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 屋敷につくなり、フランツはマリアナの手を引いて馬車から降りる。驚き、静止しようとする使用人たちを押しのけて、フランツが書斎に入ると、扉は勢いよく閉じて大きな音を立てた。


「君は……」

 手は繋いだまま、ずっと黙っていたフランツが振り返り、やっと口を開いた。

「……君は、アーノルドと結婚するつもりなのか」

 全く予想もしなかったその言葉に、マリアナは混乱する。アーノルドは確かに素敵な男性だ。でも、彼と結婚なんて考えたこともない。そもそも彼は、ずっとフリーデが好きだった。フランツは、どうしてそんな考えに至ったのだろうかと考えるが、マリアナにはまったくわからない。

「バルコニーでの君たちの会話が聞こえた━━アーノルドがずっと君を好きだったと言って……君も嬉しいと……彼を受け入れていた」

 その会話は。マリアナは、何かが少しずつ繋がっていくのを感じる。

「でも、俺は、君と別れる気はない」

 フランツは、マリアナの手を握りしめたまま、もう一方の手で彼女を抱きしめる。

「弱みにつけ込んで、結婚を迫るような男なんてうんざりしているんだろう。恨み言を言われるのが怖くて、いつ別れを突きつけられるかと怖くて、さんざん君を避け続けた卑怯な男だ。それは自分が一番よくわかっている」

 マリアナの中で、かちりとすべてが合わさった音がする。

 ━━私はもう一度、信じていいの?

 マリアナの心の中に、にわかに希望が灯る。


「だけど、君がいくらこの結婚を辛く思っていても、君が誰のことを想っていても……俺は絶対に君とは別れない」


 マリアナは何も言わず、空いている手でフランツをぐっと押す。

 フランツは、それに逆らうことなく彼女から手を離した。その手は、まるで糸が切れた操り人形のように落ちていく。

 彼女の行動を拒絶と思ったのだろう、傷つき虚な表情のフランツをまっすぐと見て、マリアナは言う。

「別れません」

「え……?」

 フランツが驚きに目を見開く。

「私も、侯爵様と別れる気はまったくないんです」

「……でも、君はアーノルドと」

「あのときは、アーノルドがフリーデと婚約したのをお祝いしていていました。彼はフリーデのことがずっと好きで、やっとその想いが叶ったのです」

 それから、フリーデもアーノルドを想っていたこと、そして、会話の中で、アーノルドとならフリーデは絶対幸せになれるという意味の話をしたことを話す。きっと、フランツはこの部分を聞いたのだろう。

 マリアナの話を聞くにつれて、フランツはだんだんと自分の勘違いに気づいたようだ。

「俺は……なんてことを……君にもアーノルドにも……」

 フランツは口元を片手で覆って黙り込む。

 マリアナは、今度は自分からフランツの手をとり、両手で強く握りしめた。

「侯爵様、私たち、今日こそはちゃんと話ができますよね?」





「━━あのとき俺は、父に君の家を助けてほしいと頼んだんだ」

 フランツは、書斎のソファにマリアナを座らせると、自分もその隣に座る。マリアナの手は離さずに。

「そして、俺は父がなんと言おうと、マリアナをこの家の一員にするつもりだと。でも、父は聞く耳を持たなかった」

 フランツの父である前侯爵は、何よりも家の名誉と利益を重んじたのだ。それは貴族の家長の考え方として決して間違ってはいないのだろう。

「でも、俺はそんなものより君が大事だった。助けてくれたら、後継として必ずこの家を盛り立てる、後悔は絶対にさせないからと、毎日のように父を説得したけれど、無駄だった」

 まだ17歳の子どもに、家長である父親に逆らう力なんてなかった。フランツは、結局他国へ留学に出されてしまった。

「君に挨拶もできないまま、追い出されるようにしてこの国を出た。そのあと、君に何度も手紙を書いたんだ」

 でも、君からは一度も手紙が届かなかった、とフランツは呟く。

 その手紙はマリアナに届かないよう、前侯爵が手を回していたのだろう。

 そもそもマリアナは、フランツがどこにいるのかすら知る術はなかったのに。

「父からは、俺が留学先で婚約したから、もう関わらないようにとマリアナには言った、そして、マリアナには他に見合う男を紹介しておいたと聞かされた。だから手紙も何もこないのだと……そのときは目の前が真っ暗になったよ」

 冷静になれば、それが本当かどうか確かめる方法なんていくらでもあった。手紙がちゃんとマリアナに届いているのかどうかも。

 でも、当時は君を傷つけてしまったと本当に落ち込んでいて、そんなことまで考えが及ばなかったとフランツは言う。


「それで父が亡くなって……帰ってきたら君がまだ一人でいることを知って。これでやっと君を迎えに行けると思った」

 でも、とフランツは続ける。

「長い間連絡もできず、父からはあんな仕打ちを受けた後だ。俺の気持ちは変わらなくても、君はそうじゃないかもしれない。もし拒絶されたらと怖くなったんだ」

 そして実際会ってみれば、マリアナはフランツと下を向いて目を合わそうとせず、しかも何かを我慢するようにずっと手を強く握りしめていた。

 それをフランツは、マリアナがフランツへの怒りを抑え込もうとしているのではないかと焦った。これではこのまま結婚を申し込んでも断られるかもしれないと、資金提供の代わりにという名目で結婚を申し込んだのだと言う。

「何としても断られない方法をと焦って考えて……もちろん、こんなこと言い訳にもならないのはわかっているけれど」

 君にはもちろん、君のご両親にもあまりにも失礼な言い方をした。今思い出しても短絡的で自分の身勝手さに呆れるし、ただ後悔しかないと、フランツは眉を寄せ、苦しげに言葉を吐き出す。

「でも、父の行いを詫びたいと思ったのも、君の家の力になりたいと思ったのも本心だ。それだけはどうか信じてほしい」

 フランツは、まっすぐマリアナの目を見てそう告げる。そのフランツの目はこわばり、不安そうに揺れていた。

「それは疑っていません。実際助けられましたから」

 マリアナは感謝していますと言って、フランツを安心させるように微笑む。

 フランツがひとりずっと苦しんでいたのを知って、マリアナは胸が痛かった。

「もっと早く話し合えていれば、私もあのとき自分の気持ちをちゃんと伝えていれば。ふたりともこんなにつらい思いをしなくて済んだのに、こんなにすれ違わずに済んだのに……」

 マリアナは彼の手をぎゅっと握りしめた。

 フランツはそんなマリアナの様子にほっとしたのか、少しだけ目元を緩めながらかぶりを振る。

「いや、悪いのはすべて俺だ。勝手な思い込みで君も君の家族も傷つけてしまった」

 フランツは、ほんとうにすまないと詫びる。

「それに、久しぶりに会った君は昔よりもさらにきれいになっていて。他の男に取られる前に、何としても手に入れなければと焦ってしまったのも大きかった」

 マリアナは驚く。ずっと身なりに気を使う余裕がなかったせいで、あんなにみすぼらしい格好をしていたのに。

 それに、あのときフランツの顔を見られなかったのも、手をずっと握りしめていたのも、彼にそんな姿を見られたくなかったから。

 マリアナがそう言えば、フランツは片手で額を覆い、深くため息を吐いた。

「勘違いも甚だしいな……君に嫌われているかもと思ったら、頭が真っ白になってしまって……本当に、俺は君のこととなると冷静になれないよ」

 あのときも、あまりにきれいでまっすぐ顔を見られないくらいだったと言う。その目はとろりとした甘い輝きに満ちてマリアナを見つめている。

 その手が、そっとマリアナの白い頬に触れ、

「本当はずっと、こうして君の顔を見つめて、こうして触れたかった」

 その親指が、そっと唇のそばを掠めるように撫でる。

 フランツは、これまでのことはどれだけ謝っても足りないけどと前置きしながら、

「君が許してくれるなら、これからも君のそばにいたいんだ。……そして、君にもずっと俺のそばにいてほしい」

 どうか、と懇願するような色が混じったその声は、マリアナのこころを震わせる。

 マリアナがフランツの目を見つめて、はい、と答えると、ぎゅっと強く抱きしめられる。

 心配してくれている君のご両親にも、アーノルドにも二人で報告に行こう。

 マリアナは、フランツの腕の中で、そんな彼の言葉をうれしい気持ちで聞いていたのだった。





「実は、侯爵様にお願いがあるのですが」

 少し恥ずかしそうに切り出すマリアナに、フランツは君の願いなら何でもと嬉しそうに言う。

「……指輪が欲しいのです」

 マリアナは、アーノルドの指に輝いていた指輪のことを話す。ふたりが想いあっていることの証。憧れていたけれど、自分にはきっと縁のないものだと思っていたこと。

 フランツは申し訳なさそうに聞いていたが、ソファから立ち上がると机に向かう。

 そしてひきだしから何かを取り出すと、マリアナに差し出す。

 ふたつの揃いの指輪だった。

 繊細な模様が透し彫りにされたそれは、美しく輝いている。

「実は用意していて……でも、ずっと渡せずにいたんだ」

 フランツはマリアナの前に跪き、そっと彼女の手を取る。そして、許しを乞うようにマリアナを見る。もちろんと頷くマリアナ。フランツは、ゆっくりと指輪を彼女の指にはめた。それは、まるでマリアナの指に溶け込むように、滑らかにおさまる。

 マリアナの目には涙が浮かぶ。それは幸せな涙だ。

「昔、君に渡した指輪と同じサイズで作ったんだ。サイズが合ってよかった」

 マリアナは、彼が昔の指輪のことを覚えていてくれたのを嬉しく思う。そして、またあの指輪をつけられると思うと、幸せだった。

 マリアナは、もう一つの指輪を手に取ると、フランツの指にはめた。ふたりで顔見合わせて微笑み合う。

「とてもきれい……ありがとうございます。侯爵様」

 笑顔で指輪を見つめるマリアナ。そんな彼女を嬉しそうな、でも複雑そうな顔で見ていたフランツは、意を決したように口を開く。


「俺からもお願いしたいことがある」

 フランツの言葉に、マリアナはどんなことですかと首を傾げる。

「……名前で呼んでくれないか。昔みたいに」

 侯爵様という呼び方と、その改まった話し方が距離を感じて寂しかったと言う。

 マリアナは思わずくすくすと笑って、わかったわ、と言うと、

「━━フランツ」

 と彼の名を久しぶりに呼んだ。

 フランツは、彼女を強く抱き寄せるとその肩に顔を埋める。

「もういちど」

 マリアナも、彼の背中を抱きしめ、再び名を呼ぶ。

「……フランツ」

 フランツは、そっと体を離し、熱を帯びた目でマリアナを見つめる。

「……もういちど」

 マリアナが三たび名前を呼ぼうとすると、ゆっくりとフランツの顔が近づいてくる。

 三度目の名前は、二人の吐息に溶けていくのだった。





 ふたりが手を繋ぎながら書斎を出ると、そこには、侯爵家のすべての使用人が集まったのかと思うくらいの大人数が。

 彼らは、手を繋いだ主人たちの指に輝く指輪を見ると、わあっと一斉に歓声を上げる。

「ああ、よかった! 本当によかった!」

「おめでとうございます!」

「やっとですね! 意外と長かった!」

「お幸せに!」

「書斎の扉が厚すぎて全然聞こえなかったぁ!」

 一部の不届きな声を除き、皆から口々に祝われるも、何が起きたか分からず驚くマリアナ。

 皆の中から執事のヘルマンが出てきた。

「皆、お二人のことをとても心配していたのですよ。ここには、旦那様がまだ幼い頃から働いている者も多くおりますので、お会いしたことはなくとも、奥様のことはよく存じております」

 ヘルマンが言うには、使用人全員がマリアナには敬意を持って接するよう、フランツからよくよく言い聞かされていたとのこと。

 全員がマリアナに対するフランツの気持ちを知っていて、とてもやきもきしていたこと。

 さらには、指輪を用意していたことも知られていて、本当に渡せるのか不安だったこと。

 横を見れば、フランツが居心地悪そうにしている。

「全部あなたのおかげだったのね」

 マリアナが言えば、フランツはちょっとだけ恥ずかしそうに笑う。

ヘルマンは続ける。

「旦那様は、昔からずっと奥様のことがお好きでしたから。帰国してやっと結婚できたというのに、お二人とも思い詰めたような顔で……でも、これで私も安心できます」

 この年寄りの寿命が縮むところでしたよ、と言われてマリアナが恐縮していると、テレーゼが人混みをかき分けて出てくる。

「こうなったら、私からも奥様にご報告が」

 すると、

「ちょっと待ってくれテレーゼ」

と、なぜか焦り出すフランツ。

「いえ、待ちません。奥様、実はあのドレスやアクセサリーは、すべて私ではなく、旦那様がご自身で直接用意なさったものなのです」

 え?と、マリアナは横に立つフランツを見る。

 どれもマリアナの好みのものばかりで、さらによく似合うものばかりのドレスやアクセサリーたち。

「あれを全部?」

「……いや、どれも君に似合いそうだと思ったら止められなくて……」

 それはそれは大勢の商人を呼び、これはと思ったものはすべて買い集めたという。

 そればかりではなかった。


「奥様、私も! 私の話もお聞きください!」

 テレーゼの後ろから、フランツの部屋付きの男性使用人が手を挙げて勢いよく出てくる。

 彼が言うには、フランツがどんなに遅くなっても必ず邸に帰ってきていたのは、ヘルマンが報告するマリアナの様子を聞くためだったらしい。

 マリアナの健康状態や、何か困った様子はないか、そんなことを聞いていたそうだ。そして、使用人全員が「旦那様のことで悩んでいる」とフランツに言いたくて仕方がなかったと言う。

「あと、こう着状態を打破すべく、あの日書斎のドアをこっそり開けておいたのは私です。罰ならいくらでも受けます!」

 そう言って、男性使用人は深々とお辞儀をした。

 フランツが苦笑いで「お前の仕業か」と、ぼそっと言う。


 これがきっかけとなって、次々とまるで堰を切ったように使用人がフランツのことを話し出す。

 それは、いかにフランツがマリアナのことを想っているかを証明するものばかり。

「もう勘弁してくれ……」

 フランツは両手で顔を覆っている。見れば耳まで真っ赤だ。

 マリアナの中にフランツへの愛しさがさらに湧きあがってくる。やっぱりこの人しかいないと、マリアナは心から思う。

「あははっ」

 この家に嫁げたのが嬉しくて、みんなが楽しくて、マリアナは堪えきれずに声を出して笑った。

 人前で、しかも大勢の使用人の前。それは淑女にあるまじき行為だ。でも、今日は誰もそんなことは責めない。

 ならばあるまじきついでにと、マリアナはフランツにぎゅっと抱きつく。

 すると、周囲からわあっと大歓声があがる。

「フランツ、愛してる!」

 そう言えば、フランツは驚いた顔を満面の笑みにかえて、マリアナを強く抱きしめ返す。

「俺も愛してる!」

 その日の侯爵家は、更なる大歓声と温かい拍手に包まれたのだった。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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