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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 「ふーん…。だから今日は鼻の下伸ばして出勤してきたってわけですね」

 そう言って僕の顔に煙草の煙を吹きつけ、ケタケタと笑うこの無礼者は、バイト先の後輩・有村である。

 友だちの決して多くない僕にとっては、気兼ねなく話せる数少ない人物のひとりだ。バイトの休憩中には、喫煙所で彼と他愛もない話をするのが常だった。

 恋愛経験で言えば、僕とは天と地ほどの差がある。歴然の差と言ってもいいだろう。僕の二歳年下にもかかわらず、彼がこれまで付き合ってきた女性の数は優に両手で収まりきらない。現在も年下の女子大生と交際継続中である。そんな彼にとって女性と交際するなどということは、それこそ呼吸をすることのように明瞭で容易いことなのだろう。

 そう思って、僕は彼に香澄ちゃんと付き合うことになった経緯を説明し、彼女の喜びそうな話題作り、嫌われない秘訣などを相談しようと、わざわざ先輩の権威を笠に着て呼び出したというわけだ。そして、これまでの顛末を話したところで、冒頭の発言を浴びせられたわけである。そんな情けない顔を、他の同僚にも見られていたのかと思うと急に恥ずかしくなった。

「だって先輩、顔に出やすいんですもん」

 そう言ってまた笑われてしまった。これではいずれ、他の皆にバレてしまうのも時間の問題だろう。そうなったら香澄ちゃんにも迷惑をかけてしまいかねない。それだけは何としても阻止したいところだ。

「有村、お前このことは誰にも言うんじゃないぞ」

 周囲を気にしながら、小声で有村に釘をさす。すると有村は急に真面目な顔になり、

「わかってますよ。口が裂けても言わないですよ」

 と、実に頼もしいことを言ってくれた。安堵に胸をなでおろす。頼りになる後輩を持ってよかったと、心の中で彼の存在に感謝した。

「だってこんな面白い話、自分だけで愉しみたいじゃないッスか」

 前言撤回だ。こいつで本当に大丈夫なのだろうか。相談する気すら何だか急速に減退してしまった。吸い終わった煙草を灰皿に押しつける。

「それで、女の子と付き合うにはどうしたらいいかって話でしたっけ?」

 有村が僕にキラキラした目を向けてくる。一気に気が進まなくなってしまったが、確かにここまで話してしまったのなら、結局は質問をせざるを得ない。ここで話を中断させてしまったら、僕はただの彼女ができました自慢をする浮かれ野郎ということになってしまうだろう。それならばいっそ、この無礼な後輩にでも助けを乞うた方がマシというものだ。藁にもすがる思いというのはこのことなのだろうか。

「お前ならそういうの詳しいだろ。女の子が喜びそうなデートプランとか、プレゼントとか、反対に絶対やっちゃいけないこととか、教えてくれよ」

「だいぶ必死ですね先輩」

「そりゃ必死にもなるだろ。相手はあの香澄ちゃんだぞ」

「そう! そこなんですよねえ」

 有村は背もたれに身を預け、上半身をのけぞらせた。

「なんで香澄さん、先輩なんかと付き合ったんだろうなあー」

 さらっとものすごく失礼なことを言われてしまった。こいつは本当に僕のことを先輩だと思っているのだろうか。

「俺も結構気になってたのになあ。香澄さん」

「あ、それは無理だったと思うぞ。香澄ちゃん、チャラい男はNGなんだって」

「誰がチャラいですか! 根は真面目ですって。知ってるでしょ」

「知らないな」

 さっきのお返しだ。有村は大きくため息をつくと、

「で、なんの話でしたっけ?」

 全然話を聞いていなかった。これでは「真面目な後輩」という称号を与えることは永遠にできない。僕は先ほどの質問を、語気強めにもう一度繰り返した。

 「うーん…」

 そう言って、有村は頭をぼりぼりと掻き、ため息に混じらせて煙草の煙を大きく吐き出した。いちいちリアクションがオーバーな奴である。彼は根元まで短くなった煙草をもみ消しながら、

「とは言ってもですね…。僕だってどんな女の子が来てもちゃんと付き合える、っていう自信はないですよ」

 そう言って、僕の方へ向き直った。少しだけ、視線が真剣さを帯びている。

「男にもたくさんのタイプがあるように、女にもいろんな性格があるでしょ。ディズニーランドが好きな子もいれば、ブランドバッグにご執心の女もいる。旅行が好きな子もいれば、家でダラダラ枯れてる方がいい子もいます。だから百パーセント、これをしとけば正解、みたいなことなんかないんですよ。誕生日に可愛いぬいぐるみあげとけば、女という生き物は満足するなんてのは高校生の考えることです。そういうことは彼女との会話の中から、あるいは仕草の中から、趣味嗜好を導き出さなきゃなりません。僕だって、旅行なんかで遠出するのは面倒だし、お金もかかるからあんまり好きじゃないですけど、たまには出かけたいねー、って向こうがいうならがんばります。前の彼女は奢ってもらって当然、誕生日には最低でもシルバーアクセ、みたいなガキンチョでしたけど、今の彼女は割り勘じゃないと逆に怒られるし、高価なプレゼントは頑として受け取りません。香澄さんは絶対確実に後者でしょうね。そういう傾向は女性一人一人違いますから、僕からこうしろああしろと言うことは難しいです」

 思わず閉口してしまった。さっきまでヘラヘラ笑っていたくせに、こういうときには鋭く的確な意見を述べるのが、有村という男なのだ。わかってはいたつもりなのだが、そのあまりのギャップにいつもつい怯んでしまう。

「ま、一日だけでもいいから僕と香澄ちゃんがデートすることを許してくれたら、全部暴きたててご教授差し上げますけどねぇ」

 一体何なんだこいつは。許すわけないだろうそんなこと。というか「全部暴きたてて」ってどこまで暴くつもりだ。ギャップも含めて突っ込み所が多すぎる。僕はもう一度煙草に火をつけて思考を整理しようとした、そのときだった。

 有村が「あ」ととぼけたような声をあげた。何事かと思って彼の顔を見ると、僕の頭上を通り越して明後日の方向を見上げている。またくだらないことを思いつきでもしたのかと思っていると、背後から聞こえた思いもよらぬ声に、僕の意識までもが根こそぎ持って行かれてしまった。

「煙草は身体によくないよ、二人とも」

 笑顔の香澄ちゃんがそこに立っていた。僕も振り向いた姿勢のまま、阿呆のように口を開けて、その穏やかな表情を眺めた。視線を落とすと、何やら小さな包みを両手で大事そうに持っている。その包みも淡いピンクの花柄で、本当に花柄が好きなんだなと呑気に思った。僕たちが何の反応も示さないでいると、香澄ちゃんはその包みをこちらに差し出した。

「はいこれ、お弁当。もうご飯食べちゃってたらどうしようかと思ってたけど」

 僕は呆然と、彼女が今口にした言葉の意味を理解できないままでいた。

 お弁当。

 なにやらとても懐かしい響きがあった。昔、まだ小学生くらいだった頃は、修学旅行や運動会などの行事の際には、母親が必ず持たせてくれた。

 お弁当とは、僕にとって親の愛情を感じることのできるものであって、血の繋がりを実感出来るものだった。生まれてこの方、母親以外の人物からお弁当をもらったことなど一度もない。ましてや恋人からもらう日が来ようとは夢にも思っていなかった。

 ふと隣を見ると、有村が僕の顔をまじまじと見つめていた。そして、代わる代わる香澄ちゃんと僕を見比べるように視線を行ったり来たりさせている。美女と野獣、もしくは月とスッポンをまさに目の当たりにしたという表情だ。それは端的に、この世にあって信じられない現象を体験したとでもいうような表情だった。彼がこんな顔をしているのはこれまで見たことがない。まるで青い月でも見つけたかのようだ。

 しかし今の僕には、そんな哀れな後輩を気にかけている余裕などない。交際している女性からの、手作りのお弁当。これをどのように開けるべきかも知らなければ、どういったリアクションをとるべきなのかもわからない、ある意味未知の代物である。香澄ちゃんの表情は、先程と変わらずニコニコと微笑んでいる。玉手箱を開けるような心境になりながらも、僕は恐る恐るその包みを取り、可愛らしい弁当箱の蓋を取った。

 まず、俵型のおにぎりが三つ。海苔で巻かれたものが二つ、紫が混ぜ込んであるものが一つ。それをバランで仕切って、小さな唐揚げと、コーンが入ったポテトサラダ。だし巻き卵と、デザートとして半分に切った苺が入っていた。どれもこれも、付き合う前の会話の中で、僕が好きだと言った料理ばかりだ。

「いつもコンビニ弁当ばっかりじゃ可哀想だからね。ちゃんと残さず食べてよ」

 僕はただ無言で頷くことしかできなかった。隣の有村も弁当箱の中身を覗き込むと、更に強い衝撃にでもあったかのように一瞬白目を剥き、短く「ぴゅうっ」と口笛を吹いた。一体それが何を意味しているのかはまったくわからない。

「じゃあ、私は行くね。実は内緒で抜け出してきたの。他の人にバレたら面倒だから」

 そう言って、小走りに休憩所を出て行こうとした。今までまったく状況を判断できなかった思考だったが、ここで反射的に僕は口を開いた。

「ありがとう!」

 香澄ちゃんは休憩所の入り口あたりで振り返り、笑顔でピースサインをした。そして小走りに行ってしまう。可愛らしいピースサインが、いつまでも僕の脳内でリピートされた。

「気持ち悪いんで、ニヤニヤ笑うのやめてもらえませんかね」

 有村の一言で我に返った。振り向くと、彼は唐揚げをひとつつまみ上げ、無造作に口の中に放り込んだ。

「ああ! コラお前、最初の一口を取るな!」

 有村は口をもぐもぐさせながら、まったく反省してないようなそぶりでふんと鼻を鳴らし、そのあとにごく小さな声で「うまっ」と呟いた。

 その無礼極まりない態度にも、「これは話を聞いてくれたお礼だ」と自分の中で割り切り、弁当箱を守るようにして、残りの料理を味わった。弁当に形を変えても、香澄ちゃんの手料理はいつもと変わらず美味しい。

 しかしそれだけではなく、箸を進めているうちに、なんだか懐かしい気持ちにもなった。昔、母の愛を有り難く感じながら食べたお弁当。あの優しい味が、香澄ちゃんのお弁当からも確かに感じられたからだ。詩的な表現を恐れずに言うなら、これが愛情の味なんだと思った。香澄ちゃんの手料理からそれを感じることができたのが、本当に、心の底から嬉しかった。そこには、人から愛されているということへの確かな実感があった。

 そうやって感動している僕の隣で、有村がぼそりと言った。

「そういえば香澄さん、先輩がいつもコンビニ弁当だってこと、知ってたんですね」

 箸が止まる。そういえばさっきそんなことを言っていた。僕が普段の昼休みに、どういったものを食べているのかなど、彼女に説明したことはない。

 有村からは罵倒されるだろうが、もう貶されてもいいと思えた。何とでも言うがいい。人にバカにされることを、心のどこかで怖がっていた僕にとっては、非常に新鮮な感情だ。そう思いながら、密かに弁当を狙う有村の視線を無視して、おにぎりのひとつを頬張った。


 それからも香澄ちゃんは、出勤が一緒になるときは必ず、お弁当を作って持ってきてくれるようになった。栄養のバランスを考えてくれているからか、コンビニ弁当ばかり食べていた頃に比べて体の調子はとても良くなったような気がした。美味しいと感じることが増え、自然と昼休みが楽しみになってくる。そう感じるだけで、日々をただ漫然と生きていたつい先日までの自分とはまるで別人になったようにさえ思った。

 毎日が、すごく楽しく思える。

 普段はあまり聴かない音楽を購入して、通勤中に聴いてみたり。香澄ちゃんが面白かったと興奮気味に語っていた映画を見て、柄にもなくワクワクしてみたり。たまには僕の方から香澄ちゃんに手料理を振る舞わなければと、手付かずだった貯金を崩して調理器具を買い揃えては、今まで挑戦しなかった料理を試してみたり。そのときいい感じで作ることができた炊き込みご飯を、香澄ちゃんは美味しいと食べてくれた。

「でも塩加減はもっと薄い方がいいかな。やっぱり煙草やめた方がいいね」

 そう言われてちょっとがっかりしたが、そのあとに、

「でも、煙草吸ってるときのカンジ、かっこいいよ」

って言ってもらえて、ちょっとだけ元気が出たりもした。

 まだ実感できない部分もあったが、僕の日常は少しずつ輝いたものになってきていて、その中心には、いつも彼女の姿があった。「恋人ができた」という実感がちょっとだけ湧いて、それが照れくさいような、誇らしいような、微妙な気分になったのを覚えている。

 香澄ちゃんとの出会いから今までで、僕の人格は大きく変化していた。香澄ちゃんを抱きしめた日から、僕の中で何かが崩れ、何かが新しく芽吹いたのをはっきりと感じ取ることができた。そんな新しい自分のことを、自然と好きになることができた。自分のことを好きだと思えることなど、以前の僕からすればまったく考えられなかったことだ。でも今は、香澄ちゃんと過ごす日々を通して、自分のことも確かに認められつつある。

 願わくば、この幸せな時間が、自分のことを好きでいられる時間が、できる限り長く続けばいいと思った。いや、ずっと続いていくだろう。彼女と一緒に居られる限りは。

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