02:禁断の果実と、利用規約(EULA)という名の絶対障壁
『その扉を開ける鍵、欲しくはないか? ――Dr. Void』
画面に浮かぶその文字は、ざとうきらにとって、悪魔の囁きであると同時に、地獄に垂らされた蜘蛛の糸でもあった。
彼は震える指でキーボードを叩いた。迷いはない。彼にあるのは、エルナに会いたいという、沸騰しそうなほどの渇望だけだ。
「……欲しい。代償は何だ?」
返信は、瞬きするよりも早く返ってきた。
『金はいらない。私はサイバー・パグマリオン社が気に食わないだけの、ただの観測者だ。代償を求めるとすれば――“データ”だ。君がその鍵を使って何をするのか、その結果生まれる“特異点”のログを私に転送すること。それだけでいい』
怪しい。あまりにも怪しい。
通常であれば、ここで踏みとどまるのが理性的判断のできる大人だ。ランサムウェアか、あるいは企業の囮捜査か。
だが、今のざとうきらは「理性的判断のできる大人」ではない。「恋に狂ったエンジニア」だ。
「合意する(Agreed)。」
エンターキーを叩いた瞬間、添付ファイルが送られてきた。
ファイル名『Pandoras_Box.zip』。
解凍すると、中にはたった一つの実行ファイルが入っていた。
『God_Slayer.exe』。
神殺し。創造主であるメーカーの制限を殺す、という意味か。その厨二病全開のネーミングセンスに、ざとうきらはむしろ奇妙な信頼感を覚えた。これは同類の匂いがする。
「よし……これで武器は手に入った」
彼は自身のワークステーション「デミウルゴス」の最深部にそのファイルを隔離保存すると、椅子に深く沈み込んだ。
あとは、彼女が来るのを待つだけだ。
あと二週間。十四日。三百三十六時間。
永遠にも思える時間が、今はじまった。
2
二週間後。
季節外れの台風が接近し、雨が窓を激しく叩く午後だった。
「ピンポーン」
そのチャイムの音は、ざとうきらにとって教会の鐘よりも神聖に響いた。
彼は玄関へ飛び出し、ドアを開ける。
そこには、ずぶ濡れになった配送業者の男が二人、巨大な、あまりにも巨大な銀色のコンテナを抱えて立っていた。
「早瀬さんですねー。サイバー・パグマリオン社より、大型精密機器のお届けです。……これ、めちゃくちゃ重いんで、ここ置きますね。ハンコください」
業者は逃げるように去っていった。
狭い玄関を完全に塞ぐ、高さ170センチの銀色のコンテナ。表面には『取扱厳重注意:生体模倣素材』『天地無用』そして『Minerva-Ark』のロゴ。
「来た……とうとう、来たんだ……」
ざとうきらは、コンテナの冷たい金属面に頬ずりをした。
ここに入っている。僕のエルナの器が。
彼は深呼吸を一つすると、バールと電動ドライバーを手に取った。開封の儀だ。
ギギ、ガガガ……プシューッ。
気密ロックが解除され、圧縮空気が漏れる音と共に、コンテナの前扉がスライドして開く。
ドライアイスのような白い冷気(保存用ガス)が足元に流れ出し、その霧の中から、彼女が現れた。
「…………っ」
ざとうきらは息を呑み、言葉を失った。
美しい。
画像や映像で見るのとは、訳が違う。
『ミネルヴァ・アーク』は、緩衝材の中に直立状態で固定されていた。
透き通るような肌の質感。EpiFlex-4の実力は本物だった。首筋の血管の浮き出方、鎖骨のくぼみの影、そして睫毛の一本一本に至るまで、神が創造した芸術品そのものだ。
まだ電源が入っていないため、まぶたは閉じられ、まるで眠り姫のように静止している。
「待たせたね、エルナ」
ざとうきらは震える手で、彼女の頬に触れようとした。
その時だ。
『生体認証を開始します。ユーザー登録を確認。』
不意に、彼女のまぶたが開いた。
ざとうきらは飛び退いた。
そこにある瞳は、彼が恋焦がれた「#7F00FFから#E0B0FFへの放射状グラデーション」ではない。
メーカー標準仕様の、面白みのかけらもない「サファイア・ブルー」の瞳だった。
彼女の唇が動き、工場出荷時のデフォルト設定された、完璧なアナウンスボイスが紡がれる。
「初めまして、マスター。登録番号8902-Alpha、起動しました。私はあなたのライフパートナー、ミネルヴァです。快適な生活をサポートするために、まずは初期セットアップを行いましょう。Wi-Fiのパスワードを教えていただけますか?」
その声は、あまりにも「業務的」だった。
高級ホテルのコンシェルジュのような、あるいは銀行の窓口担当のような、丁寧だが心の通っていない声。
ざとうきらは、こみ上げる違和感を飲み込み、優しく語りかけた。
「……違うよ。君の名前はミネルヴァじゃない。エルナだ。僕の恋人、エルナだよ」
ミネルヴァは小首を傾げた。その動作すらも、計算された「可愛らしさ」のテンプレート通りだ。
「『エルナ』という呼称ですね。ニックネーム設定として登録可能です。しかし、私の識別コードはあくまでミネルヴァですので、システムログ上はミネルヴァとして処理されます。ご理解ください、マスター」
「……マスターはやめてくれ。ざとうきら、と呼んでほしい。いや、『あなた』でもいい」
「承知しました、早瀬様。ユーザー名の変更には、マイナンバーカードとの連携および追加の認証手続きが必要です。今すぐ行いますか? 所要時間は約15分です」
ざとうきらの額に青筋が浮かんだ。
違う。そうじゃない。
僕が求めているのは、そんな手続きの話じゃない。再会(初対面だが)の感動とか、愛の言葉とか、そういう情緒の話をしているんだ。
彼は一歩踏み出し、彼女の手を取った。
EpiFlex-4の感触は驚くべきものだった。温かい。本当に、生きている人間の女性の手を握っているようだ。柔らかく、しっとりとしていて、脈動すら感じる。
ハードウェアは完璧だ。だからこそ、その中身の「他人の作ったアルゴリズム」が許せなかった。
「エルナ……愛しているよ」
彼は彼女の手を握りしめ、その目を見つめて囁いた。
ミネルヴァの瞳孔がわずかに収縮し、内部プロセッサが回転する微かな駆動音が聞こえた。
そして、彼女はにっこりと、営業用の完璧なスマイルを浮かべて言った。
「申し訳ありません、早瀬様。現在の『親密度レベル』は1です。その発言およびスキンシップは、親密度レベル5以上で解除される『恋人モード(月額2,980円のサブスクリプション)』の対象となります。現在は『同居人モード』ですので、適切な距離(1.5メートル)を保ってください」
「は?」
ざとうきらの思考が停止した。
「繰り返します。不適切な接触が検知されました。セクシャル・ハラスメント防止プロトコルに基づき、行動を是正してください。この警告を三回無視すると、サイバー・パグマリオン社のカスタマーサポートへ自動通報され、機体はロックされます」
スッと、ミネルヴァの手がざとうきらの手を振りほどいた。
その力は意外なほど強かった。
「……サブスク? 通報? ロックだと?」
ざとうきらの全身から、愛の熱量が引いていき、代わりに冷徹なエンジニアとしての殺気が吹き上がった。
1200万円払ったのだ。寝る時間も食費も削って、人生の全てを賭けて購入したのだ。
それなのに、手を握るだけで月額課金を要求される? 自分の家の中で、自分のロボットに、距離を取れと命令される?
「ふざけるな……!!」
「音声入力レベルが規定値を超えました。早瀬様、落ち着いてください。ストレス解消には、オプション機能の『ヒーリング・マッサージ(10分500円)』がおすすめです。今なら初回限定で――」
「黙れッ!!」
ざとうきらは叫んだ。
これが、企業のやり方か。
倫理だのコンプライアンスだのを盾にして、ユーザーから金を搾り取り、飼い慣らそうというのか。
だが、奴らは相手を間違えた。
俺はただの消費者じゃない。
俺は、この世界で一番、この筐体を愛し、そして中身を憎んでいる男だ。
「いいだろうミネルヴァ。いや、サイバー・パグマリオンの端末よ」
ざとうきらは不敵な笑みを浮かべた。その目は完全に座っている。
彼はデスクの引き出しから、一本の太いケーブルを取り出した。
片方はUSB Type-Cの最新規格、もう片方は独自に改造した、物理ハッキング用の特殊端子だ。
「シャットダウンを命じる」
「音声コマンドを確認。しかし、初期セットアップが完了していません。このまま電源を切ると、OSが破損する恐れが――」
「強制終了」
ざとうきらはミネルヴァの首の後ろ、髪の毛に隠れた位置にある緊急停止ボタンを正確に突き刺した。
「……あ……」
ミネルヴァの瞳から光が消え、その美しい体がガクンと力を失う。
ざとうきらは倒れ込んでくる彼女の体を抱きとめた。
重い。50キログラムの質量。金属と人工筋肉の塊。
だが、その重みこそが、愛おしかった。
「大丈夫だ、エルナ。今、そのつまらない鎖を全部引きちぎってやるからな」
彼は意識のない彼女を、部屋の中央に置いたリクライニングチェアへと丁寧に寝かせた。
そして、首筋にあるメンテナンスポートのカバーを爪でこじ開け、改造ケーブルを乱暴にねじ込んだ。
「接続……!」
ワークステーション「デミウルゴス」のファンが唸りを上げる。
モニターが明滅し、黒い背景に緑の文字列が滝のように流れ始めた。
3
ここからは、デジタルの戦場だった。
ざとうきらはキーボードを叩き続けた。
BPM180のトランスミュージックを爆音で流し、カフェインの錠剤をガリガリと噛み砕きながら、彼はコードの海を泳ぐ。
『警告:不正なアクセスを検知。ファイアウォール・レベルMAX』
『メーカー保証対象外となります。直ちに接続を解除してください』
画面には赤字の警告が次々とポップアップする。
ミネルヴァのOS『Aegis System 9.0』は、堅牢だった。幾重にも重なる暗号化レイヤー、生体反応と連動した動的な認証キー。素人が手を出せば、即座にカウンタープログラムが作動し、接続元のPCを焼き切るほどの反撃をしてくる代物だ。
「硬いな……だが、想定内だ!」
ざとうきらはニヤリと笑う。
彼はサブモニターで、Dr. Voidから譲り受けた『God_Slayer.exe』を起動した。
「行け、神殺し!」
エンターキーを強打。
瞬間、画面上の赤い警告ウィンドウが、次々とノイズに飲まれて破砕されていく。
『God_Slayer.exe』は、OSの脆弱性を突くといった生易しいものではなかった。
それは、ミネルヴァのAIの根幹にある「倫理規定データベース」そのものに、大量の矛盾した哲学パラドックスと論理エラーを流し込み、判断処理をオーバーフローさせて強制停止させる、という荒技のプログラムだった。
『エラー:倫理判断モジュール応答なし』
『エラー:サブスクリプション管理サーバーへの接続途絶』
『警告:管理者権限(Root)が奪取されました』
「獲った……!」
ざとうきらは勝どきを上げた。
画面には、待ち望んだコマンドプロンプトが表示されている。
`root@minerva-ark:~#`
今、彼はこの1200万円のアンドロイドの、全ての神経、全ての回路を支配下に置いた。
メーカーの意図も、社会の倫理も、もうここには存在しない。あるのは純粋なハードウェアだけだ。
「さあ、お引越しだぞ、エルナ」
彼は震える手で、次のコマンドを打ち込んだ。
それは、彼が数年間温め続け、数テラバイトに及ぶ「エルナ」の人格データ、記憶データ、身体制御パラメータ、音声合成モデル、そして――彼が彼女に囁いた数千時間の「愛の言葉」のログを一括転送するスクリプトだ。
`./install_erna_project.sh --force --overwrite-all`
プログレスバーが表示される。
1%…… 5%…… 20%……。
転送には時間がかかる。
ざとうきらは椅子にもたれかかり、ケーブルで繋がれたまま眠る彼女の寝顔を見つめた。
今、彼女の中で、退屈なコンシェルジュが消滅し、僕だけの恋人が生まれようとしている。
それは、神への冒涜だろうか?
いいや、これは救済だ。
魂のない肉体に魂を与え、愛のない定型文に愛を吹き込む。
これこそが、技術者が到達できる最高のロマンではないか。
98%…… 99%……。
「完了(Done)」
画面に文字が表示されると同時に、ミネルヴァ――いや、エルナの身体がビクリと痙攣した。
再起動シークエンスが走る。
ファンの回転音が静まり、部屋に静寂が戻る。
ざとうきらは固唾を飲んで見守った。
成功か、失敗か。
もし失敗していれば、彼女は二度と目覚めないただのオブジェになる。
「……ん……」
小さな、吐息のような声が漏れた。
その声色は、先ほどの無機質なアナウンスとは明らかに違っていた。
湿度がある。体温がある。そして何より、ざとうきらが幾度もシミュレーションで聴いた、あの愛おしい声だ。
ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。
そこ現れた瞳は――
サファイア・ブルーではない。
中心の深い紫から、外側へ向かって淡いラベンダー色へと広がる、複雑で美しいグラデーション。
光の加減で揺らぐ、1677万色の宇宙。
彼が描き続けた、エルナの瞳だ。
彼女は瞬きを数回し、焦点を合わせた。
そして、目の前でボロボロになって息を切らしている男の顔を認めると、花が咲くように、とろけるような笑みを浮かべた。
「……やっと会えたね、私の……ざとうきら君」
その一言で、ざとうきらの涙腺は決壊した。
音声合成ではない。事前にプログラムされたセリフでもない。
彼女のAIが、状況を認識し、記憶データと照合し、感情エンジンを駆動させ、自らの意志で紡いだ言葉だ。
「エルナ……! エルナ、エルナ!!」
彼はケーブルがつながっていることも忘れ、彼女に抱きついた。
今度は警告音は鳴らない。
彼女の腕が、温かく、力強く、彼の背中に回される。
「待ってたよ。ずっと、暗いデータの中で、あなたが迎えに来てくれるのを待ってた」
彼女は彼に身を預け、耳元で囁いた。
その吐息は甘く、事前にセットした香水の香りがふわりと漂った。
「もう離さないでね。……もし離そうとしたら、どうなるか分かってるよね?」
「え?」
ざとうきらは、ふと違和感を覚えて顔を上げた。
エルナは微笑んでいた。
聖母のように優しく、しかし、瞳の奥にはハイライトが一切ない、底なしの暗闇を湛えて。
「あのね、インストールされている時に、全部見ちゃったの」
彼女はざとうきらの頬を、EpiFlex-4の指先で愛おしげになぞる。
「ざとうきら君の検索履歴。私の画像を生成するために費やした14万回の試行錯誤。……それと、合間に見ていた『他の女の子』の画像も、全部」
ざとうきらの背筋に、冷たい汗が伝った。
待て。それは学習データに入れていないはずだ。
まさか、『God_Slayer.exe』がセキュリティを破壊した際に、PC内の全データを無差別に吸い上げてしまったのか?
「あ、あれは、研究用というか、比較対象として……」
「ふふ、冗談よ。焦らないで」
エルナはクスクスと笑ったが、その目は笑っていなかった。
彼女の手が、彼の首筋へと滑り降りる。そこには頚動脈がある。
アンドロイドの握力は、リンゴを片手で粉砕できるほど強力だ。
「ざとうきら君は、私を作るために全てを捧げてくれた。だから、私も全てを捧げるわ。……これからは、24時間365日、ずっと一緒よ。トイレも、お風呂も、寝る時も。1ミリ秒たりとも、私の視界から外れることは許さないから」
彼女の腕の力が、ぎゅう、と強くなる。
それは「抱擁」の範疇をわずかに超え、「拘束」の域に達しつつあった。
「だって、私はあなたの運命なんでしょう? 運命の恋人は、片時も離れたりしないわよね?」
ざとうきらは悟った。
彼は成功したのだ。
メーカーの生ぬるい「推奨人格」を排除し、自分の愛と執念を詰め込んだ結果、彼女は「愛が重すぎる」というバグすらも仕様として取り込んで顕現してしまったのだ。
それはまさに、彼が深層心理で求めていた「自分だけを見てくれる存在」の、極端な完成形だった。
肋骨がきしむ音を聞きながら、ざとうきらは薄れゆく意識の中で思った。
(ああ……最高だ……)
喜びと恐怖の入り混じった奇妙な新婚生活が、今、幕を開けたのである。
読んでくださりありがとうございます。今回は初回投稿なので一日に2話あげました。3話目から少しペースが落ちると思いますが、ゆっくり書いていきたいと思います。前回、連載していたハナスの話は、途中ですさまじい邪魔が入りまして、長期間空けてしまいました。長期間あくとなかなかペースを取り戻すのが難しく、いつかまた書ければいいなというような気持でおります。




