サジェスティクなブルー
思春期は、色々な気持ちで溢れる。自分を縛る、目に見えない糸が体に巻き付いているかのようだ。身動きがとれなくて、自分を主張しなければいけないと考えるようになる。そして、自分以外の人間に対して、自分が持つ最悪を重ね併せてしまう。目の前に、自分がいる。遠ざけなければと、考えてしまう。
「光、ここに朝食置いておくから、食べたらドアの前にでも置いて。それと、この前先生が来たの。謝罪の言葉が書かれていたわ。みんな待っているって。もう少しすれば、あなたもきっと」
扉越しの母の声に苛つき、床を叩き、壁を殴る。でも、腹に溜まる思いは抑えきれなくて、ぬいぐるみを扉にぶつけた。
「さっさといけよ、いい加減うるさい。いけよ」
大きな声を挙げるたび、喉の奥でつっかえる。ぶつけた拳が少し擦りむける。
慣れていないのだ。
怒ることも、大声を上げることも。
光は、中学一年生。本来ならば、始業式を迎え学校へ入学し、慣れない新生活に気持ちを大きく膨らませる時期だ。世間的には、そういうムードで、常識だ。
だけど、彼は春から通う学校に慣れることが出来なかった。地元から離れた高校は、ほぼほぼ友人関係が既に出来上がっていて、彼が入る余地も無かった。更に悪いことは重なる。光と同小は、この中学校には一人もいなかったのである。これは、彼の孤立に拍車をかけてしまった。
家のインターフォンが鳴る。引きこもる彼には、出る意志が無かった。
玄関から、鍵を開ける音がした。母さんが対応する声が聞こえる。
二三会話する声が、音として聞こえ、訪ねた人物の足音は二階の彼の部屋を目掛けて来た。
額に汗がにじむ。
「光は、今多感な時期で、そんな乱暴に入ろうとしても駄目よ」
「良いんだよ、姉さん。こういうのは、派手に壁をぶち壊した方が良いのさ」
「壊すってどういうことよ。あなた仕事は? 」
「今日は、土曜日じゃない。そっか、和夫義兄さんは仕事か」
母さんと誰かが、会話する声が、階段を上る音と共にこちらに迫ってくる。
聞き覚えのある声だ。
低く、響くような声。
哲朗叔父さんだ。
額に汗がにじむ。哲朗叔父さんは、色々とネジが外れているのだ。悪い意味でも良い意味でも、面倒見が良く、取る手段は、光の常識に風穴を開ける。悪い人物では無いのだが、光は苦手としていた。
「おう、光。久しぶりだな。釣りに行こうぜ」
声が聞こえた。間違いない、哲朗叔父さんだ。急いで、バリケードを作らなければ、叔父さんはドアを蹴破るくらいは簡単にやる。慌てて、室内の動かせる物をドアに近づけようとする。
「おい、顔見せろよ。久しぶりに休みが取れたのに」
「哲朗、あんたそんな乱暴に」
叔父さんは、ドアノブを掴み、何度も開けようとする。
急がなければならない。
「姉さん、このドア蹴破っても良いか? 弁償はするからさ」
「えぇ? 」
母の驚いた声が聞こえた。
やばい。
ドアの前にタンスを。
「おらっ、顔見せろ」
その叔父の発言と共に、ドアが蹴破られ、光の安全な場所は無くなった。
「おう、元気そうだな。光。釣りに行こうぜ。男二人で」
「いやー、今日は天気が良いね。これは、良い釣り日和になりそうだ」
光は、おじさんの車に乗っていた。あの後、母さんと叔父さんで喧嘩になって、いつの間にか光は叔父さんと釣りに行くことになっていた。
「許可貰えて良かったな。今日は、釣れるぞ」
おじさんは、昔からこういう人で思いついたら何処にでも行く人だ。この前まで、世界各国を回っていたらしい。服はいつも、このまま冒険に出るかのような格好で、不思議とそれがおじさんに似合っていた。
「でも、あんな無理矢理連れて行かなくてもいいじゃない」
「そんな無理矢理だったか? いいじゃない。今日は黙って俺についてこいよ」
家に帰ったら、僕は引きこもれない。
あそこに安全な場所が、いきなりなくなったのだ。
「おっしゃ、やるか。光、おめぇ釣りの仕方覚えてるか? 」
「覚えてる」
「じゃあ、ほれ。これお前の竿だ。久しぶりだろ」
「うん」
こんな日に限って、海は穏やかで、もっと荒れていればいいのにとも思った。
「お前、引きこもりになったって? 」
来た。
「うん」
「ふーん」
会話が止まる。
「姉さんが、ヒステリック気味に嘆いてたからどういうことだと思ったら、そういうことか」
「おじさんは、気楽そうでいいね」
彼は、わざと嫌みを言った。他人の評判なんて気にしないと言うような、叔父の姿勢がうらやましく思えたからだろうか。
「俺にも色々あるけどね」
「おじさんに? 」
「俺を何だと思っている。人間だぞ。思い悩むように出来てるのさ」
「そうだって言うのなら、神様は意地悪だ」
「意地悪かもな」
竿に当たりが来る。
リールを巻き、竿を立てる。
「腕は衰えてないな」
「まぁね」
クーラボックスには、魚が次々と収まっていく。
「俺もな、引きこもったことがある」
「おじさんが? 」
「そうよ、お前と同じくらいの年だったかな。なんかな、遅く来た思春期って奴だったのかな。どうでも良くなってしまったのよ。全部、どうでも良いってさ」
「ふーん」
耳を澄まして、聞き逃さないように顔を叔父さんに向けた。
「何で、あんなことになったのかな。いや、分からないな。うん。でも、押しつぶされそうになってた」
「何に? 」
「そりゃ、本質的な何かだよ。レールの上をただ走って、両親を幸せにして、そこに自分の幸せはあるかとか。俺って、なんてちっぽけで、世の中って怖いなぁってさ」
「変なの」
「お前には、分かりそうだけどな」
「まぁ、分かるけど」
新しい小さな社会に出ることが怖いのか、漠然とした自分自身に対する意味への懐疑がそうさせるのか。光には分からなかった。彼の心模様は、果てしなくブルーで、サジェスティックな色だから。
「おじさんは、何で社会に出られたの? 」
「疲れたからかな」
疲れた?
「答えが見つからなくて、体が悶々としてエネルギーを持て余してて。いっそ、海外にいった」
「どうだったの? 」
「なにも、変わらなかった」
「え? 」
海外に行って、人生観が変わった人がいることを知っていた彼は、そのことに対して驚いた。
「聞こえは良いし、定番だけど。日本も、他国からみたら海外だろ。その国の人にとっては、地元な訳だよ。自分が生き抜いてきた場所な訳。だからね、どこか似ているのよ。日本と。空気感って言うのかな、環境は日本とはそりゃ違うさ。でも、あそこで体験出来るのは、日本でも出来る。自分を変えようと思っていたけど、答えは身近にしかなった」
「つまり? 」
「結局、答えは自分自身の中にしか無いってこと」
「つまらないの」
「そんなに、ブー垂れるなよ。結局、何も無駄にはならん。何かしらやっていれば、いつか力を発揮してくれるし、道しるべになってくれる。お前は、今材料を集めてる最中なのさ。集めきってから出発するのもありだし、思い切って行ってしまうのもありだ」
「人それぞれってこと? 」
「うーん、自分のペースでってこと」
夕方に帰宅した光と叔父を迎えたのは、心配した光の両親だった。両親は、叔父に抗議の声を上げたが、少し晴れた光の顔を見て、ふっと笑った。
「あなた、良いことでもあったの? 」
母の質問に、彼は答えた。
「まぁね」
光は、少し照れ気味だった。