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第5章:四つのゴール

キックオフの笛が鳴った瞬間、父は「やっぱり連れて来てよかった」と思い、同時に「早すぎる」とも思った。良かったと決めるのは、まだ早い。早く決めると、その後に起きる小さな後退まで全部「失敗」に見えてしまう。父は最近、成功と失敗を簡単に確定しない癖を身につけた。息子がそうさせたのか、自分がそうなったのかは分からない。


ピッチの上では、選手たちが走り、ぶつかり、転び、立ち上がる。客席では、人の声が揺れる。ゴール裏の言葉は相変わらず荒い。荒い言葉は砂のようで、口に入ればじゃりっとする。でも砂は、足場にもなる。滑りやすい地面の上で、砂があると踏ん張れる。父はそのことを、若い頃は気づかなかった。今なら分かる。上品な言葉だけでは、立っていられない日がある。


息子は黙っていた。黙っているが、消えてはいない。父はその差を見分けようとしていた。消えているとき、息子は窓の外を見る。黙っているけれどここにいるとき、息子はピッチを見る。今、息子の目はピッチを追っている。視線のスピードが、ボールに合わせて変わる。視線が走る。走る視線は、心が走っている証拠だ。


前半、ゴール裏の空気が一段階上がった。理由は単純だ。チャンスが来た。チャンスが来ると、人は未来を見てしまう。未来は、見えないくせに見える顔をする。だから人は信じてしまう。


そして、ゴールが入った。


ブラジル人ストライカーの一撃。ネットが揺れた瞬間、スタンドは地面から少し浮いた。浮いたように感じたのは錯覚だが、錯覚は時に正確だ。身体が先に反応し、理性が後から追いかけてくる。父も跳ねた。声も出た。出た声は自分のものなのに、どこか他人の声みたいに聞こえた。


父は叫びながら、息子を見た。


息子の目が、一瞬だけ丸くなっていた。驚きの目だ。驚きは感情の入口だ。入口が開くと、空気が入る。父はその一瞬の入口を、指で触れたくなるほど愛おしく感じたが、触れなかった。触れたら閉まる。入口は、触れないから開いたままになることがある。


二点目も、同じブラジル人ストライカーだった。


二回目の歓声は、一回目より少しだけ雑になる。雑になるというのは、慣れのせいではない。信頼が生まれるからだ。信頼が生まれると、人は安心して荒くなれる。荒さは、安心の裏返しでもある。


息子は、二点目の瞬間、口元がほんのわずかに緩んだ。笑った、と断言できるほどではない。けれど、緩んだ。父はその“未完成の笑顔”を見てしまい、胸の奥が妙に痛くなった。痛いのは悪いことではない。痛いのは、何かが戻ってきている証拠だ。


前半が終わり、ハーフタイム。父は飲み物を息子に渡した。息子は受け取って飲んだ。受け取る、という行為は小さい。でも小さい行為ほど、関係の温度を表す。息子が何も言わずに受け取る。それは、拒絶の温度ではない。


後半が始まる。空気がさらに張る。勝っているときは、不思議と不安が増える。負けているときの不安は「どうせ」という形で丸められるが、勝っているときの不安は「失う」という形で尖る。父はその尖りを感じた。隣を見ると、息子も肩が少し上がっていた。肩が上がるのは、身体が戦っている証拠だ。息子の身体が、今ここで戦っている。父はそれが嬉しい。


三点目は、日本人ストライカーが決めた。


ゴール裏の荒い言葉が、今度は相手ではなく、味方へ向かう。荒い言葉で背中を叩く。叩き方が乱暴でも、叩く場所は同じだ。叩かれる側は、それを「期待」として受け取る。期待は重い。けれど、期待が重いからこそ人は踏ん張れる。


父は叫んだ。叫びは喉ではなく、腹の底から出た。腹の底にあるものは、普段は出てこない。出てこないものが出てくると、人は少しだけ生き返る。父は、自分が生き返っているのを感じた。生き返るというのは大げさだが、少なくとも、眠っていた部分が起きた。


四点目。


日本人ストライカーがもう一発決めた。


ゴール裏の歌は、誰かの喉ではなく“場所”から立ち上がってくるように聞こえた。透明だったものが、重なると白くなる。


スタジアムは、完全に一つの生き物になった。大きな肺で息を吸い、大きな声で吐く。ゴール裏の荒い言葉が、その呼吸のリズムを作る。言葉は乱暴なのに、リズムは整っている。整っているから、息子も混ざれる。


父は、息子の方を見た。


息子は、最初は周りの熱に“置かれて”いるだけだった。身体はそこにあるのに、心だけが半歩後ろにいるみたいな感じだ。けれどその瞬間、息子の肩がわずかに跳ねた。誰かに押されたわけじゃない。自分の内側から、反射みたいに。


息子は声を出さない。出さないが、両手が動いた。拍手が一拍遅れて、すぐに周囲のリズムと噛み合った。噛み合った途端、息子の指先から余計な力が抜けた。力が抜けるのは、油断のサインだ。油断できる場所だと、身体が判断した。


隣のサポーターが、息子にも同じように喜びを投げてくる。言葉遣いは相変わらず荒い。でも荒いのに温かい。温かい荒さ。矛盾しているが、ゴール裏はだいたい矛盾でできている。荒い言葉の裏に、誰かを一人にしない意図がある。本人たちも自覚していないかもしれない。それでも結果として、孤独が薄くなる。


息子は一瞬だけ、周りの口の形を真似した。声にはならない。ならないが、口が動いた。それは“参加”の最小単位だった。父はそれを見て、胸の奥のどこかがほどけるのを感じた。


試合が終わる。4-0の大勝利。


帰り道、息子は黙っていた。けれど、黙り方が違った。以前の黙り方は、沈んでいく黙り方だった。今の黙り方は、何かを抱えている黙り方だった。抱えているのは言葉かもしれないし、熱かもしれない。どちらでもいい。熱があるなら十分だ。


車を降りる前、息子が小さく言った。


「……すごかった」


父は「そうだな」とだけ返した。本当はもっと言いたかった。「来てくれてありがとう」「嬉しい」「今の拍手、見えた」——でも言葉は、並べると重くなる。重い言葉は、息子の蓋を固くする。父は軽く言うことを選んだ。軽く言うのは、軽く扱うためじゃない。息子が息をできるようにするためだ。


息子がドアを閉めるとき、ほんの一瞬、振り返った。


振り返るという行為には「続き」が含まれている。続きがある人だけが振り返る。父はその一瞬に、息子の中の“続き”を見た気がした。


その夜、父は味噌汁を作った。具は多かった。わざとではない。けれど、多い方がよかった。鍋の中で豆腐が揺れている。父はふたを閉めなかった。湯気が、まっすぐ上がっていった。

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