無敵じゃない
日和見日和は、中途半端な人間である。
嘘は良くはないが本音を言うよりはマシである____それが持論だった。
友達を作るのは、別に義務じゃない、そこそこ好きだ。
多少無理に笑うことだって、本当に無理しているわけではない。やっぱりそこそこ楽しい。
だから、本音を隠すのは苦ではないし、その方がトータル楽しいからまぁいいじゃん!というのが日和の考えだった。
「…………もうダメだ。終わった」
日和は頭を抱えた。
人生も、私も、世界も、全部終わった。このまま生きるのなら、いっそ死んでしまおうか。
「んあー……もうっ、みんな死んじゃえ。死んじゃえ、いや、その前に私が死にたいっ」
ありきたりな毒をはく彼女は、どこからどう見ても女子高生である。
誰が見ても分かるような、一般的で平凡な、偏在するような女子高生である。
白いポロシャツに紺の短いスカート、ローファーじゃなくてスニーカー
胸元はすこしだけボタンを開け、ピアスをして大人っぽく、髪も茶色くしている。
日和は全体的に背伸びをした、いつも通りのファッションで、いつもの元気をすっかり萎れさせ、人通りのない緑の川辺で蹲っていた。
川辺が土手になっていて、いかにもドラマに出てきそうな風景である。けれど彼女の暮らす雪国(雪国にだって夏の風景はある)にまで、テレビドラマのロケハンはやってこなかった。そういうのは東京の多摩川とかで十分なんだろうな、と日和はぼんやりと思っていた。
何はともあれ__そんな川辺に立ち止まろうと考えたのは、今日が初めてだった。
日和は膝を抱え、ぼんやりと遠くを眺めていた視線を持ち上げた。
周囲には誰もいない__よし。
すぅっと息を吸った。
「本来17歳とは、無敵なのである!」
叫んでみてから、ドラマよりも声が届かないなぁ、と意気消沈した。
かつての__無敵だ。
今どきの若者である少女、日和見日和は知っていた。
世界は意外にも広く、案外自由なもので、存外思うままになるものだ。
現実も未来も、思っていたほどに鬱屈としていなくて、融通もやり直しも効くし、遊びも余裕もゆとりもあるし、例えレールに乗ったとしても皆、それなりに、あるいは普通に楽しく、あっけなく、こともなげに、当たり前に、当然の如く飽きることなく笑っていられるのだと__知っていた。
数えきれない手段で、まるで人生経験そのもののように知っていた。
実際、上手くやっていたのだ。
虚勢を張る気はなくとも、怖いものなど何もなかった。
だから日和見日和という人間は、中途半端でも、無敵だった。
「それなのに、だよぉ……『She had done well.』……過去完了形だよ。過去にもう終わってるんだよ……笑えないよ、あはは……」
英語が苦手な日和はその文法があっているのか分からない。
とにかく日和の青春は完全無欠の日々のはずだった。たとえ失敗してもきっと次の私の糧となって明日に向かっていける、そういうものだと思っていた。日和は過去や思い出の類の話に花を咲かせるのが嫌いだった。心のうちではそういう人間を「死ぬんですか?」と思っていた。深い意味はなく、単に日和自身が忘れっぽくて過去を振り返るという行為がネガティブっぽいからという中途半端な理由だった。それ故に自分をポジティブだと思っていた。
そんな日和は今、少し前の過去の自分を懐かしみ、愚かな行為に悔やんでいる。
「あぁもう……ちっぽけだよぉ、なさけないよぉ、【本当の気持ち】をばらしちゃうなんて、愚かにも程があるよぉ……」
数十分前まで自分のことを無敵だと思っていた自分が憎かった。もっとちゃんと忘れ物と背後には気を付けろと言いたい。日和は教室に大切なものを置き忘れてきてしまったのだった。
それは一冊のノートだった。
そのノートには名前がなかった。日和は毎日__それこそどの科目でもそのノートを取り出し、ペンを転がした。それはノートと同じく、名前のない思いの丈を綴るものだった。冬にふと見た窓の外の校庭が雪に白く埋もれていて、ノートも同じく真っ白でも、授業が終わるころにはノートの方は真っ黒になっていた。
シャープペンシルは心に浮かんだ言葉を書き、その風景を描いた。
書いたり描いたりしながらも、心はひたすら次の世界を思い描いていた。
そうしている間は退屈な授業が自分の世界に染まっていくのを感じた。
日和は毎日無意識に自分から溢れ出していた【それ】を何と呼べばいいか知らなかった。それは文とも詩とも物語ともつかない、ただの言葉の羅列だった。でも、確かに分かるのはそれらの言葉はすべて純度百パーセントの【本物】だということだった。
そしてそれは、完全無欠かつ無敵の青春および女子高生にとってのアキレス腱だということだ。
嘘偽りがない故に鋭利で醜悪で非現実的であるいは綺麗すぎて、とても人に見せられないような言葉の羅列__言わばこの世で最も自分以外の誰かに見られたくないノートを、そこそこうまくやっていたクラスの教室の机に__こともあろうか開いたまま置いてきてしまったのだった。
「うあぁぁぁ……殺せぇ……」
堂々巡りの思考は普通に首を絞めるだけだった。
遠く川の向こうを眺めていた視線を下ろし、俯き、三角座りした膝の中に頭ごと埋まってみる。そうしていると何となく眠気が襲ってきた。案外このまま夜を明かすのも悪くないかも、なんて現実逃避を目論むも、何をしたって明日の登校時間はやってくるのだった。
気を取り直して何もなかったように「おはよう」と言えばクラスメートは何か言いたげで、でも腫れ物に触るような視線を向けてきたりして……いや、それどころか机と椅子と上履きが廃棄されているかもしれない。
お前の席ねーから案件だ。そんな馬鹿な!
「____あぁぁぁ、滅びろ地球!」
ああ、世界が今すぐ壊れてしまえばいいのに。
「ふっはははは!ワールドエンド!」
___???
妙に近い距離で小学生のような声がした。
ワールドエンドとは。
いや、普通に考えて世界の終わりという意味になるのだろうけれど、ということはつまり、それまでの自分の独り言をどこかで聞いていたということだろうか。
「んー、なんか違うな、文法的表現をするとワールズエンドか?」
文法的表現……そんな言葉あっただろうか。
日和は【こちらを見下ろすような位置】に感じた超ド級の不審人物の気配に顔を上げることができなかった。だから、目を開けずに、暗闇で膝を抱えるようにその人物の姿を想像した。
弾けるような、それでいて刺すような勢いのある声。低い声ではなかったので、小学生の男の子だろうか。
「音楽的表現をするとワールズピリオドか。いや、この場合はワールドピリオドの方が分かりやすくていいな!ふははは!」
__お、音楽的表現?
それもまだ文法的表現とやらの範疇から出ていないのではないだろうか……。
「あー!オレとしたことが!音楽はダカーポだったぜ。ってーことはワールドエンド・ダ・カーポか?いや、なんつーか……うーん、鼻にかけた感じだから微妙だ。却下!」
謎の少年(仮)はどうやらピリオドとダ・カーポという単語を取り違えていたらしい。
それにしたってこの私の横で「世界の終わり」を連呼するなど、なんて嫌がらせなんだろうと日和は苦々しく思う。それでも依然として顔を上げられないでいると、日和の右端に【すとん】という衝撃があった。
まさか、と日和は身を固くした。
「なぁ」
「…………」
「なぁ、そこのうたた寝してるねーちゃんだよ」
嫌な予感が的中した。
うたた寝ではないけれど、どう考えてもそれは日和のことだった。
「……な、なにかな?」
このとき日和には【気づかないフリをする】【顔を上げて話を聞く】以外の選択肢が思いつかなかった。あとから思えば、この時別に、逃げても良かったのだ。
身も蓋もなく言えば、日和はとてもじゃないが正気ではなかった。もうどうにでもなれという、諦めと被虐の入り混じった気持ちだったので、別に危ない奴と関わることになってもいいかな、と思い始めていた。とっくに終わった日和見日和の完全無欠な無敵の日々、これ以上終わることもないだろう。
ともかく日和は渋々顔を上げた。
「オレは雨意五月雨っつーんだけど、おねーさんは?」
視界に飛び込んだ人物、雨意五月雨__あまりに予想外だったので、日和は一瞬、息をするのを忘れた。
____少年ではなく、女の子。
脈絡なく自己紹介をはじめ当たり前のように愛想よく笑うのは、日和と同じく女子高生だった。
ボサボサの青い髪と、何日も眠っていないような濃い隈が第一印象だ。
どろんとした瞳なのにぽっかりと大きな目、肌が白くて、今にも噛み付いてきそうな野性的で好戦的な笑顔を浮かべていた。なんだか吸血鬼みたいな子だった。
明らかに日和と他校だと分かる紺のセーラー服には赤いスカーフ、その上には寒くもないのに派手な黄緑色のパーカーを羽織っている。
両腕はぐしゃりと乱暴に袖まくりをしていて、手首にはやたら大きな腕時計をしている。首には首輪のようなものを付けていた。
その制服は隣の駅の所謂お嬢様学校のものによく似ていたが、犬のようにしゃがんで両手を前についた座り方をする雨意五月雨からはお淑やかさの欠片も感じられなかった。
「えっと……」
日和は五月雨の、やたら大きな腕時計の嵌った手と、凶暴な笑顔を見比べた。
「サミと呼べ。許す」
「ん、あ、うん……でも、知らない人に名前言うのもちょっとさ」
「…………」
五月雨__サミは日和を睨んだ。じとりと、まるで「お前も名乗れ」と言わんばかりに。
「日和見日和、普通にひよりって呼ばれるよ」
「ふうん、ヒヨリか」
そう言って、サミは日和のように膝を抱え、隣を覗き見るような姿勢になった。何?という気持ちで日和はその隈の濃い瞳を見返す。なんとく品定めするような雰囲気があった。
「なぁ、ヒヨリ、知ってるか?」
日和は迷った。「何?」といつもなら聞き返すところだ。でも、なんとなく投げやりかつやさぐれていたので、「知らない」と突き放してみることにした。
「うーん、知らない」
「オレ、実はいいやつなんだよ」
あぁそう……。
反応に困る話だった。
実は中身が男の子なんだよ!と言われた方がよっぽど納得できそうなものである。
「だから気にしちゃうんだけど、さっきのアレ、なんなんだ?」
日和はただ首を傾げた。「さっきのあれ」と言われてもすぐに思い当たらなかった。どちらかというとサミばかりが派手に行動していたせいだ。
「だからさ、さっきのあれだよ、「滅びろ地球!」ってデスボイスだしてただろ」
「デス……なに?」
「ヴォロビロヂッギュウウウヴヴァ」
「こわっ」
サミの外見でやると真面目に怖い。青い髪に首輪というサミの服装は所謂ロックで、エキセントリックなのでマジに見えてしまうのだ。
「そ、そんな声はだした覚えがない……」
「そうだっけ?……ってどうしたんだよ、この世の終わりみたいな顔してるじゃねーか」
顔じゃない。ふつうにこの世の終わりなのだ、と日和は心の中で嘆いた。
サミは正反対にシニカルに「くははっ」と笑った。
「なんてな!つーか日頃からオレ思ってたんだけど、「この世の終わりのような顔」なんて意味わかんねーよな!みんなよくそう言うけどさ、それって食べてる途中に虫がご飯に入ってたことに気づくよりもマシな顔してると思わねぇか?」
「…………」
「おっ、さっきよりひでー顔」
そう言ってやはりどこか野生的な笑顔を浮かべるサミは、思い出したように隣の日和を指さした。
「そうそう!だからさ、つまりさ」
もったいぶるように立ち上がって、サミは仁王立ちで日和を見下ろした。
「オレのギターを聞け」
どうしてそうなるんです?と、日和は聞かなかった。
◆ ◆
そういえばサミは、その小柄な背丈の後ろに何やら黒い化学繊維のケースを背負っていた。その表情や言動があまりにエキセントリックだったゆえに、ファッションはともかく、その持ち物にまでは意識が及ばなかった。もしかしたら、その黒いケースを背負った姿があまりに自然すぎて気づかなかっただけなのかもしれない。
音楽に疎い日和にも、そのケースの中身がギターかベースのようなものだということは分かっていた。日和の通う天地高校にも軽音楽部はあったし、そうでなくとも同じような黒いケースを背負った学生たちがファーストフード店で楽しそうに長々と居座っているのをよく見かける。
「ヒヨリには悩み事があるんだろ?」
「うん、まぁ」
「そしてオレはいいやつだ」
「………んー」
「さらにオレ、ギター上手なんだよ」
戸惑う日和を置いてけぼりに、自信ありげという言葉すら頼りないほどに、世界に対峙してやすやすと勝利してしまいそうな不敵な笑みをサミは浮かべた。
不敵。
それって無敵ということだろうか、と日和は一瞬だけぐらっとくる。自分がついさっき失くしたものを、目の前の規格外の少女は持っている。そして、自分のようなちっぽけで些細なしょうもないことで、きっとそれを失うこともないのだろう。
気が付いたら身を乗り出していた。
「__そのギター、聴きたい」
◆ ◆
青い髪のセーラー服の少女、雨意五月雨は背伸びした平凡な少女、日和見日和を見下ろした。
「お前ならそう言ってくれると思ったぜ」
サミのなかには不思議な予感があった。
日和見日和という少女を見つけたのは、偶然と言って差支えがなかった。普段は決して通らない隣町の人の寄り付かない川辺、そこに珍しくむしゃくしゃして立ち寄った時のことだった。たとえ日和と出会わなくとも、サミは一人でギターを弾くつもりでいた。
__「滅びろ地球!」と。
決してその言葉を文面通りに受け取ったわけではない。日和の、どこからどう見ても何千といるような女子高生の外見の中にちらりと、【隠し切れない本物】を見た気がしたのだった。
どうでもいい情報を明かせばサミは嘘を見抜くのが上手だった。彼女の周りの人物は嘘つきばっかりだった。日和と同じ言葉を言う人間はたくさんいるかもしれない、忘れているだけで、実際にいたのかもしれない。けれどどれもが本物ではなかった。友達の前でもなく、笑いを取るでもなく、自虐するでもなく、冗談でもないその声は、勘違いかもしれないほど一瞬のことで、それを逃したら二度と出会えないと思った。
だから声を掛けたのだ。
雨意五月雨という人間は、自覚的に偽物だった。
虚構にまみれて、大言壮語に虚言、妄想、過剰装飾のオオカミ少年だと自分を冷静に分析していた。そんな自分と正反対の、いかにも建前で生きていそうな平凡な少女がのぞかせた本音に、触れられずにはいられなかった。
益体もない思考と振り返りをしながら、サミは黒いギターケースから青いエレキギターを取りだした。ピックを取り出してEの音から順番にチューニングをしていると、日和は不思議そうな顔をしていた。
「あれ、ギターってもっとジャーンって感じのごりごりした音じゃないの?」
首を傾げた日和に、にっと笑みを浮かべる。
「あれはアンプっつーのに繋がないと出ない音なんだよ。ここで弾けるのはもっとさわやかな青春らしい音だよ」
「それってつまりアコースティックってこと?ピアノほどしんみりしたくないけれどそれなりにほんの少々バラードっぽくしたい時とか等身大感を出したいときによくある、アコースティックアレンジのアレだよね?」
「お前は知ってんのか知らねーのかどっちだよ!」
「正直、あの音がそのえぐい外見のギターから出ることにびっくりしてる」
「えぐいって言うな……まぁ、厳密に言えばこれはエレキギターの生音ってやつであってアコースティックアレンジに使われるアコースティックギターの音とはまた別モノなんだけどさ」
「へぇ」
興味をもったのか、日和は初めて笑顔を浮かべた。
「……今の説明でちゃんと分かったのかよ」
「うん、なんとなくね」
「お前、適当だよな」
そうしているうちに正しい音が出るようになったので、サミはまずコードをいくつかかき鳴らした。
サミも音楽には詳しくなかった。ただ、独学でギターを弾こうと思った時、まずはいくつかコードの押え方を勉強した。あとは順番に弾けるコードを増やし、ばらした音を鳴らせるようになり、そして自由になった。実際に自由だったし、サミは型にはまるのがとにかく嫌いだったので、コードを並べる順番については勉強しなかった。
フレットを押える指が定石のやり方でも、それは生きるのに息をしなければいけないのと同じ。あとは、自由にならなければ__倣ったらだめだ、狙ったらだめだ__ギターを弾く時くらいは偽物ではなく本物でいたい__そう願い、ギターを背負ってきた。
そうやって自由に鳴らしていると、いつの間にか曲になっていた。
聞いたことあるような曲になることもあるし、一瞬の奇跡のような旋律を口ずさめることもあった。でも、一度も曲名を付けたことがなかった。
__この音はどうだ、違う。
__この響きはどうだ、近い。
__この音は__どこかで聞いたことがある。
__この音が好きだ。この響きが好きだ。
__違っても、同じでも、例え古くても、全部が本物だ。
「_____」
サミの手は静かに演奏を止め、フレットを持ったままの手が余韻を残す六本の弦を押えた。ふぅと息を吐いて、取ってつけたような笑みを浮かべて彼女は隣の日和を見た。
「__っ」
泣いていた。
日和は「ひっく」と一回言うと、最初に見た時のように三角にした膝に頭を埋めて、そのまま何かを堪えるように肩を震わせていた。
「おっおいおい、嘘だろ、何泣いてるんだよ、いや嬉しいけれどさ、泣くなって__」
サミはどうしていいのか分からなかった。
だって、どうして泣いているのか、それを知らないのだ。
「__っぐ、__」柄にもなくおろおろしているサミに、日和は目をこすりながら顔を向けた。
「び、びっくりさせちゃってごめん。なんでもないの、ただ……」
人づきあいが決して苦手ではない日和は、泣いてしまったことそのものにも罪悪感を感じているようだった。しかし、日和は何かを言いかけている様子だった。
「ただ、なんなんだよ?」
日和は膝を抱えていた腕のうち、右手を宙にぐーっと伸びをするように伸ばした__と、思ったら、拳を作って、自分の胸のあたりに添えた。
「なんか……【ここ】、胸のところにきちゃって。ぎゅって苦しくなって、何でか分からないけれど、何言ってるかも分からないと思うけど、なんか涙が勝手に……」
必死になって嗚咽のように漏らす言葉に、サミは思わず笑ってしまった。
「お前、やっぱ面白い奴だな!元気出たか?」
「でた。元気出た」
「即答かよ。で、その悩みって何だったんだ?」
改めて聞き返すと、「元気出た」と言ったはずの日和が、今の今までそのことを忘れていたように「あぁぁぁ」と弱気な声を出して項垂れた。
「……忘れてただけかよ。まぁ聞くけどさ」
「…………ノート」
「あ?」
「言いたいこととか、文章とか、詩みたいなもの、そういう訳わからないものをたくさん書いてた恥ずかしいノートを……机の上に開いたまま学校出てきちゃった……絶対誰か読んじゃったよ。もう無理、この世界では生きていけないよぉ」
悲しみに暮れ絶望する日和には申し訳ないが、とサミはにやりと笑った。
サミは、日和という少女が自分が思った通りの【本物】らしいという事実に、喜びを隠せなかった。
「なんだ、そんなことか」
「そ、そ、そんなことなんかじゃないよぉ、世界の終わりだよ……」
「オレがどーにかする」
「?」
何を言っているか分からない、言葉すら理解できないとでも言うように、日和は大きな目をサミへと向けた。一度泣いた瞳なので、赤くなっていた。
「そのノートに書かれた言葉に、オレがコードとメロディをつける。そうしたらそれは歌詞になるだろ?」
「…………歌詞」
日和はきょとんとする。そして沈黙し、随分と長い間、川の向こうの空を眺めた。
「………………歌詞になれば、見られても大丈夫?」
「おう、バンド始めたからって言えばいいだろ、オレがいますぐ一緒に教室までついてって即興で作曲してやるよ!ギターもってるしそれっぽいだろ?」
日和は、いつのまにか流されるように、ギターを背負ったサミを後ろに乗せ、自転車を走らせていた。段々、青かった空は夕陽に近づいてきている。オレンジと混ざり合って虹色の空だった。きっと教室にはまだクラスメートが何人も残っているだろう、なんて日和はぼんやりと考え、ハンドルを握る手に力を込めた。
「ひのあたるーさかみちをーじてんしゃで」
誰でも知っているような曲を、背中でサミが大声で歌っていた。自由だ。
……漕いでるのは私なんだけどなぁ。と日和は頬を緩めた。
◆ ◆
その後、教室で何がどうなったかは詳細に語るまでもない。
サミは一ミリたりとも臆する様子なく、無敵状態の無双状態で周囲の視線を一身に受けながら堂々と校門を潜り抜けた。
彼女が周囲の視線を集めた理由は、どう見ても他校生ということかもしれないし、髪の毛の色が青かったからかもしれないし、首輪のようなものを付けているからかもしれないし、あるいはギターケースからギターを取り出して、金属バットをもてあそぶように肩に担いで歩いていたからかもしれなかった。
それはそれは目立っただろう。
サミ自身は、その視線を受けても受けなくてもまるで変わらない調子てずっと不敵に笑みを浮かべていた。さすが無敵。
「ここだよ」
「そうか」
サミは教室の引き戸に手をかけた。ギターは相変わらず肩の上だ。
そして__
__ダーンと、
これでもかと乱暴に引き戸を横に引いた。
その音で、教室に残っていた数名の生徒が一斉に振り返った。
案外、注意を引き付けるためにわざとやっていたのかもしれない。
「おー、これだなヒヨリ!」
仁王立ちしたサミは、ただでさえ目立つ格好であるのに、尊大に仁王立ちして大声を上げた。指さす先には日和の机があった。
「うん」
「おー、ちゃんと完成してんじゃん歌詞、待ってろ」
そう言って、サミは日和のノートを持ち上げ、教室の背後のロッカーの上に飛び上がった。そのまま胡坐をかくようにして座り込み、黙々と真面目にギターコードを鳴らし始めた。
__また目立つことを。
「あ、あのヒヨリー」
気まずそうにひとりのクラスメートが声を掛けてきた。
「なんていうか、一体何なの?あの子もだし、この状況っていうか……」
「あぁあのね、あの子は他校の子なんだけど、こんど軽音楽部でバンド組むことになって、そのヘルプ」
案外、すらすらと嘘って出てくるものだな、と日和は話しながら驚いた。軽音楽部はメンバーありきの部活であるという事情で、放課後に限り他校生も一緒に部室を使うことが許されていた。サミをみると、ちらりと日和たちへ視線を向けたようで、終始無言でギターでの曲作りに集中していた。
「ふうん、そっか。バンドかー」
腕を組んで、それなら納得、という仕草をするクラスメート。その子との会話は普通に周囲にも聞こえていて、会話に参加していなかった人も皆一様に同じような感想を抱いているように見えた。
「見てのとおり、オリジナルの曲をやる予定なんだ。文化祭とか楽しみにしてて」
「うんうん!応援する!ヒヨリと、そのお友達さんも、頑張ってね!」
……そんな会話を最後に、教室の中は平和になった。
教室の前の方でおしゃべりをしているクラスメート、ロッカーの上で作曲にいそしむギターのサミ、そしてその横の日和、という構図が安定し、そして最終下刻時刻がやってきた。
「あの、サミ……ありがとう」
同時にあっさりと、日和見日和の悩みは解決された。きっともう、誰も日和のノートを見て「なんだこれは」と思いやしないだろう。
「ふははっいいってことよ」
ちょっと古臭い台詞だった。
「それにしてもお前、やるな!」
「ん?」
ばんと背中をたたかれ、日和はきょとんと首を傾げた。
やるな、と言われるようなことは何もしていないはずだ。何かしたというのなら、それは百パーセントサミだ。日和には心当たりがなかった。
「バンドだよ。オレと組むのか?」
「あぁ、あはは、あれは嘘と言うか、その場しのぎって言うか、サミも言ってたじゃない、バンドでも組むって言えばどうにかなるって」
「…………」
へらっと笑って言うと、サミは少しだけ沈黙した。
あれ、なにかまずい事を言ってしまっただろうかと日和は心配になる。なにかフォローすべきだろうかと口を開きかけたところで、「くはっ」とサミが笑った。
「まぁ、そうだな。そういう話だったよな!」
不敵そうな笑みでも、ちょっぴり寂し気だったのは気のせいかもしれない、と日和は思った。
「じゃーな、ヒヨリ、楽しかったぜ」
演技じみていたものの、別れの言葉は異様にあっさりしていた。
サミは背中を向け、片手を宙に浮かせた。
そのまま振り返らない。
演技じみた大げさな動きの別れの挨拶をし、サミの姿は消えた。
「…………不思議な子だったな」
その反面、日和は非日常的なサミとの時間が心底楽しくて、そしてその強い言葉に惹かれていたことに気が付いた。惹かれたなんてものじゃない、ほとんど吸い込まれたようなものだった。自分よりも背の小さい女の子なのに、ブラックホールのようで、自分の知っている世界を、なんて平凡だったのだろうなどと思ってしまった。
ちょっぴり寂しいな、連絡先訊けばよかったな。
名残惜しくなりつつ、ふと逸らした目線の先、ロッカーの上に、青いギターと黒いギターケースが堂々と鎮座していた。持ち主と同じく存在感抜群である。
__……いや、置き忘れてるし。
◆ ◆
「勢いで来ちゃったはいいけれども……」
日和はどうしていいのか分からなかった。幸い、サミの制服をネットで検索し、それが隣町の絹道学園というお嬢様学校だということまでは調査できた。
絹道学園というのは駅から見える位置にあって、その校門付近までは難なく近づけたものの、そこから先、果たしてどうすれば雨意五月雨という少女に会えるのか皆目見当つかなかった。
セーラー服ならまだしも、と日和は自分の服装を見下ろした。
日和の通う天地高校の制服はブレザーだった。現在はポロシャツを着ているとはいえ、お嬢様学校の上にセーラー服指定の構内に入ってしまったら目立って追い出されてしまうかもしれない。
いい案が浮かばないままに『絹道学園』と彫られた石造りの校門の前で迷っていると、遠くから歩いてくるひと塊の学生たちがいた。
皆、一様に背中に黒い化学繊維のケースを背負っている。
ギターケース__サミを知っているかもしれない!
日和は駆け寄った。
「あの、すみません。忘れ物をこちらの生徒の子に返したいんですけど、雨意五月雨って子、知りませんか?サミって呼ばれてる子です」
軽音楽部らしきその四人の女の子は、皆、一瞬だけ迷惑そうな顔をする。しかし日和が他校と気づいて、親切に考えるような仕草を選んだようだった。
「んー多分先帰ってるんじゃないですか?」
一人が腕を組んで言った。
「いつもそうだし」
「あはは、なんで知ってんだよ」
「いや、本当に知ってるから。あのー、あいつギター持ってますけどたぶん帰宅部なんで、私達とは全然かんけーないんですよ。すみません」
「あ、あいつとか言っちゃった」
「いまのなしで!」
「いやいや、なしとか無理でしょ」
「サミとか笑える」
「てかあいつ、いつもなんでギター持ってんだろ、軽音はいれよ」
「えー」
「それ言う?あはは」
ギターやキーボードを背負ったサミと同じ制服の学生たちは、日和への返答と自分たちの雑談をごちゃまぜしながらけらけらと笑い、歩いて行ってしまった。
______。
日和はぽつんと立ち尽くす。
それはまるで、嵐が去ったようで。
うるさいだけの嵐じゃなく、土石流を起こして町を一つ壊してしまったような、それなのにその町は自分とはまったく関係ないような、そんな胃の痛くなるような感触で__
立ち入っちゃいけない、サミの事情。きっと深入りも深読みも無用なのだ。
……でもなんとなく嫌な感じだ、と日和は胃を押えた。
「うお、ヒヨリ?」
振り返れば、目を見開いたサミが立っていた。「先に帰った」なんて適当だったらしい。そして当の本人は日和の気持ちとは真逆に、飄々として両手を青色の頭の後ろで組んでいた。瞳は相変わらずどろんと沈んでいて、隈が深かった。
「嬉しいな、会いに来てくれたんだ?」
「ううん、これ返しに来たの」
一日ぶりのエキセントリックな姿に、さっきまでの出来事も杞憂かと内心ほっとしたのはさておき。
日和はサミに背中を向け、黒いギターケースを見せた。
「おー!そうだよ!なにか足りねーと思ってたんだ!」
そんな「嘘でしょ?」と思わせるような発言ののち、サミは嬉しそうにギターを背負った。
やっぱりよく似合っていて、板についていた。
「じゃ、これでばいばいだね」
今度こそ、もう会わないだろう。
友達になりたいと思いつつ、そんな中途半端な想いを胸に、日和見日和は雨意五月雨にさよならを告げた。
◆ ◆
日和見日和はやっぱり中途半端な人間である。
自分自身の悩みがほとんど解決してしまったことで、今更になって雨意味五月雨という少女に俄然興味が湧いてしまったのだった。
「という訳でちょっとだけ尾行__それで一応、連絡先だけきくっていうサプライズの予定」
日和は誰にでもなく声に出して言い、そして自分で「ナイスアイディア」とにんまり笑った。その実、サプライズを騙ったストーカーだったが、まぁよしとした。そんな大胆なものの考え方は、もしかしたらここ数日のサミの行動に影響されているのかもしれなかった。
「前方にサミをとらえた。このまま追跡します」
これも独り言だった。
自転車に乗れないというサミは、駅とは反対方向へ向かった以上、徒歩圏内に居住しているはずだ。派手な青い頭と黒いギターケース、そして黄緑色のパーカー、尾行対象としては難易度1である。蛍光ペンみたいな後ろ姿を追っているうちに、10分程度でそれらしき家が見えてきた。
洋風の屋敷だった。
お嬢様学校、おそるべし。
恐れおののきつつ、日和はサミが門(門があるレベルだ!)をくぐったのを見届けて、その外から様子を眺めた。サミが家に入ってから少ししてインターホンを鳴らそうと思ったのだった。
「…………」
しかしどうしたことだろう。
しばらく待っていても、サミは家に入る様子がない。じっと直立不動、ドアの前に静かに足っているのである。鍵を忘れたのだろうか。だったらその場で立っているのもおかしな話だった。
そこからさらに五分。
さすがに待っていてもしょうがないので、日和は声を掛けようかと動いた。しかし、そのタイミングで雨意家のドアが開いた。
「ただいま」
か細い声が聞こえた。
今のはサミの声か?と日和は耳を疑う。不敵な笑みを浮かべていた、あの無敵のような少女のものとは思えなかった。
向かいに立つのは、取り立てて特徴という特徴はない、平凡で中肉中背な、ちょうど父親くらいの年齢の男性だった。遠くからなので、顔が似ているかどうかは分からなかった。
「お父さん、どうしたの」
ドアの前に立ったまま道を開けない男に、サミはまた、小さな声で呼びかけた。どうやら父親らしい。その父親はしかし、質問には答えない。
__あれ、これって……なんだかおかしい?
日和は得体のしれない違和感に、その場に縫い付けられたようになってしまった。少しだけ手前に出て、二人の様子がより分かる場所へとでる。
__根拠はない。
なんの理屈もない、裏付けのないただの予感だったけれど、いざとなったらサミを庇えるかもしれない__そんな風に思ったのだった。
父親は長い沈黙ののち、ようやく口を開いた。
「……なんでソレを持ってる?」
「友達に返してもらったから」
そう言いながら、サミはギターケースを背負いなおし、ぎゅっと身を縮めた。その後姿はいつもより一回り以上小さく心もとなかった。
「友達に貸してたのか?お前、それがいくらしたか分かってるのか?」
「で、でも昨日は、友達に貸したって言ったら『ギターで友達ができるもんなんだな』って喜んでくれたじゃん……」
「『でも』?お前、今父親に向かて逆らったな?」
日和は背中がぞくりと冷えるのを感じた。話の向かう方向がおかしい、何かが間違っている。__それは、違う、サミ。
父親はあくまで冷静だった。
まるで言質をとったような、うっかりの自白した犯人を問い詰めるような、加虐の喜びが見て取れる。こともあろうか、その矛先は実の娘へと向いているという異常な状況だった。
「……い、いや違う」
「おぉ、また逆らった」
「そういう意味じゃない!」
「ほら、お前はいつもそうやって違う違うでもでもでもでも、そうやって逆らってるけどな、そのくだらないギター、それを買ったのは誰だ」
「………」
「誰だ」
「…………お父さん」
心底苦し気にそう呟いたサミの声は、まるで父親を呼ぶ娘のものではなかった。
その父親は、「待ってろ」といって背中を向け、そして一分と経たずに戻ってきた。
「……え、な、なにそれ」
無表情だったサミが、途端に絶望に染まったように顔を歪めた。
父親の手には、大きな金槌のようなものが握られていたのである。
「お前はもうダメだ、限界、もうここまでだ。はい、残念でした。おもちゃは取り上げ、ペナルティだ」
ちゃんちゃん、と何かが終わってしまったような鼻歌を父親は歌った。ひどく不気味で、心底楽しそうだった。
サミの目は潤んでいる。しかし、泣きそう、なんてものじゃない。泣くのをこらえていた。泣きそうである事を隠そうとしていた。
「泣くなんて甘えたことは許さないからな、お前が悪いんだから自分で始末付けるだけの話だからな。俺が泣かせたなんて馬鹿みたいな逆恨みはするなよ。親が子供の持ち物壊すなんて最悪だろ?だから自分で壊すんだよ。お前が壊したっていうならみんな納得するだろ。お前はいつもそんな恰好で年中暴れてるんだって言うんだもんなぁ?」
「…………」
「黙って無視で反抗期ってか?それともやりすごそうとしてるのか?だからお前は嘘つきなんだ。本当にそのふざけた格好通りの奴なら、ここは俺を殴ったり勢いで家出するべきなんじゃないのか?」
「………」
「お前はまだ逆らうには早いってことだ。こんなこと言ったらまるでひどい親みたいだけどな、俺はひどくはない。一度だって殴ったことはないだろう?お前みたいなのにははっきり言わないと分からないから敢えて言う。言っとくが「私の何がわかるのよ!」なんて馬鹿みたいなことは言うなよ。俺はお前と血のつながった父親で、生まれた時からずっと知ってるし、お前の考えなんかお見通しなんだよ。お前は俺みたいに嘘つきだ。嘘に嘘を重ねていつか手遅れになるんだ。」
日和は目を疑った。
父親の目がいつの間にからんらんと輝いている。
サミの父親は叱ってるんじゃない。
あれは__
「俺はお前を食わせてやってるんだよ。はっきり言って、いつでも止められるんだ。そうなったらお前はどこにいく?学校だって金払わないぞ。一生ギターだけ背負って道端で夢夢夢夢夢希望希望希望希望死ね死ね死ね死ね死ね死ね死にたい死にたい死にたい死にたいってバカみてーに歌ってればいいんだ。そうなりたいか?」
サミは答えない。逃げ出すこともせず、視線を逸らしもしない。
それは一見、強く対峙しているように見えるが__違う。
日和はまったくの部外者でも、なぜか自分なりに恐怖して、そして分かってしまった。サミは恐れているのだ。目を逸らすことも、無視することも、立ち去ることも、すべてがあの父親に対する【逆らい】になるのだと__だから無言でも、まるで「言葉に詰まって言い返せない」フリをしてこの時間が過ぎるのを待っているのだ。
怖い。
信じたくない。
雨意五月雨__サミ__
__君は偽物なんかじゃないのに
「だから__言うことを聞け」
俯き言葉を返さないサミに、父親はさらに一歩踏みだした。そしてゆっくりと、よく見えるようにサミに大きな金槌を手渡した。
「壊せ」
震えるサミの手が、それを受け取る。
「そのくだらないギターを壊せ」
◆ ◆
「ちょーっちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょ」
私は見かねて飛びだした。
用意していた言葉も、取るべき行動も真っ白で、完全に見切り発車だった。
「困るんですよお客さん……じゃななくてお父さん!」
「…………?」
あからさまに奇異なものを見てしまったような視線を私は二人から受けた。それもそうだ。流石に「ちょ」の数が多すぎた。
「それ、私のギターなんですよ!」
「おい、ヒヨリ」
「サミは黙ってて!」
私は遠慮がちな声を出すサミを制した。
「サミ、いや、五月雨ちゃん、私のギター間違えて持って帰っちゃって……それで慌てて追いかけたんですよ、ほら」
「ほら」と言いながら、私はサミの背中のギターケースの、大きなポケットをばりっと開けた。
__中から一冊のノートを取り出す。
「これ、ほら、私のなんです」
一度教室の机に置きっぱなしにして懲りたはずなのに、今度はうっかりサミのギターケースにいれて持ち帰ったまま取り出すのを忘れていたという訳だ。大事なノートのくせに、徹底していない、成長もしていない、私はつくづく中途半端だ。
「………」
「え、まさか疑っておいでで?じゃあいいですよ、もう一人で勝手に中身当てゲームしますから。手始めに、裏表紙には私のサインがあります」
サミとその怖い父親。二人の返答を待つことなく私は堂々と恥ずかしかった【本音】の詰まったノートを開く。そこには黒マーカーで書いたローマ字のサインがあった。ちゃんと達筆に崩したタイプ。本音と言うか普通に恥ずかしいだけのものだった。
「…………」
「…………」
あからさまに困惑する二人だった。私はむしろ楽しくなって、つぎのページに指をかけた。
「つぎのページには先輩に片思いしてその先輩を遠い空の雲に例えた詩があります。タイトルは羊雲です」
「…………」
「つぎのページには自分を積雪に例えて太陽に……」
「…………あの、いや、もういい」
驚くべきことにサミより先に父親が折れたようだった。額に手をあて、私に目を合わせようとしない。
「うちの娘がギターケースを間違えたことは分かった。だが君は公立の高校だろう?」
鋭い指摘に、しかしそれを予想していた私はにやりと笑った。
不敵に__無敵に笑った。
「ええ。他校ですけど、私達軽音楽部でバンドやってるんで、私はヘルプとして参加させていただいているんです。ダブルギターですよ」
そう言い切って、言い逃げるようにして、私はサミの手を取った。ギターを壊すために握らされた金槌がぼとりとアスファルトに落ちる。
そうして__逃げた。
サミは、その時ばかりは大きな目をさらに見開いて、ただ驚いたような表情を浮かべていた。そんな演技じみていない彼女の同い年っぽい表情が、私はただ嬉しかった。
◆ ◆
なんとなく隣町まで電車に乗って、日和見日和と雨意五月雨は最初に出会った川辺の土手に座っていた。
とっくに日は傾いていて、周囲は綺麗な、完全なるオレンジ色だった。
「ああいうのは全部、オレの敵だ」
なじみのある口調で、サミは言った。
「ああいうの?」
「学校にいた奴ら、それに、言葉で殺す父親、ああいうの、全部だ」
それは諦めたよう口ぶりだった。サミの目にオレンジの光が映り込む、その目の下には深い隈があって、ずっと眠っていない様に見えた。
「私、サミって無敵なんだと思ってた。今でもそう思う」
二人並んで三角座りをして、二人とも前を向いてただ川の向こうの西日を眺めていた。並んだ二つの黒い影が長く伸びていた。
サミは日和の言葉に、はにかむようにして頬を緩めた。
「無敵なんかじゃないさ。周りは敵ばかりだ。世界は完全無欠なんかじゃないし、実際穴だらけで____今にも落ちてしまいそうだ。でもさ、落ちたら楽になるかっつーとそうでも無さそうのは見えちまってるんだよな。落ちても生きていかないといけないし、世界はそこにある。穴だらけの世界が落ちた先にもまだある」
日和にはその例えは少々難しかった。ただ、サミが自分とは真逆のものの考え方をしているということだけは理解できた。
「……私はこう思ってた。『世界は意外にも広く、案外自由なもので、存外思うままになるもので、現実も未来も、思っていたほどに鬱屈としていなくて、融通もやり直しも効くし、遊びも余裕もゆとりもあるし、例えレールに乗ったとしても皆、それなりに、あるいは普通に楽しく、あっけなく、こともなげに、当たり前に、当然の如く飽きることなく笑っていられる』__あはは、まるで無敵だよね。そんなこともなかったのになぁ」
あはは、と日和は柔らかく笑う。
「さぁ、案外そうなのかもしねーぜ」
真逆の考え方を持っていた、鏡の向こうのような少女、サミ。しかし彼女は日和の世界観を「そうかもしれない」と言った。
「ヒヨリは強いよ。それこそ敵なんていない。さっきだって正義の味方かよってくらい派手に立ち回ってたぜ?……だからお前が世界がいいとこだっていうなら、そうなんだろ。偽物のオレなんかとは違う」
「偽物?」
「オレは実は強がってるだけってこと!」
強い口調で、しかし笑顔を崩すことなくサミは挑戦的に笑った。あるいは自嘲かもしれなかった。
「周りは敵ばかりだからな。一生懸命強がってたらいつか本物になれるかなって、誰か____敵じゃない味方が出来るんじゃないかなって思ってさ」
その言葉に、日和は立ち上がった。
「__私は」
しかし口を開いてみたところで日和は困った。安易かつ陳腐に「味方だよ」とは言いたくなかった。そんなに嘘っぽい言葉もなかなかない。日和はサミに対してはそういう言葉を投げかけられなくなっていた。
「よし、じゃあ、滅ぼそう」
「…………はぁぁ?」
日和の提案に、サミは転がるように後ろへそっくり返った。
「一回壊そう。一回落ち着こう。それでさ、味方だけの世界を作るんだ」
サミは後ろ手をついたまま、さかさまに日和を見上げた。まるで逆だ、と思った。
最初に日和を見かけたときと立場が逆転していた。
「おいおい、それってつまり『こんな世界なら壊してしまえばいい』っていう、よく悪役が言う台詞と同じだろ?」
「うん、そうだけど、何か問題あるかな?」
「…………」
「君のギターはなんのためにそこにあるのでしょう?そして私のペンとノートはなんのためにあるのでしょう?……だからさ、バンドやろうよ」
きっとその言葉も見切り発車で中途半端な決意だったが、日和はそれでもいいやと笑った。
できるだけ不敵に__大胆不敵に。
「くはっ」と、サミもまた演技じみた動きで不敵に笑った。
「お前ならそう言うと思ったぜ」
見上げる少女と、見下ろす少女。
……世界を滅ぼそう、と言ったのはどちらも日和見日和だが。
本物と偽物、結局のところその違いなんてなく、少なくとも同じなのは、二人とも無敵ではないということだけだった。
素敵な絵を書いていただきました、組長様@kumichoriginal、感謝いたします。
キャラクターに彩と世界をくださいました!