が減った。


 講義を休み、連絡しても既読がつかない。数日ぶりに現れたときは、新しいスニーカーを履き、眠そうな目の下に濃い影があった。


「何してるの」


 講義室の外で腕をつかむと、湊は振り払った。


「仕事」


「前借り、どうなった?」


「返してる」


「あと何件?」


「増えた」


「どうして」


「ミスしたから」


「何の?」


「言えない」


「津久井に会った?」


 湊の顔が変わった。


「なんでその名前知ってんの」


「会ったの?」


「知らない」


「嘘」


「紗良だって何してるんだよ」


 廊下を学生たちが通り過ぎる。湊は声を低くした。


「俺のこと、報告してるだろ」


「してない」


「仕事の担当に言われた。紗良から注意されてるって」


 紗良は坂崎との会話を思い出した。湊の前借りを止めてほしいと何度も頼んだ。


「助けようとしただけ」


「勝手なことすんなよ」


「このままだと危ない」


「紹介したの、お前だろ」


 言葉が廊下の音を切った。


 湊の目には怒りと、怯えがあった。


「お前が大丈夫って言ったから登録したんだ」


「ごめん」


「今さら謝って何になる?」


「一緒に警察へ行こう」


「行けるわけないだろ」


「全部話せば」


「俺が何したか知ってんの?」


 紗良は答えられなかった。


 湊は笑った。


「知らないくせに助けるとか言うなよ」


 そして講義室とは逆の階段へ消えた。



 ある金曜日、津久井から食事に誘われた。


『仕事の話です』


 そう言われ、断れなかった。


 今度は繁華街の奥にある小さな会員制の店だった。個室へ通されると、津久井は一人で待っていた。


「顔色、前よりいいね」


「寝てないです」


「でも食べてる」


「お金があるから」


「悪いこと?」


「誰かを傷つけたお金です」


「誰を傷つけた?」


「分からない」


「分からないことまで背負ったら、人間は生きていけないよ」


「あなたは背負ってないだけでしょ」


 津久井は楽しそうに目を細めた。


「そういうところがいい」


「何がですか」


「俺に媚びない」


「怖いから従ってるだけです」


「それでも、自分の意見は言う」


 店員が料理を運んだ。津久井は紗良の皿へ取り分けた。


「食べなよ」


「いりません」


「前もそう言って、全部食べた」


 紗良は箸を取らなかった。


「湊を外してください」


「最近、彼は不安定だ」


「だからです」


「指示を守らない。酒を飲んで仕事へ来る。勝手に連絡を取る」


「追い詰めたからでしょ」


「君なら、同じ状況でももう少しうまくやる」


「比べないで」


「比較は必要だよ。人を使うには」


 津久井はワインを一口飲んだ。


「君は今、応募者を選んでる。使えるか、使えないか」


「私は危険な人を外してる」


「それも選別だ」


「守るためです」


「守るためなら、選んでいい?」


 紗良は黙った。


「全員を守れないとき、誰を守る?」


「全員を危険な仕事に使わなければいい」


「それじゃ金は誰が払う?」


「あなたたちが稼ぐためにやってるんでしょ」


「そうだよ」


 津久井はあっさり認めた。


「慈善事業じゃない。俺たちは必要な仕事をさせて、利益を得る。応募者は普通じゃ稼げない金を受け取る」


「必要な仕事って何」


「世の中が表ではやりたがらないこと」


「犯罪」


「そう呼ぶ人もいる」


 津久井は紗良を見つめた。


「でも、その金で君は大学へ行けた」


「そのことを何度も言わないで」


「忘れないために言ってる」


「何を?」


「君も、こっちの金で生きてるってこと」


 料理の湯気が、二人の間で薄く揺れた。



 食事のあと、津久井は紗良を別のビルへ連れていった。


 四階にある事務所は、紗良が働く雑居ビルの部屋より広く、応接セットと大きな机、壁際に金庫があった。やくざの事務所を示す看板や代紋は見当たらない。


「ここは何ですか」


「俺の仕事場」


「帰ります」


「湊の話をする」


 紗良は入口近くに立ったまま動かなかった。


 津久井は机の引き出しからファイルを出した。


 中には、登録者の情報を印刷した一覧があった。紗良が入力した内容より、はるかに詳しい。


 顔写真、住所、家族、学校、職歴、借金、過去の違反歴。


 名前の横には短い言葉が並んでいた。


『運ぶ』


『誘う』


『対面不可』


『脅しに弱い』


『家族あり』


『消耗大』


『切る』


 人間につける言葉ではなかった。


「これ、何ですか」


「管理表」


「切るって」


「仕事から外す」


「本当に?」


「場合による」


 紗良はページをめくった。


 知っている名前があった。


 早川直人。


 横には『住居提供・長期』と書かれている。生きている可能性に安堵し、そのあと、その言葉が何を意味するのか分からず寒くなった。


 さらにページをめくる。


 早瀬湊。


『運転補助・連絡』


『情緒不安定』


『外部接触あり』


『処分検討』


「処分って何」


 津久井は答えなかった。


「湊をどうするつもり?」


「本人次第」


「外してください」


「借りた金がある」


「私が返す」


「君の金も俺から出てる」


「働いて返します。普通の仕事で」


「何年かかる?」


「何年でも」


 津久井はゆっくりと紗良の手元からファイルを取った。


「君は友達のためなら何でもできる?」


「できることなら」


「俺のそばにいる?」


 紗良は津久井を見た。


「どういう意味ですか」


「今までどおり、応募者を管理する。もう少し深い仕事も覚える。俺の指示を優先する」


「それで湊を外す?」


「考える」


「またそれ」


「人の命を簡単に約束できない」


「命って言った」


 津久井は微笑んだ。


「言葉尻を取るのは良くない」


「湊を殺すつもり?」


「俺は誰も殺したくないよ。使える人間を捨てるのは損だ」


「人を物みたいに」


「物より手がかかる」


 津久井が一歩近づいた。


 紗良は後ろへ下がった。背中が壁に触れる。


「君は違う」


「何が」


「頭がいい。自分が怖がっていることも、相手が何を欲しがっているかも分かる」


「私も一覧の一人でしょ」


「最初はね」


 津久井の手が、紗良の頬へ伸びた。


 紗良は顔を背けた。


 指先は触れる直前で止まった。


 津久井は怒らず、手を下ろした。


「嫌なことはしない」


「嘘」


「今はね」


 その穏やかな付け足しに、紗良は息を詰めた。


 津久井は机の上へファイルを置いた。


「お前は使い捨てじゃない」


 初めて、彼は紗良を「君」ではなく「お前」と呼んだ。


「使う側になれる」


 特別扱いの言葉だった。


 けれど紗良には、救いには聞こえなかった。


 机の上の一覧を見た。


 使う側に立つということは、誰かの名前の横に「切る」と書くことだ。


 そして一度そこへ座れば、もう自分は使い捨てられる側の痛みを理由にできなくなる。


「なりたくない」


「今はそう思う」


「ずっとです」


「人間は、必要になれば変わる」


 津久井は確信していた。


 紗良自身よりも、紗良がこれから何になるかを知っているような顔だった。



 帰宅したのは午後十一時を過ぎていた。


 湊へ何度電話してもつながらない。メッセージは未読のままだった。


 紗良はベッドに座り、管理表で見た文字を思い出した。


 処分検討。


 警察へ行く。


 今度こそ、そう決めた。


 自分が逮捕されてもいい。大学を失っても、母に知られても、湊が生きて戻るなら。


 ジャケットを着直したとき、スマートフォンに通知が出た。


 湊から音声ファイルが届いていた。


 再生時間は七秒。


 紗良はすぐに再生した。


『紗良、俺、失敗した』


 息を切らした声。背後で何かを叩く音がする。


『あいつらに、消される』


 そこで音声は途切れた。


「湊?」


 電話をかける。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


 アプリを開く。


 湊のプロフィール画像が消え、名前が「退会したユーザー」に変わった。


 紗良は何度も画面を更新した。


 何も戻らない。


 音声だけが端末に残っている。


 七秒。


 紗良、俺、失敗した。あいつらに消される。


 その声を繰り返し聞くうち、最後の「消される」が、津久井の管理表にあった「処分」という文字と重なった。


 紗良は部屋を飛び出した。


 どこへ行けばいいのか分からないまま、夜の階段を駆け下りた。



第四章 誰も救えない夜



 紗良が最初に向かったのは、湊のアパートだった。


 大学から徒歩十分ほどの住宅街。二階建ての古い建物の一番奥に、湊の部屋はある。何度か遊びに来たことがあった。夏には、壊れかけた扇風機の前でアイスを食べながら、卒業したら何をするか話した。


 湊は映像関係の仕事に興味があると言っていた。


 金を貯めてカメラを買う。短いドキュメンタリーを撮る。誰にも見てもらえなくても、見えないままにされている人を撮りたい。


 あの頃、二人は自分たちの未来が選べると思っていた。


 呼び鈴を押しても返事はない。


「湊」


 ドアを叩く。


「いるんでしょ。開けて」


 隣室の扉が少し開き、年配の男が顔を出した。


「うるさいよ」


「すみません。ここに住んでる人、見ませんでしたか」


「若い兄ちゃん?」


「はい」


「昨日の夜、男二人と出てったよ」


「どんな人ですか」


「知らない。友達じゃないの」


「無理やりでした?」


「そこまでは見てない」


「車は?」


「さあ」


 男は面倒そうに扉を閉めた。


 紗良はドアノブを回した。鍵がかかっていない。


「湊、入るよ」


 返事はない。


 部屋は荒れていた。


 床には服と空の缶が散らばり、テーブルの上にはコンビニ弁当の容器が重なっている。壁際に置かれていた小さなテレビは消え、カーテンは半分開いたままだった。


 争った跡なのか、ただ片づけていないだけなのか分からない。


 紗良は部屋の中を探した。


 机の引き出しには、支払いの督促状と、数字を書き込んだノートがあった。


『前借り 一〇〇、〇〇〇』


『報酬 五〇、〇〇〇』


『罰金 八〇、〇〇〇』


『残り 一三〇、〇〇〇』


 返すほど借金が増えている。


 次のページには、仕事の集合場所らしい住所と時刻が並んでいた。ほとんどは線で消されている。


 一番下に、紗良の名前があった。


『紗良に紹介された』


 その横に、最初に連絡先を送った日の日時。


 ただの事実だった。


 けれど紗良には、遺書の一行のように見えた。


 スマートフォンでノートの全ページを撮影する。クローゼット、ベッドの下、ゴミ箱。手がかりを探したが、見つかるのは、湊が少しずつ生活を壊していった痕跡ばかりだった。


 机の奥に、小さなメモリーカードがあった。


 湊が映像を撮るために使っていたものだ。


 紗良は自分のスマートフォンへ接続した。


 保存されていたのは、街の風景と、大学の友人たちの何気ない映像だった。学園祭、駅前で歌う路上ミュージシャン、カフェで働く紗良の後ろ姿。


『撮らないでよ』


 画面の中の紗良が笑う。


『そのうち価値出るかもしれないだろ』


 撮影している湊の声。


『何の価値』


『普通の時間って、なくしてから価値が出るんだよ』


 紗良は再生を止めた。


 普通の時間は、もう戻らない気がした。



 大学で湊の行方を知る者はいなかった。


 講義を三日欠席していたが、大学から家族へ連絡する段階ではないという。


「成人した学生ですから、こちらもすぐには」


 学生課の職員は困った顔をした。


「家族の連絡先を教えてください」


「個人情報なので」


「行方不明なんです」


「ご家族から警察へ届けていただくのが先です」


「家族と連絡が取れないんです」


 紗良は嘘をついた。湊の実家の電話番号を知らなかった。


「事件に巻き込まれた可能性があります」


「何か具体的な証拠は?」


 七秒の音声がある。


 あいつらに消される。


 しかし、それを聞かせれば理由を説明しなければならない。


「ありません」


「でしたら、まずご本人へ連絡を続けてください」


 正しい対応なのだろう。


 大学には毎年、突然来なくなる学生がいる。連絡が取れないだけで、すべてを事件にはできない。


 分かっていた。


 それでも紗良は、世界の側が湊を見失う準備を始めているように感じた。



 カフェにも湊は来ていなかった。


 坂下によれば、一週間ほど前、閉店間際に紗良を探しに来たという。


「顔色悪かったよ。何かあったの?」


「何て言ってました?」


「真壁さんに謝りたいって」


「それだけ?」


「あと、知らない番号から電話が来ても出ないように言ってって」


「いつですか」


「先週の木曜かな」


 湊が音声を送る五日前。


「一人でした?」


「外に誰か待ってた気がする。黒い車」


「ナンバー見ました?」


「見てない。ねえ、本当に何なの?」


「何でもないです」


「何でもない顔じゃないよ」


 坂下は心配そうに紗良を見た。


「店長に言おうか?」


「言わないでください」


「でも」


「湊は、ただ連絡が取れないだけです」


 自分で口にした言葉が、大学職員の言葉と同じだった。



 紗良は津久井の事務所へ向かった。


 呼び鈴も押さず、ドアを開ける。


 中には坂崎と、見知らぬ男が二人いた。テーブルに広げていた書類を、坂崎が素早く伏せた。


「何しに来た」


「津久井さんは」


「約束ある?」


「湊をどこへやったの」


「知らねえよ」


「管理表に処分って書いてあった」


 坂崎の目が細くなった。


「勝手に見たのか」


「津久井さんが見せた」


 奥の扉が開いた。


「騒がしいね」


 津久井が出てきた。ジャケットを着ておらず、白いシャツの袖を肘までまくっている。


「湊はどこ」


「連絡がつかない?」


「アカウントが消えた」


「仕事用の端末をなくしたらしい」


「音声が来た。消されるって」


「混乱してたんだろう」


「生きてるんですか」


 津久井はすぐには答えなかった。


「今のところは」


 紗良は津久井へ詰め寄った。


「会わせて」


「落ち着いたらね」


「今」


「君が会うと余計に不安定になる」


「私のせいだって言いたいんですか」


「本人はそう思ってる」


 胸を刺された。


「どこにいるの」


「教えられない」


「警察へ行きます」


「行けばいい」


 津久井の返答はあまりに早かった。


「止めないんですか」


「君が話したいことを話せばいい」


「全部話します」


「荷物を運んだことも?」


「話す」


「早川直人を連れていったことも?」


「話します」


「応募者の情報を集めて、仕事へ回したことも?」


 紗良は唇を噛んだ。


「脅された」


「そう言えばいい」


「母の写真を送った」


「安全確認だと記録に残ってる」


「あなたが裏で指示した」


「証拠は?」


 津久井は机に手をついた。


「警察は君の味方をしてくれるかもしれない。けど、君だけを被害者とは呼ばない」


「それでも行く」


「湊がやったことも全部調べられる」


「何をしたんですか」


「本人から聞いたほうがいい」


「会わせて」


「だったら、もう少し待て」


「何日?」


「約束はできない」


 紗良は津久井を見上げた。


「殺したら、絶対に許さない」


「許しなんて必要ない」


 津久井の声から、初めて笑みが消えた。


「必要なのは、君が次に何をするかだ」


「何もしない」


「できないよ」


「どうして」


「湊を助けたいから」


 津久井は紗良の願いを、鎖のように使っていた。



 湊の行方を探すため、紗良はオフィスの記録を調べ始めた。


 勤務中に閲覧できる応募者一覧。過去の登録者。削除されたアカウント。湊と同じ場所へ指示された者を探す。


 情報の多くは番号で管理され、住所は直前にしか表示されない。だが、古いメッセージの断片から、何人かの名前を拾うことができた。


 最初に会えたのは、塚本翔太という二十四歳の男だった。


 プロフィールには『長期離脱・連絡禁止』とあった。登録住所を訪ねると、古いアパートの一階で暮らしていた。


 呼び鈴を押し、名前を告げる。


「津久井さんのところで働いていました」


 扉がすぐに閉まりかけた。


「待ってください。早瀬湊を探してます」


「知らない」


「同じ仕事をしてた人です」


「帰って」


「お願いします」


 紗良はドアの隙間へ手を入れた。


「友達なんです」


「それ、やめたほうがいいよ」


 塚本は疲れた顔をしていた。頬がこけ、左手の小指が不自然に曲がっている。


「友達とか、家族とか。あいつらに知られたら、弱点になる」


「津久井に何をされたんですか」


「何も」


「嘘」


「殴られたって言えば満足?」


「そうじゃない」


「殴られたのは別の奴。俺は見てただけ」


 塚本はドアを少し開けた。


「それで、次から言うこと聞いた」


「どうやって辞めたんですか」


「辞めてない」


「今は働いてないですよね」


「使えなくなったから捨てられた」


 塚本は曲がった指を見た。


「警察に行きましたか」


「行ったよ」


「何て?」


「俺がやったことを聞かれた。荷物の中身を知らなかったのか、金を受け取ったのか、何人紹介したのか」


「それで」


「途中で帰った」


 紗良は言葉を失った。


「俺たちは仕事をしたんじゃない」


 塚本は扉の向こうから言った。


「捨てられる順番を待ってただけだ」


「湊は、どこへ連れていかれると思いますか」


「失敗の内容による」


「知りません」


「金か、情報か、人か」


「人?」


「逃がしたとか、余計なこと言ったとか」


「助ける方法は」


「ない」


「何かあるはずです」


「自分だけ逃げろ」


「できません」


「じゃあ、お前も捨てられる」


 塚本はドアを閉めた。



 二人目は、元大学生の女性だった。


 名前は森下里奈。組織の仕事が原因で大学を辞め、実家へ戻ったと記録されていた。


 電話に出た里奈は、紗良が津久井の名前を出した途端に切った。もう一度かけると、着信拒否になった。


 三人目の男は、待ち合わせ場所へ来なかった。


 四人目は、メッセージで一言だけ返した。


『探さないほうが、その人のため』


 誰も津久井の居場所を知らないのか。


 知っていても話さないのか。


 紗良には判断できなかった。


 ただ、彼らの沈黙が津久井の支配の大きさを示していた。



 帰宅すると、部屋のドアが開いていた。


 鍵をかけ忘れた覚えはない。


 紗良は廊下で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。中から物音がする。


「誰?」


 返事の代わりに、母が顔を出した。


「遅かったじゃない」


「どうしているの」


「電話しても出ないから、心配で来たのよ」


「勝手に入らないで」


「合鍵、前にもらったでしょう」


 母は部屋の中央に立っていた。


 テーブルの上には、紗良が隠していた携帯電話が三台と、現金を入れた封筒が並べられている。


「これ、何?」


 紗良は答えられなかった。


「バイトのもの?」


「触らないで」


「三台も携帯が必要なの?」


「仕事で預かってるだけ」


「このお金は?」


「給料」


「現金で?」


「そういうところもある」


「どんな仕事なの」


 母の顔には怒りよりも恐れがあった。


 娘が犯罪に巻き込まれているかもしれない恐れではない。これまで見ないふりをしてきた何かが、具体的な形になってしまう恐れ。


「お母さん」


 紗良はドアを閉めた。


「話がある」


「何?」


「私、変な仕事に関わってる」


 母の唇が震えた。


「変なって?」


「荷物を運んだり、人を連れていったり」


「何それ」


「最初は知らなかった。でも、途中から危ないって分かってた」


「警察は?」


「まだ」


「じゃあ、すぐ行きなさい」


「友達を人質みたいにされてる。お母さんのことも調べられてる」


「私?」


「施設の前で車を見たって言ってたでしょ。あれ、多分あの人たち」


 母は椅子へ座った。


「どうして、そんなところに」


「学費が払えなかったから」


「私に言えばよかったじゃない」


「言おうとした」


「言ってないでしょう」


「お母さん、先に送れないって言った」


「だって、本当に無理だったのよ」


「分かってる」


「私のせいだって言うの?」


「言ってない」


「じゃあ何なの」


 母の声が高くなった。


「私だって一人で必死だった。あんたを大学へ行かせるために、ずっと働いてきた。少しくらい足りないからって、そんな仕事をするなんて」


「少しじゃない」


「大学を休めばよかったでしょう」


「簡単に言わないで」


「命より大事な大学なの?」


「そのときは、退学したら全部終わると思ったの」


「だから犯罪?」


「最初は知らなかった!」


 紗良の声も大きくなった。


 狭い部屋の中で、二人の呼吸だけが聞こえた。


 紗良は声を落とした。


「警察へ行く。一緒に来て」


 母は目を上げた。


「私も?」


「お母さんも狙われるかもしれない」


「施設に知られたらどうなるの」


「何の話?」


「警察が来たら、職場に知られるでしょう。娘が犯罪に関わってるって」


「今、それを心配してるの?」


「仕事を失ったら、私たちどうやって」


「私たち?」


「警察沙汰だけはやめて」


 紗良は母を見つめた。


「何を言ってるか分かってる?」


「大ごとにしないで、もう辞めればいいじゃない」


「辞められないから話してるの」


「じゃあ、お金を返して謝って」


「そんなので終わらない」


「どうしてそんなことになったのよ」


 母は両手で顔を覆った。


「知らないほうがよかった」


 その言葉に、紗良の中で何かが切れた。


「知らないほうが安全だから?」


「何?」


「あの人たちも同じこと言う」


「紗良」


「お母さんは、何も知りたくないんだね」


「そういう意味じゃない」


「学費が払えないことも、私が何してるかも。大丈夫って言ってれば、本当に大丈夫になると思ってる」


「私は心配してる」


「心配するだけで、見ない」


「親に向かって何て言い方するの」


「親だから助けてって言ってる!」


 母は黙った。


 紗良は、自分が今まで言えなかった言葉を、ようやく口にしたことに気づいた。


 助けて。


 けれど遅すぎた。


 母は目を伏せたまま言った。


「私には、そんなこと、どうしたらいいか分からない」


 正直な言葉だった。


 紗良が最も聞きたくなかった、正直な言葉。


 母はその日のうちに実家へ帰った。


 玄関で靴を履きながら、「少し考えさせて」と言った。


 紗良は「うん」と答えた。


 昔から二人が使い続けてきた「大丈夫」は、その夜、完全に意味を失った。



 翌日、紗良は県警の相談窓口へ電話をかけた。


 名前を聞かれ、匿名を希望した。


『どのようなご相談ですか』


「高額バイトに応募して、個人情報を取られました」


『具体的に、どのような仕事をしましたか』


「荷物を運びました」


『中身は分かりますか』


「分かりません」


『ほかには?』


「人を車で連れていきました」


 電話の向こうの空気が変わった。


『その方は、自分の意思で乗車しましたか』


「最初は。でも途中で帰りたいと言いました」


『そのとき、あなたは?』


「何もできませんでした」


『目的地は分かりますか』


「正確には」


『車両の情報は?』


「分かりません」


『報酬は受け取りましたか』


「はい」


 職員は責めなかった。


 落ち着いた声で、来庁して詳しく話すよう勧めた。安全を確保するため、家族の情報も必要だと言った。


「友人が捕まってます」


『監禁されているということですか』


「分かりません。消されるって音声が来ました」


『その音声を保存してください。緊急性がありますので、すぐに』


 紗良のスマートフォンに別の着信が入った。


 津久井だった。


 画面を見たまま、相談窓口の声を聞く。


『真壁さん?』


「すみません。またかけます」


『お名前と現在地だけでも』


 紗良は電話を切った。


 津久井の着信も切れた。


 すぐにメッセージが届く。


『相談は終わった?』


 体中から血の気が引いた。


『どうして知ってる』


『君は警察に話したくなる。自然なことだ』


『盗聴してるの』


『まさか』


『湊を返して』


『会わせてあげる』


 続けて、郊外の住所が送られてきた。



 指定された場所は、使われていない配送会社の倉庫だった。


 表の看板は外され、駐車場には雑草が伸びている。日が落ちる直前で、空は鈍い紫色をしていた。


 紗良は離れた場所でタクシーを降り、歩いて近づいた。


 正面の扉は閉まっている。建物の裏へ回ると、小さな勝手口が少し開いていた。


「湊?」


 中は暗い。


 スマートフォンのライトをつけ、入る。


 古い棚、空の段ボール、埃をかぶった台車。奥に明かりが見えた。


「誰」


 かすれた声。


「湊?」


 紗良は走った。


 小部屋の床に、湊が座っていた。


 髪は伸び、頬がこけている。右の目の下が青く変色し、唇の端が切れていた。手足は縛られていない。


「湊」


「来るな」


 湊は壁際へ身を引いた。


「迎えに来た。帰ろう」


「なんで来た」


「探してた」


「誰に聞いた」


「津久井」


 湊は笑った。


「やっぱり」


「立てる?」


「お前、あいつのところで働いてるんだろ」


「今はそんな話」


「俺のこと、売った?」


「売ってない」


「嘘つけ」


 湊の声が震えた。


「俺が指示聞かないって、お前が報告したから、こっちに移された」


「違う。助けてって頼んだ」


「同じだろ!」


 湊が床を叩いた。


「お前が余計なこと言うたび、俺の仕事が変わった。監視が増えた。逃げると思われた」


「ごめん」


「その言葉、何回目だよ」


「今はここを出よう」


 紗良は手を差し出した。


 湊は見つめたが、取らなかった。


「出たら、家族に行く」


「警察に保護してもらう」


「警察に何を言うんだよ。俺、何人運んだと思う?」


「脅されたって」


「金もらった。前借りもした。誰かの住所も渡した」


「それでも」


「お前に分かる?」


 湊の目から涙が落ちた。


「俺が消えれば、親には何もしないって言われた」


「信じちゃ駄目」


「じゃあ、どうすんだよ」


「一緒に考える」


「お前と?」


 湊は紗良を見た。


「お前が紹介したんだぞ」


 その言葉は何度聞いても、最初と同じ深さで刺さった。


 紗良は手を下ろした。


「そうだよ」


 声が震えた。


「私が紹介した。だから、置いていけない」


 小部屋の外で足音がした。


 紗良が振り返ると、坂崎が入口に立っていた。


「面会、終わり」


「湊を連れて帰ります」


「無理」


「本人は帰りたい」


 湊が何か言おうとしたが、声にならなかった。


「真壁だけ帰れ」


「嫌です」


「津久井さんの指示だ」


「警察へ連絡しました」


「知ってる」


「今、呼びます」


 紗良はスマートフォンを取り出した。


 坂崎は奪おうとしなかった。


「呼べよ」


 その落ち着きが怖かった。


「ここ、何もないけど」


 倉庫の中には、湊が一人いるだけだ。縛られていない。扉も開いている。


「監禁してる」


「鍵かかってない」


「暴力を」


「本人に聞け」


 坂崎が湊を見た。


「俺たちに殴られた?」


 湊は答えなかった。


「転んだんだよな」


 長い沈黙のあと、湊がうなずいた。


「湊」


「帰って」


「一緒に」


「帰れよ!」


 湊の叫びが倉庫に響いた。


「お前がいると、もっと悪くなる」


 紗良は動けなかった。


 坂崎が腕をつかんだ。


「行くぞ」


「離して」


「ここで騒ぐな」


 紗良は抵抗したが、力ではかなわなかった。


 外へ引きずられる直前、湊を見た。


 彼は床に座ったまま、顔を伏せていた。


「絶対に戻るから」


 返事はなかった。



 翌朝、倉庫へ戻ると、誰もいなかった。


 小部屋には湊が座っていた跡と、空のペットボトルだけが残っている。


 津久井へ電話をかける。


『おはよう』


「湊をどこへ移した」


『昨日、会えただろ』


「返して」


『仕事を一つしてほしい』


「もうしない」


『湊が失敗した分の穴を埋めてもらう』


「嫌です」


『なら、彼は自分で埋める』


「何をさせるつもり」


『君がやったほうが安全だ』


 その言い方が、紗良の逃げ道を塞いだ。


「何をするんですか」


『応募者を一人、待ち合わせ場所へ案内する』


「また人を?」


『本人は高額の仕事を希望してる』


「危険だと説明します」


『それなら湊にやらせる』


 紗良は目を閉じた。


「この仕事をすれば、湊を生かしておく?」


『約束する』


 初めて津久井が約束した。


 だからこそ、それがどれほど重い条件か分かった。



 応募者は十八歳の少年だった。


 名を小野寺蓮といった。高校を卒業したばかりで、母親と二人暮らし。母親の借金を返すため、即金の仕事を探している。


 紗良が聞き取りを担当した登録者だった。


『未成年に近く、家族と同居。紹介不可』


 そう記録したはずなのに、津久井は選んだ。


 駅前の広場で、蓮は紗良を見つけると頭を下げた。


「担当の方ですか」


「そうです」


「よろしくお願いします」


 緊張しているが、目には期待があった。


「今日の仕事、説明は受けた?」


「荷物の受け取りって」


「報酬は?」


「八万です」


「怪しいと思わない?」


 蓮は困ったように笑った。


「思います。でも、急ぎで必要なんで」


「やめたほうがいい」


「え?」


「帰って」


 紗良のスマートフォンが震えた。


 湊の写真が届いた。


 知らない部屋で椅子に座っている。日付を書いた紙を持たされていた。生きている。


『予定どおり案内してください』


 蓮が紗良の顔をのぞき込んだ。


「大丈夫ですか」


 紗良は画面を閉じた。


「仕事は安全です」


 自分の声が、知らない女の声に聞こえた。


「簡単な確認だけだから」


「よかった」


 蓮は安心したように笑った。


「母には、普通の配送って言ってきたんです。心配性なんで」


 紗良は、母の顔を思い出した。


 警察沙汰だけはやめて。


「こちらです」


 紗良は蓮を地下駐車場へ案内した。


 黒い車が待っている。


 蓮が後部座席へ乗る前に、紗良を振り返った。


「終わったら、どこに連絡すればいいですか」


「担当から来ます」


「また仕事、紹介してもらえます?」


 答えられなかった。


 運転席の男がドアを閉めた。


 車が走り去る。


 紗良は追わなかった。


 直人のときは、知らなかった。


 今度は知っていた。


 この先に、自由に帰れない場所があるかもしれない。蓮の家族情報が握られ、借金を背負わされ、別の誰かを傷つける仕事をさせられるかもしれない。


 それでも紗良は、安全だと嘘をついた。


 湊を生かすために。


 自分で一人を選び、自分の言葉で送り出した。


 スマートフォンに報酬の通知が届いた。


 紗良はその場で画面を地面へ叩きつけた。


 ガラスが割れ、通知の文字が見えなくなった。


 けれど、やったことは消えなかった。



 夜、紗良はオフィスへ戻った。


 誰もいない時間を狙い、割れたスマートフォンの代わりに業務用端末を開く。


 登録者一覧。


 指示履歴。


 送金記録。


 若者たちの家族情報。


 この仕組みは、人間の記憶ではなく、データで動いている。津久井一人を倒しても、記録が残れば別の誰かが続ける。逆に、記録を外へ出せば、組織ごと壊せるかもしれない。


 紗良は管理端末の場所を探した。


 坂崎が使う机。鍵のかかった棚。津久井の事務所。


 これまで、自分は助けられるのを待っていた。


 母に。警察に。湊に。社会に。


 誰も、自分の望む形では助けてくれなかった。


 それは彼らが冷たいからだけではない。


 紗良自身が、全部を話せなかったからだ。自分の罪を隠したまま、被害者として救われようとしていたからだ。


 もう被害者ではいられない。


 蓮へ安全だと告げた瞬間、その資格を自分で捨てた。


 紗良は津久井の事務所の鍵を思い浮かべた。


 彼が机の右下の引き出しからファイルを出したこと。坂崎が端末へ接続する小さな鍵を首から下げていること。週末の深夜は事務所が無人になること。


 盗めるかもしれない。


 失敗すれば、母も湊も、自分もどうなるか分からない。


 それでも、何もしなければ次の蓮が来る。


 紗良は割れた画面に映る自分の顔を見た。


「助けてもらえないなら」


 声に出す。


「私が全部壊す」


 その言葉には正義よりも、怒りがあった。


 自分を追い詰めた金への怒り。見ないふりをした母への怒り。逃げられない湊への怒り。そして、誰かを差し出して生き延びた自分自身への怒り。


 紗良は端末を閉じた。


 津久井のように笑うことはできなかった。


 けれど初めて、自分から誰かを欺く準備を始めた。



第五章 選ぶということ



 反抗する人間は監視される。


 従う人間は、鍵の近くまで行ける。


 紗良は、それまで津久井へ向けていた怒りを隠した。


 連絡にはすぐ返事をし、指定された時間より十分早くオフィスへ入った。応募者への聞き取りを滞りなく進め、坂崎に質問をしなくなった。危険だと思う者を勝手に外すこともやめた。


「最近、素直だな」


 坂崎が言った。


「湊を生かしてもらうためです」


「最初からそうしとけばよかったんだよ」


「そうですね」


 反論しない。


 それだけで、坂崎の態度は変わった。


 業務用端末を紗良一人に任せる時間が増え、鍵のかかった棚を開けたまま席を外すこともあった。人は、相手が屈したと思うと、自分の油断に気づかない。


 津久井も紗良の変化を歓迎した。


「やっと分かった?」


 いつもの店で食事をしながら、彼は尋ねた。


「逆らっても、湊は戻らない」


「それだけ?」


「大学へ戻っても、普通には生きられません」


「どうして」


「何も知らなかった頃には戻れないから」


 嘘ではなかった。


 津久井は満足そうにうなずいた。


「戻ろうとしなくていい。前へ行けばいい」


「あなたの側へ?」


「俺の側じゃない」


 津久井は箸を置いた。


「自分で立つ側へ」


「今の私は、自分で立ってるように見えますか」


「少なくとも、母親の『大丈夫』を待ってた頃よりは」


 母の話を出されても、紗良は表情を変えなかった。


 それも津久井には、成長に見えたらしい。


「今度、金の流れも教える」


「私に?」


「人を選ぶだけじゃ、全体は見えないだろ」


「見せていいんですか」


「お前ならね」


 特別扱い。


 それが鎖だと分かっている。


 それでも紗良は、少しだけ胸が動くのを感じた。津久井に認められること自体ではない。彼の近くへ行けば、湊の場所と組織の記録へ近づける。


「ありがとうございます」


 紗良が初めてそう答えると、津久井は静かに笑った。



 オフィスには、紗良以外にも数人の若者が働いていた。


 全員が同じ時間に集まることはない。互いの本名を尋ねない決まりで、業務上の名前だけを使っていた。


 その中に、「ユウ」と呼ばれる男がいた。


 二十二歳。痩せた体に大きめのパーカーを着て、いつも左手の爪を噛んでいる。応募者への返信は遅く、坂崎に何度も叱られていた。


「この人、子どもいるんですよ」


 ある夜、ユウが小声で言った。


 画面には二十五歳の女性の登録情報が表示されている。離婚後、幼い娘と暮らし、家賃を滞納していた。


「だから?」


 紗良は周囲を確認した。


「仕事へ回したら、子ども一人になるかもしれない」


「それを決めるのは私たちじゃない」


 わざと冷たく言った。


 坂崎が隣室にいる。


「でも真壁さん、前は外してたって」


「誰から聞いたの」


「記録見れば分かります」


「余計なことを見ないほうがいい」


 自分の口から、組織の言葉が出た。


 ユウは傷ついた顔をした。


 紗良は画面の下へ、小さくメモを入力した。


『本人確認不備。再審査』


 案件へ回されるまでの時間を稼ぐための印だった。


 ユウはそれに気づき、紗良を見た。


 何も言わずに目を伏せた。



 ユウの本名は小森悠真だった。


 休憩時間、ビルの非常階段で彼が打ち明けた。


「俺、妹がいるんです」


「本名を言わないで」


「もう知られてます。向こうには」


 悠真は缶コーヒーを両手で包んだ。


「妹の専門学校の金が足りなくて、最初は荷物運びでした。途中で辞めようとしたら、妹の写真来て」


 紗良と同じだった。


「今は、こっちで働けば妹には何もしないって」


「信じてるの?」


「信じるしかない」


 悠真は笑った。


「真壁さんも、誰か守ってるんですよね」


「どうして」


「人を外すとき、家族がいる人ばっかりだったから」


 紗良は缶を握りしめた。


「見すぎ」


「すみません」


「謝らなくていい」


 非常階段の踊り場は冷え、下の通りを走る車の音が響いていた。


「記録がどこにあるか知ってる?」


 紗良は尋ねた。


 悠真の顔から表情が消えた。


「何の」


「全員分。指示、送金、家族情報」


「知ってどうするんですか」


「壊す」


「無理です」


「無理でもやる」


「見つかったら」


「分かってる」


 悠真は階段の下を見た。


「俺、前に管理端末を運びました」


「どこへ?」


「津久井さんの事務所。普段はネットにつながってない端末がある。オフィスの記録は、夜にまとめて移してる」


「誰が?」


「坂崎さん」


「鍵は首から下げてるもの?」


「たぶん。端末を開く鍵と、部屋の鍵が一緒になってる」


「コピーできる?」


「分かりません」


 悠真は首を振った。


「俺は手伝えない」


「妹がいるから?」


「妹がいるからです」


 紗良は責めなかった。


 自分も同じ理由で蓮を差し出した。


「聞かなかったことにして」


「真壁さんも、やめてください」


「やめられない」


「友達のため?」


「友達だけじゃない」


 蓮、直人、顔も知らない登録者たち。


 全員を救えるとはもう思っていなかった。


 ただ、このまま画面の前に座り続ければ、自分は津久井が予言したとおりの人間になる。


 それを止めたいのか。


 津久井を倒したいのか。


 湊を助けたいのか。


 自分の罪を軽くしたいのか。


 紗良にも分からなかった。



 津久井は約束どおり、紗良に金の流れを見せ始めた。


 もちろん、すべてではない。


 複数の名義を通る送金。架空の業務委託費。末端の仕事へ支払われる報酬。紗良には全体を理解できなかったが、一つだけ分かった。


 若者へ支払われる金は、組織が得る利益のごく一部にすぎない。


「こんなに」


「驚いた?」


「一件で、これだけ動くんですか」


「成功すればね」


「失敗したら?」


「誰かが払う」


「誰かって」


「失敗した人間」


 津久井は書類を閉じた。


「だから借金が増える」


「罰金って、本当の損害じゃないんですね」


「本当かどうかに意味がある?」


「払わせるための数字」


「数字は理由より強い」


 最初の夜、紗良が見つめていた二十八万四千円を思い出した。


 数字に追われて応募した人間が、今度は別の数字で縛られる。


「湊の残りはいくらですか」


「知りたい?」


「はい」


 津久井はタブレットを操作した。


 表示された金額は、四百八十万円だった。


「嘘」


「機材を壊した。仕事を一件潰した。人を一人逃がした」


「人を逃がした?」


「君に言ってなかったんだ」


 津久井は紗良の顔を観察した。


「早川直人。車で連れていった子」


「湊が?」


「同じ場所で働かされてた。直人が逃げたいと言って、湊が外へ出した」


 胸の奥に、わずかな光が差した。


 湊は誰かを助けようとした。


「直人は逃げられたんですか」


「途中で捕まった」


 光はすぐに消えた。


「そのせいで湊は」


「処分対象になった」


「直人は今どこ?」


「知らないほうが安全だよ」


 津久井は穏やかに言った。


 その言葉を聞くたびに、誰かの姿が世界から消える。



 紗良は、湊の記録が表示された画面を記憶した。


 識別番号、移送履歴、現在の所属。


 夜、オフィスの端末で同じ番号を検索する。


 閲覧権限がない。


 悠真が背後へ来た。


「こっちからなら」


 彼は別の業務画面を開いた。


「連絡対象者の移動履歴だけ見られます」


「手伝わないんじゃなかったの」


「これだけです」


 湊の識別番号を入力する。


 最後の記録は三日前。


『東地区第二拠点 監視補助』


「監視補助って?」


「ほかの登録者を見張る仕事です」


「湊が?」


「多分」


 紗良は画面を見つめた。


 湊は生きるために、組織の側へ回っている。


 自分と同じだ。


「この場所、住所は?」


「コードしか出ません」


「地図は」


「別端末です」


 悠真は袖を引いた。


「もう閉じてください。ログ残ります」


 紗良は検索画面を閉じた。


「ありがとう」


「妹だけは巻き込まないで」


「巻き込まない」


 約束した。


 その時点では、本当に守るつもりだった。



 計画を実行する日が来たのは、十一月の終わりだった。


 津久井は組織上層の集まりで県外へ出る。坂崎は別の現場へ行き、深夜まで戻らない。事務所に残るのは、電話番の男一人だけ。


 紗良は津久井から、翌朝使う資料を事務所へ届けるよう命じられた。


 偶然ではない。


 津久井が自分を試している可能性もある。


 それでも、これ以上条件のいい夜はなかった。


 午後十一時四十分。


 紗良は封筒を持って津久井の事務所へ入った。電話番の男はソファで動画を見ていた。


「机に置いておけって」


「分かった」


「あと、一覧を更新しておけって言われました」


「何の?」


「明日の登録者。端末に入ってるって」


 男は面倒そうに立ち上がった。


「俺、分かんねえから勝手にやって」


 管理室の鍵を開ける。


 紗良は中へ入り、ドアを閉めた。


 机の上に、黒いノートパソコンがある。電源を入れても通常の画面は出ず、鍵を接続するよう表示された。


 坂崎の鍵が必要だ。


 紗良はバッグから、小さな複製品を出した。


 数日前、坂崎がシャワーを浴びるため事務所の奥へ入った隙に、悠真が鍵の形を記録した。完全なコピーではない。端末の接続部に合うよう作っただけの簡単なものだった。


 悠真は最後まで「使える保証はない」と言った。


 紗良は接続した。


 数秒、何も起きない。


 やがて画面が切り替わり、文字列の入力欄が現れた。


 暗証番号。


 津久井が以前、目の前で端末を開いたときの指の動きを思い出す。四桁を二回。彼の誕生日ではない。組の記念日でもない。


 紗良は、最初に会った店の会計伝票に津久井が書いた数字を思い出した。


 九、一、六、四。


 最初のコインロッカーと同じ番号。


 入力する。


 画面が開いた。


 登録者情報だけではなかった。


 送金記録、指示履歴、音声、写真、監視対象者の住所。組織へ金を流している会社名。警察や行政、企業の人間らしい名前まである。


 一つの犯罪の記録ではない。


 人間の弱みを集めた地図だった。


 紗良は保存用の端末を接続し、データをコピーした。


 進行率、一パーセント。


 外で電話番の男が笑う声がする。


 八パーセント。


 スマートフォンを開き、送信先を確認する。


 警察の情報提供窓口。


 新聞社。


 匿名で告発を受け付ける支援団体。


 同じデータを複数へ送れば、一か所で止められても残る。


 二十三パーセント。


 画面の一覧に、湊の名前を見つけた。


『早瀬湊』


『東地区第二拠点』


 住所が表示されている。


 紗良は写真を撮った。


 三十七パーセント。


 小森悠真の名前もあった。


『協力性低下』


『妹・小森美月 監視継続』


 紗良はその項目も保存した。


 五十二パーセント。


 廊下で足音がした。


「真壁?」


 電話番の男がドアを叩いた。


「まだ?」


「もう少しです」


「何やってんの」


「データが重くて」


 ドアノブが動いた。内側から鍵をかけている。


「開けろ」


 六十一パーセント。


「津久井さんに確認します」


 外で男が電話をかける音。


 紗良の背中を汗が伝った。


 七十四パーセント。


 ここで抜けば、データが壊れるかもしれない。


「おい、開けろ!」


 ドアが強く叩かれた。


 八十九パーセント。


 紗良は机を動かし、ドアの前へ押した。


「何してんだ!」


 九十五。


 九十八。


 完了。


 端末を抜き、バッグへ入れる。


 管理画面を閉じる直前、画面右下に通知が出た。


『外部接続を検知しました』


 その下に、短いメッセージ。


『よくできました』


 送信者は津久井だった。


 紗良の指が止まった。


 予測されていた。


 ドアが外から蹴られ、机が動く。


 紗良は窓を開けた。三階。下には隣の建物の低い屋根がある。距離は一メートルほど。


 バッグを先に投げ、窓枠へ足をかける。


 背後でドアが開いた。


「止まれ!」


 紗良は飛んだ。



 右足をひねったが、立てた。


 隣の屋根を走り、非常階段へ下りる。背後から男の怒鳴り声が聞こえる。


 路地へ出て、停めてあったタクシーへ乗った。


「出してください」


「どちらまで?」


「まっすぐ。早く!」


 車が動く。


 紗良はバッグから保存端末を取り出し、スマートフォンへ接続した。


 データは開けた。


 送信を開始する。


 警察。


 新聞社。


 支援団体。


 進行状況を見つめる。


 津久井からメッセージが届いた。


『送っていいよ』


 罠だ。


 そう分かっても、止められなかった。


 今ここで送らなければ、すべて消される。


『あなたは何をしたの』


『お前が何をするか、見ていた』


『湊の場所へ行く』


『行けばいい』


『止めないの』


『選ぶのはお前だ』


 送信完了の表示が出た。


 紗良はタクシーの行き先を東地区第二拠点へ変えた。



 住所は、郊外の運送会社の倉庫だった。


 近づく前から、赤い回転灯が見えた。


 警察車両が何台も停まり、制服姿の警察官が建物を囲んでいる。紗良はタクシーを遠くで降りた。


 間に合った。


 そう思った。


 倉庫から若者たちが次々に連れ出されていた。手を後ろへ回され、警察官に囲まれている。保護ではない。逮捕だった。


「違う」


 紗良は走った。


「その人たちは使われてるんです!」


 警察官に止められる。


「下がってください」


「ここに早瀬湊がいるはずです」


「関係者ですか」


「告発したのは私です。データを送りました」


 警察官の表情が変わった。


「お名前は?」


「真壁紗良」


「こちらへ」


「湊は?」


「確認します。まず事情を」


 倉庫から坂崎が出てきた。


 手錠をかけられている。紗良を見つけると、口元を歪めた。


「やられたな、お前」


「何が」


「ここは捨て場だよ」


 警察官に押されながら、坂崎は笑った。


「津久井さんが残したゴミしかいねえ」


 紗良は倉庫の中を見た。


 押収された端末、封筒、携帯電話。証拠は揃っている。だが、管理する側の中心人物はすでにいない。


 逮捕された若者たちは、自分が荷物を運び、人を監視し、連絡を担当したことを説明させられる。


 津久井は、紗良が警察へ情報を送るよう仕向け、不要になった拠点を切らせた。


 組織の罪を、末端の若者へ背負わせるために。



 湊はいなかった。


 移送記録は偽装されていた。


 紗良が送ったデータの一部には、実在しない会社や、関係のない人物の情報が混じっていた。警察は情報全体の信頼性を確認する必要があるとして、捜査の詳細を教えなかった。


 翌朝、ニュースでは「特殊詐欺グループの拠点摘発」と報じられた。


 逮捕者は十一人。


 年齢は十八歳から二十九歳。


 主犯格は逃走中。


 映像に映った若者の一人は、紗良が聞き取りをした登録者だった。家族と疎遠で、寝る場所がないと書いていた。


 紗良はテレビを消した。


 救うために送ったデータで、彼らは容疑者として全国へ顔を知られた。


 もちろん、罪を犯した者もいる。


 自分と同じだ。


 被害者であり、加害者。


 だが、津久井はその境界を利用して、罪の重さまで末端へ押しつけた。



 悠真と連絡が取れなくなった。


 オフィスは空になり、携帯電話も端末も消えていた。


 紗良は悠真の妹が通う専門学校の近くへ行った。本人へ接触すれば危険かもしれない。それでも生きているか確認したかった。


 校門から出てくる学生の中に、悠真と似た顔の少女を見つけた。


 声をかけようとしたとき、黒い車が止まった。


 後部座席の窓が下がる。


 津久井が座っていた。


「乗って」


 紗良は動かなかった。


「妹には何もしないで」


「誰の妹?」


「悠真」


「君が約束したんだろ。巻き込まないって」


 津久井の言葉に、紗良は拳を握った。


「彼はどこ」


「逃げた」


「嘘」


「データを盗むのを手伝った。こちらとしては困る」


「私がやらせた」


「だから、代わりに責任を取る?」


「取ります」


「乗って」


 紗良は車へ乗った。



 連れていかれたのは、川沿いの閉鎖されたレストランだった。


 窓の外に暗い水面が見える。店内には津久井と紗良しかいない。


「母はどこ」


「仕事中」


「湊は」


「移動した」


「悠真は」


「まだ生きてる」


 津久井は椅子を引いた。


「座れ」


「嫌です」


「立ったままでもいい」


 彼は怒っていなかった。


 紗良が端末を盗み、情報を流し、拠点を摘発させた。それでも、初めて会った昼と同じ穏やかな顔をしている。


「最初から知ってたんですね」


「全部じゃない」


「端末に偽情報を入れた」


「保険だよ」


「若い人たちを逮捕させた」


「逮捕したのは警察だ」


「あなたが残した」


「仕事をした人間が責任を取る。普通のことだろ」


「あなたの指示でやった」


「証明できる?」


 紗良は津久井を睨んだ。


「証拠を送った」


「本物も混じってる。偽物も混じってる。どれが正しいか分からない情報は、証拠じゃなくて混乱だ」


「何が目的だったの」


「整理」


 津久井は窓の外を見た。


「あの拠点はもう使えなかった。坂崎も少し勝手をしすぎた。君が掃除してくれた」


 紗良の正義も、津久井にとっては道具だった。


「殺して」


 紗良は言った。


「私を殺せばいい」


「なぜ?」


「裏切ったから」


「裏切ると思ってた」


「じゃあ、何で生かすの」


「戻ってくるから」


「戻らない」


「今、ここにいる」


 津久井の言葉が胸へ入った。


 紗良は逃げずに車へ乗った。


 悠真と妹、母と湊を守るため。


 守りたい人間がいる限り、津久井は何度でも紗良を呼び戻せる。


「母と湊には手を出さないで」


「全員は守れない」


「私が何でもする」


「その言葉、最初の応募者みたいだね」


 津久井が微笑んだ。


「何でもします。助けてください」


 紗良は自分が登録時に何と書いたか思い出せなかった。けれど画面の向こうで、同じ言葉を打つ若者を何人も見てきた。


「誰を守るか選べ」


 津久井は言った。


「全員を救えると思うな」


「選ばない」


「なら、俺が選ぶ」


 津久井はテーブルに三枚の写真を置いた。


 母。


 湊。


 悠真。


「一人、情報を渡せ」


「何の」


「小森悠真の居場所を知ってるだろ」


「知りません」


「妹の学校に来た。連絡を待ってたんじゃないの?」


 実際、悠真から指定された場所だった。盗む直前、何かあれば妹の学校近くで会うと決めていた。


「知らない」


「じゃあ、君の母親に事情を聞こう」


「やめて」


「湊へ仕事を追加してもいい」


「やめて!」


 津久井は静かに紗良を見た。


「誰を守る?」


 母と湊。


 悠真と妹。


 全員が、紗良の選択にぶら下がっている。


「悠真は、妹のためにやった」


「君も母親と友達のためにやった」


「私を差し出す」


「君は必要だ」


 必要とされることが、これほど残酷だとは知らなかった。


 津久井は待った。


 急かさない。


 時間を与えれば、人間は自分で正しい理由を作ると知っている。


 悠真はまだ逃げられるかもしれない。


 母は何も知らない。


 湊はすでに傷ついている。


 一人を切れば、二人が助かる。


 その計算をした瞬間、紗良は津久井を理解した。


 理解したくなかった論理が、自分の中で形になった。


「駅の東側」


 声がかすれた。


「古い映画館の裏。午前零時に会う約束でした」


 津久井はうなずいた。


「ありがとう」


「母と湊は」


「手を出さない」


「約束して」


「約束する」


 紗良は目を閉じた。


 悠真に、妹を巻き込まないと約束した。


 その約束を、自分の手で破った。



 午前零時を過ぎ、悠真からメッセージが届いた。


『着きました』


 続けて、


『真壁さん?』


 紗良は返信できなかった。


 数分後、アカウントが消えた。


 何が起きたのかは見ていない。


 見なかったことにできる人間は長く働ける。


 かつてハヤシから送られた言葉が、頭の中で響いた。



 津久井は約束を守った。


 母は何事もなく仕事から帰った。


 翌朝、湊が生きていることを示す短い映像が届いた。


 悠真の妹にも、表面上は何も起きなかった。


 紗良は一人を切り捨て、二人を守った。


 それが正しかったのか考えようとしたが、答えは出ない。


 ただ、結果だけが残った。


 津久井は午後、紗良を事務所へ呼んだ。


 摘発を免れた別の小さな部屋だった。机の上には、一台の新しいスマートフォンが置かれている。


「これは?」


「お前の仕事」


 津久井は端末を手に取り、紗良へ渡した。


 画面には、匿名の求人アカウントが表示されていた。


 未読のメッセージが三十件以上並んでいる。


『今日中に五万円必要です』


『家を追い出されました』


『学生でもできますか』


『何でもします。助けてください』


「今日から、お前が若い連中を管理しろ」


「嫌です」


「小森を切れた」


「あなたが選ばせた」


「最後に名前を言ったのはお前だ」


 否定できない。


「俺の真似をしろとは言わない。お前のやり方でやればいい」


「救えると思ってるんですか」


「救ってもいい」


 津久井は笑った。


「その代わり、誰かには働いてもらう」


 スマートフォンが振動した。


 新しいメッセージ。


『母が病気です。すぐにお金が必要です』


 紗良の指が画面の上で止まる。


 返信しなければ、別の担当者が選ぶ。


 返信すれば、自分が選ぶ。


 どちらにしても、画面の向こうの人間は、誰かの手に渡る。


 紗良はスマートフォンを握った。


 津久井は何も指示しなかった。


 自分で選ばせるために。



第六章 代価



 紗良が渡されたスマートフォンには、朝も夜もなかった。


 午前二時にも、午前五時にも、助けを求めるメッセージが届く。


『明日の家賃が払えません』


『借金の取り立てが来ます』


『親にばれずに十万円ほしいです』


『住む場所も紹介してもらえますか』


 画面の向こうにいるのは、名前も顔も知らない人間だった。


 けれど紗良には、彼らがメッセージを送るまでの時間が想像できた。求人画面を閉じ、口座残高を確認し、また開く。怪しいと分かりながら、普通の仕事の時給を計算する。誰かへ相談しようとして、迷惑をかけたくないとやめる。


 最後に、自分の危険より、明日の支払いを選ぶ。


 紗良と同じだった。


 紗良は最初の三日間、すべての応募者へ断りの返信を送った。


『現在、ご案内できる仕事はありません』


『公的な相談窓口をご利用ください』


『ご家族か、信頼できる方へ相談してください』


 津久井から何も言われなかった。


 四日目、坂崎の代わりに連絡役となった男から電話が来た。


『今週、誰も回ってきてない』


「条件に合う人がいません」


『三十人以上いるだろ』


「全員、危険です」


『危険だから来てんだよ』


「私が管理していいと言われました」


『数字が足りない』


「津久井さんに言ってください」


 電話を切った。


 その夜、津久井から短いメッセージが来た。


『一人も選ばないのも、選択だよ』


 翌朝、母が勤める介護施設の前に、黒い車が停まっていた。


 同じ車かは分からない。


 ただの送迎車かもしれない。


 それでも紗良には、警告として十分だった。



 一人も送らなければ、組織は別の担当者を使う。


 紗良が断った応募者へ、別のアカウントから声がかかることもあった。


『他で紹介してもらいました。ありがとうございました』


 そのメッセージを最後に、連絡が途絶える。


 自分が管理を拒めば誰も救われるわけではない。


 そう思わせることまで、津久井の計算なのかもしれなかった。


 紗良は応募者を三つに分けた。


 すぐに外部の支援へつなげられそうな人。


 家族や勤務先があり、まだ帰る場所がある人。


 すでに複数の組織と接触し、断っても別の場所へ行く可能性が高い人。


 最初の二つには、可能な限り相談先を送り、登録情報を不完全な状態にして処理を遅らせた。


 三つ目の中から、組織へ送る者を選んだ。


 何人かを救うために、別の誰かを差し出す。


 画面の一覧に印をつける。


『家族あり』


『逃亡可能性低』


『指示理解良好』


『使用可』


 文字を入力したあと、紗良は手を止めた。


 第三章で見た管理表と同じだった。


 使える。


 切る。


 あのときは、人間を物のように扱う言葉だと思った。


 今は自分が使っている。


 言葉を変えても、選別している事実は変わらない。


 紗良は一人を危険な仕事へ送り、二人を別の支援へ逃がした。


 送った一人の報酬が支払われた夜、津久井から連絡が来た。


『上手になったね』


『何が』


『全員を救おうとしなくなった』


 紗良は端末を投げようとした。


 しかし投げなかった。


 壊せば、救えたかもしれない誰かの連絡も見えなくなる。


 道具を持ち続ける理由まで、津久井に与えられている。



 母とは、同じ部屋にいても会話が続かなかった。


 紗良は一度、実家へ戻った。


 母は何も聞かず、夕食を作った。焼き鮭と味噌汁。紗良が子どもの頃から食べていた味だった。


「大学、どうするの」


 食事の途中で母が尋ねた。


「休学する」


「そう」


「もう戻らないかもしれない」


「せっかく入ったのに」


 母は言ってから、箸を止めた。


「ごめん」


「何が」


「また、大学のことばかり」


 紗良は味噌汁を見た。


「お母さんのせいじゃない」


「でも、あのとき、お金があれば」


「違う」


「私が話を聞いていれば」


「それも違う」


「じゃあ、何が悪かったの」


 紗良は答えられなかった。


 津久井が悪い。


 組織が悪い。


 金のない人間を追い詰める社会が悪い。


 怪しい仕事へ応募した自分が悪い。


 湊を紹介した自分が悪い。


 どれも事実で、どれか一つだけではなかった。


「知らないほうがいいこともあるよ」


 紗良が言うと、母の顔が強張った。


 かつて母が口にした言葉を返したつもりはなかった。


 それでも二人には同じ響きで聞こえた。


 母はうなずき、何も聞かなかった。


 その沈黙が紗良を守っているのか、拒んでいるのか、もう分からなかった。



 湊が戻されたのは、十二月の雨の夜だった。


 紗良の部屋の呼び鈴が鳴った。


 ドアスコープをのぞくと、フードをかぶった男が一人立っている。


「誰」


「俺」


 聞き覚えのある声。


 紗良は鍵を開けた。


 湊は以前より痩せ、髪を短く切られていた。頬の傷は薄くなっているが、右手の甲に新しい火傷の痕がある。


「湊」


「入れて」


 部屋へ入ると、湊は最初に窓と浴室を確認した。


「何してるの」


「誰かいるか見ただけ」


「一人だよ」


「盗聴は?」


「分からない」


 答えると、湊は笑った。


「紗良も同じか」


「何が」


「分からないまま生きてる」


 濡れた上着を脱ぎ、床へ座った。紗良はタオルを渡した。


「どうして戻れたの」


「戻された」


「津久井に?」


「お前のところで働けって」


「私のところ?」


「応募者を監視する。逃げそうな奴とか、警察へ行きそうな奴を報告する」


 紗良は湊を見た。


「断って」


「断れると思う?」


「一緒に逃げよう」


「どこへ」


「警察へ全部話す」


「お前、まだそれ言うんだな」


 湊はタオルで髪を拭いた。


「俺、もう話せないよ」


「どうして」


「話したら、何人捕まると思う?」


「津久井たちでしょ」


「違う。俺が見張ってた奴。俺が住所を渡した奴。俺が逃げたって報告した奴」


 湊の声は平らだった。


「俺、自分が助かるために、ほかの奴を売った」


「脅されたから」


「お前もそう思ってる?」


「事実でしょ」


「じゃあ、お前が小森を売ったのも、仕方なかった?」


 紗良は顔を上げた。


「知ってるの」


「記録見た」


「悠真は」


「分からない」


「生きてる?」


「分からないって」


 湊は苛立った声を出した。


「俺、お前のことも報告してた」


「何を」


「警察へ電話した。事務所の端末を調べた。小森と話してた」


 胸が冷えた。


「どうして」


「あのままなら殺されてた」


 湊は紗良を見た。


「そう言えば、許せる?」


 紗良はすぐに答えられなかった。


 自分も同じことをした。


「責めない」


「責めろよ」


「責められない」


「それが一番むかつく」


 湊は立ち上がった。


「お前を見ると、自分がしたことが全部戻ってくる」


「私も」


「同じにするな」


「同じだよ」


「お前は津久井に選ばれた」


「望んでない」


「でも使う側にいる」


 湊の視線が、机の上のスマートフォンへ向いた。


 応募者のメッセージが表示されている。


「何人送った?」


「湊」


「答えろよ」


「三人」


「救ったのは?」


「七人」


「じゃあ、差し引き四人助けた?」


 湊は笑った。


「そうやって数えれば楽になる?」


「ならない」


「俺たち、もう友達じゃないな」


 紗良は息を止めた。


「前みたいには戻れない」


「分かってる」


「でも今は、離れられない」


 湊は机の端末を手に取った。


「だから仕事する。生きるために」


 その言葉は、最初の仕事へ向かう紗良が自分に言い聞かせたものと同じだった。



 湊は監視役として働き始めた。


 紗良が応募者を選び、湊が連絡状況を確認する。


 二人は同じ部屋にいても、必要なことしか話さなかった。


 かつて大学の食堂で、将来の話をした二人。


 今は、画面に並ぶ名前を見て、誰が逃げるか、誰が警察へ行くかを判断している。


 青春という言葉が何を意味するのか、紗良にはもう分からなかった。


 若いこと。


 何者にでもなれる時間。


 失敗してもやり直せる時期。


 そのどれも、自分たちには残っていないように思えた。


「これ」


 ある日、湊が端末の記録を示した。


 応募者一覧とは別の場所に、不自然な通信履歴がある。


「津久井が、別のサーバーに毎週データ送ってる」


「何のデータ?」


「分からない。若い奴の記録じゃない」


「どうして」


「ファイルの番号が違う」


 湊は組織の中で監視をしていたため、端末の構造を紗良より理解していた。


「上の人間の記録かもしれない」


 第三章で見た管理表を思い出した。


 津久井は若者だけでなく、部下も、取引先も、組織の人間も弱みで支配している。


「場所は?」


「津久井が持ち歩いてる端末」


「どうやって取る」


「取らない」


 湊は通信履歴を指した。


「送るときだけ、コピーが一時的にこっちへ残る。次は金曜」


「抜ける?」


「前みたいに偽物かも」


「それでも、本物か確認できれば」


「また失敗する」


「今度は警察だけに送らない」


 紗良の中に計画が形を持った。


 津久井が上層部の弱みを持っているなら、組織内部へ流す。


 犯罪の証拠は警察へ送る。


 同じ記録を別々の相手へ渡し、互いに津久井を追わせる。


 正義のためではない。


 捜査を成功させるためでもない。


 津久井が紗良たちを追えない時間を作るため。


「母を先に移動させる」


「どこへ」


「支援先を探す。事情は全部言わない」


「俺の親は?」


「同時に」


「間に合う?」


「分からない」


 湊はしばらく黙った。


「また誰か巻き込むな」


「分かってる」


「小森のときも、そう思ってたろ」


 紗良は答えなかった。


 正しい選択をする自信は、もうなかった。


 ただ、何も選ばなければ、津久井の選択に従うだけだ。



 金曜日。


 紗良は応募者管理の仕事を続け、湊は通信履歴を監視した。


 午前一時十三分、端末に新しい一時ファイルが現れる。


「来た」


 湊が小声で言った。


 ファイルは暗号化されていたが、津久井の管理端末と同期する際、一部の見出しが表示された。


 組織幹部の名前。


 金の流れ。


 密会の写真。


 内部の横領。


 警察関係者への接触記録。


 津久井は、誰から切られても生き延びられるよう、全員の弱みを集めていた。


「コピーする」


 湊が作業を始める。


 進行中、紗良は送信先を分けた。


 一つは警察。


 一つは報道機関。


 一つは、記録に載っている組織幹部の側近。


 さらに、津久井が金を隠していることを示す部分だけを、別の幹部へ送る。


 すべてを同じ相手へ渡せば、また津久井が切り捨てたい場所だけが潰れるかもしれない。


 情報を切り分け、相手の欲望に合わせて使う。


 津久井から学んだ方法だった。


「紗良」


 湊が画面を見たまま言った。


「お前、あいつと同じことしてる」


「分かってる」


「怖くないの」


「怖い」


「やめる?」


「やめない」


 データを送信した。



 変化は早かった。


 津久井の事務所から人が消えた。


 組織の車が何台も動き、連絡用のアカウントが次々に削除された。ニュースには、複数の関連会社への家宅捜索が速報で流れた。


 津久井から電話が来る。


「はい」


『上手に使ったね』


 声はいつもと同じだった。


「何のことですか」


『しらを切る必要はない』


「あなたが教えたんです」


『だから嬉しいよ』


「逃げないんですか」


『逃げる。一緒に来る?』


「行きません」


『湊もいるんだろ』


 紗良は湊を見た。


 彼は別の電話で家族の避難を確認している。


「母と湊の家族に手を出したら、原本を全部出します」


『原本は俺が持ってる』


「コピーはある」


『偽物かもしれない』


「組織の人は、偽物か確かめる前にあなたを疑う」


 電話の向こうで、津久井が笑った。


『言うようになった』


「取引します」


『場所を送る』


「私が決めます」


 初めて、紗良は津久井の言葉を遮った。



 最後の取引場所に選んだのは、閉鎖された地方線の駅だった。


 数年前に廃線となり、ホームと小さな駅舎だけが残っている。周囲に民家は少なく、夜になると車の音も聞こえない。


 午前三時。


 雨は上がっていた。


 紗良はホームの端に立ち、津久井を待った。


 湊は離れた場所で車に乗り、母と自分の家族を県外へ送る手配をしている。警察へも位置情報と取引時刻を送った。ただし、すぐ踏み込むとは限らない。情報の信頼性を疑われている。


 線路の向こうに車のライトが見えた。


 津久井は一人で来た。


 濃い色のコートを着て、片手に小さなバッグを持っている。いつもと変わらない歩き方だった。


「寒いね」


「記録の原本は」


「挨拶くらいしよう」


「時間がないでしょ」


「誰から聞いた?」


「何が」


「俺を探してる連中」


「警察と、あなたの仲間」


「仲間じゃないよ」


 津久井はホームへ上がった。


「利害が一致してただけだ」


「若い人たちとも?」


「最初から利害だよ。金がほしい。仕事をしてほしい」


「選べない人を使った」


「お前も使った」


「分かってる」


 紗良が即座に答えると、津久井は目を細めた。


「強くなった」


「壊れただけです」


「同じだよ。壊れたあとに立ってる奴を、強いって言う」


「あなたは、自分が壊したものを成果だと思ってる」


「お前は俺がいなければ、大学を辞めて実家に戻ってた」


「そのほうがよかった」


「本当に?」


 津久井は一歩近づいた。


「母親と『大丈夫』って言い合いながら、何も知らずに生きるほうが?」


「少なくとも、人を売らなかった」


「機会がなかっただけだ」


「違う」


「人間の本性は、選べるときじゃない。選べないときに出る」


 津久井の言葉は、紗良の中で何度も反響した。


 蓮を送った。


 悠真を売った。


 応募者を選別した。


 すべて、選べなかったからだと言えば楽になる。


 だが本当に、ほかの道は一つもなかったのか。


 警察へもっと早く行く。


 大学を辞める。


 母と逃げる。


 自分の罪を引き受ける。


 選ばなかった道はあった。


 選べなかったのではなく、失うものが大きすぎて選ばなかった。


「原本を渡してください」


 紗良は言った。


「湊と母の情報も消す」


「消した証拠は?」


「ない」


「じゃあ取引にならない」


「俺と一緒に来い」


 津久井はバッグを足元へ置いた。


「記録も、金もある。国外へ出ればやり直せる」


「誰を使って?」


「必要な奴を」


「また同じことをする」


「お前ならもっと上手くやる」


 津久井の目には、本気の期待があった。


 彼は紗良を愛しているわけではない。


 理解しているわけでもない。


 自分の論理が、別の人間の中で生き続けることを望んでいる。


「私を使う側にしたかったんじゃない」


 紗良は言った。


「あなたと同じ人間にしたかった」


「なっただろ」


「だから、一緒には行かない」


 遠くでエンジン音がした。


 一台ではない。


 駅へ続く道の両側から、複数の車が近づいてくる。


 警察か、組織か。


 津久井が振り返った。


「お前が呼んだ?」


「両方」


「俺を売ったんだ」


「あなたが教えた。一人だけに情報を渡すなって」


 津久井は笑った。


 紗良へ手を差し出す。


「今なら間に合う」


「原本を」


「俺と来い」


「嫌です」


 車のライトが駅舎を照らした。


 津久井はバッグを持ち上げ、線路へ下りようとした。


 紗良は追わなかった。


「助けないの?」


 津久井が振り返る。


「私が?」


「ここまで育てた恩は?」


「学費ですか」


「それも」


「返せません」


「返さなくていい」


 津久井は笑っていた。


「もう、お前は俺なしでもやれる」


 その言葉を最後に、彼は暗い線路の先へ走った。


 複数の男たちがホームへ入ってきた。


 警察の声。


 別方向から怒鳴る声。


 紗良は両手を上げ、その場にしゃがんだ。


 線路の先で何が起きたのかは見えなかった。


 銃声のような乾いた音が一度した。


 誰のものか分からない叫び声。


 それから、長い沈黙。



 津久井竜司は、その夜に逮捕されたと報じられた。


 負傷していたが命に別状はない。


 組織内部の複数人も、別件を含む容疑で身柄を拘束された。若者を使った犯罪の全容は、まだ分からないとニュースは繰り返した。


 逮捕されたからといって、すべてが明らかになるわけではない。


 津久井は黙秘した。


 データの一部は改ざんされ、送金経路の多くは途切れていた。組織の上層へどこまで捜査が届くか、紗良には分からない。


 それでも、行方不明だった若者の何人かは保護された。


 早川直人も、その中にいた。


 彼は別の県の施設で見つかった。生きていたとだけ知らされた。紗良との面会は拒否した。


 小野寺蓮は、摘発された別の拠点にいた。


 紗良は弁護士を通じて謝罪の手紙を送った。


 返事はなかった。


 小森悠真の所在は、最後まで分からなかった。


 死亡したという証拠も、生きているという記録もない。


 その空白は、紗良が一生答えを得られない罰のように残った。



 紗良自身も長い事情聴取を受けた。


 運んだ荷物。


 受け取った金。


 連れていった人。


 集めた情報。


 選んだ応募者。


 悠真の居場所を渡したこと。


 話すたび、自分の中で被害者と加害者の境目が崩れていった。


 捜査へ協力し、組織の記録を提供したことが考慮された。最終的に、紗良は重い処分を免れた。


「よかったですね」


 弁護士は言った。


 紗良も頭を下げた。


 何がよかったのかは分からなかった。


 罪に問われなかった行為が、消えるわけではない。


 蓮に安全だと嘘をついた声。


 悠真の居場所を口にした瞬間。


 直人が車の中で「助けて」と腕をつかんだ感触。


 法律が判断しなかった夜を、紗良の記憶はすべて保存していた。



 湊は家族のもとへ戻った。


 一か月後、駅近くの喫茶店で最後に会った。


 湊は新しいスマートフォンを使い、以前より短い髪をしていた。大学は退学するという。


「映像、また撮るの?」


 紗良が聞くと、湊は首を振った。


「カメラ見ると、監視してた頃思い出す」


「そっか」


「紗良は?」


「休学したまま」


「戻る?」


「分からない」


 二人の間に、長い沈黙が落ちた。


 以前なら、沈黙は気まずくなかった。


 今は互いに、何を言わないでいるのかを知っていた。


「俺、お前を許せない」


 湊が言った。


「うん」


「でも、自分のことも許せない」


「うん」


「だから、もう会わない」


 紗良はコーヒーカップを見た。


「分かった」


「止めないんだ」


「止める資格ないから」


「そういう言い方、嫌いだ」


「ごめん」


「謝るのも」


 湊は立ち上がった。


「お前を見ると、自分が何をしたか思い出す」


 第四章で倉庫にいた彼とは違い、今は自分の足で立っている。


 それでも自由に見えなかった。


「生きててよかった」


 紗良が言った。


 湊は振り返らなかった。


「それだけは、俺も思う」


 店を出ていく背中を、紗良は追わなかった。



 母は紗良を実家へ戻そうとした。


「しばらく休めばいい」


「ここにはいられない」


「どうして」


「お母さんを見ると、全部隠したくなるから」


「隠していいじゃない」


「それじゃ、また同じになる」


 母は理解できない顔をした。


 紗良も説明できなかった。


 二人は互いを愛している。


 それでも愛情だけでは、見たものを受け止める強さにならないことがある。


 紗良が家を出る朝、母は米と缶詰を段ボールへ入れた。


 最初の頃に送ってくれた荷物と同じだった。


「ちゃんと食べて」


「うん」


「困ったら連絡して」


 紗良は一瞬、笑いそうになった。


 困ったときに連絡できなかったことから、すべてが始まった。


「今度は言う」


 そう答えた。


 本当に言えるかは分からなかった。



 数か月後。


 紗良は遠い街の小さな部屋で暮らしていた。


 大学へは戻っていない。昼は倉庫で働き、夜は匿名の相談窓口を手伝っている。かつて登録者へ送った公的支援の情報を、今度は正式な形で案内していた。


 それは償いではない。


 何人助けても、差し出した人間の数が減るわけではない。


 ただ、ほかの生き方を忘れないために続けていた。


 手元には、津久井から奪ったデータの一部が残っている。


 警察へ渡していない記録。


 組織の人間たちの弱み。


 消したつもりでも、消せなかった。


 なぜ残したのか、紗良は自分に説明できない。


 身を守るため。


 まだ捕まっていない人間を牽制するため。


 困っている誰かを救うため。


 どれも理由になり、どれも嘘に思えた。


 力を手放すのが怖かった。


 それが一番正しい答えだった。



 夜明け前、古いスマートフォンが振動した。


 解約したはずの匿名募集アカウントに、新しいメッセージが届いている。


『募集を見ました』


『大学生です』


 紗良の指が止まった。


 続けて送られてくる。


『学費が払えません』


『今月中に二十万円必要です』


『何でもします。助けてください』


 最初の夜の自分が、画面の向こうにいた。


 紗良は返信欄を開いた。


『困っている人を助ける、簡単な仕事です』


 そこまで打った。


 津久井の声が聞こえたような気がした。


 お前は使い捨てじゃない。使う側になれる。


 紗良は文章を消した。


 相談窓口の連絡先を送ろうとする。


 だが、相手がそこへ電話できないことも分かっていた。公的支援はすぐに二十万円を渡してはくれない。納付期限は待ってくれない。正しい窓口を教えるだけでは、今夜の不安は消えない。


 紗良は別の文章を打った。


『あなたを助ける』


 指が止まる。


 助ける。


 津久井も、最初にそう言った。


 違う言葉を探した。


 見つからなかった。


『あなたを助ける。だから一度だけ、私の言う通りにして』


 送信した。


 すぐに既読がついた。


『本当に助けてもらえますか』


 紗良は、残してあるデータを見た。


 大学と関係のある人物。


 裏金。


 隠された口座。


 それを使えば、この学生の学費を作れるかもしれない。誰かを脅し、誰かの弱みを金に変えれば。


 犯罪組織へ送らずに済む。


 その代わり、別の人間を利用する。


『お願いします』


 相手からもう一度届いた。


 紗良はスマートフォンを握りしめた。


 夜明け前の青い光が、カーテンの隙間から部屋へ入る。画面の白い光が、紗良の顔だけを照らしている。


 津久井は捕まった。


 母は生きている。


 湊も生きている。


 直人と蓮は保護された。


 組織の一部は壊れた。


 紗良も生き延びた。


 それでも、誰も元の場所へは戻れなかった。


 金のために夜を売った若者たち。


 弱さのために人間を買った男。


 その男が作った支配の方法は、消えずに紗良の中へ残っている。


 紗良は返信欄へ、次の指示を入力し始めた。


 それが救いなのか、別の闇の入口なのか、自分でも分からない。


 ただ一つ分かるのは、もう誰かに選ばれるだけの少女ではないということだった。


 今度は紗良が選ぶ。


 誰を助けるか。


 誰を利用するか。


 何を失って生き延びるか。


 送信ボタンの上で、指が止まる。


 朝が来る。


 けれど、夜はまだ彼女の中にあった。



                了



 最後まで『使い捨ての青春』をお読みいただき、本当にありがとうございました。


 この物語を書き終えた今、私の中に残っているのは、事件が解決したという安堵ではありません。


 夜明け前の薄暗い部屋で、スマートフォンを握りしめる真壁紗良の姿です。


 彼女は生き延びました。母も、早瀬湊も生きています。若者たちを利用してきた組織の一部は壊れ、津久井竜司も力を失いました。


 それだけを並べれば、物語には一つの決着がついたように見えるかもしれません。


 しかし、紗良たちは誰一人として、元の場所には戻れませんでした。


 湊は生きるために仲間を裏切り、紗良と同じ時間を過ごすことができなくなりました。母は娘を愛しながらも、その現実を最後まで受け止めきれませんでした。そして紗良自身も、津久井から逃れたはずなのに、彼が人間を支配していた方法を自分の内側に残してしまいました。


 本作で描きたかったのは、単純な勧善懲悪ではありません。


 悪人が逮捕され、被害者が救われ、失われた日常が戻ってくる。そうした結末には、確かな安心があります。


 けれど現実では、犯罪から抜け出したからといって、傷つく前の自分に戻れるとは限りません。


 恐怖の中でついた嘘。

 自分を守るために見捨てた誰か。

 命令されたとはいえ、自分の手で行ったこと。

 そして、正しい判断をする余裕さえ奪われていた時間。


 そうした記憶は、事件が終わったあとも残り続けます。


 紗良は、物語の始まりでは明確な被害者でした。


 学費と生活費に困り、家族にも十分に頼れず、目の前に現れた高額な仕事へ手を伸ばします。彼女が求めていたのは贅沢ではありません。ただ、大学へ通い、家賃を払い、今までの生活を失わずに済むだけの金でした。


 最初の一歩は、小さな選択でした。


 一度だけ。

 荷物を運ぶだけ。

 何も知らなければ、自分には責任がない。


 人が危険な場所へ入っていくとき、必ずしも大きな覚悟を決めるわけではありません。


 ほんの少しの妥協を重ね、気づいたときには戻れなくなっていることがあります。


 そして、紗良を捕らえたのは暴力だけではありませんでした。


 津久井は、彼女が欲しかった言葉を知っていました。


 誰にも言えなかった苦しさを理解するふりをし、必要な金を与え、「君は悪くない」と語りかけます。


 人は恐怖から逃げようとします。


 けれど、自分を理解してくれたと思った相手からは、簡単には離れられません。


 津久井の恐ろしさは、相手を殴って従わせることではなく、相手自身に「ここにいるしかない」と思わせるところにあります。怒鳴らず、穏やかに言葉を重ね、逃げ道を一つずつ消していきます。


 その支配の完成形が、紗良を「使われる側」から「使う側」へ変えることでした。


 津久井が紗良に告げた「お前は使い捨てじゃない」という言葉は、一見すると特別な救いにも聞こえます。


 しかし、それは紗良を守るための言葉ではありません。


 他人を選び、利用し、必要なら切り捨てる人間に変えるための言葉でした。


 誰かを傷つけた人間は、自分も被害者であると言いにくくなります。


 助けを求めれば、自分の罪も明らかになる。逃げれば、自分が巻き込んだ人間を置き去りにすることになる。


 その状態にまで追い込めば、鎖や鍵は必要ありません。


 人は、自分の罪悪感によって自分自身を閉じ込めるからです。


 紗良が湊を闇の世界へ紹介した瞬間から、彼女は被害者であると同時に、誰かを傷つける側にもなりました。


 もちろん、追い詰められていた事情はあります。


 脅されていたことも事実です。


 けれど、事情があることと、行ったことの責任がなくなることは同じではありません。


 本作では、その境界を曖昧なまま残しました。


 紗良を完全な善人として描けば、読者は安心して彼女を応援できたでしょう。


 反対に、金に目がくらんだ愚かな人物として描けば、「自分とは違う人間の話」として距離を置くこともできたでしょう。


 しかし、紗良はそのどちらでもありません。


 弱く、身勝手で、間違いを犯します。


 同時に、誰かを助けたいと思い、自分の罪を自覚し、それでも生きようとします。


 人間は、一つの言葉だけでは分類できません。


 被害者でありながら、加害者になることがあります。


 誰かを救いながら、別の誰かを犠牲にすることがあります。


 正しいことをしたつもりでも、その結果によって人を傷つけることがあります。


 第五章で紗良が組織の情報を外へ流したのも、若者たちを救おうとしたからでした。


 しかし、その反撃さえ津久井に読まれ、末端にいた若者たちが身代わりとして捕らえられます。


 正しい願いが、必ず正しい結果を生むとは限りません。


 それでも、結果を恐れて何もしなければ、支配は永遠に続きます。


 紗良には、迷いながら選ぶことしかできませんでした。


 最後に紗良は、津久井が集めていた弱みを利用し、彼を孤立させます。


 それは正義の告発というより、自分と母と湊が生き延びるための取引でした。彼女は津久井のやり方を否定しながら、そのやり方を使わなければ津久井に勝てなかったのです。


 だからこそ、津久井が残した最後の言葉には、勝ち誇った響きがあります。


 津久井自身がいなくなっても、彼が教え込んだ論理が紗良の中に残っている。


 人の弱みを見抜くこと。

 誰を助け、誰を切るか選ぶこと。

 相手を従わせるために、救いの言葉を使うこと。


 それこそが、津久井が紗良に残した最も深い傷です。


 物語の最後、紗良のもとに新しい若者からメッセージが届きます。


 「学費が払えません。何でもします。助けてください」


 それは、かつての紗良自身の姿でした。


 彼女は、津久井たちと同じ言葉を入力しかけます。


 けれど、その文章を消し、別の言葉を送ります。


 「あなたを助ける。だから一度だけ、私の言う通りにして」


 この言葉が救いなのか、それとも新しい支配の始まりなのか、答えは明確にしていません。


 紗良自身にも分からないからです。


 彼女は、本当に相手を助けようとしているのかもしれません。


 同時に、自分の指示に従わせることでしか人を救えない人間になってしまったのかもしれません。


 その危うさを残すことが、この物語に必要な結末だと考えました。津久井が消えても、その支配の方法が紗良の中に生き続けることが、本作における最大の恐怖です。


 『使い捨ての青春』という題名には、二つの意味を込めています。


 一つは、犯罪組織が若者を使い捨ての道具として扱うことです。


 運ぶ者。

 誘う者。

 責任を負わされる者。

 捕まる者。

 そして、利用価値がなくなれば切り捨てられる者。


 そこでは一人一人の人生や名前は重視されません。


 もう一つは、若者自身が、生き延びるために自分の青春を使い切ってしまうことです。


 本来なら、失敗し、迷い、友人と笑い、将来を考えるために使われるはずだった時間。


 紗良と湊は、その時間を恐怖と罪悪感の中で失いました。


 二人は生き残りましたが、もう以前の親友には戻れません。


 彼らが失ったものは、金では買い戻せません。


 この作品には、闇バイト、貧困、孤立、家庭の沈黙という重い題材が登場します。


 けれど、これは犯罪の世界だけの物語ではありません。


 困っているのに、「大丈夫」と答えてしまうこと。


 助けてほしいのに、迷惑をかけたくなくて黙ること。


 家族の異変に気づいても、怖くて深く聞けないこと。


 相手を救うつもりで、「私の言う通りにすればいい」と支配してしまうこと。


 形は違っても、私たちの日常にも存在するものです。


 人が闇に落ちる入口は、悪意だけで作られるのではありません。


 貧しさや孤独に加え、周囲の無関心や、「自分で何とかしなければならない」という思い込みによって作られることもあります。


 助けを求めた人に、早い段階で誰かが手を差し伸べていたら。


 「何とかなる」と目を背けるのではなく、一緒に考える人がいたら。


 犯罪者の差し出す偽物の救いに頼らずに済んだかもしれません。


 紗良の選択を、すべて肯定することはできません。


 しかし、彼女を責めるだけでも、この物語の問題は終わりません。


 なぜ、彼女には危険な相手しか手を差し伸べなかったのか。


 なぜ、正しい場所へ助けを求めるより、匿名の相手を信じるほうが簡単だったのか。


 その問いを、読後に少しでも心に残していただけたなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。


 本を閉じたあと、紗良がどのような人生を歩むのかは、読者の皆さまの想像に委ねたいと思います。


 彼女は自分の中に残った津久井の論理に負け、新たな支配者になってしまうのでしょうか。


 それとも、自分が傷つけた人々の記憶を抱えながら、不器用でも誰かを救う道を探し続けるのでしょうか。


 おそらく、その二つはきれいに分かれるものではありません。


 人を救おうとしながら支配し、間違いに気づいてまた選び直す。


 紗良の人生は、そうした危うい選択の連続になるのだと思います。


 彼女は救われたとは言えません。


 けれど、生き延びました。


 生き延びた人間には、過去を消すことはできなくても、次の選択をする時間があります。


 その時間が、本当の救いにつながるのか。


 それとも、さらに深い闇へ続いているのか。


 答えの出ない問いを抱えたまま、本作を終えることにしました。


 ここまで紗良たちの夜に付き合ってくださった皆さまへ、心より感謝申し上げます。


 この物語が、ニュースの向こうにいる若者を、単なる「犯罪者」や「愚かな人」としてではなく、名前と生活を持つ一人の人間として考えるきっかけになれば幸いです。


 そして、身近な誰かが苦しみながら「大丈夫」と笑っているとき、その言葉をそのまま受け取らず、もう一度だけ声をかけるきっかけになればと思います。


 人を闇へ誘う言葉も、救い出す言葉も、最初はとても小さなものです。


 だからこそ、私たちがどのような言葉を差し出すのかには、意味があるのだと信じています。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


                         朝霧颯

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