5 二度目の朝
喪失感。
目覚めた瞬間、胸に残っていたのは、ひどく冷たい穴の開いたような感覚だった。
何か大切なものを失ったような、あるいは長い悪夢を見ていたような……。
小鳥の囀りが、鼓膜を優しく震わせる。
遮光カーテンの隙間から漏れ出す光の粒子。隣で聞こえる穏やかな寝息。
世界は、残酷なほど平和な朝を迎えていた。
俺はゆっくりと目を開ける。
時計の針は六時を回ったところだ。まだアラームも鳴っていないのに、意識は驚くほど覚醒していた。
……奇妙な感覚だ。
長い悪夢を見ていたような気もするし、泥のように深く眠っていた気もする。
ただ、胸の奥に、黒い澱のような不安だけがへばりついていた。
隣で眠る美咲の顔を見る。その安らかな寝顔を確認して初めて、肺に酸素が入ってくるような安堵を覚えた。
起こさないようにベッドを抜け出し、リビングへ向かう。
使い慣れたコーヒーメーカーに豆をセットし、スイッチを入れる。
コポコポ、という抽出音が静かな部屋に響き始める。
漂ってくる香ばしい香り。
それはいつも通りのルーティンのはずだった。
だが、コーヒーが出来上がるのを待つ間、テーブルの上のテレビのリモコンに手を伸ばした瞬間――指先がピタリと止まった。
(……待てよ?)
脳裏に、強烈な既視感が走った。
俺は知っている。このボタンを押せば、どのチャンネルで、どんなニュースが流れているかを。
――舞砂駅周辺で発生した通り魔事件。
――ブルーシート。点滅する赤色灯。
――『犯人は逃走中』というアナウンサーの声。
まさか。
俺は恐る恐る電源ボタンを押し込んだ。
画面が明るくなり、朝のニュース番組が映し出される。
『――次のニュースです。未明、舞砂駅周辺で発生した通り魔事件について、警察は逃走中の男の行方を追っています』
ドクン、と心臓が跳ねた。
同じだ。一言一句、俺の脳内に浮かんだ内容と一致している。
ガタガタと、リモコンを持つ手が震えだす。
舞砂駅。
その単語が耳に入った瞬間、背中に冷たい虫が這うような悪寒が走った。
ただのニュースだ。被害者が自分なわけでもない。
なのに、脳裏には鮮明なノイズが走る。
灰色のフード。銀色の刃。そして、ぬるりとした液体の感触。
息ができない。まるで、本当に刺されたかのような幻痛が背中を貫く。
「優くん? どうしたの?」
背後からの声に、俺は弾かれたように振り返った。
いつの間にか起きてきた美咲が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「あ……いや、大丈夫」
美咲の声で、世界が正常に戻った。
手の震えは止まっていた。だが、額には冷や汗が滲んでいる。
やはりおかしい。今日の俺は、何か変だ。
俺は不安を仮面の下に押し隠し、無理やり笑顔を作った。
「おはよう、美咲。誕生日おめでとう」
「ありがとう! えへへ、一番に言ってもらえちゃった」
彼女は花が咲いたような笑顔を見せる。
その笑顔も、どこかで見覚えがある気がした。
いや、見覚えがあるのは当然だ。俺たちは三年も付き合っているのだから。
俺は必死に自分に言い聞かせ、今日をスタートさせた。
だが、家を出てからも違和感は加速する一方だった。
駅までの道のり。すれ違う人々の顔。車窓から見える広告。
全てが『知っている』。
まるで、一度クリアしたゲームをもう一度プレイしているような、退屈で不気味な全能感。
決定打は、駅前のコンビニだった。
美咲に『いつもの』を頼まれた瞬間、俺の脳は答えを弾き出していた。
――ない。売り切れだ。
まさか、と思いながら棚へ向かう。
そこには、俺の予知通り、ぽっかりと空いたスペースがあった。
(……能力、なのか?)
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。
だが、これはスーパーパワーなんていう便利な代物じゃない。
もっと禍々しい、運命のレコード針が溝に嵌まってしまったような感覚だ。
俺は恐怖を誤魔化すように、代わりのココアを手に取った。
遊園地に入ってからは、努めて明るく振る舞った。
美咲の笑顔を見ている間だけは、あの気味の悪い既視感を忘れられたからだ。
だが、夕暮れの観覧車で、その逃避も限界を迎えた。
茜色に染まる空。密室のゴンドラ。
黄金色の光の中で、美咲が俺を見つめている。
知っている。この後、俺たちはキスをする。そして『来世でも一緒だ』と誓い合う。
その記憶があまりにも鮮明すぎて、俺は彼女から目を逸らしてしまった。
「優くん?」
「……ごめん、ちょっと眩しくて」
「もう、ムードないなあ」
彼女はクスクスと笑い、俺の肩に頭をもたせかけた。
キスはしなかった。
記憶と違う行動を取れたことに、俺は少しだけ安堵した。
運命は変えられる。この不気味な既視感も、ただの思い過ごしだ。
遊園地を後にし、帰りの電車に乗り込む。
目的地の駅まではあと少し。
そこで降りて、予約したレストランへ行き、プロポーズをする。
それが完璧なプランだ。
『次は――、舞砂。舞砂駅です』
車内アナウンスが駅名を告げた瞬間。
俺の全身が、警鐘を鳴らした。
――降りるな。
――そこに行けば、終わる。
根拠はない。だが、強烈な拒絶反応が俺の足を床に縫い付けていた。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
ホームに滑り込む電車。開くドア。
ホームの向こう側の闇が、巨大な口を開けて俺たちを待っているように見えた。
「優くん? 降りないの?」
美咲が不思議そうに俺の手を引く。
その手を取れば、死ぬ。
理屈を超えた本能がそう叫んでいた。
「……だめだ」
「え?」
「降りない。このまま乗っていよう」
「えっ、でもレストランの予約が」
「いいんだ! 頼むから降りないでくれ!」
悲鳴のような声が出てしまった。
美咲は驚いたように目を見開いたが、俺の形相に気圧されたのか、大人しく座席に戻った。
プシュー、と音を立ててドアが閉まる。
電車が動き出す。
遠ざかる駅のホーム。そこにあるはずの『死』から逃れられたことに、俺は深い息を吐いた。
助かった。なぜそう思ったのかは分からない。
だが、プランを崩してでも、あの駅を避けたことは正解だったはずだ。
遠回りになってもいい。別の店を探せばいい。
美咲が生きてさえいれば、それで……。
ガガガガガッ!!
思考を遮断したのは、鼓膜をつんざくような金属音だった。
唐突な急ブレーキ。慣性の法則に従い、乗客たちの体が将棋倒しになる。
「きゃっ!?」
「美咲ッ!」
俺はとっさに彼女を抱きすくめようとした。
だが、世界はそこで天地逆転した。
凄まじい衝撃。ひしゃげる鉄の音。窓ガラスが砕け散る破砕音。
脱線だ。
視界が回転し、俺の体は車内のポールに叩きつけられた。だが、自然と痛みは感じなかった。美咲のことで頭がいっぱいだったからなのかもしれない。
薄れゆく意識の中で、必死に美咲を探した。そして俺は見た。
ひしゃげたドアの隙間から見える、砕け散った美咲の携帯ストラップを。
(……あぁ)
理解した。逃げられないのだと。
どのルートを選ぼうと、結末は決まっているのだと。
神様は、俺にやり直しの機会を与えたのではない。
これは、愛する人を救えない無力さを永遠に味わわせるための、悪趣味な罰なのだ。
遠のく意識の中で、俺は血の涙を流しながら誓った。
何度でも、何度でも繰り返してやる。
このふざけた運命が根負けするまで――。
俺の意識は、再び闇へと落ちていった。
作品を読んでいただきありがとうございます!
回避したはずの死。それは別の形で牙を剥いてきましたね。
何をしても助からない。そんな状況のとき、皆さんなら絶対にここなら運命が死を宣告してきても大丈夫だ!
と思える場所はありますか?
次回もお楽しみに!




