噛みたいαと大きい背中5
本日の学は図書館で視線を集めていた。感嘆するような羨望の眼差し、値踏みをするような粘っこい視線をたくさん感じる。学の一挙一動で周囲の空気が変わる、普段通りの日常だった。
しかし、慣れてはいるものの落ち着かず、気分が良いものではない。ベータの友人である九郎が居心地悪く座っている。彼は視線を集めることに慣れていないのだから無理もないだろう。学も視線をシャットアウトして課題に取り組みたかった。
「図書館じゃなくて、別なところに移ろう」
学は肩をすくめて友人に提案をした。学の顔をみて一瞬惚けた顔をした九郎だったが、そうだな、と言って荷物をまとめ始めた。課題に関する本については目星をつけた。あとは、ミーティングルームを借りて論文と合わせてまとめを作った方がいいだろう。
「なんだか悪いな」
九郎が困った顔で言う。気のいいやつで、よせばいいのにオメガの学と一緒に付きあってくれる貴重な友人である。前髪を長くして学同様に表情を隠している彼は、学という存在に慣れてくれたのか、学の顔に心を奪われる時間が短くなっていた。コミュニケーションにタイムラグがない、それだけでマナブにはありがたかった。大学の中では気の置けない友人である。
この大学はベータの学生も少ない。ベータ内でもオメガはお荷物扱いであるというのに、この九郎という男は心優しく、学に付き合ってくれているのだった。きっかけは、講義のグループワークだったが、講義が終了したにも関わらず声をかけてくれた九郎には感謝しかない。学の能力、そして内面を認めてくれたと思うと学は嬉しかった。
「大丈夫。行こうぜ」
学が椅子を立ちかけた時だった。
学に集まっていた視線が少なくなり、見られているという緊張感が薄れた。視線というものはかなり重たさを感じるものだ。それが、数十あるならなおさら。何かの発表会の時に視線が集まれば緊張するだろう。複数の目に晒されているということは、その時の感覚に似ていると思う。
学がこの場から立ち去ろうとするならば、周囲の視線は追従するはずだった。生まれてこの方、芸術家が彫った彫刻のように美しい顔で過ごしてきた学にとって、空気感は手に取るようにわかるようになっていた。その重苦しい空気が消えた。まるで、誰かに肩代わりされたように。
「見て、お姫様」
「来たよ」
周囲で女子学生のひそひそ声が聞こえる。急に始まった何か──学よりも面白いコンテンツ──を嘲笑するような、嫌な響きを感じる話し声だった。その細かい棘のある声色で、学生が笑っているのだ。
学が顔を上げて周囲を見渡すと、集まっていた視線はすべて別の場所に向けられていた。うわさ話をしている女子学生のその様子を学がじっと見ると、その視線に気が付いたのか顔を真っ赤にして呆然と立ち竦む。そして、はっと我に返ってその場から逃げていく。しかし、それもその少数だけの話で、他の学生はこそこそと嫌な感じで笑いを続けていた。
「この大学、お姫様なんているの?」
耳に入った情報をもとに、学が九郎に聞いた。この国にはお姫様と言われる存在はいないし、お姫様の階級の留学生の話も聞いたことがない。それに、そんなに高貴な存在がいるとしたら、こうして笑いの種にはならないだろう。
「お前、情報に疎いなあ」
九郎が呆れたように言った。その口ぶりだと、どうやら本当にお姫様がこの学校にはいるらしい。
「留学生か何かか?」
それにしては、さっきの学生たちの嘲笑は気になった。しかし、ちょっとしたことで注目されている自分やアルファからほとんど無視されているベータの九郎を鑑みると、他人を嘲ることに抵抗のない人種も一定数この大学にはいるのである。
「見ればわかる」
「見ればって……」
九郎があごでしゃくった。学がそちらを振り向くと、本棚の陰から分厚くて大きな本を抱えて歩いて来る少女が見えた。
そう、少女である。
そこにはお姫様と言っても過言ではない小さな女の子がいた。いや、女の子であるはずはないのだ。ここは大学なのだから。
「飛び級?」
海外のお姫様はこの国の学生と同じくらいの教育レベルなのかもしれない。学は素直な感想を口にした。
「同じ年らしいよ。背が小さいんだって」
九郎がマナブに説明する。同年齢にしては本当に小さい。学と並べば中学生くらいに見えるだろう。他人からはお兄ちゃん扱いされそうだ。
ここが中学校の図書館だと言われれば、本好きな少女なのだろうと思うのだが、ここは大学。他の成熟した学生に囲まれていると確かに異質な存在だ。学と同じくらいの視線を集めるのも理解できた。