4 終わりの始まり
観覧車を降りても、二人の間には甘い余韻が漂っていた。
つないだ手。触れ合う肩。
言葉を交わさなくても、互いの鼓動が聞こえてきそうな距離感。
「……反則だよ、あんなの」
人混みに紛れながら、美咲がぼそりと呟く。
その頬は、夕焼けが終わった今でも朱に染まっているように見えた。
彼女の羞恥心が伝染したのか、俺の心臓も早鐘を打っている。だが、これはキスのせいだけではない。
その後遊園地を後にし、電車に揺られて数駅。
駅のホームに降り立つと、そこはネオンが瞬く夜の街だった。
行き交うサラリーマン、笑い合う学生たち。街はこれからが本番だとばかりに熱気を帯びている。
俺はポケットの中の硬質なケースを、指先で確かめた。
手汗で滑りそうなそれを強く握りしめる。
「優くん? 顔、赤いよ。どうしたの?」
「え? いや、なんでもないよ! ……トイレ寄ってきてもいい?」
「そう? じゃあ、そこ入ろうか!」
駅ビルのトイレに入り、個室の鏡と向き合う。
映っているのは、情けないほど強張った顔をした男だ。
「……ふぅーっ。よし」
冷たい水で顔を洗い、深く息を吐く。
大丈夫だ。シミュレーションは完璧。店も予約済み。あとは指輪を渡して、「結婚してください」と言うだけだ。
鋼の心臓なんて持っていないが、彼女への想いだけなら誰にも負けない。
鏡の中の自分を睨みつけ、俺は個室を出た。
改札前で待っていた美咲は、戻ってきた俺を見つけると、花が咲くように笑った。
「おかえり。顔色、良くなったね」
「ああ、もう平気だ。行こう、予約の時間ギリギリだ」
「はーい!」
再び手を繋ぎ、繁華街の雑踏へと足を踏み入れる。
レストランは目と鼻の先だ。
信号が変わり、横断歩道を渡る。
周囲の喧騒――笑い声、客引きの声、車のクラクション。それら全てが、これから始まる俺たちの門出を祝うファンファーレのように思えた。
だが。
違和感は唐突に訪れた。
背後から、波が引くように人の話し声が止んだのだ。
代わりに聞こえてきたのは、悲鳴とも怒号ともつかない濁った音。
「――え?」
美咲が不思議そうに振り返ろうとした、その時だ。
ドォンッ!
背中に、ダンプカーに撥ねられたような重い衝撃が走った。
痛みはない。ただ、圧倒的な質量に突き飛ばされ、俺の体は無様に前のめりに倒れ込んだ。
繋いでいた美咲の手が離れる。
「っ……痛っ……」
アスファルトに顎を打ち付け、視界が明滅する。
何だ? 誰かとぶつかったのか?
起き上がろうとして――背中が焼けるように熱いことに気づいた。
手を回すと、ぬるりとした生暖かい液体が指に絡みつく。
血だ。
状況を理解しようとする脳が、恐怖でショート寸前になる。
「きゃああああああああああ!!」
耳をつんざくような悲鳴。美咲の声だ。
俺は激痛に悲鳴を上げる体を無理やり捻じ曲げ、顔を上げた。
「美……咲……?」
視界の端に映ったのは、灰色のパーカーを目深に被った男だった。
その手には、街灯の光を鈍く反射するサバイバルナイフが握られている。
刃からは、どす黒い雫が滴り落ちていた。
男は、無機質な動作で腕を振り上げた。
その視線の先にいるのは、腰を抜かして震える美咲だ。
「や、め――」
俺が手を伸ばすよりも速く、凶刃が振り下ろされる。
肉を断つ嫌な音が響き、彼女の白いコートに赤い花が咲いた。
男はまるで事務作業でもこなすかのように、淡々と目先の人にナイフを突き立て続ける。
「が、あ……ぁ……」
美咲の口から、空気の漏れるような音がした。
彼女の体がゆっくりと傾き、アスファルトに崩れ落ちる。
周囲ではようやくパニックが伝播し、人々が悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
だが、俺の世界にはもう、倒れた彼女しか映っていなかった。
「み、さき……!」
這った。
背中から血が噴き出す感覚がある。手足が鉛のように重い。
それでも、俺は這いずった。
数メートルが、数キロにも感じられる。
血だまりの中に横たわる彼女の元へ。
虚ろに開かれた瞳。小刻みに痙攣する指先。
先ほどまで幸せだと笑っていた唇からは、赤い泡が溢れている。
「しっかり、しろ……いま、救急車……」
俺の手が、彼女の頬に触れる。冷たい。あまりにも急速に、命がこぼれ落ちていく。
薄れゆく意識の中で、今朝のニュース音声がリフレインした。
『連続通り魔事件』『犯人は逃走中』
――俺のせいだ。
俺が油断したから。俺がこの場所を選んだから。俺が、浮かれていたから。
後悔が、背中の痛みなど比にならないほどの激痛となって心臓を鷲掴みにする。
死にたくない。
いや、俺はどうでもいい。彼女を。美咲だけは。
こんな理不尽な終わり方が、あってたまるか。
(戻せ……)
涙で滲む視界の奥、動かなくなった彼女の手を強く握りしめる。
(神様でも悪魔でもいい……このふざけた運命を、俺にやり直させろ……!)
祈りにも似た慟哭が脳内を駆け巡った瞬間。
プツン、と世界のアンプが落ちるように、俺の意識は闇に落ちた。
作品を読んでいただきありがとうございます!
幸せな笑顔を奪った犯人。なぜそんなことをしたのか?
きっとそこには理由なんて無いのかもしれませんね。
次話からついにループする世界が始まります!
優希はループから抜け出すことができるのか……。
次回もお楽しみに!




