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数日後、執事のヘルマンが、フランツからの伝言を持ってやってきた。
来週の夜に、夫婦同伴で出席しなければいけないパーティがあるから準備をしておくように、とのことだった。
マリアナは気が重かった。彼女とフランツの結婚のことは、すでに貴族の間で噂になっていることだろう。その上で、そっけない夫の態度を見られたら。
きっと、金で買われた令嬢なんて面白おかしく話されるに違いない。
この結婚は自分で決めたことだから後悔はなくても、勝手な噂話のターゲットになるのは、まだ若いマリアナには辛いことだ。
この邸に来てから何回目かもわからないため息をつく。
そんなマリアナをヘルマンは悲しげに見つめる。彼は何かを言いたげにしていたが、結局何も言わずに頭を下げると、静かに出て行った。
とりあえず今は悩んでいる場合ではないと、マリアナはパーティの準備をはじめる。
夫婦同伴の場への出席は、結婚の条件だ。
やっと元に戻りつつある実家のためにも、それだけは守らなくては。
マリアナは侍女のテレーゼを呼んで、当日身につけるドレスやアクセサリーの相談をする。急なので、今回はすでにあるドレスの中から選ぶことになった。
クローゼットとして使っている部屋に入ると、そこは色鮮やかに埋め尽くされている。
普段着はいつもテレーゼが自室まで持ってきてくれるから、ここに入るのははじめてだ。
どれにしようかと、部屋の中を歩く。飾りのレースや薄絹は、少しの風でもふわりとなびき、使われているシルクは、厚みがあるのに柔らかく、とろりと肌になじむ。見ただけで上等なものとわかるものばかりだ。
マリアナが持っていた、めぼしいドレスや宝石はすべて売ってしまった。嫁ぐにあたり普段着はともかく、社交の場で着るものはどうしようかと思っていたが、フランツの指示で事前にテレーゼが選んでおいてくれたという。
マリアナは、いくつかドレスを選んで試着してみた。サイズもだいたい合っているから、少し手直しするくらいで良さそうだ。
ドレスもアクセサリーもマリアナの好みのものばかり。久しぶりのおしゃれは、マリアナの落ち込んでいた気持ちを上向かせた。
「テレーゼ、本当にありがとう。とてもセンスがいいのね。どれも素晴らしいわ」
「……いえ、私は旦那様からのご指示に従っただけでございますので……」
まただ、とマリアナは思う。この邸の使用人たちは、皆ハキハキとして気持ちのいい人ばかりなのに、ときどきはっきりとしない態度を見せることがある。先ほどのヘルマンにしても、今のテレーゼにしても。
「テレーゼ、何かあったの? 何か言いたいことがあるなら聞くけど」
さすがに気になって、思い切って聞いてみる。
「いえ、このドレスに合うアクセサリーを考えておりましたら、ぼんやりしてしまったようです。お気を悪くされたのでしたら、大変申し訳ないことでございます」
テレーゼはそう言うと、いつものようにてきぱきとアクセサリーを選びはじめた。
侯爵家の庭にも春の花が咲きはじめた。
テレーゼやメイドたちに体中を磨き上げてもらい、淡いすみれ色のシルクで仕立てられたドレスを身に纏う。動くたび落ち着いた艶を放つそれは、風に揺れるすみれの花を思わせる。耳元や胸元には、華奢なのに存在感ある澄んだ緑の宝石があしらわれたアクセサリーが輝く。丁寧に結われた髪は艶やかでいい香りが漂った。こんな感覚は久しぶりで、マリアナは酔いそうになる。
ふわふわとした足取りで邸の階段を降りる。テレーゼのエスコートがなければ、足を踏み外しそうなくらいだ。
エントランスホールには、すでにフランツが待っていた。彼はすっきりとした淡いグレーのコートを着て、こちらをじっと見ている。浮ついた気持ちが消えて、今度は緊張して足を踏み外しそうになる。
彼は、階段を降り切ったマリアナに黙って手を差し伸べた。
(……エスコートしてくれるの?)
マリアナが手を差し出すと、フランツはどこかぎこちなくも、優しい手つきで彼女の手を取った。
「━━よく似合っている」
フランツの言葉に、マリアナの胸がどきりと鳴る。
思わずフランツを見れば、彼もまたマリアナを見つめていた。
似合っていると言ったのもエスコートも、使用人たちの手前、やむを得ずにしたことかもしれない。
でも、その瞳に熱を感じたのは、彼女の願望がそうさせるのだろうか。
そして、マリアナはまたこの瞳に期待してしまう。これが彼の本当の気持ちであればと。どうせ、また裏切られるだろうこともわかっているのに。
マリアナは、思わずフランツに声をかける。
「侯爵様、あの……」
その途端、フランツはさっとマリアナから目を逸らして、歩きだす。
「……時間だ。行こう」
やっぱり、とマリアナは思う。わかっているのに期待して、こうして裏切られる。それでもきっと、マリアナは何度も同じことを繰り返すだろう。
自分の心は、なんでこんなにも思う通りにならないのだろう。いっそ嫌いになれたら楽なのに。
フランツのエスコートを受けながら、マリアナはひたすらそんな自分の気持ちと戦って馬車に乗り込む。馬車の中は無言だ。
二人が出かけたあと、見送りに出ていた使用人たちは、互いに顔を見合わせ、心配そうにするのだった。
優雅な音楽に合わせて翻る、色鮮やかなドレス。グラスを片手に、あちこちで談笑する男女。大広間の天井を見上げれば、青空のようなフレスコ画と相まって、まるで太陽のようにシャンデリアが輝いている。無数のかがり火が焚かれた庭。そこは、夜なのに昼のような明るさと賑やかさに包まれている。
ここは、今日のパーティの主催者である公爵家の屋敷だ。
こんな立派なパーティは久しぶりで、マリアナは足が震えそうになる。
パーティでは、ただ世間話やダンスに興じていればいいというわけではない。
特に男性は、仕事上のつながりを強くしたり、さらに仕事の幅を広げるために新たな関係を求めたりする。
今日のパーティはそういった目的で参加している貴族が多いようだ。
フランツとマリアナが公爵に挨拶を終えると、公爵はフランツに紹介したい人物がいるという。聞けば、侯爵家も関わっている事業に携わっている人物とのことで、爵位を継いだばかりのフランツにとって悪い話ではないようだ。
ちらりとマリアナを見るフランツ。
久しぶりの社交界に慣れない彼女が一人になるのには、もちろん不安もある。だが、貴族の妻として、自分のせいでせっかくのチャンスがふいになってはいけないとマリアナは思った。
「どうぞ行ってきてください」
私は大丈夫です、とフランツの腕にそっと手を添えて、マリアナはにこりと笑う。
フランツは小さく頷くと、公爵に促されて談話室へ入って行った。
マリアナがひとりになると、それを待っていたかのように数人の女性が話しかけてくる。その年齢はさまざまだ。
長く社交界に出ていなかったマリアナには、女性の友人はフリーデくらいしかいない。きっと、マリアナの噂を聞いて興味を持ったのだろう。
あいさつを済ませると、しばらくは当たり障りのない世間話が続く。
「侯爵夫人のお召し物は、本当にすてきですわね。王都の有名なブティックのものでしょう?」
ひとりの女性が、マリアナのドレスを話題にしはじめると、他の女性たちも早速その話題に乗りだした。
「やっぱりそうでしたのね。うらやましいわ、私の夫なんて絶対に買ってくれませんもの。高すぎるって」
「侯爵様はまだお若いけれど、広大な領地をお持ちだし、他にもいろいろ事業をなさっておいでだから、資金は潤沢なのでしょう」
「そうそう、噂で聞きましたわ。侯爵夫人のご実家が大変だったところを侯爵様が手助けなさって、そのご縁でご結婚されたとか?」
「あら、私が聞いたのと少し違うようですね?」
やや年かさの女性が、すがめた目でマリアナをチラリと見た。
会話の雲行きが怪しくなってきたのを感じ、マリアナが警戒していると、その女性は続けて言う。
「前の侯爵様には援助を断られたけれど、今の侯爵様が、幼馴染の夫人を哀れんでやむなくという噂を聞いたのですけど?」
待ってましたとばかりに、派手に着飾った女性が続く。
「私は、夫人のご実家は歴史がありますから、いずれはそのお屋敷や領地を、と聞きましたが……」
扇子で口元を隠してはいるが、その下はきっと醜く歪んでいることだろう。
「せっかく御本人がいらっしゃるのですから、ぜひお話をうかがいたいですわ」
その声に、女性たちがマリアナを見る。好奇心丸出しでマリアナの発言を期待している顔だ。
(ほら、来た)
マリアナは内心ため息をつく。ここで動揺してはいけないと、マリアナも扇子で口元を隠しながら目だけで笑う。
「あら、色々と噂があって面白いですわね。皆さまご存知のとおり、私と夫とは幼馴染でして」
緊張で背中に冷たい汗が流れた。それでも余裕そうに見せなければと、マリアナは続ける。
「もともと婚約する予定だったところを夫の留学でそれが伸びたというだけの話です。帰国して早々に、結婚の申し込みに来てくれたんですの。あと、家のことは、完全に彼の好意によるものですわ」
ダメ押しに、このドレスの他にも色々買ってくれたが、あまりの多さにクローゼットに入りきらなくて困っていると付け加える。どう?と言わんばかりに笑みを深めながら、自信たっぷりに女性たちを見まわした。本当は怖くて逃げ出したいくらいだったけれど。
彼女たちは期待した答えと違ったからなのか、またはマリアナの動揺する姿が見られなかったからなのか、つまらなそうに「あらそうですの」とか「愛されていて羨ましいですこと」などと言っている。
完全にはったりだったが、とりあえず上手くいったようだ。
「そうそう、お聞きになって? あちらにいらっしゃる子爵家の……」
他家の話題に変わったことで、女性たちの関心がマリアナから逸れたのを機に、マリアナは挨拶して静かにその場を離れた。
人目につきにくい場所を探してバルコニーに向かう。そこには誰もいなかったから、マリアナはほっとした。
よく風が通る場所だった。体にまとわりついた、会場のこもった空気を洗い流してくれるようで気持ちがいい。
手すりに手を置き、ふう、と深呼吸すると、どっと疲れが押し寄せる。久しぶりの華やかな場所と、女性たちの無責任な噂話は、マリアナを想像以上に緊張させていた。
このままここで、パーティが終わるのを待つのもいいかと、マリアナはぼんやりと思う。
「マリアナ?」
彼女を呼ぶ声に振り返る。
「……アーノルド! 来ていたのね」
そこには幼馴染がいた。
「君がここに入っていくのが見えたから、追いかけてきた。出がけに馬車の調子が悪いところが見つかって、さっき着いたばかりなんだけど。いやあ、大変だったよ」
さほど大変そうでもない口調でにこにこと話すアーノルドに、マリアナは自然と笑顔になる。
「声かけてくれて嬉しい。久しぶりね」
マリアナの家が大変だったときにもいつも通りにしてくれた大切な友人だ。マリアナは忙しさにかまけてろくに連絡を取れずにいたことを詫びる。
アーノルドは他人行儀だと笑って、
「君の家が良くなってきたって聞いたよ。本当によかった」
と、喜んでくれた。
彼が借金のことには触れず、マリアナの家の調子が上向いてきたことを話題にしてくれたこと、さらにそれを喜んでくれたことにマリアナは感謝した。本当に得難い友人だと思う。
「いつも気にかけてくれて、嬉しかった。本当にありがとう」
「僕はなにもしてない。君も含めて、これまでのご家族の頑張りが報われたんだよ。それに……」
アーノルドは一瞬口ごもる。きっとフランツの名前を出そうとしたのだろう。でも、それは結局借金の話につながってしまうことに気づいて、ためらったのだ。マリアナにまつわる噂も、もちろん耳に入っているのだろう。
「ねえ、アーノルド、あなたの近況を聞きたいわ。なにかニュースはない?」
マリアナは、やや強引に話題を変える。今はこの優しい空気を壊したくなかった。
「実は……」
アーノルドは「これはまだ、家族以外は誰も知らない特ダネだからね」と言って、照れたように笑う。
「フリーデと婚約した。昨日OKをもらったばかりなんだ」
「本当? 素敵だわ、おめでとう! やっとね!」
マリアナは、アーノルドとフリーデの二人が、お互い好き合っていることに気づいていたと話した。
「なんだって? そんな大事なこと、なんで早く教えてくれないんだ!」
アーノルドは驚き、真っ赤になって抗議する。
「そんな野暮なことできないわ。それに、自分で努力して得た方が喜びも大きいでしょ」
マリアナはわざと得意げに言う。
そして顔を見合わせて笑った。ここには二人しかいないから、気兼ねなく笑える。こんなふうに、こころから笑うのはいつぶりだろう。
アーノルドは笑いながら、
「でも、本当にずっと好きだったから。気持ちを受け入れてくれて嬉しかった」
と言う。
「私も本当に嬉しいわ、アーノルド。あなたは素敵な人だもの、結婚したら絶対幸せになれるわね。もう、これは絶対よ」
マリアナも笑いながら返す。
アーノルドは、笑った、笑ったと言って目尻を指で拭う。そこには美しく輝く指輪。きっと婚約指輪だろう。
マリアナは思わず自分の手を見る。彼女の指には何もない。結婚式はしないと言ったのは彼女だったが、やはり指輪には憧れがある。でも、それは愛し合う二人がしてこそのものなのだ。
(私たちには一生縁のないものね……)
マリアナは、昔フランツからもらった指輪のことを思う。他のアクセサリーは売ってしまったけれど、あれだけは手放せなかった。もう二度と指にはめることはないだろうけれど。
思わず顔を曇らせるマリアナ。
そんなマリアナに気づいたのだろう、アーノルドは気遣わしげに、話ならいつでも聞くからと言って彼女の肩に手を置く。
「━━そこで何をしている」
そのとき、二人しかいなかったはずのバルコニーに、他の声が響く。
それはフランツだった。
「侯爵様……?」
フランツは、マリアナの呼ぶ声にびくりと肩を動かす。驚く二人の間に割って入ると、黙ってマリアナの手を掴み、バルコニーから出ようとした。
「待てよ、フランツ!」
アーノルドが制止しようとするが、フランツは聞く耳を持たない。マリアナの手を強く掴んだままバルコニーを出て、入り口へと向かう。
(怒ってる……?)
いったいどうしたというのだろう。それに、こんなのアーノルドにも失礼だ。
マリアナは、困惑しながらもアーノルドを振り返って、ごめんね、大丈夫だから、と言った。
アーノルドが心配そうに眉を下げて頷く。それを横目で見たフランツは、さらに眉を顰めて歩みを早めた。
周りの客たちも驚き、二人を見ている。
また、あれこれと噂されるに違いない。
外に出たフランツは、驚く御者に「屋敷へ」とだけ伝えて馬車に乗り込む。マリアナの手は掴んだままだ。
途中でマリアナが手が痛いと言うと、すこし手を緩めてくれた。そのあとは、マリアナがいくらどうしたのかと理由を聞いても、フランツは一言も話さない。
マリアナは、手よりも胸が痛かった。これからもずっと、彼のことが何もわからないままでいなければならないのだろうか。マリアナはただ、暗い気持ちで馬車に揺られていた。