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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 多分、僕の中にも理想というものがあったのだろう。

 小洒落たお店を知っていて、映画や音楽に関しての造詣も深くて、服装にもきちんと気を配れて、何より、初めてのデートでうまく女の子をエスコートできる。そんな像をつい空想してしまっていたのだろう。

 男には少しだけ見栄っ張りなところがある。自分の中にすら、こんな男の性が眠っていたのかと思うと何だかむず痒いような気持ちになった。

 しかし、雛がいきなり空を飛べないように、人もまた、今までできもしなかったことがいきなりできるようになるということはない。できないことは、挑まない限りは、いつまで経ってもできないことなのだ。

 今回、僕の人生において記念すべき初デートは、残念ながら思うようにはいかなかった。香澄ちゃんにいらぬ心配をかけてしまったし、自分に余裕もなかった。

 しかし、隣立って歩く僕らの表情は明るかった。計画通りには行かなかったけれど、結果、彼女も僕もそのことを何も気にしていない。結果オーライというべきか。僕はこんなに楽天家だっただろうか。

 もちろん、この数時間で、心の底までお互いに分かり合えたかと言われれば、そんなことはないだろう。僕はまだ彼女の気持ちのすべてをわかるには至っていない。そもそも人には他人の気持ちをすべて見抜くことなどできない。超能力の才覚がない限りは。

 しかし、立ち寄ったスーパーで、張り切ったようにハンバーグの材料を買い回る彼女の姿、ニコニコと幸せそうな表情を見ると、少しだけ、彼女の心の内を覗けたような気がした。彼女の後ろを、ショッピングカートを押してついていきながら、ぼんやりとそんなことを思う。そうして過ごす時間は、僕にとっても楽しい時間だった。時折笑顔で振り返る彼女に笑い返す今は、何より幸福を実感できる時間だった。

 ぱんぱんに膨れ上がった買い物袋を二つ下げ、半分持つよ、という香澄ちゃんの申し出を全力で断って、帰り道をふたり並んで歩いた。昨日降った雨に地面がぬかるんでいたが、今日は梅雨時期に珍しく、夕日の輝きが向こうの山の陰に見える。

「夕日、綺麗だね」

香澄ちゃんが言って、僕は頷いた。いずれ梅雨は明ける。暑い日が続くだろうけれど、それでも夏が待ち遠しい。今日みたいに、香澄ちゃんといろんなところに行ってみたい。


 花柄のエプロンを着た香澄ちゃんを見るのは、何だか随分久しぶりなように思えた。彼女が最後に僕の家に来たのは、彼女が泣いていて、僕が告白したあの夜。彼女の好きなところを数えだしたらきりがないけれど、この格好で笑っているときの香澄ちゃんが、やっぱり僕は一番好きだった。

「さーて! お腹もすいたし、早いとこ作っちゃおっか。ひき肉のラップ剥がしといてくれる?」

香澄ちゃんが腕まくりしながら言った。僕は慌てて彼女の手伝いに回る。

「その次は玉ねぎの皮を剥いて、計量カップに牛乳を測って…」

 香澄ちゃんが的確に指示してくれたおかげで、下準備は三十分とかからず終了した。現役のキッチン担当者の僕よりも仕事ができる。その手際の良さには、毎度のことながら感服せざるをえない。

「ありがとう。もうあとは焼くだけだから、テレビでも見て待っていてください」

 僕はほっと一息ついて、よろよろとワンルームの居間に戻り、テレビをつけ、煙草をふかした。なんだかどっと疲れたような気がした。しかし、僕に指示を出しながら料理を進めていた香澄ちゃんの方が疲れているのではないかと思い、テレビにあまり注意を向けられないでいた。何かまだ手伝うことがあるのではないか。そう思うと気が気ではなかった。

 長く付き合っていくにつれて、そういう気遣いもなくなっていくのだろうか。一緒にいることに慣れすぎたために、香澄ちゃんは前の彼氏と別れることになった。思い出すとまた胸が熱くなる。香澄ちゃんの悲しむ顔を見るのはもうたくさんだ。少なくとも、彼女に対する思いやりは忘れないでいよう。あの覚悟を決めた夜に、彼女の支えとなれることを願ったからには、そういう思いやりが一番大事になってくるだろう。僕は半分ほど吸った煙草を消し、もう一度キッチンに戻った。香澄ちゃんは楽しそうに鼻歌を歌いながら、ハンバーグの焼き加減を見ている。そして、隣に立っている僕に気がつくと、不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの?」

 手伝うことはないか聞きに来たはずなのに、何だか急に照れ臭くなった。

「…美味しそうだね。」

 頭を掻きながら、そう言うことしかできなかった。何故かはわからないけれど、香澄ちゃんが料理をしている姿を見て胸がいっぱいになった。これまでに何度となくその姿を見てきたはずなのに、今はいつもよりも感動が大きかった。また香澄ちゃんが笑う。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 香澄ちゃんといることが奇跡ではなくなった。彼女と一緒にいることが、徐々に日常と溶け合ってゆく。彼女と僕は紛れもなく、現実を共に生きている。

「ほら、焼けたからお皿出して! 箸もテーブルに持っていってね」

 僕は慌てて動作を再開した。動いていると更に、生きているという実感が強くなる。夢を見ている暇はない。彼女との今を、しっかり見つめていなければならない。

 今度は二人向かい合って、テーブルに座る。焼きたてのハンバーグは今まで食べたどの料理よりも美味しく感じた。

「あ! 忘れてた!」

そう言って、いきなり箸を置き、キッチンの方に駆けていく。しばらくすると、赤ワインのボトルとグラスを二脚持って戻って来た。

「初デート記念ね」

 スーパーで見つけた、ちょっとだけいいワイン。普段の僕ならほとんど飲まないが、香澄ちゃんはビールよりもワインが好きらしく、嬉々として買い物かごに入れていたのを思い出した。

 美しい赤色が、部屋の灯りを反射してキラキラと輝く。乾杯をして、少しだけ口に含む。渋みの中に上品な甘さもあって、良い香りが呼吸と一緒に鼻から抜けていった。

「肉料理にはやっぱりワインだね。チーズも買ってるから、あとで食べようね」

そういえば、僕がデートの最初で必死に探していた、オシャレなお店のことが思い出された。僕はまったくと言っていいほど行ったことはないが、果たして香澄ちゃんは、そういうお店にはよく行くのだろうか。

「ワインが美味しいお店って、よく行くの?」

 香澄ちゃんはうーんと腕を組んで、考えるような仕草をする。

「あんまり行かないかな。そういうお店って、やっぱりちょっと高いでしょ。女子会とかで行くことはたまにあるけど、私はああいう雰囲気ってちょっと苦手。だって思いっきり笑ったりしたら、恐そうなマスターに怒られそうじゃない?」

 そう照れくさそうに言った。僕は笑いながら話を聞いていたけど、内心は心の底からほっとしていた。もし映画のあとに、そういうお店に行こうって切り出していたら、香澄ちゃんはあまり乗り気になってくれなかったということだ。性格上、いいよって言ってついてきてくれそうではあるけれど、今ほど楽しんでくれてはいなかっただろう。やっぱり、背伸びした行動はあまり良い結果を伴わないということか。

「君は、そういうお店にはよく行くの?」

 そう尋ねられたので、僕は素直に、首を横に振ることができた。ここで見栄を張ることには何の意味もない。

「…正直、居酒屋で有村たちと騒いでる方が好きかな」

「やっぱりね。でも、あんまりお酒飲んで騒いでるイメージないね。有村くんは別だけど」

 言われて、確かに。と思った。

 僕は自ら馬鹿騒ぎを起こす方ではない。むしろどこまで飲んでも抑制が効くし、ましてや記憶をなくすまで泥酔したことなど滅多になかった。有村などは、飲めるだけ飲んで、そのうち声のトーンが大きくなっていき、最終的にはそこにディストーションとオーバードライブまでかかるタイプだ。

 一度、あいつが珍しく女の子にフラれたとき、大声で泣き喚くのを必死で止めたことがあった。最終的に、騒ぎを見過ごせなくなった店の従業員が注意しにやってきたけど、そのときにはすでに、彼は僕の膝に顔をうずめてしくしくと泣いていた。その子の名前を呼びながらみっともなく泣いている後輩を宥めながら、店員さんに必死で謝ったのを覚えている。その話をすると、香澄ちゃんはすごく可笑しそうに笑った。

「有村くんも、いろいろと大変なんだね…」

 僕は短く首肯する。

 有村みたいな所謂「モテる奴」でも、僕には全く理解できないだけで、彼らには彼らなりの悩みを抱えているのだろう。女性と付き合う機会が多いというのも、本当は羨ましいことばかりではないのかもしれない。

 「でも、いくら飲んでも何も変わらないって、いいことなのかもね。私はお酒飲んだらよく笑うようになっちゃうから、それはそれで結構恥ずかしいし」

 そういわれれば、本人の言う通り、笑う声が心なしかいつもより大きいような気がする。普段からよく笑う彼女だけれど、やっぱりお酒が入ると更によく笑うようになるのだろう。しかし有村みたいなタイプよりははるかにマシだ。泣き上戸よりも笑い上戸の方が、やっぱり一緒に飲んでいて楽しい。それを伝えると、香澄ちゃんはえへへ、と照れたように笑った。そういう彼女だから、周囲にも好かれるし、男性からも好意を寄せられやすいのだろう。

「………」

 香澄ちゃんに気づかれないように、ふと小さく息をついた。 

あまり気にしないように努めていたことが、ちょっと気になってきたのだった。僕の前に付き合っていた彼氏ってどんな奴だったのだろう。その前に付き合っていた男はどんな男で、今までどれくらいの恋愛を経験してきたのだろう。

どうして恋人の、恋愛についての過去を知りたくなるのだろう。人の性というものだろうか。聞きたい気持ちはあったが、しかし僕から聞くことはしたくなかったし、聞かされないのなら、これから先ずっと聞く必要のないことだと、僕は自分に言い聞かせた。

 男はプライドと独占欲が強い。自分はそうではないだろうと思ってはいたが、今になってこんなことを気にかける辺り、どうやら僕にもそういう心理は備わっていたのだろう。だんだん僕の中での男性面が強くなってきたように感じるのは、お酒のせいなのか。彼女といる影響なのだろうか。

 感情を押し殺すように、ワイングラスを手に取り、半分ほど残っていた酒をぐっと飲み干す。喉をアルコールがゆっくり通っていく、ひりひりと焼けるような感覚がした。

「あれ、大丈夫?」

 香澄ちゃんが驚いたように言った。

「大丈夫」と短く言って、ボトルの中身をまたグラスに開ける。

「あんまり飲み過ぎないでね。体に悪いよ。」

 そう言って、香澄ちゃんも空になった自分のグラスに酒を注ごうとする。僕はその手からボトルを取り上げた。注ぎ口を香澄ちゃんのグラスに向け、そして珍しく、自分から彼女に笑いかけた。

「一緒にいるとき以外はね」

僕はどこまで飲んでも抑制が効く。しかしだからといってまったく酒に酔わないわけではない。ちゃんと鼓動は早くなり、顔も赤くなる。頭もぼんやりしてくるし、視界がぼんやりすることも当然ある。そんな姿を普段あまり見せないのは、単純に恐怖からだった。幻滅されるのではないかという恐怖。失うことへの不安。

 しかし、香澄ちゃんという存在は、僕の中で不動のものになりつつあった。心を許した存在というべきだろうか。だからこそ、失うことへと恐さ以上に、もっと分かり合いたいという欲求が今は勝っていた。

 そんな僕の胸の中を見透かしたように、香澄ちゃんは少し微笑んで、黙って僕のボトルからワインを受けた。そして、グラスの半分くらいの量を、一息にぐっと飲む。その豪快な飲みっぷりに、僕も少しならずびっくりしたが、グラスから唇を離して、彼女はにっこりと笑った。

「なら今日くらいは、ハメ外しちゃいましょっか!」

彼女の笑う声が、音楽のように、僕の色気のない部屋に満ちていた。だからだろうか、香澄ちゃんの携帯電話が、カーペットの上で振動していることにすぐには気付けなかった。

「電話、鳴ってない?」

言われて、香澄ちゃんがそれさっとを取り上げた。

「ごめん、ちょっとかけてきてもいい?」

 僕が頷くと、香澄ちゃんはどことなく申し訳なさそうに、小走りで家の外へと向かっていった。ドアが閉まり、急に一人になった。

 僕は黙ったまま、しばらくぼうっとしていた。つけっぱなしだったテレビに視線を送り、新しい煙草に火をつけ、さっきまで誰かがいたところに向けて煙を吐いた。根元まで短くなった煙草を消すのとほとんど同時に、玄関のドアが開く音を聞いた。

「お待たせ。ごめんね」

そう言いながら、彼女は元いた場所に座った。それを確かめると、かすかな寂しさが嘘のように消えていくのを感じた。彼女のことを不動のものだと言ったくせに、やはり僕は、彼女がどこかへ忽然と消えてしまうことを恐れているのだろうか。

「お母さんからだった。なんか急ぎで相談したいことがあったんだって。まったく、こんなときにかけてこなくてもいいのにね」

呆れたように苦笑する。帰りを待たずにかけてくるなんて、よっぽど切羽詰まった状態だったんだろうか。なにか緊急のことだったらと思うと、先ほどまで子供っぽい寂しさを募らせていた自分のことなどどうでもよく思えてくる。

「大丈夫? もっと話していた方がいいんじゃない?」

心配になって僕は尋ねた。すると、香澄ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「もっとしてた方ががいいの?」

と聞いてくる。僕が間髪入れずに首を横に振ると、彼女は「うふふー」と更に意地悪く笑う。

「かーわいいカレシが寂しがるといけないから、もう電話はしませんよ。残念でした」

またも胸中を見破られてしまった。今後ないだろうが、彼女に隠し事をしたり、嘘をつくようなことは絶対しないようにしなければ。

 僕らはしばらくワインを飲み、チーズをつまみながら、いろんなことを話し、笑った。

 お酒が進むにつれ、僕らの顔も赤くなっていき、夏の近づく頃の夜風では少し暑く感じ始めていた。冷房でもかければいいのだが、「一人暮らしの電気代は馬鹿にならないから」といって、自分ではクーラーをつけない香澄ちゃんに気を使わせては悪いので、そのままにしておいた。しかし、そろそろ汗ばんできて気持ち悪くなってきたので、どうしようかと思っていたとき、香澄ちゃんはふう、と短く息を吐き、掌を団扇のようにして顔を扇いだ。

「ちょっと暑いね」

「クーラーをつけようか?」

 彼女は首を横に振った。

「いいよ、電気代馬鹿にならないでしょ」

まったく想像通りのことを言われてしまった。彼女はよいしょっと言って立ち上がる。

「ちょっとシャワーだけ借りてもいい?」

 頷いた。同時に、口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。

 香澄ちゃんは結構酔っているのか、ふらふらとした足取りで浴室へと向かう。その後ろ姿を、ドアが閉まるまで眺め、彼女が奥へ姿を消した瞬間、肺の中に沈殿していたような重い空気を一気に吐き出した。

「…まさか、まさかだよなぁ…」

 つい柄にもなく独り言を呟いてしまった。


 これまで何度となく繰り返してきたことだが、あえて言おう。僕は今まで女性と付き合ったことがない。

 彼女ができたことも初体験、女性とデートしたのも今日が初めて。ましてや部屋に女性が上がりこむなど、これまでの人生では考えられなかったことなのだ。

 しかし、女性が自主的に、男の部屋でシャワーを借りる。この意味がわからないほど、僕は男性的に終わっているわけではなかった。自意識過剰と謗られることは覚悟の上だが、しかしその意味は大人になると、嫌というほどわかるものなのだ。そうではないか。

 心臓がまるで早鐘のように鳴った。急に酔いが加速されたようで、どことなく気持ち悪い。少しでも落ち着こうと、ワイングラスの中身を飲み干すけれど、更にアルコールが体内に吸収されて視界が変な風に回転した。そのまま、座った姿勢のままで床に倒れ込み、はあはあと荒い呼吸をした。かつてないほどの緊張を味わっている。今日の初デートでの失敗や、それに付随する大いなる経験など、そんなものは序章に過ぎなかったとでも言わんばかりの、今日一番の緊張である。

 とっさに携帯電話を手に取り、電話帳の一番最初に出てくる名前を呼び出した。

 コール音が響く。神に祈るような姿勢で待つこと四回目。

「はあーい。何スかリア充先輩」

 間延びした有村の声が電話口から聞こえた。まさかこの僕が「リア充先輩」などと揶揄される日が来ようとは思ってもみなかったが、しかし今はそんなこといちいち気にしていられない。

「おい、助けてくれ」

「はい? いきなり何なんスか。今日香澄ちゃんとデートなんでしょ?」

「いいか、落ち着いてよく聞けよ」

 早口で、しかも小声だったが、今の状況を簡潔に伝える。電話の向こうの有村が、またぴゅうっと短い口笛を吹いた。おそらく白目も剥いていることだろう。

「…ということになってるんだ。どうしたらいい?」

「めちゃくちゃ面白いことになってんじゃないですか」

「うるさいな! そんなこと言ってる場合じゃないんだよ。こっちは相当テンパってるんだぞ」

そう言うと、有村は「うーん…」と言ったきり黙ってしまった。今も香澄ちゃんがシャワーを浴びている音が遠くから聞こえてくる。いつ戻ってくるか考えただけでも恐ろしい。

「わかりました。いいですか、一度しか言わないからよく聞いてくださいよ」

「前置きはいいから早く言え」

有村はコンマ1秒ほど間を置いて、

「とりあえず、香澄ちゃんが戻ってきても、平静は装ってくださいよ。先輩は顔に出やすいんですから、今ボク超ガッツイテマース! みたいなアホ面だけは絶対隠してください。女の子はそんな表情見たら一発でドン引きですから」

 聞きながら、エスパーである香澄ちゃん相手にどこまで隠し通せるか、本気で不安になってきたのは言うまでもない。

「それから、ちょっと時間を置いて、タイミング見計らって、さりげなく、さりげなくですよ? 先輩もシャワー浴びに行きましょう。まさか自分だけクサいままでレッツゴーしようなんて思ってないですよね? あとで後悔しますよ」

 何やら経験がありそうな物言いだった。一体どんな目にあったのか、それは今度とくと拝聴するとしよう。

「とりあえず、相手の入浴から間は空けること。トイレと同じで、自分が入った直後に入浴されると、先輩だって何か嫌でしょ。香澄ちゃん潔癖っぽいから確実でしょうね。で、そのあとどんな風にして押し倒すかは、それは申し訳ないけど風呂の中ででも考えてください」

「なんだよそれ。そこが一番重要なんじゃないか」

「前にも言いましたよね。先輩意外と頭いいから忘れてないと思いますけど」

 意外ととは何だ。いちいち失礼な物言いをする奴である。しかし、僕はそう言われて、有村が真面目なトーンで話してくれた事を思い出した。

「特に初めての雰囲気づくりって、それくらい難しいんですよ。僕だって拒まれた事は何度もあります。そういうのは空気読んでたら大体わかりますんで、アンテナ張って、敏感に感じ取ることですね。いきなりガバッと、なんてのは先輩の場合転生したとしても無理だと思うんでやめたほうがいいです。無理なことを無理にするのは、どうやったってカッコつきませんから。じっくり機会を狙ってください。顔に出さないように」

「…わかった。ありがとう」

「でも、いいなぁ香澄ちゃんとなんて…。まったく、何で先輩なんだよ、くそ…」

 受話器から聞こえてきた悪態を無視して、僕は電話を切った。直後、浴室のドアが開き、髪の毛を少し湿らせた香澄ちゃんが出てくる。ギリギリセーフというわけだ。

「お待たせ。ドライヤーも少し借りたけど、よかったかな?」

「ああ、全然いいよ。気にしないで」

 顔に出さないように。顔に出さないように。

 有村に言われた通り、意識的に無表情を装う。普段から感情を積極的に表現しない僕なので、これくらいわけはないと思っていたが、改めてその難しさを思い知らされていた。意識して感情を抑制しようとすると、どうしても目の前の香澄ちゃんに意識が行ってしまう。

 暖かいお湯に触れ、白い肌に少し赤みがかかって見える。少し湿ったような髪から、シャンプーのいい匂いが漂ってくる。服自体は先ほどと変わっていないが、さっきまで閉まっていた胸元のボタンが外れていたりと、どことなく着崩しているように見える。表情も落ち着いているようだ。自宅でくつろいでいるときみたいに。そんな要素のひとつひとつが、恐ろしいまでの攻撃力を持って僕の意識を刺激する。これで意識しないようにするというのは苦行に近い。餌を前に繋がれている野良犬にでもなった気分だ。

 たまらなくなって、僕は時計を見る。有村との通話が終わってから、まだ三分と経っていない。世界でこの部屋だけが別の時空に飛ばされたかのように、時間が異常なほどのろのろと進んで行く。

 心なしか香澄ちゃんも、時折ちらちらとこちらを伺っているような気がする。僕の出方を窺っているように思える。僕は何も言わず、彼女も何も言わない。沈黙が部屋の空気を支配していた。非常に不自然な緊張を孕んでいた。

 何故か、今日観た映画のワンシーンが思い起こされた。主人公がライバルと最後に対峙するシーン。あのときの緊張感に似ていた。こんなときに思い出されるようなシーンではないようだが、実は意外なほど類似点があって、それがどことなく滑稽だった。出方を誤れば死、あるのみ。今の僕は勇敢な戦士にもならなければならないし、同時に臆病な兵士でもあらなければならない。こんなどうでもいい考察を有村に聞かせたら、きっと腹を抱えて笑い出すに違いない。

 ワイングラスに手を伸ばす。その行動にも細心の注意と大いなる躊躇があった。香澄ちゃんの視線が僕に突き刺さる。それを意識しないようにするのにもかなりの精神力を必要とした。ワインを少量口に含むと、香りが一気に乾いた口の中を満たし、渋みが僕の味蕾を刺激する。こんなことにすら、過敏になった神経は逐一反応し、僕の中でいまだ大きくなる緊張を刺激する。繊細で壊れやすい、ガラス細工の緊張。これが爆発したとき、僕は一体どうなってしまうのだろう。鍵の開いたパンドラの箱を抱えているようなものだ。

 ここまで長々と語っているが、香澄ちゃんが入浴を終えてからまだやっと五分ほどしか経過していない。本当に時間が経つのが遅い。遅過ぎる。本当は今すぐにでも浴室に消えたいところなのだが、有村の言う「ちょっと時間を置いて」が、果たしてどれほどの時間を表しているのかがわからない。このぐらいでいいのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 何度も言うが、本当に今まで、こういった場面に直面したことがないのである。成功したこともなければ、失敗したこともない。何もない。比べる経験も省みる体験もなかったこれまでの人生は、果たして意味があったのだろうか? そう訝しまずにはいられない。僕は一体今まで何をしていたのか。そしてこのまま悶々と、お馴染みの自己嫌悪のループに身を投じようとしていたのを、香澄ちゃんが救ってくれた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 今までずっと黙っていたからだろう。五分間は確かに短い時間かもしれないが、不自然な沈黙を維持したままだと長すぎる。先程まで酒を飲みながら笑っていた相手がいきなり黙りだしたら、一体どうしたのだろうと心配になるのは当然のことだ。

「ごめん、ちょっと…酔っちゃって」

 とっさに言い訳を口にした。もちろん嘘だ。これしきの量で気持ち悪くなれるほど酒に弱いわけじゃない。

「え、大丈夫?」

 そう言って、香澄ちゃんがこちらに歩み寄ってきた。傍らにしゃがみ込むと、僕の背中を優しく撫でてくれた。柔らかな感触と体温が、触れられた箇所から脳にダイレクトに伝わる。髪の匂いが嗅覚に突き刺さる。僕の中で膨らむ緊張を、これまでにないほど強く刺激した。

「大丈夫、大丈夫」

 僕はそう言って、ふらふらと立ちあがった。酔っ払った演技ではなく、香澄ちゃんを近くに感じながら、それでも自我を保つことに全力を振り絞っていたからだ。僕にとってはこれまでにないほどの重労働だったといえる。

「ちょっと僕もシャワー浴びてくるね。たぶんサッパリしたら気分もよくなると思うから」

 我ながらいい切り出し方ができたと、限界ギリギリの意識の中で思いながら、ようやく僕は浴室に逃げ込むことができた。

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