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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 有村に至極もっともな意見を返されてしまったので、やはり自分自身で解決するしかないのだろう。ああでもない、こうでもないと思考を巡らせながら、男らしく答えを出せない自分に苛立ちがつのる。前章の末尾を美しい言葉で締めくくっておきながらなんとも情けない話だ。いくら自分を認められるようになったからといって、自分の全部が大好きといったおめでたい人間になったわけではないし、これからもなる心配はない。何事も程々が肝要だ。

 一体何のことで悩んでいるのか。もちろん、香澄ちゃんとのデートについて悩んでいる。むしろ最近の悩みといえばこれに尽きるとさえ言っていい。

 散々語ってきたことだけれど、今まで女性と交際した経験など皆無であり、美しい女性に見惚れさえすれど、その女性とふたりきりで会うことすらまったく経験にないのである。恋愛経験からすれば赤子も同然なのだ。幼児なら、気になることをすぐさま親や先生に質問し、教えを受けて然るべきなのだろうが、既にアラサーの域に達しているいい大人が、今更女性との交際の仕方を親や先生に質問するわけにもいかない。

 …ところで、僕の家族に今回のことを打ち明けたらどういう反応をするだろう。

 特に母親などは非常に心配してくれている。息子からすれば完全に余計なお世話なのだが、親の立場上、息子に彼女ができないことを憂うのは当然だ。そんな心配が、今や杞憂となっていることを知ったとしたらどういう反応をするだろうか。卒倒まではしないまでも、極めてそれに近いところにまでは到達するに違いない。早く孫をこの手に抱きたいだとか、そういう気の早い展開を期待しても何ら不思議ではない。親としては当然である。

 そう思って、打ち明けるのはしばらく待つことにした。

「ちゃんと、就職しなきゃなぁ…」

 ぼんやりと自分の将来を想像する。理想の将来像。 五年後の自分。十年後の自分。このまま香澄ちゃんと結ばれることができたら、それはどんなに幸せなことだろう。日々を過ごす中で、大変なことも増えていく。でも彼女と一緒に過ごすことができたら、どんな苦難も乗り越えていけそうな気がした。自分を変えてくれた女の子。自分の人生に輝きをくれた人。そして、香澄ちゃんにとって、僕もそんな存在であれたとしたら、それはとても素敵なことだろう。

 僕の中で何かが固まって行くのを感じた。精一杯の力を込めて、何かを握りしめているような感覚だった。そうしてできた塊は、胸の中の奥の方に鎮座して、常にその存在が意識される。最初のうちは異物感がある。でも決して嫌な感じではない。

 その塊の名前を、僕は知っているような気がした。

 「覚悟」。たぶんそうだ。

 僕の中で覚悟が固まっていく。香澄ちゃんと過ごすこれからの日々。ずっと彼女が笑っていられるように、僕も変わっていけるように。いつか家族になっても、ずっと守っていけるように。僕が子どもの頃、そうしてもらっていたように。

 話が随分と脇道に逸れてしまったけれど、とりあえず今は、香澄ちゃんとの初デートをしっかり成功させなければ。理想の将来を実現するためにも。そして再び頭を抱えて考え続けた。


 「ねえ! あの監督の新しい映画が今度上映されるんだって!」

 数日後、目を輝かせながら香澄ちゃんが言った。それがなければ、僕は永遠にデートプランを練り続けていただろう。考えすぎて見事に眠れなくなってしまい、意を決して再度有村に相談しようと思っていたので、なんとも絶妙なタイミングでの助け舟だった。本当、彼女には透視能力でも備わっているのだろうか。それとも、あの無礼な後輩の言う通り、僕が顔に出やすいということなのだろうか。

 結局、僕らはたまたまかぶっていた休みに合わせて、その映画を観に行くことになった。香澄ちゃん曰く、最近人気の出てきた映画監督の作品らしく、香澄ちゃんはずっとその人の作品のファンなのだという。

「やっと日本のレベルが彼に追いついてきたってことなのかなぁー」

 と、雲間から見える太陽の日差しを見上げながら、ぼんやりと言った。さり気なく自分の株まで上げたように感じた。あざといというべきだろうか。

 とにかく、棚から牡丹餅。悩みに悩んだデートプランもようやく定まったので、僕はその日からデートの日の間までを、その監督の作品をレンタルビデオショップで全て借り、予習に費やすことにした。初期の作品は所々難解なテーマについていけなくなることもあったが、ストーリー自体はシニカルな雰囲気で自分好みだった。特に最近の作品については、分かりやすいキャラクター像も取り入れて、難解なテーマや饐えたような雰囲気を時々覗かせながらも、全体的にキャッチーな仕上がりになっている。僕はどちらかというと初期の作品の方が個性が出ていて面白いと感じたので、昔からのファンと豪語する香澄ちゃんとは気が合うだろう。そう思って少しだけ安心した。今回は自分だけで予習を愉しんだけれど、復習するときは彼女と一緒に見たいものだ。

だんだんと、彼女のことがわかってくる。彼女と過ごす時間をどう過ごせばいいのか、だんだんと見えてくる。雲間から光が差すように、この先が明るく開けてくることに安心した。

 大丈夫、きっと楽しいデートになる。そう自分を励ました。


 デート当日。僕はいつもよりもだいぶ早起きして、歯を磨き、髭を剃り、あまり袖を通したことのない服を着た。なぜ買ったのかは忘れてしまったけど、普段お洒落というものに気を配らない自分に嫌気がさしたときに購入したものだろう。飾りボタンと、綺麗な色のラインがついている白いカッターシャツのボタンを留め、そのまま鏡の前に立ってみる。そこにかすかな違和感を覚えた。普段なら五秒と見ない鏡の前だが、そのとき僕は、映った自分の顔をまじまじと見つめた。

 鏡をこんなに注視したのはいつぶりだろうか。忘れ去ってしまうくらい過去の出来事だが、そのときに感じた印象とはまったく違う印象を、自分自身の姿に対して抱いていた。僕はこんな顔立ちをしていただろうか。

 思っていたよりもずっと痩せて見える。しかし病的なものではなくて、どことなく余分な部分が削げ落ちたような精悍さを感じさせる痩せ方だ。ボサボサだった髪の毛もどことなくすっきりしたし、服装もやはり、以前のそれと比べても随分まともだ。しかしこうして見ると、シャツのしわが少し目立って見えるから、あとでアイロンをかけなければなるまい。そんな発想だって今まで湧いたことはない。

 少しならずとも、驚いた。今までイメージしていた自分の像とは明らかに違った人物が、そこに立っていたからだ。

 今まで僕は、自分の内面の変化にばかり目を向けていた。内面の変化は外見の変化に直結するということを、これほど強く実感したことはない。すべてがまるで別人になってしまったようだ。しばらくの間、鏡を見つめて立ち尽くしていた。実際には五分ほどしか経っていなかっただろうが、長い時間そこに立っていたように感じられた。それほど、僕の中での感動は深かった。

 押入れの奥底からアイロンをひっぱりだし、丁寧にシャツのしわを伸ばしていく。ひとつしわが消えるたび、それが自分に起こった変化と重なって、とても感慨深い気持ちになったことを覚えている。


「ありがとう」

 待ち合わせの時間の十分ほど前に到着したはずなのに、もうそこで待っていた香澄ちゃんに、開口一番、僕はそう言った。

「ん?何が?」

そう言ってきょとんとした表情を僕に向ける。なんでもないよと言って、僕らは歩き出した。並んで歩く間、他愛もない話をしながら、僕は香澄ちゃんの横顔をじっと見ていた。特に彼女自身には、以前からの変化は見られなかったけど、僕がここまで変化したことを、彼女は気づいているのだろうか。そして、それを喜んでくれるだろうか。

「あ、そういえば」

 そういって、突然香澄ちゃんが僕の前に立つ。

「そのシャツ可愛いね、似合ってるよ。いつもの格好よりその方が好き」

 そして、おもむろに僕の首元に手を伸ばし、

「ただ襟は立てない方がいいかな」

 と、気づかぬうちに立っていた襟をたたんでくれた。詰めの甘さはどうやら変わっていないらしかった。僕は照れ臭く微笑みながら、もう一度彼女に礼を言った。


 さて。僕の人生において、記念すべき初デートの日。きっと僕はこれからの人生の中でも、この日は特別な日として記憶されることだろう。もしかしたら誕生日よりも重要な記念日になるかもしれない。それは言い過ぎだろうか。

 最初の関門は何とかクリアしたと言ってもいいだろう。しかし問題はこれからである。いつまでも自分に起きた大変革を喜んでばかりもいられない。

 僕らの足は映画館に向かっている。平日の昼間なので、そんなに人で賑わっているということもないだろう。これがもし週末だったなら、チケットを前もって予約しておいた方がよかったかもしれない。受付で財布の中身をひっくり返しでもしない限り大丈夫だとは思う。しかし油断は禁物だ。何事においても。

 デートの定番、映画鑑賞。有村ならこれまで数かぎりない女性たちと、星の数ほどの映画を観てきたのだろうけれど、僕にとっては初めての女性とのデートである。今まで自分から映画館に出向いたこともなければ、ポップコーンひとつすらまともに買ったことはない。家でDVDでも観るなら別だが、映画を観ながら飲み食いするイメージがないだけに、あらゆる面においてうまく香澄ちゃんをリードできるか非常に不安だ。

 そのあとは、どこか食事でも、と切り出したいところではあるが、これに関しても僕にはまったくの初体験だ。こんなとき、気の利いた店の一軒でも知っておけばよかったのにと思ってしまう。そんな店など想像すらできないだけに返答に困るが、普段有村と行く居酒屋のような雰囲気でないことだけは確かだ。それとは真逆というべきだろう。落ち着いていて、清潔で、わい雑な匂いが一切しない。テリーとマーロウが通ったヴィクターズの、開店したてのバーの雰囲気というべきか。

 映画館に着くまでの間に、香澄ちゃんの目を盗んでは、携帯電話のインターネットを駆使して、この近くにある小洒落たお店を片っ端から検索する。もちろん、香澄ちゃんとの会話もおざなりにすることはできず、時折彼女の表情を伺って、退屈していないかどうかを確認しなければならないから、なかなか思うようなお店を見つけ出すのは至らない。

 それに、僕も今まで失念していたが、ここは都会と田舎の中間に位置するような街だ。程よく栄えてもいるが、都会に比べてそれほど飲食店がたくさんあるというわけではない。その中から理想の雰囲気を持つ店を探すのだけでも一苦労なのに、さらにその情報をデートの最中に即席で仕入れるとなるとかなり大変だ。指先から視線まで、すべての神経をフルに使って作業を進めていく。

「どうしたの?携帯ばっかり見て」

香澄ちゃんが僕の目を覗き込む。はっとして、咄嗟に電源をオフにした。

「何でもないよ。どうして?」

何気ない風を装ったが、それが成功したとは言い難い。香澄ちゃんは僕の目をじっと覗き込んで、不思議そうに首をかしげた。

「映画館、着いたよ」

 見上げると、そこはもう映画館の入口だった。週末の賑わいこそないが、平日なのにそこそこの人が出たり入ったりしている。こんなところまで来たのにそれに気づかなかったというのは、我ながら迂闊だったと言わざるをえない。

「ねぇ、もしかして、あんまり来たくなかった?」

香澄ちゃんの瞳が、少し潤んでいるような気がした。不安そうな表情で僕の顔を見ている。しまった、と、僕は心の中で悪態をついた。

「そんなことないよ。楽しみにしてたよ」

 慌てて訂正した。そんなつもりはなかったにせよ、勘違いをさせてしまったのだろうか。こんなことなら、前日の間に下調べでもしておけばよかった。経験薄ゆえ、最初をうまくやりきろうということばかりに気をとられていた。それは目の前の、現在進行形で進むデートの時間を楽しむということを、疎かにしたことへの言い訳にはならない。

「ごめん」

僕は謝った。香澄ちゃんは不安そうな瞳のまま、首を横に振った。

「とりあえず入ろう。チケットが取れないかもしれない」

言って、僕は歩き出した。香澄ちゃんもそのあとについてくる。どうにもやりきれない気持ちのまま、僕たちはチケットを二枚購入し、座席が隣同士であることを確かめてから、香澄ちゃんに一枚を渡した

「ごめん、私ちょっとトイレに行ってくるね」

香澄ちゃんが行ってしまってから、頭を抱えたい衝動をこらえるのに苦労した。映画のあとどこに行こうか、そんなことなど考えている余裕はもはやない。

 せめて、香澄ちゃんの不安をちょっとでも拭えたら。そう思って、あたりをきょろきょろと見回した。無駄なこととわかっていながら、でも身体は反射的に、何らかの救いを求めた。この期に及んで一体何に頼ろうというのか。これは漫画でもなければゲームでも何でもない。まぎれもない現実で、行き詰ったときに必勝のキーアイテムなんてものが都合よく用意されているはずがない。そのはずだった。

「ごめんね、お待たせ」

僕は振り返って彼女を迎える。そして、僕の手に握られているものを見て、香澄ちゃんの瞳が確かにぱっと明るくなるのを確認した。

 「チュロス!」

 そう、チュロスである。スペインかポルトガルの揚げ菓子。要はドーナツの細長いバージョンのようなものだ。僕はお菓子に関しては詳しくないので、このくらいのことしか知らない。しかし、香澄ちゃんとの会話の中で、彼女が甘い物が大好きというのは知っていたので、ベタながらこれで機嫌を直してもらおうという算段だ。

「うわー、ありがとう! 私大好きなの。確かに映画館って最近チュロス売ってるよね。忘れてたよ」

 僕の手から受け取るなり、がぶりと豪快にかじりつく。その仕草はまるで無邪気な子どものようだ。いつもの香澄ちゃんの仕草。機嫌を直してくれて良かったと、僕は一緒に買ったコーヒーをすすりながら思った。

 有村の言葉が思い出される。

「彼女との会話の中から、あるいは仕草の中から、趣味嗜好を導き出さなきゃなりません」

 何もかも、うまくやらなきゃいけないわけじゃない。その都度、臨機応変に、適切な答えを導き出す必要がある。目の前の彼女との”今”を大切にすること。それがデートにとって一番大事なことなんだと、ニコニコしながらチュロスを頬張る香澄ちゃんを見ながら、僕はここでようやく気がつくことになった。

 映画が始まると、最初から最後まで、ふたりしてしっかり画面に釘付けになった。しかし映画に集中しながらも、香澄ちゃんは僕のぶんのチュロスも完食していたし、僕はその代わり、彼女のコーヒーを分けてもらった。そうしながら、二時間半に渡る大長編を観覧し、僕らは地に足つかないような気持ちになりながら映画館をあとにした。

「やっぱり、すごかったね!」

「いやあ、すごかった」

 ふたりとも、まだ頭が正常に働いていないのだろう。具体的な表現がまったく出てこない。小学三年生レベルの感想をため息まじりに呟きながら、出口まで向かう。歩きながら、徐々に思考が元に戻ってきたのは香澄ちゃんが先だった。

「あそこでああいう風になるとは思ってなかったな! もう絶対ダメだと思ったもん。あそこでもうダメだー!って思わせる辺り、演出がすごいってことなんだよね」

興奮気味に話し始める。その熱は次第にヒートアップしていき、聞いているこっちがちょっと引いてしまいそうになった。本当に楽しかったんだな。そう思った。

 そんな香澄ちゃんを見ていると、こっちも楽しくなってくる。相槌を打ち、自分の意見も添えると、さらに会話が弾んでもっと楽しそうにしてくれる。太陽のような笑顔だと言えばあまりに陳腐な喩えだろうが、それでも心全体が明るく、暖かく照らされるような感覚はとても心地良いものだった。

 と、そのとき携帯電話が鈍い音を立てて振動した。僕の方かと思って確認したが、鳴っているのはどうやら香澄ちゃんの方らしい。香澄ちゃんが画面を確認する。そのとき、一瞬、眩しかった笑顔がすっと遠くに引っ込んだような気がした。

「どうしたの?」

 僕は思わず訊ねた。香澄ちゃんはまた笑顔に戻って、僕の方に向き直った。

「何でもない。お母さんからだった。帰ったらかけなおすよ」

 そういうので、僕は頷いて、これ以上は何も訊かないないことにした。一応、今は彼氏とのデート中。そう思ってくれているとしたら、それはとても嬉しいことだ。

「ところで、このあとどうする?」

香澄ちゃんがふと訊いてきて、そんな喜びも七割方吹き飛んだ。

 そうだ、忘れていた。このあとのことを、結局何も決められずにいたのだ。

 一応、先ほどの間に気になったお店は、一通りブックマークを済ませてあったのだが、こういうときどう切り出せばいいのかがわからない。僕はそのお店に行ったことはないし、実際に行ってみるとあまり雰囲気がよくなかった、なんてことは往々にしてあることだ。

「あ、私ちょっと提案があるのですけれども」

 大げさに挙手をして、香澄ちゃんがキラキラした笑顔を向けてくる。

「今から君の家とか、どう?」

 彼女は楽しそうに笑っていた。彼女はエスパーだと確信した。いつもながら絶妙なタイミングでの助け舟だ。

そう、いつも通りでいいのだ。何も特別なことをする必要はない。それで彼女が笑ってくれるなら、それ以上の正解はないのだ。

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