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第7章:最終節、勝てば優勝

十月の終わり頃から、父の生活はわずかに“薄い緊張”を含むようになった。緊張は不安と似ているが、不安ほど暗くない。緊張は、光がある場所にしか発生しない。勝てるかもしれない、という光。届くかもしれない、という手触り。そのせいで人は落ち着かなくなる。落ち着かないのに、どこか気分がいい。父はその矛盾に慣れていった。


チームは首位に立ったり、少し順位を落としたりしながら、それでも大崩れはせず、終盤まで踏ん張った。勝ち点差はわずかで、二位が背中に張りついてくる。背中に張りついたものは見えないから怖い。振り返れば視線が合う。視線が合うと余計に怖い。だから人は振り返りたくなくなる。父は「順位表を見ない」ことを何度か試したが、だいたい三日と持たなかった。


息子は、順位表には興味がないふりをした。興味がないふり、というのが重要だ。興味が本当にないなら話題にすらならない。息子は「まだ早い」と言った。父はその「まだ早い」を聞いて、胸が温かくなるのを感じた。息子が“結果”を怖がっている。怖がっているのは、好きになっている証拠だ。好きじゃなければ、結果はただの数字だ。


面会の日は相変わらず試合に合わせた。父はスケジュールを調整するのが上手くなった。上手くなったというより、上手くなるしかなかった。仕事の段取り、家事、体調管理。全部が「息子と試合」に向かって整列していく。整列は強い。強いものは時に怖い。でも父は、その怖さを抱えたまま進む術を覚えつつあった。


終盤、負けられない試合が続くと、スタジアムの空気が変わる。勝って当たり前、という圧が増える。圧は、声をさらに荒くする。ゴール裏の言葉遣いは、普段より短くなる。短い言葉は刃物みたいに尖る。尖った言葉は痛い。でも痛い言葉ほど、集団を一つにする。痛いというのは、つまり“刺さる”ということだ。刺さるから、同じ方向を向ける。


父はその荒さが、息子にとって毒になるのではないかと何度か心配した。息子は感情が戻り始めている。戻り始めているところに、荒い言葉は刺激が強い。刺激が強すぎると、また蓋が閉まるかもしれない。


だが息子は、荒い言葉を“避ける”のではなく、“測る”ようになっていた。測って、受け取るべきものと捨てるべきものを分けているように見えた。父はそれを見て、息子が少し大人になっていることを知る。大人になるというのは、世界を全部受け取らない技術を身につけることでもある。


十一月、決定的な勝利のあと、息子が珍しく帰り道に自分から言った。


「……こういうの、しんどいな」


父はハンドルを握りながら、心の中で小さく頷いた。しんどい。しんどいは本音だ。本音が出るのは、心が動いている証拠だ。父は昔、息子に「しんどい」と言わせたくて仕方がなかった時期がある。学校に行けないとき、息子は「しんどい」とも言わなかった。ただ固まっていた。固まっていると、父は何もできない。父は無力になる。今、息子は「しんどい」と言った。父はその言葉に、救われる。


「しんどいな」


父は同じ言葉を返した。慰めもしない。説教もしない。言葉を重ねるだけ。重ねると、言葉が床になる。床があると、人は立てる。


息子は少し間を置いて、「負けたらやだな」と言った。


父は、その“やだ”がどれだけ尊いかを知っている。やだ、は願いだ。願いがある人だけが未来を持つ。未来を持てるということは、今が少し安全になったということだ。


十二月、最終節が近づく。勝てば優勝。勝てば、という条件がつくのが厄介だ。人間は条件つきの幸福に弱い。条件があると、幸福は目の前にぶら下がった餌になる。餌があると人は走る。走りすぎると息が切れる。


父は最終節の週、普段より眠れなかった。眠れないから疲れる。疲れると心が細くなる。心が細いと、息子の表情の変化に過敏になる。父は自分の過敏さを知っている。知っているのに止められない。父は寝ようと努力するのをやめ、代わりに早起きして散歩した。朝の冷たい空気は、心の細さを少し太くしてくれる。


面会当日。息子を迎えに行くと、息子は普段より口数が少なかった。口数が少ないのはいつもだが、今日はさらに少ない。息子の肩が少し上がっている。肩が上がるのは緊張のサインだ。息子は緊張している。つまり、勝ちたいと思っている。


父は「大丈夫」と言いたくなる。その言葉は簡単だ。でも簡単な言葉は薄い。薄い言葉は、相手の胸に貼りついて、剥がれない。父は息子の胸に余計なものを貼りたくなかった。


「いつも通り行こう」


父はそれだけ言った。いつも通り、という言葉には救いがある。特別な日に特別になりすぎると、人は息ができなくなる。息子はうなずいた。


スタジアムに着くと、空気が重い。重いというのは湿度の話ではない。期待の重さだ。期待が重いと、声がさらに荒くなる。荒い声は、怖さを押し込めるための拳だ。父は拳を振り上げる人たちを見て、「みんな怖いんだな」と思った。怖いから、荒くなる。荒いから、強く見える。強く見えるから、一つになれる。ゴール裏の論理は時々乱暴だが、乱暴だから成立する部分がある。


キックオフ。序盤は硬い。両チームとも慎重で、パスが慎重で、シュートが慎重だ。慎重は安全だが、慎重すぎると何も起きない。何も起きない時間は、人を不安にする。父は心臓が少し速くなるのを感じた。隣を見ると、息子は膝の上で手を握っていた。握った手は白い。白い手は力が入っている証拠だ。


前半、決定機が来る。ボールがゴール前に転がる。誰かがシュートを打つ。相手のキーパーが弾く。弾かれたボールがまた転がる。転がる時間はほんの一秒なのに、父には十秒くらいに感じられた。時間は、怖いと伸びる。


惜しくも入らない。スタジアムが一斉に息を吐いた。息を吐く音は、声より人間らしい。息子も息を吐いた。父はその息を聞いて、胸の奥が少し緩んだ。息を吐ける。つまり、息を止めていない。息を止めないでいられるのは、以前の息子からは想像できなかったことだ。


後半に入る。ゴール裏の声がさらに尖る。尖る声は、勝利を引き寄せようとしている。引き寄せるというより、押し出している。世界は押し出さないと動かないことがある。


そして、ついに。


ゴール。


一瞬、父は音が消えたと思った。消えたのは音ではなく、父の頭の中の雑音だ。雑音が消えると、世界が鮮やかになる。ネットが揺れる。選手が走る。旗が揺れる。人が跳ねる。荒い言葉が、歓喜の形に変わる。


父は叫んだ。叫びは喉ではなく腹の底から出た。腹の底の叫びは、普段は出ない。普段出ないものが出ると、人は少しだけ生き返る。父は生き返りながら、息子を見た。


息子の目に涙が溜まっていた。


泣いていない。溜まっている。溜まっているということは、溢れないようにしているということだ。息子は泣くことすら、まだ怖いのだ。父はその怖さが分かる。泣くと、弱いと見られる。弱いと見られると、壊される。息子は昔、壊された。壊されたから、泣けない。


父は何も言えなかった。言葉が追いつかない。ただ、息子の肩に、自分の肩を軽く当てた。軽く。重くならないように。息子が逃げられるくらいの重さで。


息子は肩を当てられても逃げなかった。逃げないというのは、許すということだ。許すというのは、信じるということだ。父はその瞬間、息子が少しだけ父を信じているのを感じた。感じたというだけで、確証はない。でも確証ばかり求めると、世界はまた四角くなる。父は丸いまま抱えたかった。


試合はそのまま勝ち切った。笛が鳴る。終わり。優勝。勝利の確定。確定した瞬間、人は急に弱くなる。張り詰めていた糸が切れる。糸が切れたときに出てくるのが、本当のものだ。


父はその“本当のもの”が、息子の中から出てくるのを待っていた。

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