噛みたいαと大きい背中8
成績が良い。学とって喜ばしいことである。大学での成績、研究成果が認められれば、やはり将来への道は開きやすい。他の学生も同じだろうがオメガにとっては特にそうだ。
社会構造は日々変化しているものの、いまだにオメガへの差別や制限は根強い。そして、ホルモン治療技術は進んでいるものアルファとオメガの能力に差が出ることはいまだに究明されていない。アルファの能力にはオメガは劣るのだ。それを踏まえると、オメガである学が大学で良い成績を収めることは努力を要することであった。
幸運なことに、大学の教授講師たちは、学が良い成績を収めることを歓迎しているようだ。学問を修めに来ているのだから、勉学に励む学生の方が教師たちには印象が良くみえる。講義をまじめに受け、課題を提出する。勉強すればするほど成績は良くなる。大学生として勉学に励む学にとって、それは良いことであった。
しかし、学は目立つ。そして、つま弾きにされている存在が目立つことはこの大学では良いことではない。
図書館で、学は久しぶりにアルファに絡まれていた。相手は同じ学年のアルファ男性達である。にぎやかで目立った集団で、大学内のイベントやサークル活動でもリーダーシップをとり、主役級の活動をしているグループだ。多少荒っぽいところもあり、ベータやオメガは一歩下がって様子を伺っていることが多い。
入学後、容姿で目立っていた学も、その集団に入るよう声を掛けられたこともあった。しかし、学がオメガだとわかり、その顔がアルファたちの行動を押さえつけるほどの威力があるとわかると。目に見える態度で手のひらを返してきたのだった。
オメガを蔑む気持ちを持つのにも関わらず、その相手の威圧に叶わないことは、アルファのプライドを刺激したらしかった。講義やグループ活動内でハブにされたり、居心地の悪い扱いを受けたりもする。大学生になって学も受け流すことを覚え、相手にしないように努めているが、絡まれるなら避けようがない。
「なんか、この前、王子様だったらしいじゃん」
一人のアルファが机の上にドカッと座った。あまり目立つような真似をしたくない学だが、大事な本の上に座られては不快感しかない。机の上ならまだ態度が悪いで済ませられるが、本の上に乗ったならば話が別だ。物を大切にしない、知識を踏みにじる、一般的に悪感情を抱かせる行為を目の前にして、学はむかつきを押さえられず、険のある声が出た。
「本が破れる」
学は相手を真正面からにらみつけた。
アルファの目が自分の顔、そして真っ青な瞳に吸い寄せられる。目をそらすことも叶わない、圧倒的な美しさ。それに吞まれたようにアルファが魅入られ、そして、怖気づいたのが学にも伝わった。
高校時代から大学生活の中で、学は自分の顔の価値を完全に理解していた。微笑めば慈愛のある天使のようで、見る物を恍惚と浮遊感のある表情に導く。学の囁きは悪魔のそれだ。実際に使ったことがあるのはごくわずかだが、皆操られた人形のように学の言うことを聞いた。その力は学が恐ろしくなるほどで、学は絶対に今後使わないと決めた。そして怒れば──、機嫌を損ねてはならない怪物に見とがめられた小動物のように、相手が委縮することをわかっていたのである。
学の視線に畏怖を覚えたのか、アルファは後ろずさっていた。そして、仲間にぶつかり、はっと我に返る。自分が学に惹きつけられていたとわかると、怒りの表情を浮かべた。学の目から視線をそらしながらも、学を力任せに突き飛ばす。
仲間がいるにも関わらず、オメガに気圧されたことを恥じているのが手に取るようにわかった。自分より格下の相手にビビったら、ボスの沽券に関わるのだ。
「水野、てめえ!」
椅子から落ちた学にアルファが迫った。胸倉を掴もうと手が伸びる。こんな開けた場所で手を下されるとは思えないが、相手は金持ちのアルファである。金を払えば暴力沙汰も封じ込められるのかもしれない。そんなことになったらまずい。問題を起こせば退学になるのはこちらの方かもしれない、と学は身をよじった。
ガシャン。
学とアルファの騒ぎでしんと静まり返っていた図書館に一つの音が響いた。大きな音だ。学も、学を取り囲んでいたアルファも周囲でその様子を眺めていた学生も、皆が音のした方に視線を集めた。この張り詰めた空間で音を響かせたのは何事なのか。
視線の先には椅子と共に少女がひっくり返っていた。図書館中の視線を集めているのも気にせず、のそのそと起き上がり、椅子を立て直し、再び大きな本を高い本棚へと戻そうとしている。ちょこまかと動くその姿は愛らしく見えるが、今の図書館の空気には似つかわしくない。
いばら照は本日も椅子に乗って高いところの本を戻そうとしていたらしい。今日は学が照を助けなかったので、丸椅子ごとひっくり返ったのである。
「ちっ」
アルファが舌打ちをした。照りの一連の行動で興をそがれたらしい。無理もない。彼女の忙しなくも、空気を一切無視するような行動は殺気を削りそうなほど場違いだったのだ。
アルファたちは倒れこんでいる学を振り返らずに連れ立って図書館から出ていった。学としては暴力沙汰、事件が起こらなくて一安心である。
それとともに、学はいばら照に一つの感想を抱いていた。
──あの雰囲気の中、ずいぶんマイペースな奴だな。
無論、人に注目されてしまう者はマイペースでなければやっていけないと思いつつ。