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第8章:涙の抱擁

笛が鳴って、試合が終わった。勝った。優勝が決まった。言葉にすると、ただそれだけだ。けれどその「それだけ」の中に、父子の三年が詰まっていた。三年というのは、暦では短い。でも心の中では、長い。息子が学校に行けなかった朝の数。父が台所で湯気を見ていた夜の数。月二回の面会の数。積み上げると、長い。


歓声が押し寄せた。紙吹雪が舞った。知らない人が抱きついてきた。抱きついてきた人の言葉遣いは相変わらず荒い。荒いけれど、今日は荒さが痛くない。荒さが、ただの熱になっている。熱は、孤独を溶かす。


父はその波の中で、まず息子を探した。息子は隣にいるのに、父は探す。探すのは癖だ。失ったものを探し続けた癖が、父の目をそうさせる。


息子は、泣いていた。


静かな涙ではない。肩が震えている。嗚咽が漏れている。溜めていたものが、堤防を越えた。父は一瞬、どうしていいか分からなかった。泣いている息子を前にすると、父の中の“父親としての手順書”が真っ白になる。慰めるべきか、抱きしめるべきか、言葉をかけるべきか。どれも正しくて、どれも間違えそうだ。


けれど父は、ふと気づいた。


息子は、慰められるために泣いているのではない。


泣けたこと自体が、勝利だった。


父は泣いた。泣く理由は一つではない。優勝の喜び。シーズンを走り切った達成感。息子が泣いているという事実。息子の中で感情がまだ死んでいなかったという証拠。そして、父自身が長い間、誰にも見せずに蓋をしていたものが、今日だけは開いていい気がした。


二人は抱き合った。父が子を抱く形ではなく、同じ時間を生きた者同士の抱擁だった。周囲の騒ぎが遠くなる。父は息子の肩の小ささを思った。小さいのに、重い時間を背負っていた。その小さな肩が今、震えている。震えは、感情が動いている証拠だ。


息子は泣きながら、かすれた声で言った。


「……怖かった」


父は、その一言で胸の奥が崩れた。怖かった。勝っているのに怖い。優勝したのに怖い。矛盾しているようで、矛盾ではない。怖いのは、失う可能性があるからだ。好きになったものは、失うと痛い。痛いのが怖い。だから人は、最初から好きにならない。息子はずっとそうしていた。好きにならないことで、自分を守っていた。


でも今、息子は好きになっている。好きになったから怖い。怖いと言えるということは、好きになったことを認めているということだ。父はその怖さを、抱きしめるように受け取った。


父は言った。


「怖いって言えたの、すごいな」


息子は泣きながら、少しだけ笑った。笑い方はぎこちない。でも確かに笑っていた。父はその笑いを見て、三年前からずっと胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ流れ出るのを感じた。


帰り道、車の窓の外に街灯が流れる。息子は以前より前を見ていた。父は運転しながら、何度もバックミラーで息子の顔を確認した。泣いた跡が残っている。その跡が、父には勲章みたいに見えた。傷ではない。戻ってきた証拠だ。


家の近くに着いたとき、息子がぽつりと言った。


「来年も、行く?」


未来の話だった。


父は視界が滲むのをこらえ、うなずいた。


「もちろん」


息子は少し照れたように前を向く。照れるのは、感情だ。照れは、人と繋がっている証拠だ。父はその横顔を見て、ようやく思った。家族の形は壊れた。でも父子の関係は、別の形で作り直せる。時間は戻らない。けれど、前へは進める。


その夜、父は味噌汁を作った。ふたをしなかった。湯気が、まっすぐ立った。それはゴール裏の歌に似ていた。乱暴な言葉も、ぎこちない拍手も、泣き声も、みんな“白いもの”になって上へ昇る。形になった瞬間だけ、父はそれを抱えられる。息子の感情も、きっと同じだ。透明のままでは掴めない。


白くなったときだけ、確かにここにある。

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