7 世界の真実
それは、何百回目かのループだった。
もう、回数を数えることすらやめて久しい。
俺たちはいつものように遊園地を回り、いつものアトラクションに乗り、いつものベンチで休憩をした。
俺の振る舞いは完璧だったはずだ。
タイミングよく笑い、適切な相槌を打ち、彼女が欲しがる言葉を先回りして投げかける。
それはまるで、観客のいない劇場で演じられる、完璧な悲劇。
俺は熟練の役者として、この『幸せな一日』という演目を遂行していた。
陽が落ち、空が茜色に染まる。
クライマックスの幕が上がる時間だ。
「……綺麗だね」
「ああ、そうだな」
観覧車のゴンドラの中。
俺は窓の外を見つめながら、心の中で秒数をカウントしていた。
あと五秒。あと三秒。
彼女は振り返り、『今日、優くんとここに来れて本当によかった』と言う。
そして俺たちはキスをする。
その数十分後、彼女は――あるいは俺たちの乗った電車は、何らかの災厄に見舞われて終わる。
それが、変えようのない脚本だ。
そしてこの死に方が俺にとっても美咲にとっても苦しくない死に方なのだ。
三、二、一。
ゼロ。
俺は少しだけ身構えた。来るはずの言葉を待つ。
だが。
「……優くん」
聞こえてきたのは、台本にはない、震えるような声だった。
世界のバグ、あるいは奇跡か。
「……優くん、こっち向いて?」
心臓が不自然に跳ねた。
違う。いつもと違う。
何百回と繰り返してきた中で、彼女がこのタイミングで俺を呼ぶことなんて一度もなかった。
俺は恐る恐る、窓から視線を外し、彼女の方を向いた。
息を呑んだ。
逆光の中、美咲は夕日など見ていなかった。
彼女は、俺だけを真っ直ぐに見つめていた。
その瞳には、楽しさや喜びといった感情はない。
あるのは、泣き出しそうなほどの――深い悲しみと、慈愛。
「……美咲? どうしたんだ、急に」
「無理……してるね」
彼女の静かな言葉が、ゴンドラ内の空気を凍らせた。
「え……?」
「笑ってるのに、泣いてる顔してる。……ずっと、そうだった」
俺は言葉を失った。
完璧だったはずだ。笑顔も、声のトーンも、微塵も悟らせないように振る舞ってきたはずだ。
なのに、なぜ。
「な、何を言ってるんだ。俺は楽しいよ、最高の誕生日じゃな……」
「もういいよ」
美咲が、そっと手を伸ばす。
その掌が俺の頬に触れた瞬間、温かい電流のようなものが全身を駆け巡った。
「もう頑張らなくていいよ、優くん」
それは、恋人の声ではなかった。
もっと根源的な、遠い場所から響く祈りのような響き。
「私はね、優くんと一緒にいられて幸せだった。今日という日が、最後になったとしても」
「最後なんて言うな!」
俺は反射的に叫んでいた。
違う、最後になんてさせない。俺が何度でも繰り返して、何度でも君と幸せな今日を永遠に続ける。
だが、美咲は悲しげに首を横に振った。
「ううん。運命は、変えられないこともあるの。でもね……」
彼女は俺の頬を両手で包み込み、真正面から俺の瞳を覗き込んだ。
「優くんがここに囚われ続けるのは、違うよ」
「とらわれて……いる?」
その言葉が、雷のように脳髄を貫いた。
思考の歯車が、軋みを上げて回転を始める。
――囚われているのは、誰だ?
――死の運命にあるのは、誰だ?
俺は思い出す。
あの日。最初のループの日。
刺された瞬間の衝撃。焼けるような背中の熱。
そして、その後のループでの数々の違和感。
俺は二度目の日以降、痛みを一度も感じていなかった。熱さも感じていなかった。思えばこの手の温もり、久しぶりに感じる気がする。
これまで何百回と遊園地でデートを繰り返したが、繋ぐその手に温もりなど無かった。いや、感じなかったはずだ。だが今は感じる。
そしてなぜ、美咲は毎回『違う死に方』をするのに、俺だけは常に『目撃者』として生き残る?
(ああ……そうか)
視界が滲む。
真実が、残酷なほど鮮明に浮かび上がってくる。
美咲が死ぬから、ループしていたんじゃない。
俺が死んでいるから、時間が進まなかったんだ。
この世界は、彼女を閉じ込める檻じゃない。
死を受け入れられない俺の魂が作り出した、未練の箱庭だったんだ。
俺は彼女を救おうとして、逆に彼女の幻影をこの煉獄に縛り付けていたのだ。
「気づいた?」
美咲がふわりと微笑む。
その笑顔は、俺の記憶の中にあるどの美咲よりも美しく、そして儚かった。
「私ね、ずっと祈ってたの。優くんに届くように。……自分を責めないでって。私は大丈夫だからって」
「美咲……」
「優くんには、私がいない世界でも、笑っていてほしい。それが、私の一番の願いだから」
それは、この箱庭の幻影が言っている言葉なのか。
それとも、現実世界で生きている彼女の祈りが、次元を超えて俺に届いたのか。
分からない。
けれど、その言葉は凍り付いていた俺の心を溶かすには十分だった。
別れの決断。俺の手が震える。
彼女の手を握り返す。温かい。この温もりを手放すなんて、できるわけがない。
でも、そうしなきゃいけないんだ。
これ以上、俺のエゴで彼女を殺し続けるわけにはいかない。
「……ごめん」
喉の奥から、嗚咽と共に言葉が漏れる。
「俺、間違ってた。君を救うんじゃなくて……俺が、行かなきゃいけなかったんだな」
認めた瞬間、ゴンドラが微かに揺れた。
窓の外の景色が、ノイズのように揺らぎ始める。
夕焼けの空に、無数のヒビが入っていく。
「優くん。出会ってくれて、ありがとう」
「……俺の方こそ。君と過ごした三年間は、俺の宝物だ。死んでも……いや、死んだって色褪せない」
俺はポケットから、ずっと渡せなかったベルベットのケースを取り出した。
「プロポーズ……するつもりだったんだ……ずっと渡せなかった。今日を乗りきるまではって……。でもこれを渡す事で俺の未練は昇華する気がする」
美咲の前に片膝をつき、ケースを開く。
そして美咲を一点に見つめ、言葉を紡ぐ。
「……受け取ってくれますか?」
彼女の目から涙が溢れ出ていた。だが、それは悲しみの涙でないことは一目瞭然であった。
「……はい!」
指輪を取り出し、彼女の左手の薬指に通す。
サイズはぴったりだった。
彼女が俺の胸に飛び込んでくる。
俺は強く、強く抱きしめ返した。
もう、後悔はない。
恐怖もない。
あるのは、透き通るような愛おしさだけ。
「愛してるよ、美咲」
「私も……愛してる」
視界がぼやける。頬を冷たい何かが流れていく。
……涙だ。
涙が流れるなんていつぶりだろうか。
ループする世界で枯れてしまった涙。
別れが悲しいからではない。今この瞬間が、なによりも幸せなのだ――。
世界には亀裂が走り、今にも崩壊寸前であった。
どうやら別れのときが来たみたいだ。
「……さようなら、美咲」
「……さようなら、優くん」
俺たちが唇を重ねた瞬間。
パリン、と世界が砕け散った。
夕日も、観覧車も、遊園地も、全てが光の粒子となって弾け飛ぶ。
俺の意識は、白く眩しい光の中へと吸い込まれていった。
長く、苦しかった一日が、今ようやく終わろうとしていた。
作品を読んでいただきありがとうございます!
この結末、予想できましたか?
ループの中にちょっとした違和感を所々入れていたので、勘が鋭い方なら……。
タイムリープ物と思いきや、実は死後の世界。あるいは思念。そしてそこに育まれる真実の愛の物語なのです。
次回で最終話です。
次回もお楽しみに……ではなく、ティッシュとハンカチを忘れずに!




