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僕の部屋には色彩というものが欠如している。そのことはすでに再三に渡って説明した。
しかし、香澄ちゃんと付き合いだした最近は、部屋の色彩について考えることも多くなった。しかしどこをどう変えたらいいかがわからなくて、悩んだままになっているのが現状だ。
そういう意味で、僕にとって心安らぐ場所といえば、ベッドに潜って目を瞑る真っ暗な世界と、この浴室だけだった。色がなくて当たり前の世界。彩りがなくても成立しうる世界。
浴室は基本的に、どの家庭でもあまり色彩について意識はされないような気がする。極彩色で心安らぐ人がいるとしたら別だが、入浴という行為にはリラクゼーション効果を得るという意味合いが強いと思うので、あまり派手派手しくする必要がないように僕は思っていた。ここが一番気を配る心配がない。そんな基準を持っていたので、風呂に入っているときだけはなんだかホッとした。何も考える必要がないから。
香澄ちゃんを待たせているので、手短にシャワーだけで済ませようと思っていたが、僕はシャワーの湯を頭からかけっぱなしにして、そのまま随分長いこと思考を巡らせていた。そうは言っても、今日は時間の経過が通常よりも遅い。おそらく十五分も経ってはいないだろう。四十度の雨に打たれながら、ずっと考えをめぐらせていた。
思えば、香澄ちゃんと初めて一緒に帰った日も、雨が降っていた。
この季節特有の、生暖かい雨。すべての憂鬱を溶かして降り注いでいるような気になりながら、一人帰る今までの帰路。そこに、日差しのように降り注いだ奇跡。確かな優しさ。笑顔。そして自分に起こった変化。
恋人ができたことに対する実感のなさはまだかすかに残っている。けれど、今日という日を通して随分と、香澄ちゃんが隣にいるという事を意識させられた。そのぶんだけ、恋人ができたという実感が僕の中で大きくなっていく。その感覚は、彼女に嫌われたくない、という思いから徐々に、彼女にとって唯一無二になりたいという願望に変わってきつつあった。
唯一無二。
彼女にとって、僕の代わりなど誰もいない。誰も僕の代わりになれない。そんな存在に対する強い憧れ。
僕は香澄ちゃんに選ばれたいのだろう。香澄ちゃんにとってかけがえのないものでありたい。そのためには、まず僕自身が、彼女の事をより一層知る必要があるのだろう。そして、彼女にも僕の事をもっと知ってほしい。それを受け入れる事ができて初めて、お互いにとってかけがえのない関係になれる。仮に、このまま香澄ちゃんを押し倒したとして、そうすることがお互いを知る最善の方法であるなら、そうすることに躊躇することはない。
自分本位な本能の充足よりも、彼女に選ばれることを、僕は心の底から望んでいた。よりシンプルな表現をするなら、彼女のことを心から愛していた。僕は彼女を愛していた。その気持ちに偽りはない。そう自分の中で、その答えを何度も確かめた。そして、今からとるべき行動について、自分の中で覚悟を決めた。
彼女のすべてが知りたい。そのためにはまず、自分から一歩を踏み出さなければ。今までしてきたどんなことよりも、それは自分にとって一番勇気のいる行動だった。
浴室から出て、体を拭き、部屋着に着替える。普段は髪も乾かさずにすぐ布団に潜り込むけど、今日は丹念にドライヤーをかけ、歯も磨いた。体制を整えるように、といおうか。
「お待たせ」
何気ない風を装って言ったが、エスパーである香澄ちゃんにどこまで本心を見抜かれているのかはわからない。彼女は携帯電話の画面を見るのをやめ、僕の方を見た。
「…あ、おかえり。遅かったね」
どうやら僕が入浴している間に少し飲んだらしかった。先ほどまでいっぱいだったグラスの中が空になっている。そして心なしか、先程よりも少し顔が赤らんでいるように見えた。
ここで、入浴前に、香澄ちゃんが言っていたことを思い出す。
ーーー私はお酒飲んだらよく笑うようになっちゃうから。
言われたときはその通りだと納得したが、今僕の目の前にいる香澄ちゃんに笑顔はない。僕の入浴中ずっと一人で待たせていたわけだから当然なのだろうが、どことなくいつもの明るさが薄らいでいるように思える。視線はどこか虚ろだった。夢見心地というか。
しばらく、僕らは無言で見つめあった。先に目を逸らしたのは香澄ちゃんの方だった。
下がった視線が、まるで迷子みたいに泳いでいた。座りもせず、ただ立ち尽くして香澄ちゃんを見下ろす格好になった僕のことを訝しんでいるのかとも思ったが、それとはまた違う。戸惑っているような印象を受けた。そんな姿を見ていると、僕の中で堰き止められていた感情が溢れ出しそうになっていく。奇妙な感覚に支配されていくのがわかった。
香澄ちゃんの隣に座った。すぐ真横。少し動いただけでも触れそうな程、そこに距離はほとんどないと言ってもよかった。
お互いの体温が、まるで自分のもののように伝わって来る。しかし香澄ちゃんは何も言わないし、何の反応も示さなかった。まるでそうなることがわかっていたみたいに。いやきっと、彼女には僕の心の内など、最初からすべてわかっていたのかもしれない。
一瞬の間を置いて、僕の手が香澄ちゃんの肩に触れた。少しだけぴくっと震えるように動いたが、あのときのように震えてはいなかった。深くてゆっくりとした呼吸が伝わってくる。
しかし、心臓の音はそれとは比べ物にならないほど早かった。僕も同じだった。しかしひとつだけ違うのは、僕の全身がまるで機械にでもなったかのようにがちがちに固まっていたことだろう。動きがまるでゼンマイの切れかけたロボットのようにぎこちない。初めての経験からくる緊張と、抗いがたい男の本能が混じり合って、微妙な感情を形成していた。思考はとっくに停止していて、ある意味無意識のうちに、反射的に身体を動かしていたような感覚だった。本能のままに、とでもいえばいいだろうか。行動が何か別の意思によって、自動的に判断されている。理解の範疇を超えた行動を僕は実行していた。無意識のうちに。
肩を抱いた腕に力を込める。あっけなく、香澄ちゃんの体は倒れこむようにして僕に預けられた。文字どおり香澄ちゃんの髪の毛が僕の鼻をくすぐった。いい匂いが鼻腔をくすぐり、更に僕の欲求を刺激した。肩を抱く手に力がこもる。預けられた体から重さは感じなかった。全身の感覚が麻痺していた。息遣いが更に近くで感じられ、心臓の音が更に大きくなる。それだけに意識が集中させられていた。
肩に触れた腕を少し動かす。指先が髪にそっと触れる。髪を撫でた。さらさらとした手触りが心地よかった。いつまでも撫でていたいと思えるほど。
香澄ちゃんは何も言わず、動かないまま、僕のするように身を任せていた。僕はそんな彼女の横顔を見た。彼女は目を閉じていた。呼吸は先ほどと変わらず、ゆっくりと深い。もしかしたら眠っているのではないかと思われたが、どきどきと波打つ鼓動の音がそうではないことを物語っていた。
ふと、香澄ちゃんの瞳がゆっくりと開かれた。彼女のことを見つめる僕の視線と交錯する。潤んだ瞳。部屋の明かりに照らされてキラキラと輝いてみえる。上目遣いに、迷子のような視線を僕に向ける。頬が先程よりも紅潮している。間違いなく、今まで見た中でもっとも魅力的な表情だった。
そのままキスをした。
僕の人生で初めてのキス。しかしそこにぎこちなさはなかった。まるで昔から知っていた、馴染み深いことのように。おそらく、本能的なレベルで、生物的なレベルで、僕はそのことを知っていたのだろう。
目を閉じた。暖かさを暗闇のうちに感じた。何度も唇を重ね、開かれた歯の隙間から舌を絡ませあった。荒くなった息遣いをありのままに感じた。彼女の手が僕の背中に触れた。シャツがそっと掴まれる。そのまま彼女は僕の体にしがみついた。僕らは沈黙の底でお互いを求めあった。
しばらくののち、唇がそっと僕から離れた。香澄ちゃんは乱れた髪を撫でながら、ひとつ小さく息を吐いた。僕の視線から目を逸らした。伏し目がちになる。そしてもう一度、改めて僕の視線を見つめ、小さく微笑んだ。
僕はもう一度、彼女を抱きしめた。こちらに強く引き寄せた。逃げようとしているものを捕まえるように。この場合に使う比喩としては適切ではないだろうが、格好としてはその方が的を得ていた。彼女の身体は震えていた。僕の身体も、少しは震えていただろうか。
この上もない幸福を感じずにはいられなかった。彼女の暖かな感触、その心の奥の柔らかな部分に触れることができたと思えた。僕はその幸福感と、安心感に身を委ねていた。なんだか自分のすべてが肯定され、赦されたかのような安堵に満たされていた。
抱いた腕をほどき、そして、彼女に触れようと手を伸ばした。彼女にとって、唯一無二の存在になろうとした。
「…」
不意に、香澄ちゃんが僕の名を呼んだ。
耳のそばで言われなければ聞こえなかったかもしれないほどの、かすかな声。そこにほんのわずかに混じる感情に僕は反応した。
「ごめん…」
その意味を理解することに時間がかかった。僕はとっさに身を引いた。とっさに彼女から距離をとった。狼狽した。
香澄ちゃんはうなだれ、申し訳なさそうに視線を下げていた。身動きひとつすることができなかった。先程まで僕の心を支配していた本能的無意識は跡形もなく消滅していた。僕の思考に空白が生じた。
香澄ちゃんの視線が、恐る恐る、僕に向けられた。今にも溢れそうなほど涙で潤んでいる。そこには恐怖の色があったが、先ほどまでの行為に対する恐怖ではないのは理解できた。叱られるのを恐れる子どものような目。もしかしたら、僕に責められるかもしれないという恐怖をも感じているのだろうか。
「ごめんなさい…」
もう一度、小さく、彼女が言った。その言葉を受けて、ようやく僕の意識が戻った。
首を振った。しっかりと振ったわけじゃない。弱々しく動いた。何かを言わなければならないという使命感に駆られた。香澄ちゃんに声をかけなければならない。しかし思考もなかなか働かない。もやがかかったようにぼんやりとしていた。それでも必死に、今言うべき言葉を考えた。
「…いや、こっちこそ、ごめん」
かろうじて言えたのはそれだけだった。
もし。
今の僕が、そのときその場所にいたとしたら、そのときの僕にどんな言葉をかけただろう。この物語の結末をすべて知っている今の僕が、過去の自分自身にどんな言葉をかけてやれただろうか。
きっと、何も言わないのだろう。そして、おそらく、その方がいい。
そのときのことをひとつだけ覚えている。それは、香澄ちゃんが帰ってしまったあとの部屋で、お揃いのワイングラスだけが、片付けられずにいつまでも寂しげに、そこにあったいうことくらいだ。