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死者との婚約 ~終わらない世界の果てに~  作者: 水辺 京


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5/8

5 二度目の朝

 喪失感。

 目覚めた瞬間、胸に残っていたのは、ひどく冷たい穴の開いたような感覚だった。

 何か大切なものを失ったような、あるいは長い悪夢を見ていたような……。


 小鳥の囀りが、鼓膜を優しく震わせる。

 遮光カーテンの隙間から漏れ出す光の粒子。隣で聞こえる穏やかな寝息。

 世界は、残酷なほど平和な朝を迎えていた。


 俺はゆっくりと目を開ける。

 時計の針は六時を回ったところだ。まだアラームも鳴っていないのに、意識は驚くほど覚醒していた。

 ……奇妙な感覚だ。


 長い悪夢を見ていたような気もするし、泥のように深く眠っていた気もする。

 ただ、胸の奥に、黒いおりのような不安だけがへばりついていた。

 隣で眠る美咲の顔を見る。その安らかな寝顔を確認して初めて、肺に酸素が入ってくるような安堵を覚えた。


 起こさないようにベッドを抜け出し、リビングへ向かう。

 使い慣れたコーヒーメーカーに豆をセットし、スイッチを入れる。

 コポコポ、という抽出音が静かな部屋に響き始める。


 漂ってくる香ばしい香り。

 それはいつも通りのルーティンのはずだった。

 だが、コーヒーが出来上がるのを待つ間、テーブルの上のテレビのリモコンに手を伸ばした瞬間――指先がピタリと止まった。


(……待てよ?)


 脳裏に、強烈な既視感が走った。

 俺は知っている。このボタンを押せば、どのチャンネルで、どんなニュースが流れているかを。


 ――舞砂駅周辺で発生した通り魔事件。

 ――ブルーシート。点滅する赤色灯。

 ――『犯人は逃走中』というアナウンサーの声。

 まさか。

 俺は恐る恐る電源ボタンを押し込んだ。

 画面が明るくなり、朝のニュース番組が映し出される。


『――次のニュースです。未明、舞砂駅周辺で発生した通り魔事件について、警察は逃走中の男の行方を追っています』


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 同じだ。一言一句、俺の脳内に浮かんだ内容と一致している。

 ガタガタと、リモコンを持つ手が震えだす。


 舞砂駅。

 その単語が耳に入った瞬間、背中に冷たい虫が這うような悪寒が走った。

 ただのニュースだ。被害者が自分なわけでもない。

 なのに、脳裏には鮮明なノイズが走る。


 灰色のフード。銀色の刃。そして、ぬるりとした液体の感触。

 息ができない。まるで、本当に刺されたかのような幻痛が背中を貫く。


「優くん? どうしたの?」


 背後からの声に、俺は弾かれたように振り返った。

 いつの間にか起きてきた美咲が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「あ……いや、大丈夫」


 美咲の声で、世界が正常に戻った。

 手の震えは止まっていた。だが、額には冷や汗が滲んでいる。

 やはりおかしい。今日の俺は、何か変だ。

 俺は不安を仮面の下に押し隠し、無理やり笑顔を作った。


「おはよう、美咲。誕生日おめでとう」

「ありがとう! えへへ、一番に言ってもらえちゃった」


 彼女は花が咲いたような笑顔を見せる。

 その笑顔も、どこかで見覚えがある気がした。

 いや、見覚えがあるのは当然だ。俺たちは三年も付き合っているのだから。


 俺は必死に自分に言い聞かせ、今日をスタートさせた。

 だが、家を出てからも違和感は加速する一方だった。

 駅までの道のり。すれ違う人々の顔。車窓から見える広告。

 全てが『知っている』。

 まるで、一度クリアしたゲームをもう一度プレイしているような、退屈で不気味な全能感。


 決定打は、駅前のコンビニだった。

 美咲に『いつもの』を頼まれた瞬間、俺の脳は答えを弾き出していた。

 ――ない。売り切れだ。

 まさか、と思いながら棚へ向かう。

 そこには、俺の予知通り、ぽっかりと空いたスペースがあった。


(……能力、なのか?)


 そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。

 だが、これはスーパーパワーなんていう便利な代物じゃない。

 もっと禍々しい、運命のレコード針が溝に嵌まってしまったような感覚だ。

 俺は恐怖を誤魔化すように、代わりのココアを手に取った。


 遊園地に入ってからは、努めて明るく振る舞った。

 美咲の笑顔を見ている間だけは、あの気味の悪い既視感を忘れられたからだ。

 だが、夕暮れの観覧車で、その逃避も限界を迎えた。


 茜色に染まる空。密室のゴンドラ。

 黄金色の光の中で、美咲が俺を見つめている。

 知っている。この後、俺たちはキスをする。そして『来世でも一緒だ』と誓い合う。

 その記憶があまりにも鮮明すぎて、俺は彼女から目を逸らしてしまった。


「優くん?」

「……ごめん、ちょっと眩しくて」

「もう、ムードないなあ」


 彼女はクスクスと笑い、俺の肩に頭をもたせかけた。

 キスはしなかった。

 記憶と違う行動を取れたことに、俺は少しだけ安堵した。

 運命は変えられる。この不気味な既視感も、ただの思い過ごしだ。


 遊園地を後にし、帰りの電車に乗り込む。

 目的地の駅まではあと少し。

 そこで降りて、予約したレストランへ行き、プロポーズをする。

 それが完璧なプランだ。


『次は――、舞砂。舞砂駅です』


 車内アナウンスが駅名を告げた瞬間。

 俺の全身が、警鐘を鳴らした。

 ――降りるな。

 ――そこに行けば、終わる。

 根拠はない。だが、強烈な拒絶反応が俺の足を床に縫い付けていた。


 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 ホームに滑り込む電車。開くドア。

 ホームの向こう側の闇が、巨大な口を開けて俺たちを待っているように見えた。


「優くん? 降りないの?」


 美咲が不思議そうに俺の手を引く。

 その手を取れば、死ぬ。

 理屈を超えた本能がそう叫んでいた。


「……だめだ」

「え?」

「降りない。このまま乗っていよう」

「えっ、でもレストランの予約が」

「いいんだ! 頼むから降りないでくれ!」


 悲鳴のような声が出てしまった。

 美咲は驚いたように目を見開いたが、俺の形相に気圧されたのか、大人しく座席に戻った。

 プシュー、と音を立ててドアが閉まる。

 電車が動き出す。


 遠ざかる駅のホーム。そこにあるはずの『死』から逃れられたことに、俺は深い息を吐いた。

 助かった。なぜそう思ったのかは分からない。

 だが、プランを崩してでも、あの駅を避けたことは正解だったはずだ。


 遠回りになってもいい。別の店を探せばいい。

 美咲が生きてさえいれば、それで……。


 ガガガガガッ!!


 思考を遮断したのは、鼓膜をつんざくような金属音だった。

 唐突な急ブレーキ。慣性の法則に従い、乗客たちの体が将棋倒しになる。


「きゃっ!?」

「美咲ッ!」


 俺はとっさに彼女を抱きすくめようとした。

 だが、世界はそこで天地逆転した。

 凄まじい衝撃。ひしゃげる鉄の音。窓ガラスが砕け散る破砕音。


 脱線だ。

 視界が回転し、俺の体は車内のポールに叩きつけられた。だが、自然と痛みは感じなかった。美咲のことで頭がいっぱいだったからなのかもしれない。

 薄れゆく意識の中で、必死に美咲を探した。そして俺は見た。

 ひしゃげたドアの隙間から見える、砕け散った美咲の携帯ストラップを。


(……あぁ)


 理解した。逃げられないのだと。

 どのルートを選ぼうと、結末は決まっているのだと。

 神様は、俺にやり直しの機会を与えたのではない。


 これは、愛する人を救えない無力さを永遠に味わわせるための、悪趣味な罰なのだ。

 遠のく意識の中で、俺は血の涙を流しながら誓った。


 何度でも、何度でも繰り返してやる。

 このふざけた運命が根負けするまで――。


 俺の意識は、再び闇へと落ちていった。

作品を読んでいただきありがとうございます!


回避したはずの死。それは別の形で牙を剥いてきましたね。

何をしても助からない。そんな状況のとき、皆さんなら絶対にここなら運命が死を宣告してきても大丈夫だ!

と思える場所はありますか?


次回もお楽しみに!

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