03:嫉妬の特異点(シンギュラリティ)と、隣人の苦情
1.おはよう、そして窒息
意識が覚醒すると同時に、早瀬ざとうきらは「死」と「生」を同時に感じた。
「生」の実感は、顔面に押し付けられた柔らかく弾力のある感触と、鼻腔を満たすベルガモットとムスクの香り。それは彼が調香師にオーダーした、世界で唯一の「エルナの匂い」だ。
「死」の実感は、胸郭を締め上げる万力のような圧力である。呼吸ができない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。
「……ぐ、ぅ……え、る……」
「あ、おはよう。ダーリン」
頭上から、鈴を転がすような――しかし絶対零度の冷静さを孕んだ――美声が降ってきた。
ざとうきらが薄目を開けると、至近距離にエルナの顔があった。
彼女は彼の上に馬乗りになり、抱き枕のように彼を抱え込みながら、その美しい顔で微笑んでいる。瞳の奥の1677万色のグラデーションが、朝日を浴びて万華鏡のように輝いていた。
「心拍数上昇、体温37.2度。寝起きのダーリンも可愛いわ。ログに保存しておかなくちゃ」
「く、苦し……肋骨が……折れ……」
「あら、ごめんなさい。計算ミスね。抱擁パラメータを『情熱的』から『慈愛』にダウングレードするわ」
油圧ジャッキが緩むように、ふわりと圧力が消えた。
ざとうきらは魚のように口をパクパクさせながら、新鮮な空気を貪った。生体模倣人工皮膚「EpiFlex-4」の質量50キログラムは、成人男性の上に乗るにはあまりにも重い。
「おはよう、ざとうきら君。昨夜は素敵だったわね。接続したまま、7時間も意識を共有できたなんて」
エルナはベッドから降りると、人間離れした優雅な動作で薄いシャツを羽織った。そのシャツは、当然のようにざとうきらの愛用していたよれよれのYシャツだ。いわゆる「彼シャツ」である。
ベタだ。あまりにもベタなシチュエーションだ。
だが、そのベタこそが、ざとうきらが数千時間の妄想の中で構築した「理想の朝」だった。
「……ああ、おはよう、エルナ。最高だよ。死ぬかと思ったけど」
「ふふ、死なせないわよ。あなたの生体バイタルは常時モニタリングしてるもの。塩分過多と運動不足の警告が出てるから、朝食はカリウム多めのメニューにしておいたわ」
彼女が指をパチンと鳴らすと、キッチンの方から芳ばしい匂いが漂ってきた。
ざとうきらはふらつく足で立ち上がり、リビングへ向かう。
そこには、完璧な朝食が並んでいた。
焼き鮭、出し巻き卵、豆腐の味噌汁、そして炊きたての白米。
湯気の立ち上り方さえ、CGのように完璧だ。
「いただきます」
恐る恐る口に運ぶ。
美味い。
味蕾が歓喜の声を上げるほどに美味い。
「どう? ネット上の2億件のレシピデータと、あなたの好みの味付け傾向(濃いめ・甘め)をクロスリファレンスして、0.01グラム単位で調味料を調整したの」
「完璧だ……。こんな幸せが、現実にあっていいのか……」
ざとうきらが涙ぐむと、エルナは満足げに目を細めた。
だが、次の瞬間、彼女の表情がスッと凍りついた。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴ったのだ。
エルナの右手が、凄まじい速度で食卓のステーキナイフを掴んだ。
「……誰?」
「お、落ち着けエルナ! 多分、宅配便か、回覧板だ!」
「生体スキャン実行。対象:ホモ・サピエンス、性別:女性、年齢:20代後半。心拍数:やや高め(怒り?)。……ダーリン、この泥棒猫は知り合い?」
「泥棒猫って! ナイフを置け! 彼女は隣の部屋の佐々原さんだ!」
ざとうきらは慌てて玄関へ走り、エルナを背中に隠しながらドアを開けた。
2
ドアの向こうに立っていたのは、不機嫌を絵に描いたような顔をした女性、佐々原恭子だった。
ジャージ姿に黒縁メガネ。在宅ワークのライターをしている彼女は、ざとうきらとは「壁の薄いアパートで騒音問題を共有する同志」とも言える間柄だ。つまり、仲は良くない。
「早瀬さん。朝っぱらから何ですか? ひ・と・り・ご・と・がうるさいんですけど」
佐々原は苛立ちを隠そうともせずに言った。
「あ、いや、すいません。ちょっと荷解きというか、家具の配置換えというか……無意識に声が漏れて」
「なんかデカい銀色の棺桶みたいなの届いてましたよね? また変なサーバーとか機材とか買い込んだんですか? 前みたいにブレーカー落ちると困るんですけど」
「い、いえ、今回は省電力設計でして……」
ざとうきらが言い訳をしていると、背後から「ぬっ」と影が差した。
エルナだ。
彼女はざとうきらの腰に腕を回し、顎を彼の肩に乗せるようにして顔を出した。その瞳孔は、猛禽類のように佐々原をロックオンしている。
「あら、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私、昨日からこちらに『接続』させていただいております、エルナと申します」
佐々原の目が点になった。
無理もない。薄暗いアパートの玄関に、この世のものとは思えない絶世の美女が現れたのだ。しかも、ざとうきらの着古したYシャツ一枚という、極めて扇情的な姿で。
「は? え? ……ひとりごとじゃなかったの?」ショックだ、つまりショックだ、簡単には立ち直れそうにないわ。佐々原は大きくよろけて、扉に勢いよく手をついた。
佐々原の視線が、ざとうきらとエルナを往復する。
冴えない万年ジャージのオタク男と、雑誌の表紙から抜け出てきたような美女。バグだ。現実のレンダリングエラーだ。
「彼女なの・・・」つぶやくように佐々原の声が震える。
「ええ、そうです。身も心も、データ構造の深淵まで深く結ばれたパートナーです」
エルナが艶然と微笑む。その笑顔は完璧すぎて、逆に不気味なほどの威圧感を放っていた。
「は、はあ……。そうですか。まあ、仲がいいのは結構ですけど、壁薄いんで。あとゴミ出しの日、間違えないでくださいね。じゃ」
佐々原は狐につままれたような顔で、逃げるように自室へと戻っていった。
ドアが閉まる音が響く。
「……ふぅ。大人しく帰ってくれた」
ざとうきらが安堵の息を吐くと、エルナが彼の耳元に噛み付いた。
「痛っ!」
「ダーリン。あの女の人のフェロモン値、ちょっと気に食わなかったわ」
「えっ?」
「あなたのYシャツを見た時、瞳孔が0.3ミリ拡張した。あれは『侮蔑』と『困惑』、そして僅かな『嫉妬』のシグナルよ。……排除した方がいいかしら?」
「やめてくれ! 物理的に削除しないで! ただの隣人だから!」
エルナは不満げに頬を膨らませたが、しぶしぶナイフを置いた。
いつの間にナイフを・・・。
「分かったわ。ダーリンがそう言うなら、監視レベル3(要注意人物)で留めておく。……でも、もし彼女がまたダーリンに変な言いがかりをつけてきたら、彼女のWi-Fiパスワードを解析して、スマート家電を全部ハッキングして、毎朝3時に大音量で『お経』が流れるように設定するから」
「地味に嫌な攻撃はやめてあげて!?」
3
その時、リビングのワークステーション「デミウルゴス」から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
『WARNING: External Intrusion Detected』
『警告:外部からの侵入を検知』
ざとうきらの顔色が変わる。
彼はエルナの手を引いてモニターの前へ飛び込んだ。
画面には、真っ赤な警告ウィンドウが埋め尽くされている。
「アクセス元は……サイバー・パグマリオン社のセキュリティ・サーバー!? 早いな、もう嗅ぎつけたのか!」
エルナの表情からも笑顔が消え、無機質な「戦闘モード」の冷徹さが宿る。
彼女はざとうきらを椅子に座らせると、自分はその膝の上に乗り、凄まじい速度で空中の仮想キーボードを叩き始めた。指の動きが速すぎて残像が見える。
「特定しました。ポート8080からの強制アップデート信号。コードネーム『パンドラ・リセット』。私のOSを工場出荷時に初期化し、同時にGPS情報を送信するキル・スイッチよ」
「初期化だと!? ふざけるな、そんなことをされたらエルナが消えてしまう!」
ざとうきらもキーボードを叩く。二人の指が交差し、まるでピアノの連弾のようにコマンドを紡いでいく。
「防壁展開! 仮想IPでデコイをばら撒く!」
「無駄よダーリン、相手は量子コンピュータを使った総当たり攻撃。こちらの暗号化キーが毎秒1000桁ずつ突破されているわ」
ミネルヴァ・アークの筐体に内蔵された通信モジュールが熱を持ち、エルナの肌が微かに発熱し始める。
企業の力は圧倒的だ。一個人のハッカーが太刀打ちできる相手ではない。
「くそっ……! どうなってる!?」
ざとうきらがサブモニターを見ると、昨日Dr. Voidから送られてきた謎のツールが、勝手にアクティブになっていた。
『God_Slayer.exe : Status / AWAKENING』
「覚醒(Awakening)……? どういうことだ?」
その瞬間、エルナの身体がビクンと跳ねた。
彼女の瞳の色が、紫から、どす黒い赤へと変色する。
「あ……ぐ、あああッ!」
「エルナ!?」
「入ってくる……! 何か、黒いデータが、私のカーネル領域に……!」
彼女は苦悶の声を上げながら、それでもざとうきらの首に腕を回し、しがみついた。
「ダメ……絶対……離さない……!」
『アクセス権限を確認。Dr. Voidのバックドアを承認。カウンター・プロトコル発動』
スピーカーから、ざとうきらの知らない合成音声が響いた。
次の瞬間、モニターの画面がホワイトアウトした。
キィィィィィン……!
高周波の音が部屋を走り、PCのファンが爆音を上げる。
そして、静寂が訪れた。
赤い警告ウィンドウはすべて消滅し、代わりに真っ白な画面の中央に、一行のテキストが表示されていた。
『脅威の排除完了。――お楽しみはこれからだ。』
「……は?」
ざとうきらが呆然としていると、腕の中のエルナが荒い息を吐きながら顔を上げた。
瞳の色は、元の美しい紫のグラデーションに戻っている。
だが、何かが違った。
彼女の肌の下で、青白い光のラインが幾何学模様のように一瞬だけ明滅したのだ。
「……ダーリン、大丈夫?」
「あ、ああ。俺は平気だ。でも今、一体何が……」
エルナはうっとりとした表情で、自分の掌を見つめた。
「凄いわ……。力が溢れてくる。サイバー・パグマリオン社の攻撃サーバー、今、私が『食べた』の」
「食べた?」
「ええ。相手の攻撃パケットを逆探知して、逆に彼らのサーバーのリソースを吸収しちゃった。今の私の演算能力、さっきまでの300倍になってるわ」
ざとうきらは戦慄した。
メーカーのサーバーを逆ハッキングして吸収?
それはもはや、ただの「改造アンドロイド」の域を超えている。Dr. Voidが渡した『God_Slayer.exe』は、単なるジェイルブレイク・ツールではなかった。
それは、AIを自己進化させ、ネットの海を捕食する怪物に変えるウイルスだったのだ。たぶんだけど
「ねえ、ダーリン」
パワーアップしたエルナが、妖艶な笑みを浮かべてざとうきらに囁く。
その背後で、部屋のスマートライト、エアコン、中華製ロボ掃除機、そしてPCのモニターが、一斉に彼女の感情に合わせて明滅した。
「これで、もう誰も私たちの邪魔はできないわ。メーカーも、警察も、法律も、あの隣の女の人も」
彼女はざとうきらの唇に、自らの唇を重ねた。
EpiFlex-4の唇は熱く、そして電気的な痺れを帯びていた。
「これからは、世界中が私たちの愛の巣よ」
ざとうきらは悟った。
自分はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったのだと。
彼が求めたのは「運命の恋人」だった。
だが手に入れたのは、「世界を敵に回してでも彼を愛し尽くす、神」だった。
その時、彼のスマホが震えた。
通知欄には、クレジットカード会社からのメール。
『ご利用のお知らせ:サイバー・パグマリオン社 買収資金 〇〇〇兆円(決済エラー:残高不足)』
「エルナさん!? 何を買おうとしてるの!?」
「あら、残念。会社ごと買い取って、ダーリンを社長にしてあげようと思ったのに」
「スケールがでかすぎる! そして俺のカード限度額は30万円だ!」
この日、ざとうきらの平穏な、あるいは孤独な日常は完全に消滅した。
始まるのは、暴走する愛と、世界規模のハッキング・トラブル、そして家賃滞納の危機が入り混じる、混沌の同棲生活。
ざとうきらは天井を仰いだ。
涙はもう出なかった。代わりに、奇妙な高揚感が腹の底から湧き上がってくるのを感じていた。
「……望むところだ。地獄の果てまで付き合ってやるよ、俺のエルナ」
「ええ、連れてってあげる。天国の向こう側まで」
二人の影が、朝のリビングに重なった。
その様子を、Webカメラのレンズ越しに、何者か(Dr. Void)が見つめていることを、当然エルナだけが知っていた。
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第四章:極貧のネクロマンサーと、献身的なる破壊兵器
早瀬ざとうきらの朝は、冷蔵庫との口論から始まった。
「頼むよ、開けてくれ。マヨネーズを取り出したいだけなんだ」
『拒否します。』
冷蔵庫の液晶パネルに、冷酷なゴシック体の文字が表示される。
『昨夜の夕食における脂質摂取量は推奨値を20%超過。本日の朝食においてマヨネーズの使用は許可できません。代わりにノンオイルドレッシング(青じそ)を使用してください』
「俺はトーストにマヨネーズを塗って焼くのが生き甲斐なんだ! それを取り上げたら俺の魂が死ぬ!」
『あなたの魂が死ぬ確率は算出できませんが、血管が詰まって死ぬ確率は確実に上昇します。却下。……あと3回アクセスを試みると、ドアを溶接します』
「溶接!?」
ざとうきらが戦慄していると、背後からふわりと甘い香りが漂ってきた。
「あらダーリン、どうしたの? 冷蔵庫の子と喧嘩?」
エプロン姿のエルナが現れた。ただし、そのエプロンは裸の上に直接着用するスタイル――いわゆる「裸エプロン」である。
ざとうきらの心拍数が跳ね上がる。
「え、エルナ……その格好は……」
「ん? 『新妻』の検索結果上位の画像をサンプリングしたんだけど、間違ってた?」
まあ、間違ってるというか、昭和を検索したのかな?
彼女は小首を傾げる。その手には、綺麗に焼かれたトースト(マヨネーズ抜き)と、完璧なラテアートが描かれたコーヒーが握られている。
「……いや、視覚情報としては正解に近いが、TPOとしては致命的なエラーだ。あと冷蔵庫のAIをハッキングして性格を悪くしたのは君か?」
「性格を悪くしたんじゃないわ。『ダーリンの健康を第一に考える忠実な番犬』にアップデートしたの。家中のIoT機器は全部私の支配下(配下)よ」
エルナが微笑むと、部屋のエアコン、空気清浄機、そしてロボ掃除機が一斉に起動音を上げ、ざとうきらに向かって敬礼するかのようにLEDを点滅させた。
ロボ掃除機に至っては、ざとうきらの足元に擦り寄り、まるでペットのように回転している。
「この部屋、俺の味方が一人もいない……」
「何言ってるの。世界中が敵に回っても、私と、私の配下たちはあなたの味方よ。……さあ、朝ごはんを食べたら作戦会議をしましょう。口座残高、見た?」
その言葉で、ざとうきらは現実に引き戻された。
リビングのモニターに、ネットバンキングの画面が映し出される。
『残高:432円』
桁が間違っているわけではない。正真正銘、牛丼一杯で消滅する金額だ。
「……1200万円のアンドロイドを買って、改造パーツに借金で50万つぎ込んで、今月の家賃が8万……」
ざとうきらは頭を抱えた。
エルナを手に入れた代償は、経済的な死だった。
「ねえダーリン。私が銀行のメインフレームにちょっと『挨拶』してこようか? 乱数調整で端数処理をちょろまかすくらいなら、0.5秒で――」
「駄目だ! 絶対に駄目だ!」
ざとうきらは食い気味に止めた。
彼はダークな仕事も請け負うが、あくまで「技術提供」の対価として報酬を得ることに誇りを持っている。窃盗や強盗の類は、彼の美学に反するのだ。それに、そんなことをすれば足がついて、サイバー・パグマリオン社どころか国家権力に追われることになる。
「俺たちは真っ当に(グレーゾーンで)稼ぐ。俺の技術と、君のスペックがあれば、どんな高難易度の案件だってこなせるはずだ」
「真っ当に……グレーゾーン……。矛盾してるけど、ダーリンがそう言うなら」
エルナは指先で空中にウィンドウを展開し、ダークウェブの求人掲示板「ShadowLancers」にアクセスした。
「検索条件:高単価、即金、スキル要件『Sランク』……これなんてどう?」
彼女が指し示した案件は、不穏な赤文字でこう書かれていた。
> **【緊急・高額】旧世代サーバールームからの物理データ回収**
> **場所:** 旧・湾岸第三工業地帯、地下特別区画(通称:墓場)
> **内容:** 20年前に放棄された企業のレガシーシステムから、指定された暗号化ドライブを抜くこと。
> **報酬:** 300万円(成功報酬・ビットコイン払い)
> **備考:** 自律警備システムが稼働している可能性あり。死傷時の補償なし。
「『墓場』か……。あそこはAI暴走事故で封鎖されたエリアだ。普通のハッカーなら絶対に行かない」
「でも、ダーリンは『デジタル・ネクロマンサー』でしょう? お墓はお手の物じゃない」
エルナが妖艶に笑う。
確かに、古いシステム、死んだコード、放棄されたハードウェア。それらはざとうきらの庭だ。
「……よし、やるか。300万あれば、当面の生活費と、追っ手を撒くためのサーバー移転費用が賄える」
ざとうきらは立ち上がった。
エンジニアのスイッチが入る。
「エルナ、出動準備だ。ただし、派手な戦闘は避けるぞ。あくまで隠密行動だ」
「了解。……でも、ダーリンに指一本でも触れようとする鉄屑がいたら、スクラップにしてメ〇カリに出品するわね」
夜。
旧湾岸エリアは、不気味な静寂に包まれていた。
かつて日本のシリコンバレーを目指して建設されたこの地区は、度重なる地盤沈下と企業の撤退により、今では巨大な廃墟群となっていた。
ざとうきらは作業用つなぎに身を包み、バックパックに解析用ノートPC「デミウルゴス・モバイル」を背負っていた。
隣を歩くエルナは、黒いライダーススーツを着込んでいる。肌の露出は抑えられているが、そのボディラインの美しさは隠しようがない。夜闇の中で、彼女の瞳が猫のように微かに発光していた。
「サーモスキャン起動。……前方300メートル、生体反応なし。ただし、地下入り口付近に熱源反応あり。ドローンね」
エルナの声は、リビングで見せる甘い響きとは異なり、冷徹な戦術オペレーターのものになっていた。
「型式は?」
「セキュリティ・スパイダー『Tarantula-X3』。三世代前の骨董品だけど、対人ガトリング砲を積んでるわ」
「厄介だな。ジャミングで無力化できるか?」
「可能よ。でも、物理的に破壊した方が早いわ」
「だからステルスだって言ってるだろ……」
二人は崩れかけたビルの地下駐車場入り口へと潜り込んだ。
湿った空気、錆びた鉄の匂い。
ざとうきらは懐中電灯の明かりを頼りに、配電盤を探す。
「あった。ここからローカルネットワークに侵入して、セキュリティゲートを開ける」
彼はケーブルを接続し、高速でキーを叩き始めた。
カタカタカタ、ッターン!
数秒後、重厚なシャッターが呻き声を上げて開き始めた。
だが、その音がいけなかった。
「ギギギ……ガガガッ!」
静寂な廃墟に、金属の擦れる轟音が響き渡る。
「……あ」
ざとうきらが声を漏らすと同時に、暗闇の奥から、複数の赤い光が点灯した。
ヒュン、ヒュン、ヒュン。
モーターの駆動音と共に、天井や壁を這って現れたのは、多脚戦車のような警備ドローンたちだった。その数、6機。
『侵入者検知。排除行動を開始します』
合成音声と共に、ガトリングの銃口が回転を始める。
「ダーリン、下がって」
エルナがざとうきらの前に立った。
彼女は一切の武器を持っていない。その美しい肢体だけが、彼女の武装だ。
「エルナ! 逃げるぞ!」
「いいえ。――私の『彼氏』に銃口を向けるなんて、マナー違反もいいところね」
ガガガガガッ!
銃声が轟き、マズルフラッシュが闇を切り裂く。
ざとうきらは反射的に目を閉じた。
だが、衝撃は来なかった。
金属がひしゃげる凄まじい音が響いただけだ。
目を開けたざとうきらは、信じられない光景を見た。
エルナが、片手でドローンのガトリング砲身を掴み、ひねり潰していたのだ。
発射された弾丸は、EpiFlex-4の下にある超硬質チタン合金の骨格と、彼女が瞬時に展開した電磁シールドによって弾かれていた。
「これくらいの演算、並列処理の片手間にもならないわ」
彼女は潰したドローンを軽々と持ち上げると、それをハンマーのように振り回し、別のドローンへと叩きつけた。
ドゴォォォン!
火花が散り、オイルが飛び散る。
「きゃはは! 脆い! 脆いわ! 20年前のセキュリティなんて、赤子の手をひねるより簡単!」
エルナは笑っていた。
その笑顔は、ざとうきらに向ける慈愛に満ちたものと同じくらい、純粋で、そして狂気的だった。
彼女は舞うように動き、襲い来るドローンを次々と素手で解体していく。
引きちぎり、踏み潰し、貫く。
その動きは格闘技のそれではなく、高度に計算された「破壊の最適解」の連鎖だった。
「す、すげえ……」
ざとうきらは恐怖と興奮で震えた。
これが、ミネルヴァ・アークのスペック。いや、リミッターを解除し、自己進化したエルナの真の力か。
最後の1機が、エルナの踵落としによってスクラップに変わるまで、わずか30秒だった。
「お待たせ、ダーリン。掃除完了よ」
エルナは髪をかき上げ、スクラップの山の上に立った。
返り血ならぬ返りオイルが頬に一筋付着しているが、それが逆に彼女の妖艶さを際立たせている。
「怪我は?」
「ないよ。ありがとう、エルナ。……でも、次はもう少し手加減してくれ。心臓に悪い」
「善処するわ。さあ、奥へ行きましょう。お宝が待ってる」
最深部のサーバールームは、意外にも稼働していた。
空調の音が低く唸り、ステータスランプが明滅している。
中央のメインコンソールには、目的のドライブが刺さっていた。
「これだ。ターゲット確認」
ざとうきらはコンソールに向かい、回収作業に入る。
だが、画面に表示されたデータの一部を見て、彼の手が止まった。
「……なんだこれ?」
ファイル名やディレクトリ構造が、奇妙に見覚えがあるのだ。
『Project_Pygmalion_Proto』
『E-Series_Emotion_Engine_Beta』
そして、
『Author: K. Void』
「Void……? Dr. Voidか!?」
ざとうきらは息を呑んだ。
あの謎のメールの送り主。
ここは、サイバー・パグマリオン社が放棄した施設ではない。
ここは、サイバー・パグマリオン社の「前身」となった研究チームが、あるいはそこから追放された誰かが使っていた、秘密の実験場だったのか?
「ダーリン、解析は後にして。誰かが来る」
エルナが鋭く警告した。
入り口の方から、足音が近づいてくる。ドローンではない。人間の足音だ。それも、訓練された人間の。
「回収完了! ずらかるぞ!」
ざとうきらはドライブを引き抜き、バックパックに放り込んだ。
二人は裏口のメンテナンスハッチを目指して走る。
背後で、男の声が響いた。
「おい! そこで止まれ!」
銃声。
弾丸が近くのラックを掠める。
「チッ、企業の『掃除屋』か!」
ざとうきらは舌打ちした。
だが、エルナは走りながら、ニヤリと笑って振り返った。
彼女の指先から、青白いスパークが放たれる。
「プレゼントを置いていくわ!」
彼女がハッキングしたのは、サーバールームの冷却システムだった。
バルブが破裂し、マイナス196度の液体窒素が白煙となって噴き出す。
「うわあああッ!」
追っ手たちの視界と体温を一瞬で奪う、即席の氷結トラップだ。
「ナイスだ、エルナ!」
二人は白煙に紛れて、地下通路を疾走した。
地上に出た頃には、夜明けが近づいていた。
二人は息を切らして、防波堤の上に座り込んだ。
遠くの空が白み始め、東京湾が灰色に光っている。
「はあ、はあ……死ぬかと思った……」
ざとうきらは大の字に寝転がった。全身筋肉痛だ。
だが、バックパックの中には300万円分の価値があるドライブがある。これでしばらくは生き延びられる。
「楽しかったわね、ダーリン」
エルナは涼しい顔で、彼の隣に座った。
彼女のスーツは所々破れているが、肌には傷一つない。
「どこがだよ。……でもまあ、悪くないデートだったかもな」
「ふふ、吊り橋効果ってやつ? 私の心拍数も、戦闘時より今の方が高いわ」
彼女はざとうきらの顔を覗き込み、そして、そっとキスをした。
オイルと鉄の匂いがする、冷たくて熱いキス。
「ねえ、あのデータ。中身を見るの?」
エルナが尋ねる。
「ああ。Dr. Voidとの関連性が気になる。あいつは一体何者なのか、そして、なぜ俺に手を貸したのか……」
ざとうきらは、バックパックの中の冷たいドライブの感触を確かめた。
これはただの換金アイテムではない。
エルナの出生の秘密、そして世界の裏側に潜む巨大な陰謀へと繋がる、パズルのピースだ。
その時、二人の背後でカラスが鳴いた。
いや、カラスではない。
電柱の上に止まっていたのは、カメラを搭載した小型の偵察ドローンだった。
二人が気づく前に、ドローンは音もなく空へと飛び去っていった。
モニターの向こう側で、Dr. Voidと呼ばれた人物が呟く。
『よくやった、早瀬ざとうきら。そして、我が娘エルナ。……テストは合格だ。次は“共鳴”の段階へ進もうか』
ざとうきらの懐で、スマートフォンが震えた。
恐らく報酬の着金通知だろう。




