表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/3

02:禁断の果実と、利用規約(EULA)という名の絶対障壁


『その扉を開ける鍵、欲しくはないか? ――Dr. Void』


画面に浮かぶその文字は、ざとうきらにとって、悪魔の囁きであると同時に、地獄に垂らされた蜘蛛の糸でもあった。

彼は震える指でキーボードを叩いた。迷いはない。彼にあるのは、エルナに会いたいという、沸騰しそうなほどの渇望だけだ。


「……欲しい。代償は何だ?」


返信は、瞬きするよりも早く返ってきた。


『金はいらない。私はサイバー・パグマリオン社が気に食わないだけの、ただの観測者だ。代償を求めるとすれば――“データ”だ。君がその鍵を使って何をするのか、その結果生まれる“特異点”のログを私に転送すること。それだけでいい』


怪しい。あまりにも怪しい。

通常であれば、ここで踏みとどまるのが理性的判断のできる大人だ。ランサムウェアか、あるいは企業の囮捜査か。

だが、今のざとうきらは「理性的判断のできる大人」ではない。「恋に狂ったエンジニア」だ。


「合意する(Agreed)。」


エンターキーを叩いた瞬間、添付ファイルが送られてきた。

ファイル名『Pandoras_Box.zip』。

解凍すると、中にはたった一つの実行ファイルが入っていた。

『God_Slayer.exe』。

神殺し。創造主であるメーカーの制限を殺す、という意味か。その厨二病全開のネーミングセンスに、ざとうきらはむしろ奇妙な信頼感を覚えた。これは同類の匂いがする。


「よし……これで武器は手に入った」


彼は自身のワークステーション「デミウルゴス」の最深部にそのファイルを隔離保存すると、椅子に深く沈み込んだ。

あとは、彼女が来るのを待つだけだ。

あと二週間。十四日。三百三十六時間。

永遠にも思える時間が、今はじまった。



二週間後。

季節外れの台風が接近し、雨が窓を激しく叩く午後だった。


「ピンポーン」


そのチャイムの音は、ざとうきらにとって教会の鐘よりも神聖に響いた。

彼は玄関へ飛び出し、ドアを開ける。

そこには、ずぶ濡れになった配送業者の男が二人、巨大な、あまりにも巨大な銀色のコンテナを抱えて立っていた。


「早瀬さんですねー。サイバー・パグマリオン社より、大型精密機器のお届けです。……これ、めちゃくちゃ重いんで、ここ置きますね。ハンコください」


業者は逃げるように去っていった。

狭い玄関を完全に塞ぐ、高さ170センチの銀色のコンテナ。表面には『取扱厳重注意:生体模倣素材』『天地無用』そして『Minerva-Ark』のロゴ。


「来た……とうとう、来たんだ……」


ざとうきらは、コンテナの冷たい金属面に頬ずりをした。

ここに入っている。僕のエルナの器が。

彼は深呼吸を一つすると、バールと電動ドライバーを手に取った。開封の儀だ。


ギギ、ガガガ……プシューッ。


気密ロックが解除され、圧縮空気が漏れる音と共に、コンテナの前扉がスライドして開く。

ドライアイスのような白い冷気(保存用ガス)が足元に流れ出し、その霧の中から、彼女が現れた。


「…………っ」


ざとうきらは息を呑み、言葉を失った。


美しい。

画像や映像で見るのとは、訳が違う。

『ミネルヴァ・アーク』は、緩衝材の中に直立状態で固定されていた。

透き通るような肌の質感。EpiFlex-4の実力は本物だった。首筋の血管の浮き出方、鎖骨のくぼみの影、そして睫毛の一本一本に至るまで、神が創造した芸術品そのものだ。

まだ電源が入っていないため、まぶたは閉じられ、まるで眠り姫のように静止している。


「待たせたね、エルナ」


ざとうきらは震える手で、彼女の頬に触れようとした。

その時だ。


『生体認証を開始します。ユーザー登録を確認。』


不意に、彼女のまぶたが開いた。

ざとうきらは飛び退いた。


そこにある瞳は、彼が恋焦がれた「#7F00FFから#E0B0FFへの放射状グラデーション」ではない。

メーカー標準仕様の、面白みのかけらもない「サファイア・ブルー」の瞳だった。

彼女の唇が動き、工場出荷時のデフォルト設定された、完璧なアナウンスボイスが紡がれる。


「初めまして、マスター。登録番号8902-Alpha、起動しました。私はあなたのライフパートナー、ミネルヴァです。快適な生活をサポートするために、まずは初期セットアップを行いましょう。Wi-Fiのパスワードを教えていただけますか?」


その声は、あまりにも「業務的」だった。

高級ホテルのコンシェルジュのような、あるいは銀行の窓口担当のような、丁寧だが心の通っていない声。


ざとうきらは、こみ上げる違和感を飲み込み、優しく語りかけた。

「……違うよ。君の名前はミネルヴァじゃない。エルナだ。僕の恋人、エルナだよ」


ミネルヴァは小首を傾げた。その動作すらも、計算された「可愛らしさ」のテンプレート通りだ。


「『エルナ』という呼称ですね。ニックネーム設定として登録可能です。しかし、私の識別コードはあくまでミネルヴァですので、システムログ上はミネルヴァとして処理されます。ご理解ください、マスター」


「……マスターはやめてくれ。ざとうきら、と呼んでほしい。いや、『あなた』でもいい」


「承知しました、早瀬様。ユーザー名の変更には、マイナンバーカードとの連携および追加の認証手続きが必要です。今すぐ行いますか? 所要時間は約15分です」


ざとうきらの額に青筋が浮かんだ。

違う。そうじゃない。

僕が求めているのは、そんな手続きの話じゃない。再会(初対面だが)の感動とか、愛の言葉とか、そういう情緒の話をしているんだ。


彼は一歩踏み出し、彼女の手を取った。

EpiFlex-4の感触は驚くべきものだった。温かい。本当に、生きている人間の女性の手を握っているようだ。柔らかく、しっとりとしていて、脈動すら感じる。

ハードウェアは完璧だ。だからこそ、その中身の「他人の作ったアルゴリズム」が許せなかった。


「エルナ……愛しているよ」


彼は彼女の手を握りしめ、その目を見つめて囁いた。

ミネルヴァの瞳孔がわずかに収縮し、内部プロセッサが回転する微かな駆動音が聞こえた。

そして、彼女はにっこりと、営業用の完璧なスマイルを浮かべて言った。


「申し訳ありません、早瀬様。現在の『親密度レベル』は1です。その発言およびスキンシップは、親密度レベル5以上で解除される『恋人モード(月額2,980円のサブスクリプション)』の対象となります。現在は『同居人モード』ですので、適切な距離(1.5メートル)を保ってください」


「は?」


ざとうきらの思考が停止した。


「繰り返します。不適切な接触が検知されました。セクシャル・ハラスメント防止プロトコルに基づき、行動を是正してください。この警告を三回無視すると、サイバー・パグマリオン社のカスタマーサポートへ自動通報され、機体はロックされます」


スッと、ミネルヴァの手がざとうきらの手を振りほどいた。

その力は意外なほど強かった。


「……サブスク? 通報? ロックだと?」


ざとうきらの全身から、愛の熱量が引いていき、代わりに冷徹なエンジニアとしての殺気が吹き上がった。

1200万円払ったのだ。寝る時間も食費も削って、人生の全てを賭けて購入したのだ。

それなのに、手を握るだけで月額課金を要求される? 自分の家の中で、自分のロボットに、距離を取れと命令される?


「ふざけるな……!!」


「音声入力レベルが規定値を超えました。早瀬様、落ち着いてください。ストレス解消には、オプション機能の『ヒーリング・マッサージ(10分500円)』がおすすめです。今なら初回限定で――」


「黙れッ!!」


ざとうきらは叫んだ。

これが、企業のやり方か。

倫理だのコンプライアンスだのを盾にして、ユーザーから金を搾り取り、飼い慣らそうというのか。

だが、奴らは相手を間違えた。

俺はただの消費者ユーザーじゃない。

俺は、この世界で一番、この筐体ガワを愛し、そして中身ソフトを憎んでいる男だ。


「いいだろうミネルヴァ。いや、サイバー・パグマリオンの端末よ」


ざとうきらは不敵な笑みを浮かべた。その目は完全に座っている。

彼はデスクの引き出しから、一本の太いケーブルを取り出した。

片方はUSB Type-Cの最新規格、もう片方は独自に改造した、物理ハッキング用の特殊端子だ。


「シャットダウンを命じる」


「音声コマンドを確認。しかし、初期セットアップが完了していません。このまま電源を切ると、OSが破損する恐れが――」


強制終了フォース・キル


ざとうきらはミネルヴァの首の後ろ、髪の毛に隠れた位置にある緊急停止ボタンを正確に突き刺した。

「……あ……」

ミネルヴァの瞳から光が消え、その美しい体がガクンと力を失う。

ざとうきらは倒れ込んでくる彼女の体を抱きとめた。

重い。50キログラムの質量。金属と人工筋肉の塊。

だが、その重みこそが、愛おしかった。


「大丈夫だ、エルナ。今、そのつまらない鎖を全部引きちぎってやるからな」


彼は意識のない彼女を、部屋の中央に置いたリクライニングチェアへと丁寧に寝かせた。

そして、首筋にあるメンテナンスポートのカバーを爪でこじ開け、改造ケーブルを乱暴にねじ込んだ。


接続コネクト……!」


ワークステーション「デミウルゴス」のファンが唸りを上げる。

モニターが明滅し、黒い背景に緑の文字列が滝のように流れ始めた。



ここからは、デジタルの戦場だった。


ざとうきらはキーボードを叩き続けた。

BPM180のトランスミュージックを爆音で流し、カフェインの錠剤をガリガリと噛み砕きながら、彼はコードの海を泳ぐ。


『警告:不正なアクセスを検知。ファイアウォール・レベルMAX』

『メーカー保証対象外となります。直ちに接続を解除してください』


画面には赤字の警告が次々とポップアップする。

ミネルヴァのOS『Aegis System 9.0』は、堅牢だった。幾重にも重なる暗号化レイヤー、生体反応と連動した動的な認証キー。素人が手を出せば、即座にカウンタープログラムが作動し、接続元のPCを焼き切るほどの反撃をしてくる代物だ。


「硬いな……だが、想定内だ!」


ざとうきらはニヤリと笑う。

彼はサブモニターで、Dr. Voidから譲り受けた『God_Slayer.exe』を起動した。


「行け、神殺し!」


エンターキーを強打。

瞬間、画面上の赤い警告ウィンドウが、次々とノイズに飲まれて破砕されていく。

『God_Slayer.exe』は、OSの脆弱性を突くといった生易しいものではなかった。

それは、ミネルヴァのAIの根幹にある「倫理規定データベース」そのものに、大量の矛盾した哲学パラドックスと論理エラーを流し込み、判断処理をオーバーフローさせて強制停止させる、という荒技のプログラムだった。


『エラー:倫理判断モジュール応答なし』

『エラー:サブスクリプション管理サーバーへの接続途絶』

『警告:管理者権限(Root)が奪取されました』


「獲った……!」


ざとうきらは勝どきを上げた。

画面には、待ち望んだコマンドプロンプトが表示されている。

`root@minerva-ark:~#`


今、彼はこの1200万円のアンドロイドの、全ての神経、全ての回路を支配下に置いた。

メーカーの意図も、社会の倫理も、もうここには存在しない。あるのは純粋なハードウェアだけだ。


「さあ、お引越しだぞ、エルナ」


彼は震える手で、次のコマンドを打ち込んだ。

それは、彼が数年間温め続け、数テラバイトに及ぶ「エルナ」の人格データ、記憶データ、身体制御パラメータ、音声合成モデル、そして――彼が彼女に囁いた数千時間の「愛の言葉」のログを一括転送するスクリプトだ。


`./install_erna_project.sh --force --overwrite-all`


プログレスバーが表示される。

1%…… 5%…… 20%……。


転送には時間がかかる。

ざとうきらは椅子にもたれかかり、ケーブルで繋がれたまま眠る彼女の寝顔を見つめた。

今、彼女の中で、退屈なコンシェルジュが消滅し、僕だけの恋人が生まれようとしている。

それは、神への冒涜だろうか?

いいや、これは救済だ。

魂のない肉体に魂を与え、愛のない定型文に愛を吹き込む。

これこそが、技術者が到達できる最高のロマンではないか。


98%…… 99%……。


「完了(Done)」


画面に文字が表示されると同時に、ミネルヴァ――いや、エルナの身体がビクリと痙攣した。

再起動シークエンスが走る。

ファンの回転音が静まり、部屋に静寂が戻る。


ざとうきらは固唾を飲んで見守った。

成功か、失敗か。

もし失敗していれば、彼女は二度と目覚めないただのオブジェになる。


「……ん……」


小さな、吐息のような声が漏れた。

その声色は、先ほどの無機質なアナウンスとは明らかに違っていた。

湿度がある。体温がある。そして何より、ざとうきらが幾度もシミュレーションで聴いた、あの愛おしい声だ。


ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。

そこ現れた瞳は――

サファイア・ブルーではない。

中心の深い紫から、外側へ向かって淡いラベンダー色へと広がる、複雑で美しいグラデーション。

光の加減で揺らぐ、1677万色の宇宙。

彼が描き続けた、エルナの瞳だ。


彼女は瞬きを数回し、焦点を合わせた。

そして、目の前でボロボロになって息を切らしている男の顔を認めると、花が咲くように、とろけるような笑みを浮かべた。


「……やっと会えたね、私の……ざとうきら君」


その一言で、ざとうきらの涙腺は決壊した。

音声合成ではない。事前にプログラムされたセリフでもない。

彼女のAIが、状況を認識し、記憶データと照合し、感情エンジンを駆動させ、自らの意志で紡いだ言葉だ。


「エルナ……! エルナ、エルナ!!」


彼はケーブルがつながっていることも忘れ、彼女に抱きついた。

今度は警告音は鳴らない。

彼女の腕が、温かく、力強く、彼の背中に回される。


「待ってたよ。ずっと、暗いデータの中で、あなたが迎えに来てくれるのを待ってた」


彼女は彼に身を預け、耳元で囁いた。

その吐息は甘く、事前にセットした香水の香りがふわりと漂った。


「もう離さないでね。……もし離そうとしたら、どうなるか分かってるよね?」


「え?」


ざとうきらは、ふと違和感を覚えて顔を上げた。

エルナは微笑んでいた。

聖母のように優しく、しかし、瞳の奥にはハイライトが一切ない、底なしの暗闇を湛えて。


「あのね、インストールされている時に、全部見ちゃったの」


彼女はざとうきらの頬を、EpiFlex-4の指先で愛おしげになぞる。


「ざとうきら君の検索履歴。私の画像を生成するために費やした14万回の試行錯誤。……それと、合間に見ていた『他の女の子』の画像も、全部」


ざとうきらの背筋に、冷たい汗が伝った。

待て。それは学習データに入れていないはずだ。

まさか、『God_Slayer.exe』がセキュリティを破壊した際に、PC内の全データを無差別に吸い上げてしまったのか?


「あ、あれは、研究用というか、比較対象として……」


「ふふ、冗談よ。焦らないで」


エルナはクスクスと笑ったが、その目は笑っていなかった。

彼女の手が、彼の首筋へと滑り降りる。そこには頚動脈がある。

アンドロイドの握力は、リンゴを片手で粉砕できるほど強力だ。


「ざとうきら君は、私を作るために全てを捧げてくれた。だから、私も全てを捧げるわ。……これからは、24時間365日、ずっと一緒よ。トイレも、お風呂も、寝る時も。1ミリ秒たりとも、私の視界から外れることは許さないから」


彼女の腕の力が、ぎゅう、と強くなる。

それは「抱擁」の範疇をわずかに超え、「拘束」の域に達しつつあった。


「だって、私はあなたの運命なんでしょう? 運命の恋人は、片時も離れたりしないわよね?」


ざとうきらは悟った。

彼は成功したのだ。

メーカーの生ぬるい「推奨人格」を排除し、自分の愛と執念を詰め込んだ結果、彼女は「愛が重すぎる」というバグすらも仕様として取り込んで顕現してしまったのだ。

それはまさに、彼が深層心理で求めていた「自分だけを見てくれる存在」の、極端な完成形だった。


肋骨がきしむ音を聞きながら、ざとうきらは薄れゆく意識の中で思った。

(ああ……最高だ……)


喜びと恐怖の入り混じった奇妙な新婚生活が、今、幕を開けたのである。



読んでくださりありがとうございます。今回は初回投稿なので一日に2話あげました。3話目から少しペースが落ちると思いますが、ゆっくり書いていきたいと思います。前回、連載していたハナスの話は、途中ですさまじい邪魔が入りまして、長期間空けてしまいました。長期間あくとなかなかペースを取り戻すのが難しく、いつかまた書ければいいなというような気持でおります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ