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第1章:空席のある食卓

味噌汁を作ると、父は具の量を間違える。豆腐が、いつも少し多い。わかめも多い。二人分を作る癖が手首に残っているせいだ、と説明してもいいし、説明しないままの方が正確な気もする。癖というのは「合理的な理由があるから残る」のではなく、「残ってしまうから癖」なのだ。


鍋のふたを開けると、湯気が立ちのぼって、台所の明かりを曇らせる。曇った光の中に、父は時々、家族という言葉の輪郭を見ようとしてしまう。見えれば安心するはずなのに、見えたら見えたで胸が痛くなるから、人間は不思議だ。


父は四十五歳。年齢だけ取り出せば、まだ何でもできそうな数字だ。だが、数字が「まだ」と言ってくれるのは体力の話で、心の話になるとそう単純ではない。心は、何かをきっかけに急に老けることがある。父にとってのきっかけは三年前だった。三年前のことを思い出すたび、父はスマホの通知音が少し嫌になる。音そのものが嫌いになったのではない。音が鳴るたびに世界がちょっと変わるという感覚を、あの頃に覚えてしまった。


息子は十三歳。中学一年生。家は近い。車なら十分もかからない。信号の数も覚えている。コンビニも自販機も、むだに多い。つまり「会おうと思えば会える距離」だ。だが、会えることと一緒に暮らせることは別だと、父は知っている。会える距離は、時に残酷だ。遠ければ諦めもつく。近いと、諦める理由を自分で作らなければならない。


面会は月に二回。回数だけなら、増やすことも減らすこともできる。けれど、その二回が父にとってどこに刺さっているかを説明するのは難しい。父にとって面会日は、呼吸孔みたいなものだった。普段は水の中で息を止めていて、その日だけ水面に顔を出す。息子の顔を見ると息ができる。でも息を吸うほど、また水中に戻るのが怖くなる。人間は、息ができると知ってしまうと息を止め続けるのが苦しくなる。


面会の日、父はいつも少し早く家を出る。遅れないため、という理由もあるが、正確には「息子の時間に割り込む音」を小さくしたいからだ。遅れると、その音が大きくなる。息子の表情が少しだけ固くなる。父はそういう変化を見分けられるようになってしまった。見分けられるようになることが、必ずしも幸福とは限らない。


息子は昔から人見知りだった。感情を派手に出すタイプでもなかった。泣くときも静かで、笑うときも控えめ。父はそれを「落ち着いている子」だと思っていた。だが、控えめなのと、何も出てこないのは違う。三年前から、その違いははっきりしてしまった。


離婚のあと、息子の表情は薄くなった。薄いというのは紙の厚みの話ではなく、天気予報の雲量みたいな話だ。晴れでも曇りでも、顔の上の雲が動かない。父が冗談を言っても、息子の口元は揺れない。父が叱っても、息子の眉は動かない。うなずく。返事をする。でも、どこにも波紋が広がらない。まるで、息子の中に投げた石が底まで沈む前に、誰かが水面にふたをしたみたいに。


小五から小六にかけて、息子は学校に行けない日が続いた。玄関まで来る。靴を履く。いや、履かない。履きかけてやめる。玄関の床が粘着質の何かで覆われているみたいに、足が動かない。父は理由を探した。いじめか、先生か、勉強か、体調か。だが本当の理由は、どれか一つではなく、生活の中に沈殿していた。沈殿は見えにくい。見えにくいから、掃除が難しい。


今、息子は中学に入って毎日登校している。母からそう聞いたとき、父は嬉しかった。言葉にすると安っぽくなるくらい嬉しかった。だが、面会で会った息子は、その“頑張り”を報告しない。父も聞けない。頑張りを褒めるのが怖いのだ。褒め言葉は時に「お前は大丈夫」を前提にしてしまう。大丈夫じゃない日々を、父は知っている。息子が大丈夫じゃないとき、父は一緒にいなかった。だから父は、褒め言葉の裏にある前提を信じきれない。


父の家の食卓には、今も空席がある。椅子は片づけていない。片づければ楽になると思った。だが片づけたら「戻ってくる場所が消える」気がした。人は物に気持ちを預ける。椅子はただの椅子だ。でも、椅子に預けた気持ちは、ただの気持ちではなくなる。父はその椅子に、息子がいつでも座れる可能性を置いておきたかった。


面会の前夜、父は必ず冷蔵庫を開けて、牛乳の残量を確認する。息子が来ると、朝にコーンフレークを食べるかもしれない。息子は今も食べるだろうか。わからない。でも、牛乳があると父は安心する。牛乳は、父ができる小さな準備だ。息子の心の準備は、父が用意できない。せめて冷蔵庫の中くらいは準備しておきたい。


面会当日、息子は車に乗り込み、シートベルトを締める。動作が丁寧だ。丁寧というのはきちんとしているというより、無駄がないという意味だ。余計な音がしない。余計な感情も出さない。父は、その“無駄のなさ”が頼もしいと同時に怖い。無駄は、感情の影だ。無駄がないと、影が出ない。


車が走り出す。息子は窓の外を見る。父はハンドルを握る。話しかけるタイミングを探す。話しかけたい。でも、話しかけるほど息子が遠くなることもある。父は“ちょうどよい距離”を探して、いつも見つけられない。見つけられないまま、面会の時間が終わってしまう。


それでも、父は思う。息子の無表情は、感情がないのではなく、感情が溢れないように蓋をしているのだ、と。蓋をしても、湯気は少しずつ漏れる。その漏れを見つけて、父はそれを希望と呼ぶことにした。


湯気は目に見えない。けれど、台所の明かりが少し曇ると、そこにあるとわかる。息子の感情も、たぶんそういうものだ。見えない。けれど、父の世界を少し曇らせる。曇るというのは悪いことばかりではない。曇りは、光がある証拠だ。

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