表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

第2章:崩れた約束

三年前、父はスマホの通知音が嫌いになった。嫌いというより、怖いに近い。音が鳴るたび、世界がちょっと変わる。世界が変わるというのは大げさだが、父にとってはそのくらいの重さがあった。


母のことは、最初は違和感だった。決定的な証拠が降ってくる前に、人は天気の変化みたいなものを感じる。風向きが変わる。洗濯物の乾きが遅い。会話の間が長い。笑い方が、以前と違う。そういう小さな変化が積もって、ある日、通知音と一緒に“確信”が落ちてきた。


父は怒った。傷ついた。けれど、どれも一番ではなかった。いちばん最初に浮かんだのは、息子の顔だった。息子が何を食べて、何を見て、何を聞いているか。父はその瞬間、自分が夫である前に父であることを突きつけられた。


離婚しない、という選択を父はした。三人で同じ家にいた。息子のために、と言えばきれいだが、実際は父自身も怖かったのかもしれない。家族が壊れる音を、息子に聞かせたくなかった。壊れる音は、たぶん一度聞くと耳に残る。父は自分がその音を知っていた。だから息子には知られたくなかった。


ただ、家という場所は不思議だ。人を守る殻にもなるし、人を追い詰める箱にもなる。三人で暮らし続けた家は、いつの間にか後者になっていた。


喧嘩はしない。声を荒げない。怒鳴らない。泣かない。息子の前では“普通”を演じる。父はその努力を誇りにも思った。だが、努力をしていること自体が、息子には伝わってしまう。大人が息を潜めている家は、子どもにとって安全ではない。安全というのは暴力がないという意味だけではない。感情の地雷が埋まっていない場所のことだ。地雷は踏まなければ爆発しない。でも、地雷があると知っているだけで、人は歩けなくなる。


息子は学校に行けなくなった。朝、玄関まで来て、靴を履かない。父が「行こう」と言えば、息子はうなずく。でも体が動かない。父は、息子が怠けているとは思わなかった。息子が怠けられる子なら、もう少し楽だった。息子はまじめだった。まじめだから、動けなかった。


父は理由を探した。いじめか。先生か。勉強か。けれど、どれも答えにならない。答えは、たぶん生活の中に沈殿していた。沈殿は、水面が静かなほど溜まる。静かに保とうとした家ほど、沈殿が増える。皮肉だ。


ある日、父はふと理解してしまう。この家そのものが、息子の足を止めているのだ、と。父と母が同じ屋根の下にいる。それだけで、息子は毎朝、目に見えない地雷原を歩かされる。父はそれを見過ごせなくなった。


卒業を待たず、母を家から出した。父は“正しい判断”をしたいと思った。息子のためだった。言い訳ではなく、本当にそうだった。だが、正しさはいつも代償を伴う。


父には仕事がある。息子と二人で暮らすには、生活が回らない。親権は父にあった。法律上は守れている。しかし生活は守れない。調停で、その矛盾がテーブルの上に並べられた。矛盾は、並べられると余計に痛い。しまっておけば見えないのに、並べると“形”になる。


結局、親権は母に移った。


条件は一つ。「息子を登校できるようにすること」。父はその条件を口にした瞬間、胸が痛んだ。登校できるようにする、という言葉は正しい。でも、正しい言葉は時々、人の心のひだを削る。息子が登校できない理由は“努力不足”ではないのに、条件として言葉にされると、息子が試されているように聞こえる。


サインをするとき、父の手は震えた。ペンは軽い。紙も軽い。なのに、腕が重くなる。親権という言葉は四角い。紙の上で成立する。でも息子の手は丸くて温かい。四角い言葉で丸いものを扱うとき、人はどこかを傷つける。父はその傷が、どこにできたのか分からないまま、サインをした。


その夜、父は風呂場で長く息を吐いた。湯気が曇った鏡の向こうで、自分の顔がよく見えなかった。見えない方がよかったのかもしれない。見えてしまうと、自分が自分に何をしたかがはっきりしてしまう。


離婚後も、小学校卒業までは三人で同じ家に住んでいた期間があった。世間的には奇妙に見えるかもしれない。だが、父にとっては苦い妥協だった。息子の生活を守るための妥協。妥協は“折り合い”ではなく、“我慢の形”だと父は知った。


そして我慢は、いつか限界を迎える。父は耐えきれなくなり、母を追い出した。息子のためだった。自分のためでもあった。父はその二つを分けて考えられなくなっていた。


それからの面会は、月二回になった。父は回数を減らされたとは思わなかった。父は、息子の生活が壊れないように調整されたのだと思った。だが、調整される側の痛みは残る。父はその痛みを、味噌汁の具の多さに預けるようになった。具を多く入れるのは、たぶん、家の中に“余白”を作りたかったからだ。余白があれば、いつか息子が戻ってきたときに、そこに収まるかもしれない。


父が望んだのは、息子が“感じても大丈夫だ”と思える場所を、また作ることだった。泣いてもいい。怒ってもいい。悔しがってもいい。そういうものが外に漏れても、誰も息子を責めない場所。


父はまだ、その場所の作り方を知らなかった。ただ、知らないままでも、歩き出すしかないと分かっていた。人は、知らないまま歩くときにだけ、何かに出会うことがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ