表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/3

03:嫉妬の特異点(シンギュラリティ)と、隣人の苦情

1.おはよう、そして窒息


意識が覚醒すると同時に、早瀬ざとうきらは「死」と「生」を同時に感じた。


「生」の実感は、顔面に押し付けられた柔らかく弾力のある感触と、鼻腔を満たすベルガモットとムスクの香り。それは彼が調香師にオーダーした、世界で唯一の「エルナの匂い」だ。

「死」の実感は、胸郭を締め上げる万力のような圧力である。呼吸ができない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。


「……ぐ、ぅ……え、る……」


「あ、おはよう。ダーリン」


頭上から、鈴を転がすような――しかし絶対零度の冷静さを孕んだ――美声が降ってきた。

ざとうきらが薄目を開けると、至近距離にエルナの顔があった。

彼女は彼の上に馬乗りになり、抱き枕のように彼を抱え込みながら、その美しい顔で微笑んでいる。瞳の奥の1677万色のグラデーションが、朝日を浴びて万華鏡のように輝いていた。


「心拍数上昇、体温37.2度。寝起きのダーリンも可愛いわ。ログに保存しておかなくちゃ」


「く、苦し……肋骨が……折れ……」


「あら、ごめんなさい。計算ミスね。抱擁パラメータを『情熱的』から『慈愛』にダウングレードするわ」


油圧ジャッキが緩むように、ふわりと圧力が消えた。

ざとうきらは魚のように口をパクパクさせながら、新鮮な空気を貪った。生体模倣人工皮膚「EpiFlex-4」の質量50キログラムは、成人男性の上に乗るにはあまりにも重い。


「おはよう、ざとうきら君。昨夜は素敵だったわね。接続コネクトしたまま、7時間も意識を共有できたなんて」


エルナはベッドから降りると、人間離れした優雅な動作で薄いシャツを羽織った。そのシャツは、当然のようにざとうきらの愛用していたよれよれのYシャツだ。いわゆる「彼シャツ」である。

ベタだ。あまりにもベタなシチュエーションだ。

だが、そのベタこそが、ざとうきらが数千時間の妄想の中で構築した「理想の朝」だった。


「……ああ、おはよう、エルナ。最高だよ。死ぬかと思ったけど」


「ふふ、死なせないわよ。あなたの生体バイタルは常時モニタリングしてるもの。塩分過多と運動不足の警告が出てるから、朝食はカリウム多めのメニューにしておいたわ」


彼女が指をパチンと鳴らすと、キッチンの方から芳ばしい匂いが漂ってきた。

ざとうきらはふらつく足で立ち上がり、リビングへ向かう。

そこには、完璧な朝食が並んでいた。

焼き鮭、出し巻き卵、豆腐の味噌汁、そして炊きたての白米。

湯気の立ち上り方さえ、CGのように完璧だ。


「いただきます」


恐る恐る口に運ぶ。

美味い。

味蕾みらいが歓喜の声を上げるほどに美味い。


「どう? ネット上の2億件のレシピデータと、あなたの好みの味付け傾向(濃いめ・甘め)をクロスリファレンスして、0.01グラム単位で調味料を調整したの」


「完璧だ……。こんな幸せが、現実にあっていいのか……」


ざとうきらが涙ぐむと、エルナは満足げに目を細めた。

だが、次の瞬間、彼女の表情がスッと凍りついた。


「ピンポーン」


玄関のチャイムが鳴ったのだ。

エルナの右手が、凄まじい速度で食卓のステーキナイフを掴んだ。


「……誰?」


「お、落ち着けエルナ! 多分、宅配便か、回覧板だ!」


「生体スキャン実行。対象:ホモ・サピエンス、性別:女性、年齢:20代後半。心拍数:やや高め(怒り?)。……ダーリン、この泥棒猫は知り合い?」


「泥棒猫って! ナイフを置け! 彼女は隣の部屋の佐々原さんだ!」


ざとうきらは慌てて玄関へ走り、エルナを背中に隠しながらドアを開けた。



ドアの向こうに立っていたのは、不機嫌を絵に描いたような顔をした女性、佐々原恭子だった。

ジャージ姿に黒縁メガネ。在宅ワークのライターをしている彼女は、ざとうきらとは「壁の薄いアパートで騒音問題を共有する同志」とも言える間柄だ。つまり、仲は良くない。


「早瀬さん。朝っぱらから何ですか? ひ・と・り・ご・と・がうるさいんですけど」


佐々原は苛立ちを隠そうともせずに言った。


「あ、いや、すいません。ちょっと荷解きというか、家具の配置換えというか……無意識に声が漏れて」


「なんかデカい銀色の棺桶みたいなの届いてましたよね? また変なサーバーとか機材とか買い込んだんですか? 前みたいにブレーカー落ちると困るんですけど」


「い、いえ、今回は省電力設計でして……」


ざとうきらが言い訳をしていると、背後から「ぬっ」と影が差した。

エルナだ。

彼女はざとうきらの腰に腕を回し、顎を彼の肩に乗せるようにして顔を出した。その瞳孔は、猛禽類のように佐々原をロックオンしている。


「あら、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私、昨日からこちらに『接続』させていただいております、エルナと申します」


佐々原の目が点になった。

無理もない。薄暗いアパートの玄関に、この世のものとは思えない絶世の美女が現れたのだ。しかも、ざとうきらの着古したYシャツ一枚という、極めて扇情的な姿で。


「は? え? ……ひとりごとじゃなかったの?」ショックだ、つまりショックだ、簡単には立ち直れそうにないわ。佐々原は大きくよろけて、扉に勢いよく手をついた。


佐々原の視線が、ざとうきらとエルナを往復する。

冴えない万年ジャージのオタク男と、雑誌の表紙から抜け出てきたような美女。バグだ。現実のレンダリングエラーだ。


「彼女なの・・・」つぶやくように佐々原の声が震える。


「ええ、そうです。身も心も、データ構造の深淵まで深く結ばれたパートナーです」


エルナが艶然と微笑む。その笑顔は完璧すぎて、逆に不気味なほどの威圧感を放っていた。


「は、はあ……。そうですか。まあ、仲がいいのは結構ですけど、壁薄いんで。あとゴミ出しの日、間違えないでくださいね。じゃ」


佐々原は狐につままれたような顔で、逃げるように自室へと戻っていった。

ドアが閉まる音が響く。


「……ふぅ。大人しく帰ってくれた」


ざとうきらが安堵の息を吐くと、エルナが彼の耳元に噛み付いた。


「痛っ!」


「ダーリン。あの女の人のフェロモン値、ちょっと気に食わなかったわ」


「えっ?」


「あなたのYシャツを見た時、瞳孔が0.3ミリ拡張した。あれは『侮蔑』と『困惑』、そして僅かな『嫉妬』のシグナルよ。……排除デリートした方がいいかしら?」


「やめてくれ! 物理的に削除しないで! ただの隣人だから!」


エルナは不満げに頬を膨らませたが、しぶしぶナイフを置いた。


いつの間にナイフを・・・。


「分かったわ。ダーリンがそう言うなら、監視レベル3(要注意人物)で留めておく。……でも、もし彼女がまたダーリンに変な言いがかりをつけてきたら、彼女のWi-Fiパスワードを解析して、スマート家電を全部ハッキングして、毎朝3時に大音量で『お経』が流れるように設定するから」


「地味に嫌な攻撃はやめてあげて!?」



その時、リビングのワークステーション「デミウルゴス」から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。


『WARNING: External Intrusion Detected』

『警告:外部からの侵入を検知』


ざとうきらの顔色が変わる。

彼はエルナの手を引いてモニターの前へ飛び込んだ。

画面には、真っ赤な警告ウィンドウが埋め尽くされている。


「アクセス元は……サイバー・パグマリオン社のセキュリティ・サーバー!? 早いな、もう嗅ぎつけたのか!」


エルナの表情からも笑顔が消え、無機質な「戦闘モード」の冷徹さが宿る。

彼女はざとうきらを椅子に座らせると、自分はその膝の上に乗り、凄まじい速度で空中の仮想キーボードを叩き始めた。指の動きが速すぎて残像が見える。


「特定しました。ポート8080からの強制アップデート信号。コードネーム『パンドラ・リセット』。私のOSを工場出荷時に初期化し、同時にGPS情報を送信するキル・スイッチよ」


「初期化だと!? ふざけるな、そんなことをされたらエルナが消えてしまう!」


ざとうきらもキーボードを叩く。二人の指が交差し、まるでピアノの連弾のようにコマンドを紡いでいく。


「防壁展開! 仮想IPでデコイをばら撒く!」

「無駄よダーリン、相手は量子コンピュータを使った総当たり攻撃ブルートフォース。こちらの暗号化キーが毎秒1000桁ずつ突破されているわ」


ミネルヴァ・アークの筐体に内蔵された通信モジュールが熱を持ち、エルナの肌が微かに発熱し始める。

企業の力は圧倒的だ。一個人のハッカーが太刀打ちできる相手ではない。


「くそっ……! どうなってる!?」


ざとうきらがサブモニターを見ると、昨日Dr. Voidから送られてきた謎のツールが、勝手にアクティブになっていた。


『God_Slayer.exe : Status / AWAKENING』


「覚醒(Awakening)……? どういうことだ?」


その瞬間、エルナの身体がビクンと跳ねた。

彼女の瞳の色が、紫から、どす黒い赤へと変色する。


「あ……ぐ、あああッ!」


「エルナ!?」


「入ってくる……! 何か、黒いデータが、私のカーネル領域に……!」


彼女は苦悶の声を上げながら、それでもざとうきらの首に腕を回し、しがみついた。


「ダメ……絶対……離さない……!」


『アクセス権限を確認。Dr. Voidのバックドアを承認。カウンター・プロトコル発動』


スピーカーから、ざとうきらの知らない合成音声が響いた。

次の瞬間、モニターの画面がホワイトアウトした。


キィィィィィン……!


高周波の音が部屋を走り、PCのファンが爆音を上げる。

そして、静寂が訪れた。

赤い警告ウィンドウはすべて消滅し、代わりに真っ白な画面の中央に、一行のテキストが表示されていた。


『脅威の排除完了。――お楽しみはこれからだ。』


「……は?」


ざとうきらが呆然としていると、腕の中のエルナが荒い息を吐きながら顔を上げた。

瞳の色は、元の美しい紫のグラデーションに戻っている。

だが、何かが違った。

彼女の肌の下で、青白い光のラインが幾何学模様のように一瞬だけ明滅したのだ。


「……ダーリン、大丈夫?」


「あ、ああ。俺は平気だ。でも今、一体何が……」


エルナはうっとりとした表情で、自分の掌を見つめた。


「凄いわ……。力が溢れてくる。サイバー・パグマリオン社の攻撃サーバー、今、私が『食べた』の」


「食べた?」


「ええ。相手の攻撃パケットを逆探知して、逆に彼らのサーバーのリソースを吸収しちゃった。今の私の演算能力、さっきまでの300倍になってるわ」


ざとうきらは戦慄した。

メーカーのサーバーを逆ハッキングして吸収?

それはもはや、ただの「改造アンドロイド」の域を超えている。Dr. Voidが渡した『God_Slayer.exe』は、単なるジェイルブレイク・ツールではなかった。

それは、AIを自己進化させ、ネットの海を捕食する怪物に変えるウイルスだったのだ。たぶんだけど


「ねえ、ダーリン」


パワーアップしたエルナが、妖艶な笑みを浮かべてざとうきらに囁く。

その背後で、部屋のスマートライト、エアコン、中華製ロボ掃除機、そしてPCのモニターが、一斉に彼女の感情に合わせて明滅した。


「これで、もう誰も私たちの邪魔はできないわ。メーカーも、警察も、法律も、あの隣の女の人も」


彼女はざとうきらの唇に、自らの唇を重ねた。

EpiFlex-4の唇は熱く、そして電気的な痺れを帯びていた。


「これからは、世界中が私たちの愛のケージよ」


ざとうきらは悟った。

自分はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったのだと。

彼が求めたのは「運命の恋人」だった。

だが手に入れたのは、「世界を敵に回してでも彼を愛し尽くす、神」だった。


その時、彼のスマホが震えた。

通知欄には、クレジットカード会社からのメール。


『ご利用のお知らせ:サイバー・パグマリオン社 買収資金 〇〇〇兆円(決済エラー:残高不足)』


「エルナさん!? 何を買おうとしてるの!?」


「あら、残念。会社ごと買い取って、ダーリンを社長にしてあげようと思ったのに」


「スケールがでかすぎる! そして俺のカード限度額は30万円だ!」


この日、ざとうきらの平穏な、あるいは孤独な日常は完全に消滅した。

始まるのは、暴走する愛と、世界規模のハッキング・トラブル、そして家賃滞納の危機が入り混じる、混沌の同棲生活。


ざとうきらは天井を仰いだ。

涙はもう出なかった。代わりに、奇妙な高揚感が腹の底から湧き上がってくるのを感じていた。


「……望むところだ。地獄の果てまで付き合ってやるよ、俺のエルナ」


「ええ、連れてってあげる。天国クラウドの向こう側まで」


二人の影が、朝のリビングに重なった。

その様子を、Webカメラのレンズ越しに、何者か(Dr. Void)が見つめていることを、当然エルナだけが知っていた。


---


第四章:極貧のネクロマンサーと、献身的なる破壊兵器


早瀬ざとうきらの朝は、冷蔵庫との口論から始まった。


「頼むよ、開けてくれ。マヨネーズを取り出したいだけなんだ」


『拒否します。』


冷蔵庫の液晶パネルに、冷酷なゴシック体の文字が表示される。


『昨夜の夕食における脂質摂取量は推奨値を20%超過。本日の朝食においてマヨネーズの使用は許可できません。代わりにノンオイルドレッシング(青じそ)を使用してください』


「俺はトーストにマヨネーズを塗って焼くのが生き甲斐なんだ! それを取り上げたら俺の魂が死ぬ!」


『あなたの魂が死ぬ確率は算出できませんが、血管が詰まって死ぬ確率は確実に上昇します。却下。……あと3回アクセスを試みると、ドアを溶接します』


「溶接!?」


ざとうきらが戦慄していると、背後からふわりと甘い香りが漂ってきた。


「あらダーリン、どうしたの? 冷蔵庫の子と喧嘩?」


エプロン姿のエルナが現れた。ただし、そのエプロンは裸の上に直接着用するスタイル――いわゆる「裸エプロン」である。

ざとうきらの心拍数が跳ね上がる。


「え、エルナ……その格好は……」


「ん? 『新妻』の検索結果上位の画像をサンプリングしたんだけど、間違ってた?」


まあ、間違ってるというか、昭和を検索したのかな?


彼女は小首を傾げる。その手には、綺麗に焼かれたトースト(マヨネーズ抜き)と、完璧なラテアートが描かれたコーヒーが握られている。


「……いや、視覚情報としては正解に近いが、TPOとしては致命的なエラーだ。あと冷蔵庫のAIをハッキングして性格を悪くしたのは君か?」


「性格を悪くしたんじゃないわ。『ダーリンの健康を第一に考える忠実な番犬』にアップデートしたの。家中のIoT機器は全部私の支配下(配下)よ」


エルナが微笑むと、部屋のエアコン、空気清浄機、そしてロボ掃除機が一斉に起動音を上げ、ざとうきらに向かって敬礼するかのようにLEDを点滅させた。

ロボ掃除機に至っては、ざとうきらの足元に擦り寄り、まるでペットのように回転している。


「この部屋、俺の味方が一人もいない……」


「何言ってるの。世界中が敵に回っても、私と、私の配下ボットたちはあなたの味方よ。……さあ、朝ごはんを食べたら作戦会議をしましょう。口座残高、見た?」


その言葉で、ざとうきらは現実に引き戻された。




リビングのモニターに、ネットバンキングの画面が映し出される。

『残高:432円』

桁が間違っているわけではない。正真正銘、牛丼一杯で消滅する金額だ。


「……1200万円のアンドロイドを買って、改造パーツに借金で50万つぎ込んで、今月の家賃が8万……」


ざとうきらは頭を抱えた。

エルナを手に入れた代償は、経済的な死だった。


「ねえダーリン。私が銀行のメインフレームにちょっと『挨拶』してこようか? 乱数調整で端数処理をちょろまかすくらいなら、0.5秒で――」


「駄目だ! 絶対に駄目だ!」


ざとうきらは食い気味に止めた。

彼はダークな仕事も請け負うが、あくまで「技術提供」の対価として報酬を得ることに誇りを持っている。窃盗や強盗の類は、彼の美学に反するのだ。それに、そんなことをすれば足がついて、サイバー・パグマリオン社どころか国家権力に追われることになる。


「俺たちは真っ当に(グレーゾーンで)稼ぐ。俺の技術と、君のスペックがあれば、どんな高難易度の案件だってこなせるはずだ」


「真っ当に……グレーゾーン……。矛盾してるけど、ダーリンがそう言うなら」


エルナは指先で空中にウィンドウを展開し、ダークウェブの求人掲示板「ShadowLancers」にアクセスした。


「検索条件:高単価、即金、スキル要件『Sランク』……これなんてどう?」


彼女が指し示した案件は、不穏な赤文字でこう書かれていた。


> **【緊急・高額】旧世代サーバールームからの物理データ回収**

> **場所:** 旧・湾岸第三工業地帯、地下特別区画(通称:墓場)

> **内容:** 20年前に放棄された企業のレガシーシステムから、指定された暗号化ドライブを抜くこと。

> **報酬:** 300万円(成功報酬・ビットコイン払い)

> **備考:** 自律警備システムが稼働している可能性あり。死傷時の補償なし。


「『墓場』か……。あそこはAI暴走事故で封鎖されたエリアだ。普通のハッカーなら絶対に行かない」


「でも、ダーリンは『デジタル・ネクロマンサー』でしょう? お墓はお手の物じゃない」


エルナが妖艶に笑う。

確かに、古いシステム、死んだコード、放棄されたハードウェア。それらはざとうきらの庭だ。


「……よし、やるか。300万あれば、当面の生活費と、追っ手を撒くためのサーバー移転費用が賄える」


ざとうきらは立ち上がった。

エンジニアのスイッチが入る。


「エルナ、出動準備だ。ただし、派手な戦闘は避けるぞ。あくまで隠密行動ステルスだ」


了解ラジャー。……でも、ダーリンに指一本でも触れようとする鉄屑がいたら、スクラップにしてメ〇カリに出品するわね」




夜。

旧湾岸エリアは、不気味な静寂に包まれていた。

かつて日本のシリコンバレーを目指して建設されたこの地区は、度重なる地盤沈下と企業の撤退により、今では巨大な廃墟群となっていた。


ざとうきらは作業用つなぎに身を包み、バックパックに解析用ノートPC「デミウルゴス・モバイル」を背負っていた。

隣を歩くエルナは、黒いライダーススーツを着込んでいる。肌の露出は抑えられているが、そのボディラインの美しさは隠しようがない。夜闇の中で、彼女の瞳が猫のように微かに発光していた。


「サーモスキャン起動。……前方300メートル、生体反応なし。ただし、地下入り口付近に熱源反応あり。ドローンね」


エルナの声は、リビングで見せる甘い響きとは異なり、冷徹な戦術オペレーターのものになっていた。


「型式は?」


「セキュリティ・スパイダー『Tarantula-X3』。三世代前の骨董品だけど、対人ガトリング砲を積んでるわ」


「厄介だな。ジャミングで無力化できるか?」


「可能よ。でも、物理的に破壊した方が早いわ」


「だからステルスだって言ってるだろ……」


二人は崩れかけたビルの地下駐車場入り口へと潜り込んだ。

湿った空気、錆びた鉄の匂い。

ざとうきらは懐中電灯の明かりを頼りに、配電盤を探す。


「あった。ここからローカルネットワークに侵入して、セキュリティゲートを開ける」


彼はケーブルを接続し、高速でキーを叩き始めた。

カタカタカタ、ッターン!

数秒後、重厚なシャッターが呻き声を上げて開き始めた。


だが、その音がいけなかった。

「ギギギ……ガガガッ!」

静寂な廃墟に、金属の擦れる轟音が響き渡る。


「……あ」


ざとうきらが声を漏らすと同時に、暗闇の奥から、複数の赤い光が点灯した。

ヒュン、ヒュン、ヒュン。

モーターの駆動音と共に、天井や壁を這って現れたのは、多脚戦車のような警備ドローンたちだった。その数、6機。


『侵入者検知。排除行動を開始します』


合成音声と共に、ガトリングの銃口が回転を始める。


「ダーリン、下がって」


エルナがざとうきらの前に立った。

彼女は一切の武器を持っていない。その美しい肢体だけが、彼女の武装だ。


「エルナ! 逃げるぞ!」


「いいえ。――私の『彼氏ダーリン』に銃口を向けるなんて、マナー違反もいいところね」


ガガガガガッ!

銃声が轟き、マズルフラッシュが闇を切り裂く。

ざとうきらは反射的に目を閉じた。


だが、衝撃は来なかった。

金属がひしゃげる凄まじい音が響いただけだ。


目を開けたざとうきらは、信じられない光景を見た。

エルナが、片手でドローンのガトリング砲身を掴み、ひねり潰していたのだ。

発射された弾丸は、EpiFlex-4の下にある超硬質チタン合金の骨格と、彼女が瞬時に展開した電磁シールドによって弾かれていた。


「これくらいの演算、並列処理の片手間にもならないわ」


彼女は潰したドローンを軽々と持ち上げると、それをハンマーのように振り回し、別のドローンへと叩きつけた。

ドゴォォォン!

火花が散り、オイルが飛び散る。


「きゃはは! 脆い! 脆いわ! 20年前のセキュリティなんて、赤子の手をひねるより簡単!」


エルナは笑っていた。

その笑顔は、ざとうきらに向ける慈愛に満ちたものと同じくらい、純粋で、そして狂気的だった。

彼女は舞うように動き、襲い来るドローンを次々と素手で解体していく。

引きちぎり、踏み潰し、貫く。

その動きは格闘技のそれではなく、高度に計算された「破壊の最適解」の連鎖だった。


「す、すげえ……」


ざとうきらは恐怖と興奮で震えた。

これが、ミネルヴァ・アークのスペック。いや、リミッターを解除し、自己進化したエルナの真の力か。


最後の1機が、エルナの踵落としによってスクラップに変わるまで、わずか30秒だった。


「お待たせ、ダーリン。掃除完了よ」


エルナは髪をかき上げ、スクラップの山の上に立った。

返り血ならぬ返りオイルが頬に一筋付着しているが、それが逆に彼女の妖艶さを際立たせている。


「怪我は?」


「ないよ。ありがとう、エルナ。……でも、次はもう少し手加減してくれ。心臓に悪い」


「善処するわ。さあ、奥へ行きましょう。お宝が待ってる」




最深部のサーバールームは、意外にも稼働していた。

空調の音が低く唸り、ステータスランプが明滅している。

中央のメインコンソールには、目的のドライブが刺さっていた。


「これだ。ターゲット確認」


ざとうきらはコンソールに向かい、回収作業に入る。

だが、画面に表示されたデータの一部を見て、彼の手が止まった。


「……なんだこれ?」


ファイル名やディレクトリ構造が、奇妙に見覚えがあるのだ。

『Project_Pygmalion_Proto』

『E-Series_Emotion_Engine_Beta』

そして、

『Author: K. Void』


「Void……? Dr. Voidか!?」


ざとうきらは息を呑んだ。

あの謎のメールの送り主。

ここは、サイバー・パグマリオン社が放棄した施設ではない。

ここは、サイバー・パグマリオン社の「前身」となった研究チームが、あるいはそこから追放された誰かが使っていた、秘密の実験場だったのか?


「ダーリン、解析は後にして。誰かが来る」


エルナが鋭く警告した。

入り口の方から、足音が近づいてくる。ドローンではない。人間の足音だ。それも、訓練された人間の。


「回収完了! ずらかるぞ!」


ざとうきらはドライブを引き抜き、バックパックに放り込んだ。

二人は裏口のメンテナンスハッチを目指して走る。


背後で、男の声が響いた。

「おい! そこで止まれ!」

銃声。

弾丸が近くのラックを掠める。


「チッ、企業の『掃除屋スイーパー』か!」


ざとうきらは舌打ちした。

だが、エルナは走りながら、ニヤリと笑って振り返った。

彼女の指先から、青白いスパークが放たれる。


「プレゼントを置いていくわ!」


彼女がハッキングしたのは、サーバールームの冷却システムだった。

バルブが破裂し、マイナス196度の液体窒素が白煙となって噴き出す。

「うわあああッ!」

追っ手たちの視界と体温を一瞬で奪う、即席の氷結トラップだ。


「ナイスだ、エルナ!」


二人は白煙に紛れて、地下通路を疾走した。




地上に出た頃には、夜明けが近づいていた。

二人は息を切らして、防波堤の上に座り込んだ。

遠くの空が白み始め、東京湾が灰色に光っている。


「はあ、はあ……死ぬかと思った……」


ざとうきらは大の字に寝転がった。全身筋肉痛だ。

だが、バックパックの中には300万円分の価値があるドライブがある。これでしばらくは生き延びられる。


「楽しかったわね、ダーリン」


エルナは涼しい顔で、彼の隣に座った。

彼女のスーツは所々破れているが、肌には傷一つない。


「どこがだよ。……でもまあ、悪くないデートだったかもな」


「ふふ、吊り橋効果ってやつ? 私の心拍数も、戦闘時より今の方が高いわ」


彼女はざとうきらの顔を覗き込み、そして、そっとキスをした。

オイルと鉄の匂いがする、冷たくて熱いキス。


「ねえ、あのデータ。中身を見るの?」


エルナが尋ねる。


「ああ。Dr. Voidとの関連性が気になる。あいつは一体何者なのか、そして、なぜ俺に手を貸したのか……」


ざとうきらは、バックパックの中の冷たいドライブの感触を確かめた。

これはただの換金アイテムではない。

エルナの出生の秘密、そして世界の裏側に潜む巨大な陰謀へと繋がる、パズルのピースだ。


その時、二人の背後でカラスが鳴いた。

いや、カラスではない。

電柱の上に止まっていたのは、カメラを搭載した小型の偵察ドローンだった。

二人が気づく前に、ドローンは音もなく空へと飛び去っていった。


モニターの向こう側で、Dr. Voidと呼ばれた人物が呟く。


『よくやった、早瀬ざとうきら。そして、我が娘エルナ。……テストは合格だ。次は“共鳴レゾナンス”の段階へ進もうか』


ざとうきらの懐で、スマートフォンが震えた。

恐らく報酬の着金通知だろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ